第2章1ー26
私達の命の最深には、どんなに醜悪な力が降りかかろうとも、決して、穢れず、色褪せない、「ひとつなる種」がある。私はそれを地獄の底へ行ってきて、発見した。「泥中の蓮」とは、「本当」のことである。地獄とは、神から頂いた霊魂の良心、この良心の呵責によって苦しみ、囚われている世界でもある。ときに波動の高低ばかりを言う人々は、それをまだ「本当」には理解していないし、この世界は、命の大家族、という真理を忘れている。また自分をも忘れている。もう少し同胞愛や神の愛を育むべきである。大事なことは、この最も高尚な種を、自分自身の生活習慣レベルで開花させ、出来るところから、定着させて行くことである。これによって、良心の呵責は次第に、治まっていく。この「ひとつなる種」を育てていこう!
この種を育てるには私達の産みの親である神様に、日々祈り、礼拝することが不可欠である。たとえ神の聲が聞こえなくても、心のなかで、祈り、神に対話をすれば、出来事を通して、また、自身の心、よぎる直感などから、神からの返答が必ず返ってくる。これが、神との対話の初期段階である。神との関係性無くして、最も高尚な種は、育っていかない。もしも、ある無神論者のなかで、最も高尚な種が育っているならば、それは、無神論者には、なんらかの信仰があるはずである。もしも、無神論者が音楽家であるならば、音の命や、グルーヴやバイブス、歌、歌声、歌詞、言葉、言葉の力や命、創造力などを信仰しており、神の総合力のなかの音楽性やその創造力を信仰し、その栄光を讚美しているのだから、結局は、神と全身全霊で対話しているのであって、神に帰依しているのである。神はそれだけの愛を有している。無神論者は、思春期の生命段階を辿っている。思春期で、ありとあらゆる全世界に反抗していたとしても、愛のかたまりである親である神は、我が子が、可愛くて可愛くて、可愛くて、仕方が無いのである。また反抗の本質にあるものは、自己確立、自己の独創性を確立していく際に、必要な、自他との境界線を創造していこうとする営みである。この無神論者は、本人は気付いてはいないが、音楽を通じて、ひたすら親孝行をしているのである。
私達の命は、全て、どこまでいっても、なにをしていても、神の栄光を讃えている。
このように世界は完全に円満である。一見すると、目に見える次元において、乖離しており、不完全なように見えて、感じたとしても、いわば、目に見えない次元においては、このように赤い糸で、全ての存在は、繋がり合い、関わり合っている。悪業すら、豊かなコントラストの一翼である。世界は、ひとつの体や心のよう。
たとえば悪いことを言ったり、行ったりすれば、それは、自分自身に対しても、行っていることでもあるから、いずれ傷つく。時に、何故か落ち込んだり、鬱になったり、ダルくなったりするのは、それは、いつか誰かに、行ってしまった業が1周回って還ってきているからであろう。それによって、結局、償われてもいる。感覚としては、苦いが、魂は救済されている(良薬口に苦し)。行いとは、心のなかで行ったことすら、行いなのである。心業。心のなかで、誰かを傷付け犯したのであれば、いずれ、それと同じ分量の苦しみや痛みが自分自身に、還ってくる。逆に云えば、誰かの助けになったり、誰かによろこびを与えれば、それが自分自身に返ってきて、自分自身の運命を良くしてくれたり、加護してくれる。世界は、結局のところ、はじめから、正式に、結婚しているように、私は、感じる。無関係なものは、ひとつとして存在していない。マンダラは「円輪」や「丸い」のサンスクリットの語源からしてみても、それを、霊的な球体として、そのホロニックな関係性、連帯性や繋がりを表現している一つであろう。平面で何事も捉えないように。円や立体で捉えると全貌が明らかになってくる。このような個人のエネルギーと世界全体のエネルギーが密接に関わり合いながら、しかも、神様の愛の御計らいによって、よりよくなっていく方向で絶えず回転していき、私達の現実や現実に起こる出来事が弾き出されている。
※続く




