カウントダウンライブ
優しく包む、母の手は温かかった。
冬の夜気にさらされて赤くなった指先を包まれるたび、胸の奥までじんわり熱が移ってくる。
はるかな昔、神様にたくさんお願いしすぎて、大きな国はダメになったらしい。
だから今は、神様に願うのではなく「一緒に頑張ろう」とはげまし合うのだ。
今日は父も一緒に来るはずだった。けれど、いきなり衛兵の任務が入ってしまい、今ごろはどこかの持ち場で寒さに耐えている。湖上神殿の年越し神楽は見られないと、朝に少しだけ残念そうな顔で笑っていた。
だから少女は、母の手を引く指にそっと力を込めた。
父の代わりに、ちゃんと見ておこうと心に決めている。今夜のことを、一つ残らず覚えて帰るのだ。明日になったら、どんなふうにキレイだったかを全部話してやるために。
今夜のアロナ湖上神殿は、いつもよりずっと眩しかった。
白い回廊に吊られた魔光灯が湖面へこぼれ、揺れるたびに白銀の欠片みたいに砕けていく。
香の煙は細く夜へ昇り、焼いた麦菓子の甘い匂いと、甘酒の湯気と、湿った外套の冷たい匂いが、押し合うみたいにあたりへ満ちていた。
桟橋の先、湖のまんなかへせり出すように舞台があった。
三方を客席に囲まれ、水の上へ浮いているみたいに見える。
灯に照らされた欄干の向こうで湖面がきらきら砕けるたび、舞台は少し遠く、少しだけ夢みたいだった。
父の肩があれば、もっとよく見えたのに。
そう思って、少女は唇をきゅっと結ぶ。けれど泣くほどではない。今夜はそんな気分ではなかった。その代わり、少女はもう一度背伸びをした。
人垣の隙間から舞台を覗き込む。ちゃんと見たい。ただそれだけで、胸がそわそわした。
「寒くない?」
「ん。だいじょうぶ」
母の問いに答えた声が、自分でも少し弾んでいるのが分かった。
だって今夜は年越し神楽だ。ミストルディス様が舞い、歌ってくださる夜。
父がいないのは寂しいけれど、それでも目を逸らすのはもったいないと思えるくらい、今夜の神殿は綺麗だった。
人は多いのに、押し合う感じは不思議としない。
囃子が鳴り止んでから、みんな今か今かと神楽を待っていて、ざわめきまで少し浮き足立っていた。
やがて、回廊や舞台の照明がひとつ、またひとつと落ちていく。夜の暗幕が降りると、母の横顔が霞む。背伸びして周りを見渡せば自分や、それぞれが手に持つ星灯が淡い暖色光を発していた。
人々のざわめきが波のように静まり、母の手が少しだけ強くなった。少女もつられて息を呑む。
その時、胸の奥がひとつ跳ねた。
始まる。そう思っただけで、喉の奥がきゅっと細くなった。
舞台の中央は、まだ空いている。
なのに誰もが、その「まだ何もいない場所」から目を逸らせなかった。
少女もまた、父の代わりにちゃんと見ておこうと目を見開いたまま、次の瞬間を待った。
〇 〇
暗闇の中、吐く息さえ細く整えねばならなかった。
舞台袖から客席を覗けば、星灯の淡い光が地に満ちる星天のようで。その幻想的な光景に、重責を感じた。
観客席の誰もが、今か今かと開演を待っている。
年越しの夜は特に闇が深い。欲望を向ければ神は濁る、必要なのは、ひたむきに神楽へと臨む純真。
(大丈夫。落ち着いて……)
特別な装束に身を包む巫女は胸に手を当て、これまでの稽古に想いを馳せながらゆっくりと深呼吸した。
宵の時刻から深夜に亘って奉納する今夜の神楽。それは一年を締めくくり、新たな一年を迎え入れるための寿ぎであると同時に、深まる魔性を押し返すための儀式でもあった。
絶対に失敗できない。初舞台の巫女は、裾を握る指に力を込めた。
「どうして、緊張する必要があるのでしょう?」
(え――――?)
耳に響く玲瓏な声はミストルディス。見透かされたと思い、息が止まった。
暗転した舞台袖でも分かる、圧倒的な存在感。湖面を彷彿とさせる双眸は、繊月の下にあっても明澄な輝きを放っていた。
洒脱な舞姫の装束に身を包む女神は一度皆を集め、自分を取り囲むように座らせてから、自らも腰を落ち着ける。
「今一度、胸に手を当て思い浮かべてください。新たに迎える一年を、どうしたいかを」
新しい一年を、どんなものにしたいか。巫女は自らの胸の内に問い掛ける。
不幸な事件など、起きては欲しくない。ただ、穏やかで幸せに包まれた一年が良い。
少しの間、沈黙の幕が下りる。それは誰もが、来年の自分に想いを巡らせているようでもあった。
やがて、衣擦れから誰かが立ち上がったのだと分かる。目を開けると、長身のミストルディスが皆を見渡していた。
「では皆さん。今宵は笑顔を絶やさず、それぞれの未来を胸に舞いましょう。祈りとは、自らを律する誓いなのですから」
『ハイッ』
「よろしい」
神の下、巫女たちは密やかに団結する。
「それでは参りましょう」
ミストルディスは顎に手を添え、静かに吐息を吹く。
白い靄は床を滑り、回廊を走り、たちまち舞台の四方を満たした。霧は湖面の上へ垂れ幕のように立ち上がり、客席からの視界を一息に奪う。
静寂の中、ざわめきが靄の中に波打つ。が、混乱はない。この地の女神が霧深い氷河湖の化身なればこそ。
(雲の中みたい)
ミストルディスの先導で、燐光が灯る回廊に踏み入る。幽かな靴音。足裏が、石畳の感触を失いかけた。
それは、視界に広がる霧のせいか。それとも、胸の熱のせいか。
どちらか分からないまま、前へ進んだ。
やがて全員が配置に付くと、霧がほどけ始める。
自身や女神の輪郭が浮かぶにつれ、自分の心拍が一段ずつ上がるのが分かった。
他方、観衆のさざめきは収まっていく。期待と緊張が綯い交ぜになった空気を、頬に感じる。
この時ばかりは雷弦琴も、鼓鈸も、人々の息遣いさえ、夜の底へ沈む。
そして光が爆ぜた瞬間、身体は考えるより先に動いていた。
玲瓏たる歌声が暗影の天へ突き抜け、歓声は歌の後から遅れて来た。
それ程までに、誰もが最初の一声に心を攫われていた。
魔光灯が煌々《こうこう》と輝く夜の中。祝詞を旋律へ載せたその美声に観衆は胸を撃ち抜かれ、堰を切ったように称句を返し熱狂した。
雷弦琴の幻想的な伴奏が歌声へ鋭い陰影を与え、鼓鈸の拍動が腹の底を揺らす。
浮き立つような熱が肢体に満ち、いつもより身体が軽い。客と演者。その場にいる誰もが、女神が紡ぐ吟詠と演舞に酔いしれる。
快哉が、耳に心地よい。笑みは自然と零れていた。




