暴走の鞍上
格納庫にはまだ、続行の声が冷え切らぬまま残っていた。
観測任務を負った飛翔鎧が、山間の空域へ扇状に散っていく。稜線の上、谷の出口、上昇流が生まれやすい尾根筋。かつての墜落事故を踏まえ、今回は三層に観測線が敷かれていた。
点検済みのエンドリフギルを起動させて待機していると、観測官の配置が完了したと報告が入る。
機体の足下で、整備兵が最後の固定具を外す。金具の外れる音が乾いて響き、格納庫の空気がわずかに張り詰めた。
テテュスは座席の上で背筋を伸ばし、息をひとつ落とす。指先にはまだ、先ほどの操縦感覚が薄く残っていた。近い。ただそれだけのはずなのに、身体の奥は妙に静かだった。
<各観測機、配置完了。風速、上層横流二、中層上昇流あり>
通信が流れる。了解と返し、格納庫から演習場へと向かった。
演習場の端で、エンドリフギルは真紅の翼を半ば開いたまま静止していた。
視界の先には、山肌に沿って延びる滑走路代わりの平地。その向こうには谷が口を開け、さらに先で空が待っている。
<エンドリフギル、飛翔試験を開始してください>
指令を発するダグアーラの声は平静だった。平静すぎるほどに。
今度こそ空へ。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが先に身を起こした。
ストロベリーブロンドの髪から銀光を発するテテュスは操縦桿を握り直す。
指先が、もう次の動きを知っている。
「エンドリフギル、高速滑走に移る」
ペダルを踏み込む。
噴口の劫火が一段深く膨らみ、真紅の機体が地面すれすれを裂いて奔った。
風圧が装甲を叩き、座席が腰を強く押し返す。胃の腑がわずかに浮いた。
速い。だが、それ以上に近い。
推力に押されているのではない。こちらの踏み込みへ、機体の方が先に喰いついてくる。
演習場を端から端まで疾走し、向かう先にはフェンスが迫る。
テテュスはペダルを更に踏み込んだ。加速の反動で返って来る圧力が、五体を座席に縛り付ける。
翼が全面展開。推進器の咆哮が一段高くなる。
浮く、と思うより先に、重みがほどけた。
地面が、ひと息ぶん遅れて離れていく。
その瞬間、喉の奥が熱くなった。
飛べる。そう思った時にはもう、機体は眼下に稜線を望んでいた。
高度を上げるごとに、地上の景色が遠ざかる。近代改修した城砦はすでに掌の上の玩具みたいに小さく、谷も森も、ただ色の層になって下へ流れていた。
正面には、曇りひとつない蒼穹が広がっている。
機体を巡る魔力が、風の冷たさを教えてくれる。胸の奥で固く結ばれていた何かが、ふっとほどけた。
地上でなら骨に引っかかるはずの重みも、ここでは何ひとつ足枷にならない。胸郭の内側まで透き通るようで、息を吸うたび、肺の奥が澄んでいく。
(ああ……)
ここでは全てが剥落し、何も残らない。だからこそ、声にならない恍惚が漏れた。
エンドリフギルの飛行は最初、異様なほど安定していた。
横から風を受けても機体はぶれない。揺らぐかと思うより早く、翼と推進器が歯車のように噛み合い、真紅の躯体は滑るように空を裂いていく。
気持ちいい。
あまりにも。
まるで空の方がこちらを拒まず、最初からこの機体を受け入れるつもりで開いていたみたいだった。
もっと上へ。
そう思った時には、機体はもう稜線より高く、澄み切った風の層へ身を滑り込ませていた。
テテュスは緩やかに旋回へ入ろうとした。
ほんの少し、左へ流すだけのつもりだった。
だが。
返るはずの翼が、一拍だけ遅れた。
(は――――?)
僅かな停滞。至福の空が、牙を剥く。機体の全重量だけが、その空白へ引きずり込まれる。
左へ流すだけのはずだった両翼が音を立てて沈み、真紅の躯体が山肌へ向かって斜めに滑落した。
まず腰。座席が骨盤を殴りつけ、遅れて左肩、首、背骨へと鈍い衝撃が噛みつく。今まで慣性に預けられていた重さが、関節の継ぎ目からまとめて身体へ戻ってきた。
「――っ!」
息が潰れる。
操縦桿を引く。だが遅い。いや、機体が重すぎる。
鈍い飛翼は返したい角度に入らず、立て直そうと踏み込んだペダルの力が、今度は遅れて駆動系に過大な負荷を叩き込む。
風が変わる。
さっきまで装甲を撫でていたはずの気流が襲い掛かり、翼をひねり、推力の向きを奪おうとしていた。
機体が軋む。関節が悲鳴を上げる。
軽かったわけじゃない。最初から重かったのだ。ただ、それを忘れさせるほど、近すぎただけで。
<中尉ッ⁉ 応答してください中尉ッ!>
「少、佐……っ」
マイク越しにダグアーラが何か叫んでいる。返事に使う息すら、いまは惜しい。
姿勢が制御不能。
山肌が見る間に膨らんでくる。木々の輪郭がほどけて目に刺さり、岩肌の色が急速に濃くなる。さっきまで祝福みたいだったその近さが、今はそのまま死の距離だった。
高度が上がるほど、術式の精度が落ちる。理屈では知っていた。
だが知識は、落下の減速には寄与しない。
墜ちたくない。
違う。
まだ、飛びたい。
情念が、沈みかけた意識へ火を入れた。
「飛べッ! まだ空は、そこにある!」
ストロベリーブロンドの髪が燃え上がり、薄暗いコックピットが銀光に満たされる。膨大な魔力は刹那の間に機体へ奔り、真紅の装甲が眩く応えた。
立て直せる。
確信した途端、躯体に漲った魔力の奥で、硝子に走る亀裂みたいな崩壊の予兆が返ってくる。
(なんだ――――――――?)
全身が冷たく粟立った。
術式が悲鳴を上げている。
あり得ない。
そのはずなのに、術式はもう綻び始めていた。
(リョース、まだ……!)
必死に薔薇色の宝珠へ魔力を注ぐ。大きく揺れながら徐々に持ち直した。
落下が、ほんの少しだけ鈍る。
だが止まらない。
高度にはまだ余裕がある。眼下で流れる山肌の先、飛び込んで来たのは大きな水面。採れる選択肢は少ない。
「こちらエンドリフギル。高度を殺せない、湖に着水――」
爆発。
背後からの衝撃につんのめり、舌を噛みそうになる。
推進器が限界を迎えたのだと、考えるまでもなく分かった。飛翼を焼く焔渦は黒煙を吐き散らし、なおも火勢を増していく。
背中が熱い、なのに指先だけが凍えていた。
翼が捥がれていく。その感触が、骨の内側から伝わってくる。
その時、リョースの意志が流れ込む。飛翼の着脱。
だが、そんなことをすれば――
「待っ――」
伸ばした手は虚空を掴んだ。擦れ合う金属の悲鳴がコックピット越しにも響き、直後、暴走した術式が熱と光に変わる。
空を燃やす爆炎が、真紅の躯体を湖面に叩きつける。瞬間、影差す碧が壁に変わった。音は途切れ、視界だけが遅れて沈む。
上がる水柱、迸る波濤。巨大な質量の突入で水面が大きく歪んだ。
「リョー、ス……」
その名だけが、口に残った。
真紅の巨体は沈黙し、気泡を纏い没していく。
機巧の術式は崩壊し、魔法は解けた。
湖底が、暗い色をして迫ってくる。
それでもまだ、胸の奥だけが熱かった。




