第2章1ー20
男は静かに民宿の褥に寝っ転がった。月光のふくよかな手が、男の頭や腹部から上を撫でている。石英や黒雲母が斑に交ざり合い結晶化した花崗岩の天井には、何か字が彫られている。おそらく、このアメオという宿に泊まっていた、血気盛んな若気の恩知らず達が掘ったものであろう。このように書いてある。
『おまえの真っ赤に燃えた乳房は、オレだけのもの!オレの勃起したペニスとザーメンは、おまえだけのもの!』
ゆっくりゆっくり歩いていければ良い。もちろん、ゆっくりとは、自分だけのペースとアイデンティティーで、という意味である。結局、大事な答えを出すときは、即決で決まるもの。ファーストインパクトで充分である。あとにも先にも無い、一度きり。悩んだ末に出てきたものは、やはり、大した力を持っていないし、現実に働いてくる力も少ないものだ。悩むようなものは、わたしは選ばない。しかも選ばれなかったものは、捨てているのではない…、可能性に満ち溢れている「他」に明け渡しているだけである。男は、世界で一人だけ、女であると感じる。それから、やがて、女と女以上の存在になっていく。部屋に生けてある可憐な花を見つめる。紫色であった。この花の名前はなんなのであろうか?わたしには、知識がまるで無い。うん…?名前がついているとしても、人間の都合でついているだけではないだろうか。その花の名前は、集団の花の名前であって(薔薇であれば、薔薇)、その一輪の花そのものを見事に顕している名前ではない。雑だ。わたしは、自分の本当の名前を知りたい。ルタンだなんて、わたしの魂の一部に過ぎない名前であろう。何故だろう?切迫している緊張感がなかなか解けない。わたしはここにきて、戦い疲れている。しかも戦いを終えているのに、わたしが殺した人々の命の剣が、わたしの胸を突き刺してくる。これが、フェルマエの英雄の末路なのか。誰かを不幸にして得た、富や名声、仕事など、クソくらえである。死ぬときは、そんな富や名声など、この地上で全て置いていくし、むしろ、このままでは、不幸だけをたずさえて、あの世に行きかねない。
だが…、わたしは、今日、本当の光と出逢えた。この場合の「本当」とは、今までの人生で最も印象深い、という意味だ。
まことに、奇妙な光だ。
その光は、多くの人々を殺してきたわたしの罪や穢れを全て、その光の津波によって、洗い落としてくれたのであった。が、しかし、、痛みだけが、残っている。猛烈だ。わたしが戦場で得た、唯一の恵みとは、この悲しみや猛烈な痛み、罪悪感だけ、なのかも知れない。光は、痛みや悲しみ、罪悪感の猛烈は、光の仲間であり、光であることをわたしに教えてくれた。
わたしは、明日も光に会いにいく。人生で、こんなにも、胸が弾んだことはない。部下達には、申し訳ないが、もう少し、わたしは、このワラコで過ごすことにする。それにしても、分からないものだ…、この天井のはしたない文字でさえも、涙が出るほど、カワイク想えてしまう。
※続く




