深夜の訪問
金髪碧眼の少年は天井を仰ぎ、放心した状態で椅子に腰かけていた。
全ての事後処理は終わっていた。
少なくとも、終わらせるべき事務手続きは一通り済んでいる。
テテュスの搬送。残骸の回収。墜落地点の封鎖。事情聴取。報告書の提出。終えるべき手順に、不備はなかった。
それでも、ダグアーラの中では何ひとつ処理が終わっていなかった。
指先が冷たい。喉だけが、まだ焼けている。
視線を窓に移せばすでに日は暮れ、夜の帳が幕を下ろしていた。部屋の光源も、蠟燭が一つだけ。
「失礼致します」
控えめなノックの後、入ってきたのは竜人の青年。
いつも通り柔和で、物腰も静かだ。だからこそ、その足音だけで部屋の温度が少し下がった気がした。
それでも、淡々とした様子が却って胸のわだかまりに熱をくべる。
「お加減は」
見舞いの文句に聞こえて、ナイジェルの声には温度がない。
「問題ありません」
即答した声が、自分でも驚くほど掠れていた。ナイジェルはそれを訂正しない。気遣いもしない。ただ、立ったまま視線を寄越す。氷刃みたいな視線を。
「では一点。お伺いしたいことがございます」
「……何ですか?」
嫌な予感は、もうしていた。
ダグアーラは座り直し、冷徹に見下ろして来る護衛官と目を合わせた。
「アハティアラ中尉は、事故直前まで理性を保っておられましたか?」
続行判断でも、術式設計でもない。
問いは最初から、テテュス個人へ向いていた。
「それは、どういう意味ですか?」
「別に、言葉通りの意味でございます」
平板な声。見下ろして来る白騎士の視線に、糾弾の色はない。ただ、あらゆる感情を排して洞察しようとする怜悧な意志だけ。
「通信記録には、操縦継続への強い執着が残っております。あれを通常の判断と見做すべきか。神殿としては、確認する必要があるのではないかと」
主題は、事故原因ではない。
最初から、彼女個人を切り分けるための問いだ。
喉奥が、別の意味で塞がった。
「加えて」
ナイジェルは淡々と続ける。
「幼精同調時も、通常の範囲内でございましたか?」
問いの向きが、さらに狭まる。そこで初めて、ダグアーラの呼吸が浅くなった。
「それは――」
言いかけて、声がわずかに詰まる。
「違います」
自分でも驚くほど硬い声だった。
ナイジェルの眉が、ほんの僅かに動く。
「仮に、同調や魔力解放時の高揚状態になっていたとしても。着水の判断から、発言内容は異常の証左にはなりません」
言い切った後で、はっとした。
冷静に否定したつもりだった。
だが実際には、理屈より先に言葉が口を衝いて出ていた。
ナイジェルは沈黙したまま、白い双眸を向ける。
「……承知しました」
淡泊な返答だった。
それなのに。まるで、
『殿下は、そうお考えなのですね』
と、記録されたみたいに冷たかった。
ダグアーラはようやく、自分が何に反発したのかを理解しかける。
事故の責任を問われたことではない。
彼女を、最初から切り分ける前提で話されていたことにだ。
「貴重なお時間を頂き、恐悦至極でございます」
恭しく頭を下げたと思うと、彼は即座に踵を返した。
「待ってください」
反論しなければ恐らく、テテュスの過失だけが争点になって計画から外される。もしそうなれば、エンドリフギルの開発は頓挫。凍結する可能性すらあった。
腰を浮かせて背中を呼び止めると、ナイジェルは視線だけをこちらに寄越す。
「何でしょう?」
「テテュ――、中尉は悪くありません。術式の強度や不安定化への対策は、間違いなく我々の過失です。だから――」
「 殿下」
抗弁は遮られ、沈黙だけが部屋を支配する。
「幼精の暴走は、殿下ですら予見できなかった、何しろ暴走事故の記録は乏しく、誰も真相究明に乗り出さなかったから。
ええ、殿下。誰も悪くありませんよ」
「そっ――」
弁明を待たず、ナイジェルが退室する。ダグアーラが立ち尽くす部屋には、妙に均質な静けさだけが残った。
背中が、思ったより重かった。
さっきまで動いていた自分の身体が、今になって全部の重さを思い出したみたいだった。
気道の中で言葉が焼け付く。喉の奥の熱だけが、まだそこにあった。
『まだ、飛びたい』
痛切な祈りだけが、胸の奥で反響していた。
消えない。
蠟燭の火が揺れるたび、床に伸びる影だけがゆっくりと形を変えた。
〇 〇
最初に知ったのは、痛みだった。
背中が焼ける。肺が重い。息を吸う度、胸の奥で濡れた布を絞るみたいな鈍い苦しさがあった。
「はっ」
テテュスは飛び起きる。鼻を衝くのは薬品の匂いと、微かな薬湯の香り。
視界に広がるのは空ではなく、暗い帳の落ちた室内。それと、低い天井だった。
「ここは……」
清潔に整えられた個室だった。だからこそ、空のない静けさが余計に息苦しかった。
遅れて湿布の感触が胸元や脇腹から伝わって来る。反射的に右手で触れると、これまでの経緯を察した。そこでようやく気づく。医務室に搬送されたのだと。
「……リョース?」
掠れた声が、喉の奥から這い出た。夜幕の降りた部屋の中で、音はそれだけ。
返事がなければ、どうするつもりだったのか。
「きゅう」
その一声が聞こえた瞬間、肩から力が抜けて、息がようやく肺の底まで届いた気がした。
鳴き声の方へ視線を落とすと、ベッドの縁で寝息を立てる幼い侍女。小さな肩に毛布が半ばずり落ち、握ったままの布巾がくしゃりと皺になっている。
それと、毛むくじゃらの子機に宿るリョース。
ノーラたちはずっと、ここにいたのだと分かった。
「ありがとう」
起こさないように気を払い、従者を撫でる。それから、相棒を腕の中で抱き締めた。閉じた瞼の裏で、記憶が遅れて戻る。
沈んだ機体。
強制脱出。
湖底で目が合った、巨大な海蛇。
あれは、夢ではなかったはずだ。湖に生息する魔物。
次に覚えているのは、衝撃だけだった。
湿布を貼られている箇所から考えて恐らく、尻尾からの一撃か何かを喰らったのだろう。紅白の強化服を着ていなければ、どうなっていたか知れない。改めて、その性能に感謝の念を覚えた。
不意に、ノックの音が空気を揺らす。数ヶ月前の暗殺事件が脳裏を過ぎった瞬間、身体が先に動いていた。
扉の外で、二つの気配が重なっている。
一つは静かで鋭く、もう一つは低く重い、既視感のある圧だった。
ノーラの傍には、リョースがいる。それだけで、十分だった。
枕元の小机を抱えて武装し、足音を殺して扉へと歩み寄った。
開錠音が響いた瞬間、小机を両手で構える。
隙間から流れ込む外気が、素足の甲を撫でる。暗がりの向こうに人影。
テテュスは息を止めたまま、小机を突き出した。侵入を堰き止める。
「……何をしてるんですか?」
「それはこちらのセリフだ」
降って来た声の主は、少佐の護衛官。こんな夜更けに訪問とは、怪しさしかない。
「心配するな。物騒なことにはならん」
「ゼルヴァか?」
安全を担保してくれるのはゼルヴァ。声を潜めた低重音のセリフに剣呑さはなく、信じてもよさそうだ。
それにしても、
「ずっと、守ってくれてたんだな」
「仕事だからな」
ありがとう。素直な謝辞に、壁越しに聴こえたのは鼻を鳴らす音。威圧感すら放ちそうなそれが、今は微笑ましい。
「単刀直入に言います。これは、陛下の進退に関わる問題です」
「なら、さっさと結論から言え」
音量を絞り、淡々とした声色が穏やかな空気を寸断。テテュスは想わず口を尖らせる。
「どうやって、飛翔ユニットを着脱したんですか?」
(そういう事か……)
着脱ではなく脱落だった場合、技術的な問題が糾弾の的となる。もしそうなれば、ダグアーラの立場が危うくなるのは必然。懸念は分かる。
しかし一方で、解らない事が一つ。
「一つ、聞かせてくれないか?」
「何を?」
微かな苛立ちを、潜めた声に感じた。
知りたいのは単純に、ナイジェルがダグアーラを庇おうとする理由。飛翔実験直前の言動といい、護衛官の範疇を超えていた。それを問い質す。
「神殿に出家した第二王子――いえ、王弟の事はご存じで?」
一段低くなった声に、テテュスは身構えた。
そして、神殿の末席を汚す第二王子の放蕩振りに耳を疑った。
「ダグアーラ殿下は、惜し過ぎるんですよ。
それなのに、現王は距離を取り、出家した王弟は家名を汚し、王妃は露骨に疎んじる。全く、愚かしいことこの上ありません」
王権に唾を吐く不敬な言動。しかし、だからこそ彼の真情を垣間見た。
血筋に胡坐をかく者より鋭く、政務を厭う者より遠くを見て、放蕩に身を崩す者より遥かに王家の器に近い。
「あの御方には、存分に才を振るう場所が必要なんです。貴方も、そうは思いませんか?」
テテュスは答えなかった。
ただ、次に彼と向き合う時、何を言うべきか。その問いだけが、痛みよりも先に、胸の奥で静かに熱を持っていた。




