第9話「助けたからって、惚れる必要はないだろ」
結局、野宿だった。
街道脇の岩陰に背を預けて、交代で見張りをする——と言っても、メルが「先に寝ていいよ」と言った瞬間に意識が落ちたので、交代もなにもない。
目を開けたら空が白んでいた。
隣で膝を抱えたメルが、こちらを見ていた。
「……起きた」
「悪い。交代、」
「いい。どうせ寝れなかった」
短い沈黙。メルは水筒の蓋を開けて一口飲み、それからツカサの方へ差し出した。
「残り少ないけど」
「……もらう」
ぬるい水が喉を通った。二口だけ飲んで返す。
立ち上がると、右足の踵が声を上げた。豆は潰れたまま、一晩で治るはずもない。歩くたびに小さな針を踏むような痛みが走る。
空腹は、もう慣れた。最後にまともなものを食べたのがいつか数えるのをやめたら、少し楽になった。
嘘だ。全然楽になっていない。
「……行くぞ」
「うん」
メルは二歩後ろにつく。昨日から変わらない距離。近づきもしないし、離れもしない。
街道を南西へ。朝霧が足元を這っている。
*
宿場町が見えたのは、日が昇りきる少し前だった。
街道の先に低い石壁と木造の門が現れて、その向こうに煙突の煙がいくつも立ち上っている。荷馬車が二台、門の前で順番待ちをしていた。
ツカサは足を止めた。
「あれか」
「……うん。たぶん。ここまで来れば、商隊がいるはず」
メルの声が少し変わった。こわばりが解けたのではなく、別の種類の緊張に入れ替わった音だった。
門をくぐる。
宿場町は、朝の仕事が始まったばかりだった。石畳の道に沿って宿屋と酒場が並び、道の中央に木造の荷降ろし台が据えてある。馬の鼻息と革紐を叩く音が交差する。干し肉の匂いがどこかから漂ってきて、ツカサの胃が小さく鳴った。
無視する。
「商隊の名前とか、特徴は」
「荷馬車が三台。幌に赤い三日月の紋がついてる。女将さんが——ええと、大きい人。すごく」
「大きい人」
「うん。腕が、こう、バンって」
メルが両手を広げて何かの太さを示した。わかるようなわからないような情報だった。
「あと、頭にバンダナ巻いてる」
それは探せる。
ツカサは宿場町の通りを歩き始めた。右足を引きずらないように意識するが、数歩ごとに踵が文句を言う。
荷馬車の列を一台ずつ確認する。幌の紋章を見る。青い円。鍵十字。鷲。赤い三日月はない。
通りの奥、宿屋の裏手に回ったところで、荷降ろし中の馬車が三台並んでいた。
幌に——赤い三日月。
「あった」
振り返ると、メルの顔色が変わっていた。安堵なのか、気まずさなのか、あるいはその両方か。唇を引き結んで、荷馬車を見つめている。
荷馬車の脇で帳簿を広げている女が一人いた。
大きい人だった。
確かに大きい。恰幅が良く、日に焼けた腕が半袖からはみ出している。頭にバンダナ。腰に革の帳簿袋。帳簿に何かを書き込みながら、荷降ろしをしている若い男二人に矢継ぎ早に指示を飛ばしている。
「——三番の箱、上下逆! 逆だって言ってんだろ! 卵が入ってんのよ!」
声もでかい。
ツカサはメルの方を見た。メルは一歩を踏み出しかけて、止まっていた。
「……行けよ」
「……うん」
メルが歩き出す。ツカサの横を通り過ぎるとき、一瞬だけ目が合った。何か言いたそうな顔だったが、言葉にはならなかった。
メルが荷馬車へ駆けていく。
「女将さん!」
女将が振り返った。帳簿を閉じる動作が止まる。
「——メル?」
「……すみません。寝過ごして、はぐれて——」
「この馬鹿!」
帳簿が地面に叩きつけられた。
女将が二歩でメルとの距離を詰め、その逞しい腕でメルの頭をわしっと掴んだ。
「二日だぞ二日! お前が起きてこないから出発遅らせて探したのに見つからなくて、泣く泣く先に発ったんだ! 何してた!」
「ごめんなさい、あの、途中で盗賊に——」
「盗賊!?」
女将の目が剥かれた。メルの全身を上から下まで素早く見る。怪我がないことを確認するまで三秒。確認が終わった瞬間、また頭を掴んだ。
「怪我はないんだな!? ないんだな!?」
「ない、ない! 痛い、女将さん頭——」
「怪我がないなら叱る! 寝過ごすな! 一人で歩くな! このどアホ!」
叱責と安堵が交互に来る。メルは頭を掴まれたまま、目の端に光るものを浮かべていた。
ツカサはそれを少し離れた場所から見ていた。
——ああ。
これが、帰る場所がある人間の顔か。
女将がようやくメルの頭を解放し、深い息をついた。それから、メルの後ろに立っているツカサに気づいた。
「……あんた、誰だい」
「通りすがりです。街道でこの子が盗賊に絡まれてたんで、追い払っただけで」
「追い払った」
女将の目がツカサを値踏みする。上から下まで。煤の染みが残る制服のシャツ。腰に括りつけた、端のほつれた張りぼてのハリセン。泥のついたローファー。旅装もなく、荷物もなく、金もなさそうな——どう見ても、頼りない少年。
「あんた一人で?」
「はい」
「四人を?」
メルが言ったらしい。ツカサは「二人倒して二人逃げただけです」と訂正した。
女将は腕を組んだ。太い腕だった。ツカサの太腿くらいありそうな。
「……礼を言うよ。あの子はうちの大事な荷番だ。いなくなった時は肝が冷えた」
「いえ。たまたまです」
「たまたまでも、助けたのはあんただ」
女将は帳簿を拾い上げ、ツカサを真っ直ぐに見た。
「飯くらい食ってきな。うちの朝飯だけど」
断る理由がなかった。
正確に言えば、断る余裕がなかった。空腹は昨日の昼からずっと続いている。胃が返事をする前に、ツカサは「……いただきます」と頭を下げていた。
*
商隊の朝食は、硬いパンと干し肉のスープだった。
質素だが、今のツカサには王宮の宴会料理より百倍ありがたい。パンを千切ってスープに浸し、柔らかくなったところを噛む。口の中に味が広がった瞬間、視界が一瞬揺らぐほどの安堵が来た。
荷馬車の脇に座って食べていると、女将が隣に腰を下ろした。
「旅の途中かい」
「……まあ、そんなところです」
「行くあてはあるのかい」
「ありません」
嘘をつく体力もなかった。
女将は「ふん」と鼻を鳴らした。嘲りではない。事実を受け止めた音だった。
「メルの話じゃ、あんた、助けた後に何も求めなかったって」
「求めるものがなかったんで」
「普通はあるよ。金か、同行か、少なくとも恩義の一つは売りつける」
「売りつけてどうするんですか」
女将が少し黙った。
「……変わった子だね、あんた」
二度目だった。変な人と言われたのが昨日で、変わった子と言われたのが今日。そろそろ定着しそうだ。
女将はスープの鍋を木杓子でかき混ぜながら、声を落とした。
「あの子、両親がいないんだ。三年前に流行病でね。親戚に預けられたけど、居場所がなくなって、うちの商隊に拾った」
ツカサはスープを飲む手を止めた。
「荷番の仕事は地味だけど、あの子は真面目にやるよ。寝過ごすのは昔からの悪い癖だけどね」
女将はツカサを横目で見た。
「あの子を連れていかないのかい」
「連れていきません」
即答だった。
「あの子には仕事がある。居場所がある。俺が引っ張り出す理由がない」
女将の目がわずかに見開かれた。それから、口の端がゆっくりと持ち上がった。笑みというには硬い。だが、悪い顔ではなかった。
「……そうかい」
それだけ言って、女将は立ち上がった。
「出発は昼過ぎだ。メルには荷番に戻ってもらう。——あんた、水筒くらいは持ってるかい」
「ないです」
「はあ?」
女将の声が裏返った。
「金は」
「ないです」
「地図は」
「ないです」
「……あんた本当に旅人? ただの遭難者じゃないの?」
否定しづらかった。
女将は天を仰ぎ、長い息を吐き、荷馬車の後部に手を突っ込んで、古いが丈夫そうな革の水筒と、干し肉の包みを引っ張り出した。
「持ってきな。商品じゃない、余り物だ。礼のつもりで受け取っときな」
「……すみません」
「メルを助けてもらったぶんの天秤だよ。これで貸し借りなしだ」
商人の理屈だった。きれいな理屈だった。
ツカサは水筒と干し肉を受け取った。
*
荷馬車の荷台で、メルが荷物を積み直していた。
手慣れた動きだった。木箱の隙間に布を詰め、革紐を締め、重さのバランスを手で確認する。荷番見習いの手つき。昨日までの怯えた少女ではなく、自分の仕事場に戻った人間の動き。
ツカサは荷馬車の横に立った。
「じゃあ、行く」
メルの手が止まった。
振り返る。ツカサを見る。何かを探すような目だった。
「……本当にそれだけ?」
「それだけだ」
「何かお礼とか——私、お金はないけど、でも、一緒に……」
言いかけて、メル自身がその先を飲み込んだ。
一緒に来ないの、と言おうとして、やめた。
補正はもうない。【ここで助けたら即依存・好感度MAX】は昨日叩き壊した。メルの中に残っているのは、普通の感謝と、普通の後ろめたさと、「もう少し何かした方がいいんじゃないか」という普通の義理堅さだけだ。
惚れてもいないし、依存してもいない。
それでいい。
それが正しい。
「お前には自分の仕事がある」
ツカサはメルを見た。荷台の上にしゃがんだ栗色の髪の少女。日焼けした手に厚手の手袋。背嚢の中身は荷番の道具。——全部、この子自身のものだ。
「女将さんが待ってる。荷物も積み直さなきゃいけないんだろ。俺に付き合う暇なんかないはずだ」
メルは唇を引き結んだ。
数秒の沈黙。
それから、小さく息を吐いた。
「……うん」
目を伏せて、また上げた。伏せる前と上げた後で、少しだけ目の色が違った。
「ありがとう。元気で」
「ああ。お前も寝過ごすなよ」
「……それは努力する」
メルは荷台に向き直った。木箱の革紐に手を伸ばし、締め直す。その背中は、もうツカサの方を向いていなかった。
——いい。
昨日の夕方、林の中の空き地にいた少女は、【奴隷落ちヒロイン遭遇イベント】の被害予定者だった。台本どおりなら、今ごろ彼女は"助けてくれた恩人"に縋りついて、異世界冒険のパーティメンバーとしてツカサの後ろを歩いているはずだった。
そうはならなかった。
補正を叩き壊したから。
メルは奴隷にならなかった。ヒロインにもならなかった。ただの——商隊の荷番見習いに戻った。
それだけのことだ。
ツカサは踵を返した。
*
宿場町の通りを歩く。
一人になると、足音が一つしかないことに気づく。昨日の夕方からずっと二人分だった足音が、また一人に戻った。
それでいいのだ。
ツカサは歩きながら、ここ数日のことを整理した。
辺境村エルデン。炎で生活を焼かれた人々。死者は出なかったが、人生は壊された。
魔族の斥候。舐めプ補正を剥がされて、初めて自分の判断で撤退した指揮官。
城下町。ラッキースケベ補正を叩き壊して、何も起きなかった午後。
追放。
そして昨日の——メル。
全部、同じことだった。
ラベルがある。台本がある。その台本どおりに世界が動く。誰かが踏み台になって、誰かが美味しい思いをして、踏み台にされた側は「そういうものだ」と飲み込まされる。
俺がやったのは、その台本を叩き壊しただけだ。
壊した後に何が残るか。
——普通の現実だ。
盗賊はただのチンピラに戻る。少女は怯えた被害者のまま、自分の足で立ち直る。助けた相手が惚れる必要はないし、付いてくる必要もない。
台本が消えた後に残る「普通」。それを、そのまま返す。
仲間を増やすためにハリセンを振ってるんじゃない。
台本に書き込まれかけた人を、その人自身の現実に戻す。
——矯正、というやつか。
言葉にすると大仰だが、やっていることは単純だった。見えたラベルを殴る。壊す。壊れた後の世界を、そのまま置いておく。
それだけ。
ツカサは立ち止まった。
宿場町の門に近い場所に、木の掲示板があった。荷馬車の乗合募集や、周辺の魔物注意報、街道の通行止め情報が雑多に貼り出されている。
その中の一枚に、目が止まった。
黄ばんだ羊皮紙に、読みにくい筆跡で書かれた——噂話。掲示板の端に、誰かが非公式に押しピンで留めたものらしい。
——**領都ラングフォート。学園卒業式。数日後。**
——**貴族令嬢が「不義の罪」で公開断罪される。**
——**卒業式の場で、婚約者から直々に破棄を宣告されるらしい。**
——**冤罪じゃないかって声もあるが、証拠があるとかないとか。**
ツカサの指先が、掲示板の端を掴んだまま止まった。
公開断罪。
婚約破棄。
冤罪。
卒業式を利用した——見せ物。
ラベルは見えない。ここからじゃ遠すぎるのか、まだ発動前なのか。
だが——匂う。
嫌というほど嗅ぎ慣れた、あの匂いだ。
辺境村で嗅いだ。城下町で嗅いだ。昨日の林の中でも嗅いだ。誰かの人生を踏み台にして、誰かの気持ちよさを演出するための——台本の匂い。
「……またか」
声は、自分でも思ったより静かだった。
怒りではない。呆れでもない。
ただ、知っている。
この手の茶番を放置すると、誰かの声が消される。誰かの人生が、観客の拍手のための燃料にされる。
辺境村で見た。追放の場で見た。昨日の林の中で見た。
同じ構造だ。
ツカサは掲示板から手を離した。
領都ラングフォートへ向かう街道は、この宿場町の南東に伸びているはずだ。たぶん。地図がないからわからないが、掲示板に貼ってある街道案内図に矢印がある。
右足の踵が痛む。
水筒と干し肉はある。
金はない。地図はない。仲間もいない。
あるのは、ハリセンと、次に見えたラベルを殴るという覚悟だけだ。
——テンプレが来るなら、殴る。
何度目かの結論だった。
ツカサは南東の街道へ足を向けた。
朝の光が、宿場町の石畳に長い影を落としている。




