胸の内の赫火
試着室の中でたっぷりと時間を使ってから、テテュスは顔だけ出す。呼吸を整えたので、頬の火照りも大分収まっていた。
「じゃあ、次は――」
「もういい。自分で選ぶ」
さすがに付き合い切れない。耳を赤くしたテテュスは巫女装束を揺らして自分の私服を選びにかかる。
最終的にテテュスは、踝丈のブラウンのワンピースを購入した。落ち着いた色合いと静かな輪郭に、ネイラも賛意を示した。
ただ一人、スコルだけは最後まで渋っていたが、ノーラにお揃いのワンピースを買い与えることで連携の分断に成功。撤退戦としては上々だった。
「あ、雨止んでる♪」
洋服店から出ると、すでに分厚い雨雲は彼方へと押し流されて行った後だった。
「あ、虹……」
雲がはがれた西の空で、七色に輝く橋が地上を大きく跨いで架かる。
斜陽が差す中、スコルは無邪気に駆け出す。やがて後ろで手を結び、相好を緩めた顔をテテュスに向けた。
「いい買い物したね♪」
「……そうだな」
夕日に照らされた顔が眩しくて、咄嗟に視線を逸らした。
それから四人は、麓の街を出て帰途に就く。
『今日は女子会だからね。男子禁制だよ♪』
嬉々としたスコルの提案により、今日はゼルヴァに護衛を休業してもらった。
さすがにスコルのような名門貴族の令嬢へ、晩秋の観光地で手を出す愚か者はいないらしい。
兵舎に戻った後も、食事と入浴の時間を共に過ごした。
点呼の少し前、テテュスは護衛役が使っている部屋のドアを叩く。誰何の声に「私だ」と短く返し、入室の許可を待って扉を開けた。
瞬間、汗と鉄の匂いが押し寄せる。入浴上がりに纏っていた薬湯の香りも、一息で塗り潰された。
部屋の中央で、半裸のゼルヴァは逆立ちのまま腕立て伏せをしていた。数本の指先だけで全体重を支え、床へ汗を落としながら静かに体を上下させている。こちらに視線を寄越しても、呼吸は全く乱れない。
「問題なさそうだな」
「ああ。お陰様でな」
それだけで、街での外出がつつがなく終わったことも、今また胸の奥に別の熱が戻ってきていることも、全部見抜かれた気がした。
テテュスは動揺を隠すようにそっぽを向く。
「にしても、今日はずっと部屋に籠ってたのか?」
「ああ。有意義な鍛錬ができたぞ」
皮肉と本気の判別がつかない。数本の指先だけで体を支えながら、ゼルヴァはこちらを一瞥する。
「明日は試験か」
一拍の沈黙。
「そうだ」
短く答えた自分の声は、思ったよりも硬い。
ゼルヴァは最後の一回を押し上げると、静かに着地し、タオルで汗を拭く。
「なら、もう寝ろ」
背を向けたままの一言だけが、妙に優しかった。
「……ありがとう」
部屋を辞して、ひんやりとした廊下へ出る。
夜気は冷たい。なのに胸の奥だけが、妙に熱を持ったままだった。
明日。
その言葉だけが、胸の奥に静かに残った。
〇 〇
格納庫の視界の先、真紅の機体が立っていた。
生体を思わせる流線形の装甲を見ていると、鋼の機巧に竜の名を冠する気持ちが少しだけ分かる気がした。
背に折り畳まれた飛翼は沈黙したまま。まるで、主の呼び声を待つ禽獣のよう。
仰ぎ見ていると、喉の奥が熱を持つ。まだ触れてもいないのに、胸の内側だけが先に引き寄せられていた。
(……綺麗)
強さも速さも関係ない。烈火の如き鮮烈さに魅入られ、心が焦がれた。
鋼の冷たい稜線を指でなぞるたび、鼓動が半拍ずつ早まる。
期待は理屈より先に身体へ来る。だから余計に、昨夜の記憶が胸の奥へ黒く滲んだ。
『誤解を生む余地は、作らぬに越したことはございません』
ナイジェルの声。
柔らかな口調でいてそのくせ、骨まで冷えるような牽制だった。
あくまで上官と下士官、あくまでテストパイロット。資質への懐疑を口実に、執拗なまでの線引きを求めた。思い出しただけでも腸が煮えくり返る。そんな事はテテュス自身が一番わかっている。
機体を前にした高揚へ、政治という名の泥を一滴落とされた気がして、テテュスはわずかに眉を顰めた。
「いや……」
頭を振る。浮かれている場合ではない。昨夜のゼルヴァがくれた忠告を思い出し、心を落ち着けてから再び機体を見上げる。
「中尉」
背後から掛かった声に振り向く。テテュスを見据える白皙には、昨夜の余計な政治など最初から存在しなかったみたいに微笑を湛えていた。
見詰めていると、胸に微かな甘い痺れが走った。
「調子はどうですか?」
弾む声。碧眼には熱がある。機体の前に立つ少年は、やはりこの瞬間を待ち望んでいたのだと分かる。
ゆっくりと機体に歩み寄るダグアーラ。目を伏せ装甲をなぞる指先は、少しだけぎこちない。
だが、それもほんの一瞬だけ。テテュスの視線に気付いた時には、僅かに滲んだ違和感は既に消えていた。
「どうかしましたか?」
「いえ……」
胸が詰まり、咄嗟に顔を逸らしていた。
あの墜落を経て、なおも平静でいられるほど、彼は鈍くない。
それでも進むのだ。
ならば、自分も応えねばならない。
「問題ありません」
凛然と背筋を伸ばしながら、胸の奥に小さな引っかかりだけが残る。
しかし、問いただすほどではない。したところで、少年はきっと笑って誤魔化すだろう。
だからテテュスは、それ以上何も言わなかった。
やがて二人は兵舎に戻って朝食を摂ると、最終確認のブリーフィングに参加。それが終わるとテテュスは紅白の強化服に着替え、再び格納庫に舞い戻る。
梯子を上がり、テテュスはコックピットへ身を滑り込ませた。
鋼に囲まれた狭い空間はひやりと冷たい。なのに胸の奥だけが妙に熱を持っている。
「中尉。準備はいいですね?」
「はい少佐。いつでもどうぞ」
熱に浮かされる心をなだめすかし、開放したコックピット越しにダグアーラと短く言葉を交わす。
「起動準備、開始!」
機体の外で整備兵長の号令が落ち、復唱が響くと格納庫の空気が一段深く張り詰めた。先ほどまでの喧騒が薄れ、機体の周囲だけが別の時間へ沈んでいく。
ハッチを密閉すると闇の帳が降りる。直後、幽かな燐光が空間を淡く照らす。
肺腑を圧する閉塞感から解放されると人心地。
一度だけ呼吸を整え、太腿の上に置いた掌の核へ視線を落とした。
「行くぞ、リョース」
囁きに応じるように、薔薇色の宝珠の奥で脈打つ柔らかな光。
定められた窪みへ、そっと核を嵌める。かちり、と小さな音が鳴った。
「天翔ける不死鳥よ、灰燼より来たりて黎明を焼き尽くせ――――エンドリフギル」
魔力を練り上げた瞬間、ストロベリーブロンドの髪が銀光を帯びる。術式へ流し込んだその刹那、胸の奥で火花が弾けた。
(ああ……)
目覚めたばかりの機体は、まだ術式も全開ではない。
それなのに呼吸が一拍浅くなる。リョースを通じて流れ込んできた魔力は、最初こそ澄んで冷たかったが次第に熱へと変わり、背骨の奥を細い焔となって駆け上がった。
魔導心炉の脈動が座席越しに背中へ伝わり、そのたび胸郭の内側が小さく鳴る。熱い。燃え上がる灼火に抱かれているようなのに、不思議と苦痛はない。むしろ安らぐ。機体と自分の輪郭が、少しずつ溶け合っていくのが分かった。
「こちらアハティアラ中尉。エンドリフギル、歩行を開始します」
了解の返答を受け、テテュスが操縦桿を僅かに傾けただけで、機体は半歩先まで読んだように脚を運んだ。ペダルを踏み込んだのは、脚部が動いてから。
その反応に、思わず喉が熱を帯びた。
「凄いな……」
唇から零れた声は、半ば吐息だった。
これなら高速飛行の中でも繊細な操縦が可能だろう。そう確信できるほど、挙動は滑らかだった。
軽い、ではない。指に返るはずの重みが薄い。こちらが加減するより先に、機体の側が意図を汲み取り、先回りしている。
ぞくり、と背骨の内側を細い冷気が走った。
それでも胸の熱は、その違和感すら呑み込んでいく。
気持ちいい。
あまりにも。
息を吸うより先に肺が満ちるような、足を踏み込むより先に加速だけが始まっているような、身体と因果の順序が崩れていく感覚。
心が追いつくより先に、身体の方がこの機体を欲しがっていた。
<中尉、どうですか?>
通信越しの声は弾んでいた。ダグアーラだ。興奮と緊張が綯い交ぜになった気配が、その短い一言にも滲んでいる。
その調子が、熱に寄りかけていた意識へ細く差し込んだ。
「……問題ありません」
そう答えながらも、操縦桿を握る指先だけが、わずかに強張る。
<では、術式同調を維持したまま、次は飛翼の起動試験に移行します。着実に行きましょう>
少佐の忠告よりも、鼓動の方が耳に響く。
呼吸が浅い。熱を持つ指先だけが、まだ来ていない加速の形を先に知っていた。
(いや――)
そう気づきかけた瞬間、魔導心炉がひときわ深く脈を打った。
胸の奥の火は、もう小さくはなかった。




