第2章1ー27
一行の目前には、強大な門がある。この巨大な門は、碧玉、かんらん石、めのう、ラピスラズリ、紫水晶、金などで構成されていた。この強大な門は、な・に・かを寄せ付けない強力な結界が張られている。この門によって、な・に・かを払いのけることが出来るし、また同時に、払いのけるということは、な・に・かを失っている。失ったな・に・かとは、得てして、人が忌み嫌うものが多い。そして、人はやがて気付く。その忌み嫌うものが、自分自身の内界にもあるものであり、自身の日々の日常を、陰ながら支えていたものでもあると…。それを否定し、捨てようと思っていても、生きている限りは、決して捨てられない。足を引っ張っている部分を、ただ修正すれば良い。修正せず、調整せずに、はなっから忌み嫌い、排除しようと、してしまうことが問題である。たとえば、食欲、性欲、睡眠欲、欲望は「無限」と言われてきているが、無限なんかではない。腹がいっぱいになれば、食べたくなくなる。愛している異性と共に過ごしたり、時にはセックスをしたり、愛している異性を想いマスターペーションをすれば、それ以上は求めない。10時間以上寝ていれば、嫌でも、目が覚めてくる。欲望さえも「有限」ではないだろうか。おそらく「無限」と簡単に言い過ぎなのがナンセンスなのだろう。
ならば、欲望は生きる為の必要な、生命欲であり、神聖な生命力である。
欲望を捨てようとする人は、生命をも捨てようとしていることに、気付く必要がある。自分自身の生命を捨てているうちは、自分自身の最も高尚な輝きは、失われてしまう。
欲望は、調整し、方向付ければ、良いだけの話しであって、欲望が「無限の悪魔」な訳が、無いのである。
人間は結局は、軽視してきた忌み嫌うものに、足下を掬われ、滑稽なほど、躓く。排除したり、抑制していたものが、知らず知らずのうちに、爆発的に内部から現れ出てしまい、無関心で差別をしていた分だけ、その爆発力や後遺症も大きくなり、結局は、刑事沙汰の事件になってしまう。
まさしく身から出た錆である。
人々は聖域を心や物、場に求めるのであるが、それ自体は決して間違いではない。聖域を設けることにより、パワーがより集中し、結集し、その対象は洗練されていく。一説に依れば、古代のピラミッドなども、求道者達のイニシエーションの場であった。ピラミッドのなかで、自身の奥深い意識やエネルギーを目覚めさせ、復活させていた。神社仏閣や教会、パワースポットなどもそうであるが、見逃してはならないことは、その聖域から一歩先に、はみ出してしまうことを恐れ、あらゆるものを否定的に捉え出すこと、あげくの果てには、その聖域以外の他を排他してしまうことである。宗教戦争や紛争とは、まさに、このようなことが原因となり、起こってしまっている。いわば、小さな範囲の絶対化、物的次元での絶対化というものを創造してしまうことが、何よりも、危険なのである。
ましてや本当の門や結界とは、自分自身に依るものだ。日頃からの良い心掛けと良い行いの習慣こそが(たかが相対善、されど相対善)、結局は、最後の砦なのである。本来の偶像崇拝とは、形あるものの領域にあるのではなく、形のないものの領域にこそ、発生する課題。人が真心を込めて、創造していった作品は、決して偶像ではない。
物的次元は、やがて、全て崩壊する。この地球や宇宙でさえ、やがて滅する。大事なことは、物的次元というものは、神の愛や命の次元で支えられて、創造されていることに注目すること。何故重力や引力が働き、目のまえにある、スプーンが存在しているのか、エーテル体(シュタイナーが言うところの)が存在しているのかを、問うべきである。神がこの世界から、手を引けば、呼吸すら出来ずに、銀河や宇宙など、あっけなく崩れていくであろう。
巨大な門をくぐり抜けた先には、多くのフェルマエのご衛兵や街の人々が、四天王ルタン軍を出迎えている。
出迎えている先の未来にあるものは、日本でいえば「和魂洋才」のような、まさにエポックメイキングな、溌剌と躍動した、営みであろう。
「和魂」があれば、あとは、いかようにも、変化していける。逆に言えば、「和魂」が無ければ、本末転倒であって、いわば「西洋かぶれ」しているだけである。この作品でいうならば「和魂」は「ひとつなる種」と、いえるであろう。
※続く




