天才の傲慢
エンドリフギルが空中姿勢を崩した、その時だった。
ダグアーラの背筋を、氷の針みたいな悪寒が走り総毛立つ。
喉の奥がひくりと狭まり、指先から一瞬だけ熱が引いた。
似ていた。
あまりにも。
左へ流れるはずの軌道が遅れ、その遅れへ巨大な質量が呑まれていく落ち方が、かつて自分が見た空の壊れ方と、寸分違わず重なった。
「中、尉……」
「ちょっと、マズいんじゃ……」
誰の声かは判然としない。耳ではなく、少年の思考が拒んだ。
視界の中心で、真紅の機体だけが死の角度を作っていく。
「中尉ッ⁉ 応答してください中尉ッ!」
喉を裂くつもりで怒鳴った。
返ってきたのは、途切れがちな息と、金属の軋む嫌な音だけ。
血の気が引いて指先が冷え、震えが膝を揺るがす。
「第三観測線、南斜面側へ回り込め! 着水の可能性がある、湖面を押さえろ!」
「整備班、救助具を持って下へ! 医官もだ、今すぐ!」
「通信を切るな。応答がなくても拾え、呼吸でも雑音でも構わない、絶対に切らすな!」
怒号交じりの指示が監視塔内に反響する。
「僕は……」
「それで、どうなさいますか?」
肩に置かれた手は、驚くほど冷たかった。
見上げればナイジェル。凍りついた鋭い眼差しが、逃げ道ごと少年を縫い留めていた。
首筋を焦がす焦燥に衝き動かされ、ダグアーラは駆け出しかける。だが、その手は離れない。
「離してくださいっ……僕の、せいで……っ」
「いい加減になさいッ!」
一喝に振り返ると、通信兵たちを背に副官のエイサグレアが立っていた。
皺ひとつない幕僚服、きつく束ねた暗い小豆色の髪。鋼色の双眸だけが、抜き身だった。
「誰がこの場の責任者ですか?」
「……僕、です」
「なら、最後まで責務を全うして下さい」
詰問が喉に刺さる。絞り出した声の苦さで、喉が焼けた。
「取り乱す権利など、貴方にはありませんよ」
正論に閉口する。返せる言葉がないのではない。返してはならないのだと、身体が先に悟っていた。
通信機を片手に、ダグアーラは漏れ聞こえる砂嵐に耳を傍立てる。
誰もが息を潜め、雑音混じりの通信へ耳を澄ませていた。
金属の軋み。乱れた呼吸。
それから、風でも裂けるみたいな途切れた声。
<――ちたくない>
息が止まった。
聞き間違えるはずがない、あれはテテュスの声だ。
<違――、……っ>
飛びたい。幽かに聴こえた切なる祈りに、管制室の誰かが小さく息を呑んだ。
『飛べッ! まだ空は、そこにある!』
全身の毛が逆立つ。
その一声は、命令ではない。まだ飛びたいと願う者の、剥き出しの祈りだった。
「中尉……」
悄然と名を呼んだ声は、自分でも驚くほど弱かった。
直後、通信が乱れる。
硝子に爪を立てるような、不吉な術式の悲鳴を感じて総毛立つ。
「魔力値、急上昇!」
管制官の報告に、ダグアーラは受信器から顔を上げた。
思わず目を剥く。計器を確認すれば機体が、あり得ない程の魔力量を叩き出していた。隣のエイサが原因を尋ねるも、困惑するばかり。
「どういうことだ?」
遠雷のような、低い声。威圧すら放つ重々《おもおも》しい声が落ち、その一言だけで管制室が静まり返る。
視線を向ければ、不遜な態度で腕を組んだゼルヴァがいた。
「異常事態は見れば分かる」
傲然と遮られ、エイサの弁明が宙に浮く。
「俺が聞いてるのは、その前だ」
彼女とゼルヴァ、二人の注目はダグアーラに向けられる。
そしてそれは二人だけではなくスコルも、この場の全員が責任者の説明を要求していた。
脳裏で、かつてテテュスに告げた一言が反響する。
『そこは問題ありません。しっかりと記録を反映させますので』
――そうだ。エンドリフギルに搭載した術式は、採取した記録に基づき設計した。
「設計に、狂いはない、です……」
喉が震え、自分でも愕然とするような掠れ声。
次の瞬間、ゼルヴァが踏み込む。胸倉を掴み上げられ、爪先まで軽く浮く。
ナイジェルの制止も聞かず、胸襟を締め上げる力。押し殺している彼の激情が伝わって来るようだった。
「だったらまず、前提を疑え……っ」
低い。怒鳴っていないのに、その声は雷鳴より重かった。
視界の端で、管制卓の数値がまだ跳ねている。
異常上昇。あり得ない値。
設計通りなら――そこで止まった。
「あ――」
爪先を浮かせる少年は頭の中で、何かが噛み合う音を聞いた。
病み上がりの西部空域。消耗した演習後。参照した計測値は、どれも、万全ではない時の数値だ。
そもそも、テテュスの最大魔力量を測ったことなど一度も無い。
思い違いでも無ければ、見落としでもない。
前提ごと、見誤っていた。
その理解が形になり切るより早く、通信が割り込んだ。
『こちらエンドリフギル。高度を殺せない、湖に着水――』
テテュスの声だった。息が詰まる。
まだ理性はある。まだ返せる。まだ間に合う。
そう思った直後。管制塔の窓の向こう、湖畔の空で赫い閃光が弾けた。
爆発。
機体背後から飛翔ユニットが吹き飛び、通信が耳障りな破裂音に潰れる。
真紅の機体が、巨大な水柱を上げて湖面へ叩きつけられた。
誰も、すぐには動けなかった。
白く跳ね上がった飛沫だけが、視界の奥で遅れて崩れていく。
「……救、助を」
自分の声が、妙に遠い。
違う。
そんなものではない。
「救助班を出せッ!」
ダグアーラの命令でようやく、管制室の時間が動き出した。
「第三観測線は湖面へ急行! 浮力具を投下しろ!」
「医官を随伴、水中班もだ! 残骸より先に操縦者を探せ!」
喉が焼ける。
だが、その熱さより先に、腹の底へ沈んでいく冷たさがあった。
分かった時には、もう遅かった。
エイサとナイジェルの制止を振り切り、ダグアーラは格納庫へ急行。
黒い強化服に着替え、懸架されている一機を半ば奪うようにして飛び乗る。整備兵の忠言は、将校権限で黙らせた。
王家の血を引く、彼ほどの魔力量と才覚があれば、操縦は容易だった。
風が兜の頬を打つ。
速く、と命じるたび、胸の内側で何かがきしむ。自分で設計した翼より、いまはこの借り物の飛翔鎧の方がよほど信じられた。
稜線を越えた先で、湖面はすぐ見えた。
黒煙。
歪んだ波紋。
その中心だけが、何か巨大なものに殴られたみたいに、まだ荒れている。
「北側へ回れ! 残骸より先に操縦者を!」
「浮力具を投下! 水中班を寄越せ、急げ!」
「通信は切るな。応答がなくても呼び続けろ!」
命令は出る。
だが、目だけがひたすら湖面を這っていた。
いない。
紅も、白も、美しいストロベリーブロンドも見えない。
水の照り返しが視界を裂き、焦げた金属片だけが波間にちらつく。
「中尉ッ⁉」
呼んだ声は、思った以上に高かった。
返事はない。
喉が張りつく。指が冷たい。
その時だった。
岸から少し離れた水面に、紅白の布地が沈みかけているのが見えた。
「居た……ッ!」
考えるより先に飛び降りていた。術式を遠隔操作し、滞空させる。
晩秋の冷水を強化服は弾く。それでも伝わる凍えるような冷たさに、息が詰まる。
必死に腕を伸ばし、彼女の沈みかけた身体を抱き起こす。強化服越しでも分かった。軽い。軽すぎる。
顔を上げさせる。
血の気は薄い。乱れた髪から覗く睫毛は濡れ、唇は色を失っている。
「中尉……!」
返事はない。
だが、首筋に触れた指先へ、かすかな熱が返った。
脈がある。
その瞬間、肺がいきなり空気を欲しがった。
首筋の熱が、指先から離れない。
生きている。
生きて、しまっている。
安堵が来るはずだった。
だが腹の底へ沈んでいったのは、それとは全く別の冷たさだった。
この身体を、落としたのは自分だ。
かつて聞いた姉の警告が蘇り、より一層心に深く食い込んだ。
「……っ」
悔悟は後。兜の下で血が出るほど唇を噛み締め、飛翔鎧を遠隔操作して自分を引き揚げさせる。
ダグアーラは湖畔に着陸。テテュスを抱き上げながら浜辺の砂を踏み締める。
ゼルヴァが荒々しい足取りで近付いて来たかと思うと、偉丈夫はひったくるように受け取る。ひったくるように受け取ったくせに、腕の中だけは少しも乱れなかった。
濡れた睫毛。白い頬。閉じた唇。近付けた頬で呼吸を確認すると、彼は短く息を吐く。
「生きてる」
その一言で、張り詰めていた何かが切れかけた。
だが安堵は続かない。
テテュスを抱き上げたまま、ゼルヴァはダグアーラを見下ろした。
怒鳴りはしない。けれど、その視線は雷より痛かった。
「責任は、自分で取れ」
低い声が胸に沈む。その反応を確かめるまでもなく、彼は即座に踵を返した。
その背を前に呆然と立ち尽くす中、よろめいた足が砂を噛む。
濡れた自分の手だけが、ひどく冷えていた。




