第2章1ー29
妙華や優曇華という天国の花々は、たとえば、身近にある、タンポポや蘆の花となって、その聖性を、余すところなく、常、日頃から、咲いている。その聖性にわたしたちは、しばしば気付けない。気付けない理由のひとつは、やはり、無明であり、業の深さを縁としているからであろう。しかしながら、その業でさえも、神がやはり司っている。時に、この業を使ってまで、神は、人々を啓蒙する。わたしが気付いたのは、深い業でさえも、しっかりと、世界を突き動かす、歯車やその伝動力となること。
であるからして、、
この業という動力をいかに、活用するのかが、至極重要な日々の留意点である。
この業を最大限活用し、自らその業の中心や最深へダイブし、清濁を併せ呑み、濁さえも清め、清であることを表現し、成功した一人が、イエス・キリストであろう。彼は、弟子のイスカリオテのユダにある業を悉く知っておられ、その業を上手に活用する知恵と莫大な愛を持っておられた。そして、世界を啓蒙する、御業を成し遂げたのである。
聖者にとってみれば、業さえも、大事な大事な動力源なのであろう。
業とは、生命エネルギーのかたまりのようである。
つまるところ、聖者とは、生命エネルギーの最大限の活用方法を知っていて、知っているだけではなく、体現できる者なのであろう。
自らの人生を、良い意味で、その実験台として、いくことも、この物語で云えば「ひとつなるもの」「ひとつなる体現者」への、確かな一歩となっていくのでは、ないだろうか。
自らの生命エネルギーを実験出来ないうちは、まだ、ひとつなる体現者には、なれないであろう。なぜならば、自らの業や自分を知らないうち、体験していないうちは、やはり体験者すらではないからである。しかも、、体験者と体現者には、かなりの溝がある。「憧れ」が生じる時点で、体験者となりつつある。「憧れ」は仮想体験である。仮想体験から、段階を踏み、体験者となり、それから修行をして、体現者となっていく。自分を知り、自分を体験し、初めて、他を知り、他を体験出来る。
であるからして、自分以外の「他」ばかりを実験しているうちは、まだまだスタートラインにすら、立てていない。評論家の多くは、これに陥っている。体験の無いことを、体現出来るほど、この世界はやはり甘くはない(しかしながら、最初から、わたしたちは、神や永遠を体験している者でもある。全宇宙にある全てのものの土台は、神や永遠)。人生を通じて、わたしたちは、様々なプロセスや生命段階を辿っていく必要がある。(芸術が担っている役割のひとつは、それらを手助けすることではないだろうか)
神から授かっている生命エネルギーを、自分から働きかけなければ、やはり、おんぶにだっこの、甘えん坊である。しかも赤ちゃんすら、ハイハイして、自ら世界を体験しに行く。そして、日進月歩の進化を遂げる(ヘッケルが言うように、個体発生は系統発生を反復していく。自らが働きかけることにより、その反復がさらに、加速していき、わたしたちは、わたしたちの存在の真価に近づける)。わたしたちは、わたしたちの赤ちゃんの頃や幼子の頃を忘れてしまったのであろうか…。ハイハイし、世界をでんぐり返し、したではないか。
初心忘れべからず。
※続く




