第2章1ー18
「戦いの肯定的な部分はあるのでしょうか?フェルマエの四天王という立場上、死活問題になりかねませんが、正直なところ、わたしは、アミさんやこのワラコの人々とは、一切戦いたくありません」
ハマエもアミの隣で、静かな快心と共に、頷いている。会話というものの中にも、川の摂理やそれから想起しうる、錬金術やアルカナ(パラケルススが説いていたような)というものが、流れているのがよく分かる。砂利や石を転がし、時には岩をも穿ち、魚達やプランクトンなどの有機体を自由に遊ばせ、育みながら、下へ下へ降っていき、やがて、大海と出逢う。その大海に生息する暗澹や、忽ち溢れていく秘密から、いつか、見知らぬ離島や大陸に、辿り着くのである。また、その辿り着いた未開拓地での調査や研究、発掘、発見、それから生じる心情の妙や散文的な告白というものは、わたしたちに、超越なる我(超意識、神我、ハイアーセルフ、仏性、キリスト意識、直霊、ニルヴァーナ、涅槃、内なる神、アガペーラブなどなど、わたしとしては呼び方に、こだわりはない。こだわる部分は、そこではないと、強く感じるからだ)を喚起させ、この地と至上天を結ぶ、無数の逆立ちする滝のような七彩の泉を、創造していく。これが磁石のような使命を遂行し、やがて地獄の底と至上天が結婚を果たすであろう。あゝ、震えて、待つのではなく、震えながら、行って仕舞え!
「戦いによって、人は、戦いから悲しみや苦しみ、失意、絶望、混乱、非効率、喧騒、耐えきれない痛み、疼痛、憂鬱、辛酸、緊張、麻痺、などを学びます。いずれも命の重みや、愛や和の高貴さ、品格、尊さを、倒懸なまでに深く学ぶための体験学習です。また、戦いというものは、友愛や同胞愛が否定的に顕れ出たときに、戦いという段階になってしまいます。戦いをすることによって、自分や相手の存在をシリアスに深く学び合い、実際に、命を懸けて接近し、接触します。それから、どちらかが死に、どちらかが生きます。真剣とはそういうことです。その後、勝敗という概念や実体によって、二元的になってしまいますが、霊的には両成敗であります。どちらも、神が人類に求めている誠意を事実上、軽んじて、見捨てているからです(しかしながら、甚大な恵みを授けて下さる神は、来世において、その業や罪でさえも、良きに転じて下さる)。ですから、好戦的な態度を示された場合は、寛容になり、相手方のそうならざるを得ない背景や事情を感じて、察し、ましてや、自分が過去や過去世に撒いた種であることを理解し、今度は、自他共に、よりよくしていけるように、仕向けていくのです。もしも殴られてしまったら、ああ、不器用だけれど、わたしと仲良くなりたいんだ、と、見なして、想いやり、その相手方や自分が、本当の本当に良くなっていかれるように、真心の祈りを捧げて下さい。また、無関心こそが、恐ろしい存在であることを知ることでしょう。これは、一見すると、不運に見舞われてしまったような出来事や体験でさえも、同様です。忍耐強く、捉えていって下さい。人生とは、このような連続です」
戦いは、やはり、戦いでしかない部分と、神による甚大で計り知れないお計らいによって、戦いでさえ、良きに転じる祝福を授かるが、だからと言って、毒を自ら好んで食べたり(あなたが人類の毒を吸い取ってくれる、孔雀や孔雀明王であるならば、賛成だが)、毒を撒き散らしたり、してはならないのと同じように、せめて、胸が張り裂けそうな怒りや憎しみが湧く程度であるならば、出来るかぎり、現実世界に、戦いを用いないこと、行使しないこと、そこに、行ってはならないことを、ルタンは思い知らされた(行かされるような運命があるならば、アッシジのフランチェスコのように、戦場から、何もせず、逃げ帰ってくる運命にしてしまいなさい)。「本当」の光に接し、触れれば、至らない自身から紡ぎ出される、懺悔や反省、胸苦しい「浄化」が起きるが、こんなにも心地よく、安心し、清らかなものなのかと、ルタンは、改めて、驚嘆した。しかしながら、やはり、苦しいものは苦しい…。二度とこんな体験するものか!
※続く




