身を切る湖風
「それは……」
視線を外し、テテュスは必死に言葉を探した。
確かにあの時、リョースは自身の指示から離れた。そこだけ切り取れば、あの男の言い分は通る。
だが、それをそのまま呑み込むのは癪だった。
(――いや、違う)
ゆっくりと頭を横に振った。それから改めて、蒼氷色の凍て付く眼差しを受け止める。
「暴走ではありません」
「――ほぅ。というと?」
「リョースは、私を守るために動いてくれた。ただそれだけです」
自身の誇りと相棒の献身。それを、暴走の二文字で汚させる訳にはいかない。
ヴェルシアが視線を落とし、再び沈黙が流れる。数秒の後、巫女長は言葉を紡いだ。
「全ては、貴方の身を案じての行動。そう言いたいのですか?」
「はい」
即答以外、あり得ない。
しばらく無言で見詰め合ったのち、ヴェルシアは表情を変えずに告げた。
「貴方の所感がどうあれ、判断を下すのは機関の人間です」
「機関?」
問い返した声には、わずかに熱が混じった。
だが、ヴェルシアは眉一つ動かさない。その無反応だけで、燃えかけた何かが喉の奥で潰えた。
聞き慣れない言葉。少なくとも、この神殿を指した単語ではない。もっと別の――
「何はどうあれ。幼精の件については、貴方への開示範囲も、最終判断も。私の一存では決まりません」
「……っ」
反駁したい衝動に駆られる。リョースを知りもしない人間に何が分かる、と。
「話は以上です。下がりなさい」
その一言が、喉の奥へ静かに落ちた。
反論はあった。だがどれも、声になる前に冷えていく。喚いたところで、状況は好転しないから。
口を引き結ぶテテュスは一礼し、踵を返した。
〇 〇
年の瀬である霜籟月は、神殿にとって最も忙しい時期だった。
大晦日には年越し神楽が奉納され、拝観客で境内は埋まる。
その準備に追われる最中でも、各員に休みは割り当てられる。今日のテテュスは非番だった。
軍支給のコートを羽織り、その下にはいつかに買った私服を着る。
少なくとも今日くらいは、巫女のままでいたくなかった。
神殿の正面門を出ると、まず香の匂いが薄れた。
白亜の石段を下るごとに、身を切るように凍て付いた湖風と、焼いた麦菓子の甘い匂いが混じり始める。さらに下れば、今度は魚を捌いた生臭さと、燻製小屋から流れてくる煙の匂いが鼻を刺した。
アウルネス。アロナ湖上神殿の参道から発展した街。
正面の巡礼通りには香舗や蝋燭屋が並び、白い壁に青灰の屋根が整っている。だが、西側の湖岸に足を向ければ、朝市区には湿った麻袋と木箱が積まれ、湖魚の鱗が朝日に濡れて光っていた。さらに湖際へ寄れば、桟橋から物資を揚げる人足たちの掛け声が飛び、濡れた縄と板張りの匂いが、神殿の清浄さを押し流していく。
その町を、テテュスは一人で歩いた。
往来は誰も彼女を見咎めない。ただ、人の流れは当たり前のようにその脇をすり抜けていく。
マフラーから白く凍る息を立ち昇らせ、巡礼通りと朝市区の境目まで来た時だった。
「……テテュス様?」
振り向けば、リゼが居た。几帳面な一礼のあとで生真面目な顔が僅かに和らぐ。
「ご無沙汰しております。お変わりなく、何よりでございます」
「……そう、見えるか」
そう返してから、すぐに視線を逸らした。
立ち話も憚られ、二人は近くの喫茶店へ入る。
コートを脱いだリゼのメイド服の裾が揺れるのを見て、胸の奥に妙な懐かしさがよぎった。
「私服、ご購入されたのですね」
「ああ……」
テテュスは自身の踝丈のブラウンのワンピースに視線を落とした。一月ほど前のここが、昨日のことのように思い出される。
ハーブティーの湯気が立つ。
安らぎすら覚える香りはやわらかいのに、喉の内側だけがまだ乾いている。
何から話せばいいのか。見当も付かなかった。
「本日は、神殿への挨拶品と奉納品の手配がありまして。ついでに年始の水産物も。ゲズゴール様のお心遣いで毎年、年始のご馳走にはここで水揚げされた物を使用しております」
「ああ、なるほど」
ミレイユの母親が湖上神殿の元巫女というのは有名な話だ。
政略結婚で嫁ぎ、未亡人にとなったようだが家族間に確執はないらしい。
「それと、ノーラさんですが。こちらで良く働いてますよ」
一瞬だけ、胸の強張りがほどけた。そこで初めて、自分がどれだけその名を待っていたのかを知る。
ゼルヴァに任せたきり、連絡も取ってない。途中で解雇せざるを得なくなり、今さらどの面下げて手紙を送ればいいのか。
「仲良く、やれているのか?」
「問題ありません」
リゼは気を遣ってる訳でもなさそうだ。上手く馴染めているようで何より。
「そういえば今日、ミレイユは一緒じゃないのか?」
「ミレイユ様は婚約し、今は実家に戻っておいでです」
「え――」
マグカップを包む指先から、かすかに熱が引く。
言祝ぐべき話のはずなのに、喉だけが先に乾いていた。
「秋の王子凱旋の折。ガイスル家に婿養子の話を進めていた殿方とお会いになり、ミレイユ様としても好感触だったようで」
「……そう、か」
それだけを絞り出すのが精一杯だった。
ノーラは新天地で奮闘し、ミレイユは婚約することで家の中核を担おうとしている。
皆、それぞれ次の舞台へと進んでいる。
湯気の立つカップを握っても、指先の冷えは戻らなかった。
「それで。テテュス様はその後、どうお過ごしだったのですか?」
「私は……」
顔を伏せた瞬間、胸の奥で何かが焼けた。なのに喉だけが乾いて、言葉が出ない。
リゼに気を遣わせたくないので、無言でいるわけにもいかない。燻ぶったままの自分が、どうしようもなく恨めしかった。
肚に力を入れ、訥々《とつとつ》と呟く。
「新人の、教導を任されている」
「左様でしたか」
その後は互いの近況を報告し合い、 二人によろしくと言付けしてから解散した。それ以上、言葉は続かなかった。
店を出ると、冬の空気が喉を刺した。
香と魚と茶の匂いが混じる通りを歩きながら、テテュスは誰に聞かせるでもなく感傷が零れる。
「……みんな、先に行くんだな」
その声は白く凍って、すぐに風へほどけた。
立ち止まれば、何かがこぼれそうだった。だから足を止められない。
冬の湖風に身を晒したまま歩き続け、やがて焼き魚の屋台で遅めの昼を済ませる。それだけで午後の時間が空いた。
暇潰しなら本が良い。テテュスはハルヴァルト記念図書館へ足を向けた。
アウルネスの南側、寄進文庫でもあるその学舎は、かつて湖岸防衛を担った貴族たちの兵員・士官教育の場を前身としている。
創設者ハルヴァルト・ヴァルンヘルムの名を冠した建物の二階閲覧室は、神殿よりずっと息がしやすかった。
白い石で閉ざされた静けさではなく、濃い木組みの梁と、古い机に刻まれた無数の傷。そして、開いた窓から忍び込む湖風が、この建物にはあった。紙と革表紙の匂いに、湿った木の匂いが混じる。人が使ってきた場所の匂いだった。
窓際の机に腰を下ろし、記録集を開く。
立ち上るインクの香りが、乾いた胸の内側に薄く染みた。
神殿文庫にはない知識群は新鮮で、テテュスは興味の向くまま頁をめくる。
読み耽っている間だけは、胸の奥の空洞にかろうじて薄い板を渡していける気がした。
〇 〇
冬至が近い時節は日が短い。
気づけば陽は傾き、テテュスは帰途に就いていた。
自室で巫女装束に着替え、ベッドへ腰を下ろす。
すぐ脇の机へ目を向けても、実家からの文は一つもない。
アハティアラ家が動かない理由は、考えるまでもなかった。
神職の家系といえど、徒に身内が口を挟めば庇い立てと見做される。面子に拘る父はそれを嫌うだろうし、義兄ならなおさら止める。あの兄妹は、端から自分を歓迎していないのだから。
分かっている。
分かっているからこそ、余計に寒かった。
「クソッ」
苛立ち紛れに机を叩く。
硬い音だけが虚しく返った。
(いつからだ? いつから、私はこんな……っ)
孤独に怯えるほど弱くなってしまったのか。
少なくとも出向前は、こんな風ではなかった。
日誌に手を伸ばし、頁を繰る。出向直後から研修まで、書かれていることは相変わらず淡々としている。
変わり始めたのは、研修が終わり部下を持ってから。誰かと笑う事を――
「違う!」
日誌を投げ捨て、両拳で机を叩いた。
「違うんだ……」
頭を振る。
何も見たくなかった。
答えに触れれば、今の自分まで認めてしまいそうで。やりきれなくて頭を抱える。
どうして自分だけ。
その言葉にならない切なさが、胸の奥で先に形を持つ。
何かが、音もなく崩れた。
涙の温度だけが、頬の上で酷く冷たかった。




