頒布台で売りながら
机を濡らすに任せた涙を拭っても、胸の奥のざわつきは少しも静まらなかった。
このまま寝台へ倒れ込めば眠れるのかもしれない。だが、瞼を閉じれば余計なものまで押し寄せてきそうで、横になる気にもなれない。
溜め息を零すと腹の虫が空腹を訴える。仕方ないので食堂に足を踏み入れた。
夕食時の厨房は慌ただしく、配膳台には湯気の立つ豆の煮込みと、硬い黒パン、それに魚のすり身を入れた薄い汁が並んでいる。
空いていた端の席に腰を下ろし、テテュスは無言で匙を動かした。
無味乾燥の料理を咀嚼して、飲み込む。喉を落ちる感触だけがやけに重い。
食欲に任せるまま黒パンを手で千切り、汁で押し流すように食べていた。お世辞にも行儀が良いとはいえない。
それでも、胃に落ちた熱は胸まで届かない。胸骨の裏だけが、硬く冷えたままだった。
食堂を出た時、ようやく分かる。じっとしていられないのだ。
いくら空腹を満たしても、胸の奥に貼り付いた渇きがいつまでも剝がれない。
そのまま自室へ戻り、壁際の木刀を掴む。
柄に触れた瞬間、指先だけは少し落ち着いた。
振っている間だけは、何も考えなくて済む。
暗く、夜気の残る訓練場は広かった。
昼間は新人たちの掛け声で満ちていた石畳も、今は白い息と木刀の風切り音しか返さない。
静かに構えた正眼。そこからの踏み込み。
袈裟斬り、返して胴。
「チィッ」
何本振っても収まりが悪い。顔を顰めて舌打ちした。
肩に力が入り、打ち終わりに重心が前へ流れる。自分でも分かるほど、太刀筋が荒れていた。
「肩が上がっています」
不意に背後から声が落ちた。
テテュスは息を詰めて振り向く。
月明かりの下に立っていたのはヴェルシアだった。白い息をひとつ吐き、蒼氷色の瞳がこちらを静かに射抜いている。
「見世物のつもりはありません」
「ならば、余計に悪いですね」
悪態を淡々と返され、顎に力が入る。
ヴェルシアは壁際の木刀を一本取り、何の感慨もなく構える。
「折角です。久々に少し、稽古でも付けてあげましょうか?」
その言い方が癪に障った。
考えるより先に、テテュスは踏み込んでいた。
俊敏かつ直線的な動きで相手に構えの下から肉薄。
甲高い音。木刀が噛み合ったと思った瞬間には、手元を滑らされていた。剣先が逸れ、次の瞬間には喉元へ切っ先がぴたりと止まる。
物打ちは右手を抑え付けており反撃は不可能。実力の隔絶には、悔しさすら湧かない。
「ただ、速いだけ。足も、呼吸も、全て浮ついてます」
「……ッ」
諫言は冷たく、悔しさで奥歯が軋む。
首を傾けて切っ先を外し、その余勢で足払い。立ち上がりざま、テテュスは木刀へ魔力を通して吶喊。銀光が夜陰を斬り裂く。
「オオオオオオオオオオオオッッ!」
魔力を滾らせ、激情のままに振るった一撃は重い。
しかし重いだけ。ヴェルシアは正面からそれを受け流し、返す刃で手元を痛打。痺れが掌へ走り、テテュスは歯噛みして大きく飛び《の》退く。
「怒りで剣を鈍らせるなど。外の世界を、見て来たのでしょう?」
「黙れッ!」
何が分かる。痛いほどの図星に、奥歯が軋んだ。
それでも、前に出ていた足がようやく石を掴む。背筋を伸ばすと、浅かった呼吸が一段、深く落ちる。
痛痒が残る指をなだめ、柄を握り直して正眼。今度はヴェルシアが仕掛けて来た。
空気を切り裂く太刀筋は苛烈で重かった。鋭い一撃を受ける度、痺れが腕の芯へと食い込む。押されている。けれど、先刻までとは違い足は浮かない。
「……ッ」
袈裟懸けを受けた直後、深く沈み込み斬撃を下段へ。防がれた直後に飛び退く。相手の追随を見越し、反撃に転ずる。
(ここだ)
テテュスは旋回。一瞬、相手に背を向ける。脇構えを見せてから斬り上げ。返して胴。木刀が噛み合った瞬間、ヴェルシアの瞳がわずかに細まる。
いける。そう思った刹那、肩口へ重い衝撃が落ちた。
「がッ……!」
膝が砕けるように落ちる。冷たい石畳が音を立てた。
戻りかけた剣の冴えを、最後に逸る気が濁らせたのだと遅れて理解する。
呻きながら膝を着くテテュスへ、ヴェルシアは木刀を突き付けた。
「その剣を腐らせるなら、今度こそ見限ります」
冷たい声は慰めでも、励ましでもない。
それでも、その言葉の裏にだけは、まだ完全には切り捨てていない気配が残った。
去っていく背中を見送りながら、テテュスは荒い息を吐く。
喉は苦い。膝も痛い。肩口は焼けるように熱い。
だが、さっきまでのような空虚さだけではなかった。
のろのろと手を伸ばし、木刀を握り直す。
掌に残った痺れが、まだ終わっていないと告げていた。
〇 〇
夜の帳が降りた大晦日。アロナ湖上神殿は、年越し神楽を待つ人波で膨れ上がっていた。
白亜の回廊には無数の灯が吊られ、湖面に揺れる光が細かく砕けている。香が焚かれ、雅びな囃子が遠く低く流れていた。それでも境内の空気は静かというより、むしろ熱かった。人いきれと、湿った冬気と、焼いた甘酒の匂いが混じっている。
その喧噪の一角で、テテュスは御守の頒布台に立っていた。どうやら、猫の手も借りたいほど盛況らしい。
白布を掛けた机の上には、各種の御守と護符が整然と並ぶ。
参詣客に頭を下げ、札を渡し、代金を受け取る。その繰り返し。
去年の今ごろは、舞台袖で神楽奉納の時を今か今かと待っていた。時の移ろいを感じずにはいられない。
「健康お守り、二つで♪」
「厄除けを一つ」
「……承りました」
自分の指先は、そこに触れるたび冷えていく。
人を守る護符を、何一つ守れなかった自分が売る。自嘲で喉の奥が、わずかに狭くなった。客の顔など、まともに見れたものではない。
「いやぁ~♪ 随分と板についてますね、隊長?」
「は?」
聞き覚えのある声に顔を上げると、そこには軍支給のコート姿のカルシラたち三人。懐かしさと恥ずかしさが同時に去来し、思わず怪訝を浮かべる。
「冷やかしに来たのか?」
口から零れたのは悪態。ますます眉間にしわが寄る。
「違いますよ~。単純に巡回ですって♪」
「まあ、今は普通に客ですけどね?」
「そうか……」
二人が買ったばかりの護符を見せびらかして来るので、すげなくしたテテュスもバツが悪い。
「しかしまぁ、ウワサは本当だったんだ♪」
「黙れ。客なら行儀よくしろ。次の方」
顎をしゃくり、嬉々《きき》として肩を震わすカルシラに退避を促す。すると、次の客は三人目のヴァネッサ。手袋に覆われた手を胸元で握り締め、顔を逸らしながらテテュスの前に立つ。
「厄除けを、一つ……」
「了解――――承りました」
言い直しに失笑する二人を睨みつけ、咳払いしてからヴァネッサに差し出す。おずおずと手を伸ばしながら、横目で一瞥する彼女に微笑を向ける。
「どうかよいお年を」
「ありがとう、ございます……」
マフラーで口を隠しながら呟く姿に、かつての上官は目を細めた。
それを見た先客二人が抗議の声明。
「あ、ズルい。アタシには無いんですか~?」
「客差別ですね」
「やかましい。冷やかしなら帰れ」
しっしと追い払い、一礼で辞するヴァネッサに頷き返すと商売に戻る。
祝祭の熱気は周囲に満ちているのに、自分の胸だけがうまく温まらない。
それでも。三人の顔を前にして、完全な空虚だけは少し退いていた。
「会えて、良かったです。ほんとに」
去り際に振り返ったカルシラは微笑を浮かべている。軽口でも慰めでもない。その表情が、不意打ちみたいに胸へ落ちたから。余計に言葉に詰まる。
「そうか」
それだけを返すのが精一杯だった。
喉はまだ少し苦しい。けれど、さっきまでみたいに何もかも空っぽというわけでもない。
三人の背が人波に沈んでから、テテュスはそっと指先を擦り合わせた。
護符に触れ続けて冷えたはずの手が、今はほんの僅かだけ熱を取り戻していた。
その熱を逃がさないように、次の客へ静かに頭を下げる。
「お待たせいたしました」
愛想よく客に応対し注文を承る。頒布台に並ぶ品々を一眺め、手に取った護符を客に恭しく差し出した。よいお年を。




