結界の核
テテュスが銀光で夜陰を裂き、正門へ急ぐ。途中で雪がちらつき始め、吐く息が白く凍る。なのに首筋だけが、焦燥に灼けていた。
神を魔に堕とせば、神域は魔界へ反転する。その知識があるからこそ、背中を這う痛痒が胸の奥まで食い込んでくる。
心臓が胸の奥で早鐘を打つ。間に合え、ではない。もう始まってしまったのだと、身体だけが先に知っていた。
神楽の囃子は遠く、まだ途切れていない。
皆が待ち望んでいた祝祭のすぐ外側で、何かが音もなく牙を立てている。
そう思うたび、背中を這い回る痛痒がいっそう濃くなった。
正門の影が見えた、その瞬間だった。
夜の空気が、内側から軋んだ。目には見えない何かが、神殿の敷地を囲むように外から閉じ始める。
ぞぶり、と背骨の芯へ冷たいものを流し込まれたみたいに総毛が粟立つ。
足が縺れた。その瞬間、横から伸びた手が肘を掴む。
「大丈夫?」
「ああ……」
クリスカの声だった。
支えられてなお膝は震え、喉が冷える。踵を返して引き籠もれたならどれほど良いかと思うのに、本能だけがそれを許さない。
もう敵は外周を閉じている。
瘴気そのものはまだ薄い。だが、だからこそ悪辣だった。すぐに壊すつもりはない。逃がさず、囲い、時間をかけて内側を腐らせるつもりなのだ。
元上官の手を借りて立ち直った、その直後。周囲の空気が変わった。
神殿全体を包む膜が立ち上がる。薄青い燐光が郭壁をなぞり、湖面にまで円く広がっていった。
内と外。清濁が噛み合い、余波で砕けた雪が一瞬だけ青白く光る。
凍った空気の中で、涼やかな風が頬に触れた。全身を這っていた不快が、その一息で綺麗に霧散する。
対抗結界。清冽な空気に心が凪ぎ、撫でられた頬にだけ微かな温もりが残った。
突然、頭蓋の奥へ澄み切った水を流し込まれるような感覚が走る。
神楽の歌声は、遠くでまだ途切れていない。その向こうから胸の内側へ直接響くのは、風に揺れる湖面のさざめきのように玲瓏な声色。
『今、敷地内には結界を張りました。安全圏の確保は、こちらでしておきます』
ミストルディス。その神名を思い浮かべるより先に、全身の総毛が再び粟立った。
神楽の最中であるはずなのに、声は少しも乱れていない。静かで、冷たく、どこまでも澄んでいる。
外の穢れを押しとどめながら、女神は歌い続けていた。
そのお陰で焦燥は静まった。いや、静められたのだ。
外では、相手の妨害で念話が使えない。狂信者たちはそこまで手を回していると告げられ、二人は顔を見合わせた。
『結界も、夜明けまで防ぎ切ることは叶いません。だから――』
それまでに排除を。祈りにも似た声に、テテュスは奥歯を噛み締めた。
ミストルディスは神楽を続ける。民衆の称揚を途切れさせず、神域の内側を守り、穢れの防波堤となる心算だ。
できるかどうかではない。この神は、やると決めている。
「責任重大だね」
「だが、やるしかないだろう」
背後で神楽の歌声が一段高く夜を貫いた。
守られているのではない。守らせるために、ミストルディスは歌い続ける。
その事実に胸を灼かれながら、大きく息を吸い込んだ。そして意を決し、テテュスは暗い門外へ身を滑らせた。
青白い膜を抜けた瞬間、空気の質が変わった。
結界内の澄んだ冷えではない。湿って、粘つく、何かが腐りかけたみたいな冷気が頬へ貼りつく。
再び全身に絡み付く不快に唇を噛み、テテュスは趾へ力を込めた。
「これは――」
「ミレイユの霧だね」
ヒュルンドレキの【レイクヤルヴィルル】。幻惑の幕壁が暗夜と足元を覆い、雪と混じって視界の奥行きを食っていく。
それでも息の白さと、身を切る空気の冷たさが、冬の夜戦場の只中であることを突き付けてくる。
霧そのものは柔らかく、ある程度は視界も利く。だが、煤けた紗幕の向こうで何かが蠢くたび、白さの濃淡がわずかに歪んだ。
輪郭が先に見え、音は後から来た。それに合わせ、背中を這っていた痛痒が一点へ収束した。
白濁を踏み潰す重い金属音。次いで、石を削るような低い擦過音。
銀白の帳の向こうで、影が蒼光の線を帯びていた。人影より大きい。それでも竜機兵の半分ほど。
「都市強襲型……!」
吐き捨てた声と同時、霧の一角が裂けた。
重厚なシルエット。露わになったのは灰褐色の外殻。提げた銃から、最初は砲兵型だと思った。だが違う。背部に背負った巨大な棺。側面から突き出した杖が、淡い光を周囲に漂わせている。
夜陰に溶け込む機体の中で、そこだけが不自然に黒く浮かび上がっていた。
喉が狭まる。あれだ、と身体が先に悟った。結界の核。
一秒でも早く壊さなければならない。そう理解した瞬間、胃の底がすとんと落ちた。
棺の中で何かが軋んでいる。その気配で背筋が粟立ち、次の息が喉の奥で引っかかった。
「そういう、ことか……っ」
「なにが?」
幼精の汚染個体を前に、答える余裕など吹き飛んだ。敵機の構えた銃口へ魔力が満ちる。告げるより先、全速で飛び退いた。
闇よりなお黒い閃光が一直線に霧を焼き、光条は正門を突き破って青い膜へ激突。紫電が咲いて雷鳴が轟き、衝撃がテテュスの肩を殴る。
「くぅ……っ」
腕で熱風を防ぐ。息を吐く間もなく、黒々しい気配が頭上から降ってきた。
総毛立った身体が、衝き動かされてその場から飛び退く。地を砕いて飛来したのは、墨色の鋼鉄だった。咄嗟に抜刀し、爆ぜる地礫を鎬で防ぐ。
「テテュスッ⁉」
「大丈夫だ!」
身を起こした新手は、飛翔鎧染みた三メートル級の機体。装甲版で肩との境界が曖昧な兜。翼の代わりにバックパックを背負い、無骨な拡張運動肢に蒼光を走らせる墨色の体躯。
直掩機。その一語が、胃の奥へ冷たく沈んだ。
大剣を担いだ敵の強化鎧が、テテュスを睥睨する。
舌打ちが、喉の奥で音もなく潰れた。
『まさか。紅銀の巫女まで配備済みとはな』
低く響いた男の声が、皮膚の上を這った。
嫌悪が、骨の内側から滲んでくる。軋む奥歯。努めてゆっくりと、柄を握り直した。
殺気を孕む空気の中、視界の端で火花が咲く。
「クリスカ⁉」
「だいじょうぶ」
振り向くと、茫洋とした人影。彼女は敵と対峙していた。道理で正門の櫓に人の気配を感じないわけだ。
三対一。胃の底が焦燥で燃える。
助けに走るべきだと分かっている。なのに背中を焼く痛痒は、なおも核の方角を指していた。
喉が締まる。テテュスの足は、半歩だけ止まった。だがその半拍の遅れすら、今は誰かの致命傷になりえた。




