表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/33

第9話「助けたからって、惚れる必要はないだろ」

 結局、野宿だった。


 街道脇の岩陰に背を預けて、交代で見張りをする——と言っても、メルが「先に寝ていいよ」と言った瞬間に意識が落ちたので、交代もなにもない。


 目を開けたら空が白んでいた。


 隣で膝を抱えたメルが、こちらを見ていた。


「……起きた」


「悪い。交代、」


「いい。どうせ寝れなかった」


 短い沈黙。メルは水筒の蓋を開けて一口飲み、それからツカサの方へ差し出した。


「残り少ないけど」


「……もらう」


 ぬるい水が喉を通った。二口だけ飲んで返す。


 立ち上がると、右足の踵が声を上げた。豆は潰れたまま、一晩で治るはずもない。歩くたびに小さな針を踏むような痛みが走る。


 空腹は、もう慣れた。最後にまともなものを食べたのがいつか数えるのをやめたら、少し楽になった。


 嘘だ。全然楽になっていない。


「……行くぞ」


「うん」


 メルは二歩後ろにつく。昨日から変わらない距離。近づきもしないし、離れもしない。


 街道を南西へ。朝霧が足元を這っている。


  *


 宿場町が見えたのは、日が昇りきる少し前だった。


 街道の先に低い石壁と木造の門が現れて、その向こうに煙突の煙がいくつも立ち上っている。荷馬車が二台、門の前で順番待ちをしていた。


 ツカサは足を止めた。


「あれか」


「……うん。たぶん。ここまで来れば、商隊がいるはず」


 メルの声が少し変わった。こわばりが解けたのではなく、別の種類の緊張に入れ替わった音だった。


 門をくぐる。


 宿場町は、朝の仕事が始まったばかりだった。石畳の道に沿って宿屋と酒場が並び、道の中央に木造の荷降ろし台が据えてある。馬の鼻息と革紐を叩く音が交差する。干し肉の匂いがどこかから漂ってきて、ツカサの胃が小さく鳴った。


 無視する。


「商隊の名前とか、特徴は」


「荷馬車が三台。幌に赤い三日月の紋がついてる。女将さんが——ええと、大きい人。すごく」


「大きい人」


「うん。腕が、こう、バンって」


 メルが両手を広げて何かの太さを示した。わかるようなわからないような情報だった。


「あと、頭にバンダナ巻いてる」


 それは探せる。


 ツカサは宿場町の通りを歩き始めた。右足を引きずらないように意識するが、数歩ごとに踵が文句を言う。


 荷馬車の列を一台ずつ確認する。幌の紋章を見る。青い円。鍵十字。鷲。赤い三日月はない。


 通りの奥、宿屋の裏手に回ったところで、荷降ろし中の馬車が三台並んでいた。


 幌に——赤い三日月。


「あった」


 振り返ると、メルの顔色が変わっていた。安堵なのか、気まずさなのか、あるいはその両方か。唇を引き結んで、荷馬車を見つめている。


 荷馬車の脇で帳簿を広げている女が一人いた。


 大きい人だった。


 確かに大きい。恰幅が良く、日に焼けた腕が半袖からはみ出している。頭にバンダナ。腰に革の帳簿袋。帳簿に何かを書き込みながら、荷降ろしをしている若い男二人に矢継ぎ早に指示を飛ばしている。


「——三番の箱、上下逆! 逆だって言ってんだろ! 卵が入ってんのよ!」


 声もでかい。


 ツカサはメルの方を見た。メルは一歩を踏み出しかけて、止まっていた。


「……行けよ」


「……うん」


 メルが歩き出す。ツカサの横を通り過ぎるとき、一瞬だけ目が合った。何か言いたそうな顔だったが、言葉にはならなかった。


 メルが荷馬車へ駆けていく。


「女将さん!」


 女将が振り返った。帳簿を閉じる動作が止まる。


「——メル?」


「……すみません。寝過ごして、はぐれて——」


「この馬鹿!」


 帳簿が地面に叩きつけられた。


 女将が二歩でメルとの距離を詰め、その逞しい腕でメルの頭をわしっと掴んだ。


「二日だぞ二日! お前が起きてこないから出発遅らせて探したのに見つからなくて、泣く泣く先に発ったんだ! 何してた!」


「ごめんなさい、あの、途中で盗賊に——」


「盗賊!?」


 女将の目が剥かれた。メルの全身を上から下まで素早く見る。怪我がないことを確認するまで三秒。確認が終わった瞬間、また頭を掴んだ。


「怪我はないんだな!? ないんだな!?」


「ない、ない! 痛い、女将さん頭——」


「怪我がないなら叱る! 寝過ごすな! 一人で歩くな! このどアホ!」


 叱責と安堵が交互に来る。メルは頭を掴まれたまま、目の端に光るものを浮かべていた。


 ツカサはそれを少し離れた場所から見ていた。


 ——ああ。


 これが、帰る場所がある人間の顔か。


 女将がようやくメルの頭を解放し、深い息をついた。それから、メルの後ろに立っているツカサに気づいた。


「……あんた、誰だい」


「通りすがりです。街道でこの子が盗賊に絡まれてたんで、追い払っただけで」


「追い払った」


 女将の目がツカサを値踏みする。上から下まで。煤の染みが残る制服のシャツ。腰に括りつけた、端のほつれた張りぼてのハリセン。泥のついたローファー。旅装もなく、荷物もなく、金もなさそうな——どう見ても、頼りない少年。


「あんた一人で?」


「はい」


「四人を?」


 メルが言ったらしい。ツカサは「二人倒して二人逃げただけです」と訂正した。


 女将は腕を組んだ。太い腕だった。ツカサの太腿くらいありそうな。


「……礼を言うよ。あの子はうちの大事な荷番だ。いなくなった時は肝が冷えた」


「いえ。たまたまです」


「たまたまでも、助けたのはあんただ」


 女将は帳簿を拾い上げ、ツカサを真っ直ぐに見た。


「飯くらい食ってきな。うちの朝飯だけど」


 断る理由がなかった。


 正確に言えば、断る余裕がなかった。空腹は昨日の昼からずっと続いている。胃が返事をする前に、ツカサは「……いただきます」と頭を下げていた。


  *


 商隊の朝食は、硬いパンと干し肉のスープだった。


 質素だが、今のツカサには王宮の宴会料理より百倍ありがたい。パンを千切ってスープに浸し、柔らかくなったところを噛む。口の中に味が広がった瞬間、視界が一瞬揺らぐほどの安堵が来た。


 荷馬車の脇に座って食べていると、女将が隣に腰を下ろした。


「旅の途中かい」


「……まあ、そんなところです」


「行くあてはあるのかい」


「ありません」


 嘘をつく体力もなかった。


 女将は「ふん」と鼻を鳴らした。嘲りではない。事実を受け止めた音だった。


「メルの話じゃ、あんた、助けた後に何も求めなかったって」


「求めるものがなかったんで」


「普通はあるよ。金か、同行か、少なくとも恩義の一つは売りつける」


「売りつけてどうするんですか」


 女将が少し黙った。


「……変わった子だね、あんた」


 二度目だった。変な人と言われたのが昨日で、変わった子と言われたのが今日。そろそろ定着しそうだ。


 女将はスープの鍋を木杓子でかき混ぜながら、声を落とした。


「あの子、両親がいないんだ。三年前に流行病でね。親戚に預けられたけど、居場所がなくなって、うちの商隊に拾った」


 ツカサはスープを飲む手を止めた。


「荷番の仕事は地味だけど、あの子は真面目にやるよ。寝過ごすのは昔からの悪い癖だけどね」


 女将はツカサを横目で見た。


「あの子を連れていかないのかい」


「連れていきません」


 即答だった。


「あの子には仕事がある。居場所がある。俺が引っ張り出す理由がない」


 女将の目がわずかに見開かれた。それから、口の端がゆっくりと持ち上がった。笑みというには硬い。だが、悪い顔ではなかった。


「……そうかい」


 それだけ言って、女将は立ち上がった。


「出発は昼過ぎだ。メルには荷番に戻ってもらう。——あんた、水筒くらいは持ってるかい」


「ないです」


「はあ?」


 女将の声が裏返った。


「金は」


「ないです」


「地図は」


「ないです」


「……あんた本当に旅人? ただの遭難者じゃないの?」


 否定しづらかった。


 女将は天を仰ぎ、長い息を吐き、荷馬車の後部に手を突っ込んで、古いが丈夫そうな革の水筒と、干し肉の包みを引っ張り出した。


「持ってきな。商品じゃない、余り物だ。礼のつもりで受け取っときな」


「……すみません」


「メルを助けてもらったぶんの天秤だよ。これで貸し借りなしだ」


 商人の理屈だった。きれいな理屈だった。


 ツカサは水筒と干し肉を受け取った。


  *


 荷馬車の荷台で、メルが荷物を積み直していた。


 手慣れた動きだった。木箱の隙間に布を詰め、革紐を締め、重さのバランスを手で確認する。荷番見習いの手つき。昨日までの怯えた少女ではなく、自分の仕事場に戻った人間の動き。


 ツカサは荷馬車の横に立った。


「じゃあ、行く」


 メルの手が止まった。


 振り返る。ツカサを見る。何かを探すような目だった。


「……本当にそれだけ?」


「それだけだ」


「何かお礼とか——私、お金はないけど、でも、一緒に……」


 言いかけて、メル自身がその先を飲み込んだ。


 一緒に来ないの、と言おうとして、やめた。


 補正はもうない。【ここで助けたら即依存・好感度MAX】は昨日叩き壊した。メルの中に残っているのは、普通の感謝と、普通の後ろめたさと、「もう少し何かした方がいいんじゃないか」という普通の義理堅さだけだ。


 惚れてもいないし、依存してもいない。


 それでいい。


 それが正しい。


「お前には自分の仕事がある」


 ツカサはメルを見た。荷台の上にしゃがんだ栗色の髪の少女。日焼けした手に厚手の手袋。背嚢の中身は荷番の道具。——全部、この子自身のものだ。


「女将さんが待ってる。荷物も積み直さなきゃいけないんだろ。俺に付き合う暇なんかないはずだ」


 メルは唇を引き結んだ。


 数秒の沈黙。


 それから、小さく息を吐いた。


「……うん」


 目を伏せて、また上げた。伏せる前と上げた後で、少しだけ目の色が違った。


「ありがとう。元気で」


「ああ。お前も寝過ごすなよ」


「……それは努力する」


 メルは荷台に向き直った。木箱の革紐に手を伸ばし、締め直す。その背中は、もうツカサの方を向いていなかった。


 ——いい。


 昨日の夕方、林の中の空き地にいた少女は、【奴隷落ちヒロイン遭遇イベント】の被害予定者だった。台本どおりなら、今ごろ彼女は"助けてくれた恩人"に縋りついて、異世界冒険のパーティメンバーとしてツカサの後ろを歩いているはずだった。


 そうはならなかった。


 補正を叩き壊したから。


 メルは奴隷にならなかった。ヒロインにもならなかった。ただの——商隊の荷番見習いに戻った。


 それだけのことだ。


 ツカサは踵を返した。


  *


 宿場町の通りを歩く。


 一人になると、足音が一つしかないことに気づく。昨日の夕方からずっと二人分だった足音が、また一人に戻った。


 それでいいのだ。


 ツカサは歩きながら、ここ数日のことを整理した。


 辺境村エルデン。炎で生活を焼かれた人々。死者は出なかったが、人生は壊された。


 魔族の斥候。舐めプ補正を剥がされて、初めて自分の判断で撤退した指揮官。


 城下町。ラッキースケベ補正を叩き壊して、何も起きなかった午後。


 追放。


 そして昨日の——メル。


 全部、同じことだった。


 ラベルがある。台本がある。その台本どおりに世界が動く。誰かが踏み台になって、誰かが美味しい思いをして、踏み台にされた側は「そういうものだ」と飲み込まされる。


 俺がやったのは、その台本を叩き壊しただけだ。


 壊した後に何が残るか。


 ——普通の現実だ。


 盗賊はただのチンピラに戻る。少女は怯えた被害者のまま、自分の足で立ち直る。助けた相手が惚れる必要はないし、付いてくる必要もない。


 台本が消えた後に残る「普通」。それを、そのまま返す。


 仲間を増やすためにハリセンを振ってるんじゃない。


 台本に書き込まれかけた人を、その人自身の現実に戻す。


 ——矯正、というやつか。


 言葉にすると大仰だが、やっていることは単純だった。見えたラベルを殴る。壊す。壊れた後の世界を、そのまま置いておく。


 それだけ。


 ツカサは立ち止まった。


 宿場町の門に近い場所に、木の掲示板があった。荷馬車の乗合募集や、周辺の魔物注意報、街道の通行止め情報が雑多に貼り出されている。


 その中の一枚に、目が止まった。


 黄ばんだ羊皮紙に、読みにくい筆跡で書かれた——噂話。掲示板の端に、誰かが非公式に押しピンで留めたものらしい。


 ——**領都ラングフォート。学園卒業式。数日後。**


 ——**貴族令嬢が「不義の罪」で公開断罪される。**


 ——**卒業式の場で、婚約者から直々に破棄を宣告されるらしい。**


 ——**冤罪じゃないかって声もあるが、証拠があるとかないとか。**


 ツカサの指先が、掲示板の端を掴んだまま止まった。


 公開断罪。


 婚約破棄。


 冤罪。


 卒業式を利用した——見せ物。


 ラベルは見えない。ここからじゃ遠すぎるのか、まだ発動前なのか。


 だが——匂う。


 嫌というほど嗅ぎ慣れた、あの匂いだ。


 辺境村で嗅いだ。城下町で嗅いだ。昨日の林の中でも嗅いだ。誰かの人生を踏み台にして、誰かの気持ちよさを演出するための——台本の匂い。


「……またか」


 声は、自分でも思ったより静かだった。


 怒りではない。呆れでもない。


 ただ、知っている。


 この手の茶番を放置すると、誰かの声が消される。誰かの人生が、観客の拍手のための燃料にされる。


 辺境村で見た。追放の場で見た。昨日の林の中で見た。


 同じ構造だ。


 ツカサは掲示板から手を離した。


 領都ラングフォートへ向かう街道は、この宿場町の南東に伸びているはずだ。たぶん。地図がないからわからないが、掲示板に貼ってある街道案内図に矢印がある。


 右足の踵が痛む。


 水筒と干し肉はある。


 金はない。地図はない。仲間もいない。


 あるのは、ハリセンと、次に見えたラベルを殴るという覚悟だけだ。


 ——テンプレが来るなら、殴る。


 何度目かの結論だった。


 ツカサは南東の街道へ足を向けた。


 朝の光が、宿場町の石畳に長い影を落としている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ