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第8話「追放されたので、やっと自由に殴れるようになった」

 街道は思ったより広かった。


 馬車がすれ違える幅の砂利道が、低い丘陵の間をうねりながら南西へ伸びている。午後の日差しが斜めに差し込んで、道の片側だけが白っぽく光っていた。


 王都の城門をくぐってから、たぶん二時間くらいは歩いた。


 右足の踵が、靴の中でじくじくと訴えている。昨日潰れた豆が、歩くたびに靴の裏地と擦れて、鈍い痛みを断続的に送ってくる。ローファーは舗装された校内を歩くための靴であって、砂利と土の街道を延々歩くようには作られていない。当たり前の話だ。


 それでも、足は止まらなかった。


 止まったら考えてしまう。立ち止まったら、あの広間の空気がまた喉の奥に戻ってくる。


 ——俺の物語を濁す脇役はいらない。


 レオの声。面倒くさそうで、どこか芝居がかっていて、本気で自分が正しいと信じている声。


 あの声を思い出すたびに、腹の底が熱くなる。


 怒りだ。


 でも、不思議なことに、足取りは軽い。


 鎖が外れた感覚。それは門を出た瞬間から変わらずここにある。パーティの一員でいなければならないという義務。場の空気を読めという圧力。勇者様の前では身の程を知れという無数の見えない首輪。全部、あの門の内側に落としてきた。


 腰のハリセンが、歩くたびに太腿を叩く。


 布とベルトで括りつけただけの即席の固定だから、揺れるたびにずれて、そのたびに手で位置を直す。格好悪い。格好悪いが、これが今の俺の全財産だ。


 紙と竹の張りぼて。


 それと、あの透明なラベルを殴れるという、自分でもまだよく分からない力。


 金はない。この世界の通貨がどんな形をしているかすら知らない。地図もない。今歩いている街道がどこに繋がっているのかも分からない。王都から南西に向かっているらしいことは、太陽の位置で何となく推測しているだけだ。


 食料もない。水もない。


 最後にまともに食べたのは昨日の昼の宴会場だ。余り物の肉とパンを壁際で齧った。あの時ですら、廷臣たちの視線は「勇者様の宴席に紛れ込んだ部外者」を見る目だった。


 ——まあ、死にはしないだろ。


 根拠はない。ないが、なんとかなるだろうという感覚だけはある。


 パーティにいた時より、よっぽど気が楽だ。


 道の右手に、深い緑の森が広がっている。左手は緩やかな丘陵で、遠くに麦畑らしい黄色い帯が見える。街道にはツカサ以外に人影がなかった。たまに馬車の轍が砂利に刻まれているから、往来はあるのだろう。ただ今は誰もいない。


 午後の風が、制服のシャツを通り抜ける。薄い。この世界の夜がどれだけ冷えるのか、まだ知らない。旅装が支給されなかった理由は単純だ。採寸すらされていなかったから。最初から、使い捨ての余り物だった。


 煤の染みが残ったシャツの袖を見下ろす。


 エルデン村の匂いが、まだかすかに残っている気がした。焦げた木と、灰と、泣き声の混じった空気。


 あの村の上空に浮いていた巨大なラベルを、俺は殴れなかった。


 距離があったのか。規模が大きすぎたのか。自分の意志が足りなかったのか。理由は分からない。分からないが、あの時殴れなかった悔しさは、今も腹の底に沈んでいる。


 殴れた補正は二つ。


 【舐めプ補正】。森の中で魔族の指揮官に貼りついていたやつ。至近距離だった。振りかぶって、叩いた。あの瞬間、確かにラベルが砕けて散った。


 【ラッキースケベ補正】。城下町の市場通り。十歩くらい離れていた。横薙ぎに振った。あれも砕けた。


 二つとも、目の前にラベルが見えていて、「こいつを壊す」と明確に意識して、ハリセンを振った。


 それで壊せた。


 理屈は分からない。なぜ俺にだけラベルが見えるのかも分からない。なぜハリセンで叩くと壊れるのかも分からない。


 でも——壊せる。


 壊せば、世界が正常になる。舐めプ補正が消えれば敵は本気を出す。ラッキースケベ補正が消えれば少女は普通に転ぶ。


 お約束が消えれば、世界は現実に戻る。


 その確信だけが、今の俺の全部だ。


 踵が痛む。


 構わず歩く。


 ——止まっている暇はない。


 あの門の向こうに、声を上げられなかった女がいる。


 唇が二度、動いた。音にはならなかった。


 リネットの横顔が、まだ目の裏に焼きついている。


 あいつが自分の声で、自分の言葉を、遠慮なく叫べる場所を——


 その思考を、右手の森から裂くような悲鳴が断ち切った。


  ◆


 足が止まった。


 悲鳴は短かった。女の声だ。若い。


 一回だけ。それきり、切れた。


 街道の右手、木立の奥。距離は——たぶん三十歩くらい。木々の隙間から午後の光が斜めに差し込んでいて、奥の様子はよく見えない。


 踵の痛みを忘れた。


 いや、忘れてはいない。忘れてはいないが、足が勝手に動いていた。街道から外れ、落ち葉と腐葉土を踏みしめて、木立の間を駆ける。ローファーの底が滑る。枝を掴んで体勢を直す。


 二十歩。


 音が聞こえてきた。


 男の声。複数。笑い混じりの、ねっとりした声。


「おいおい、暴れんなよ。怪我したら値が下がるだろ」

「商隊のはぐれか? ラッキーだなぁ。ちょうど人手が足りなかったんだよ」


 聞こえた言葉だけで、状況が分かった。


 木の幹に手をついて、身を低くする。


 あと十歩。


 覗き込んだ。


 小さな空き地だった。木が数本倒れた跡に草が生えて、不揃いな円形の空間ができている。直径は十五歩ほど。


 その中央に、少女がいた。


 栗色の短い髪。日焼けした肌。ツカサと同じくらいか、少し年下に見える。厚手の荷物用手袋を片方だけ嵌めたまま、地面に尻をついて、目の前の男たちを睨み上げている。


 男は四人。


 粗末な革鎧に、鉈や短剣。装備はバラバラで統一感がない。傭兵くずれか、街道荒らしか。大した腕には見えない。


 ——見えない、が。


 ツカサは目を細めた。


 透明なラベルが、浮いている。


 少女の頭上に、大きなラベル。


 【奴隷落ちヒロイン遭遇イベント】


 文字が空中に刻まれて、薄く発光している。ツカサにだけ見えるいつもの光。他の誰にも見えない、世界に貼りついた台本。


 盗賊たちの背中には——


 【イベントNPC:適度に残虐、適度に弱い】


 四人全員の肩口に、同じラベルが揃って浮いている。


 そして。


 ツカサ自身に向かって、空中から一本の導線が伸びていた。光の糸のような細い因果の経路。その先端に、小さなラベル。


 【ここで助けたら即依存・好感度MAX】


 ——は。


 声が漏れた。笑いだった。


 こらえきれなかった。こんなに露骨な台本を見たのは初めてだ。


 村の上空に浮いていた【被害拡大】や【勇者の劇的到着】は、巨大で漠然としていた。レオの背中の【主人公補正】は、脈動する得体の知れないエネルギーの塊だった。


 だがこれは違う。


 配役まで決まっている。盗賊は「適度に残虐で適度に弱い」イベント用の悪役。少女は「ここで主人公に拾われる可哀想なヒロイン」。そして俺は「助けたら好感度MAXをもらえる都合のいい救済者」。


 全部、台本通り。


 シナリオが用意されている。役割が振られている。あとは演じるだけ。


 ——冗談じゃない。


 笑いが消えた。


 あの少女は今、本当に怖い思いをしている。盗賊に囲まれて、逃げ場がなくて、声を上げても誰も来なくて。その恐怖は本物だ。


 なのに、この世界はそれを「イベント」としてセッティングしている。


 少女が怯えることも、盗賊が脅すことも、全部が「勇者に都合のいいヒロインを用意するための前振り」として管理されている。


 エルデン村と同じだ。


 人の痛みが、誰かの見せ場の材料にされている。


 ツカサは腰のハリセンに手を伸ばした。


 布とベルトの結び目を引く。するりと抜ける。


 紙と竹の感触が、掌に馴染む。


 パーティにいた頃は、こうはいかなかった。レオの隣にいる限り、何をしても「勇者の空気を壊すな」という圧力に絡め取られた。正論を言えば嫉妬と処理され、行動すれば出しゃばりと潰された。


 だが今、ここには誰もいない。


 レオもいない。廷臣もいない。「勇者様の前では」という首輪もない。


 ——やっと。


 遠慮なく、振れる。


 ツカサは木の陰から踏み出した。


  ◆


 最初に殴ったのは、空気だった。


 正確に言えば、空中に浮いていたラベルだ。


 少女の頭上に陣取っていた【奴隷落ちヒロイン遭遇イベント】が、一番大きくて、一番邪魔だった。


 木立の間から空き地に出た瞬間、ツカサはハリセンを振りかぶった。


 盗賊たちはまだこちらに気づいていない。少女を囲んで笑っている。台本通りに。


 距離は五歩。


 狙いは少女の頭上の空間。


 振った。


 ハリセンが空を薙いだ。紙と竹が空気を叩く、間の抜けた音。


 ぱぁん。


 ラベルが、砕けた。


 【奴隷落ちヒロイン遭遇イベント】の文字が硝子のように割れて、光の破片になって散った。


 同時だった。


 盗賊たちの背中の【イベントNPC:適度に残虐、適度に弱い】が、ドミノ倒しのように次々と罅割れていく。ツカサ自身に向かって伸びていた【ここで助けたら即依存・好感度MAX】の導線が、途中でぷつりと切れて消えた。


 全部、一撃で。


 ラベルの消滅を認識したのはツカサだけだ。他の誰にも見えない変化。


 だが——空き地の空気は、一瞬で変わった。


「——は?」


 最初に声を上げたのは、少女に一番近い位置にいた盗賊だった。


 鉈を持った痩せた男。さっきまで「おいおい、暴れんなよ」と笑っていたはずの男が、今は——目が泳いでいる。


 何かがおかしいのだ。


 たった今まで、この男たちは完璧な連携で少女を追い詰めていた。一人が退路を塞ぎ、一人が脅し、一人が手を掴もうとし、一人が見張り。テンプレ通りの配置だ。ヒロインを追い詰めるイベント用NPCとして、最適化された動き。


 それが、消えた。


 補正が剥がれた瞬間、四人はただのチンピラに戻った。


 ただのチンピラには、ただのチンピラの問題がある。


 統率がない。指揮系統がない。「次に何をするか」の共通理解がない。


 さっきまでイベント補正が勝手に割り振っていた役割——脅す係、抑える係、退路封鎖係——が消えたことで、四人はそれぞれ別のことを考え始めている。鉈の男は少女を見ている。後ろの二人は互いの顔を見ている。一番奥の男は、そもそも今の状況を把握できていない顔をしている。


 そして。


 四人とも、背後から現れた正体不明の男——ハリセンを持った学生服の少年——の存在に、まだ対応できていない。


 ——今だ。


 ツカサは考える前に動いた。


 一番近い男の背中に、走り込む。三歩。


 ハリセンで殴った。


 後頭部。


 ぱぁん。


 張りぼてのハリセンの打撃力は、大人の平手打ち程度だ。致命傷にはならない。


 だが、完全に無防備な後頭部に、予想もしないタイミングで叩き込まれた一撃は——痛い。普通に痛い。


「ぎゃっ——!?」


 鉈の男が前のめりに倒れた。顔から落ち葉に突っ込む。鉈が手から離れて地面に転がった。


 ツカサはそれを蹴飛ばした。鉈が茂みの中へ消える。


 二人目。


 振り返った男の顔面に、ハリセンの腹を叩きつけた。


 ぱぁん。


 紙の張りぼてだから、切れない。刺さらない。だが音がでかい。顔の前でいきなり破裂音を鳴らされた人間は、反射的に目を閉じる。


 男が目を瞑った隙に、足を引っかけた。


 倒れた。


 泥臭い。格好悪い。だが倒れた。


 三人目は逃げた。


 正確には、逃げようとした。ツカサの方を見て、鉈を持った仲間が倒れているのを見て、「こいつはヤバい」と判断した。判断は正しい。何が起きているのか分からない状況で、正体不明の男が仲間をバタバタ倒しているのだ。逃げるのが一番合理的だ。


 ——補正が消えた後の判断としては、まともだ。


 ツカサは追わなかった。三人目が木立の間に消えていくのを見送る。追いかけて転んだら元も子もない。ローファーで走り回るのは限界がある。


 四人目。


 一番奥にいた男は、最初から動けていなかった。何が起きたのか理解できないまま、仲間が二人倒れ、一人が逃げ、目の前にハリセンを持った少年が立っている。


「な——なんだよお前……っ」


 声が裏返っている。


 短剣を構えているが、切っ先が震えている。


 ツカサは一歩踏み出した。


「逃げるなら今だぞ」


 低い声で言った。


 男の目が、ツカサの顔とハリセンの間を往復した。


 ハリセン。紙と竹の張りぼて。冷静に見れば、脅威でもなんでもない。


 だが、そのハリセンで仲間が二人やられている。


 男は短剣を投げ捨てて走った。三人目と同じ方向へ消えていった。


 空き地に残ったのは、地面に伸びた二人の盗賊と、尻をついたままの少女と、ハリセンを握ったツカサだけだった。


 静かになった。


 午後の風が、木々の間を抜けていく。


 ツカサは息を吐いた。肩で息をしている。走ったのはたかだか十数歩だが、睡眠不足と空腹と踵の痛みが重なって、思った以上に体が重い。


 左手で倒れた一人目の腕を取り、うつ伏せのまま背中に回して押さえた。男は呻いているが抵抗する気力はないらしい。二人目は足を引っかけられた衝撃で頭を打ったのか、ぐったりしている。


 ツカサは周囲を見回した。近くに落ちていたのは、盗賊が持っていた縄だった。荷物を縛るための麻縄。おそらく少女を縛る予定だったのだろう。


 それを使って、二人の手首を後ろ手に縛った。結び方は適当だが、しばらくは解けないだろう。


 立ち上がる。


 ハリセンを見下ろした。紙の表面に、さっきの一撃で付いた土汚れ。端のほつれが少し広がっている。煤の染みの上に、新しい汚れが加わった。


 ——壊れるなよ、頼むから。


 この世界には替えがない。


 視線を上げた。


 少女が、こちらを見ていた。


  ◆


 目が合った。


 少女は地面に座ったまま、ツカサを見上げている。


 翡翠でもなく、瑠璃でもなく、普通の——茶色い目だ。少し充血している。泣いていたのだろう。


 ただし、その目に浮かんでいるのは感謝でも依存でも崇拝でもなかった。


 警戒だ。


 純度の高い、混じりけのない警戒。


 助けてもらったことは分かっている。でも、目の前の人間が何者なのかは分からない。盗賊を追い払ったからといって、こいつが安全だとは限らない。


 ——そうだ。


 ツカサは、そう思った。


 それが正常だ。


 見知らぬ男に助けられて、いきなり頬を赤らめて「あなたが私の——」なんて言い出す少女がいたら、そっちのほうがおかしい。さっきまでは「おかしいほう」が正解になるように、世界が設定されていた。【ここで助けたら即依存・好感度MAX】。その補正が、今はもうない。


 少女の頭上には、何も浮いていなかった。


 透明なラベルは消えた。台本は破棄された。


 目の前にいるのは、イベントのヒロインではない。商隊からはぐれて、盗賊に囲まれて、怖い思いをした、ただの少女だ。


「……助けてくれたのは、ありがとう」


 少女が口を開いた。声が少しかすれている。


「でも——あなた、誰?」


 当たり前の質問。


 当たり前の警戒。


 当たり前の人間の反応。


 ツカサは、ハリセンを腰の右側へ戻しながら答えた。


「通りすがり。悲鳴が聞こえたから来た」


「……通りすがりが、盗賊を四人相手にするの?」


「二人は逃げた。殴ったのは二人だけだ」


「それでも普通じゃないと思うけど」


 少女の声に、わずかに棘がある。怖かった分だけ、今は気が立っているのだろう。手袋を嵌めた手が、まだ震えている。


 ツカサは距離を取ったまま、その場にしゃがんだ。目線を合わせるためだ。立ったまま見下ろすと威圧になる。


「名前、聞いていいか」


 少女は少し間を置いてから、答えた。


「……メル」


「メル。俺はツカサ」


「ツカサ? 変わった名前」


「よく言われる」


 異世界の人間から見れば、日本語の名前は珍しいだろう。レオは「レオ」だから違和感なく受け入れられていた。ツカサという響きは、この世界にはない。


 メルはツカサの格好を上から下まで見た。


 制服のシャツ。煤の染み。砂利と土で汚れたローファー。腰に括りつけた張りぼてのハリセン。


 冒険者には見えない。騎士にも見えない。商人にも見えない。


「……あなた、何者なの?」


「それは俺も知りたい」


 嘘じゃなかった。


 メルは眉をひそめた。が、追及はしなかった。今はそれどころではないのだろう。


「商隊からはぐれたんだ」と、メルは立ち上がりながら言った。膝に付いた土を払う。「昨日の夜、野営地で。朝起きたら隊が出発した後だった。街道を追いかけてたら——」


 そこで言葉が切れた。盗賊に捕まった経緯は、言わなくても分かる。


「商隊はどっちに向かってる?」


「南。この街道をまっすぐ行けば、二つ先の宿場町で停まるはず」


 南。ツカサが歩いていた方向と同じだ。


「荷物は?」


「背嚢があったけど——」メルが空き地の端を指さした。茂みの手前に、使い古された革の背嚢が転がっている。「あいつらに投げ飛ばされた」


 ツカサは立ち上がって背嚢を拾い、メルに渡した。メルは受け取って、中身を確認する。「……荷番の道具と替えの手袋、水筒。食料は——昨日のうちに食べた」


 食料なし。水筒だけ。


 ツカサの手持ちよりはマシだった。少なくとも水がある。


「じゃあ、宿場町まで送る」


 ツカサは言った。


 メルが顔を上げた。


「……なんで?」


「なんでって、一人で歩いてたらまた同じ目に遭うだろ。街道を一緒に歩くだけだ」


「見返りは?」


 真っ直ぐな目だった。


 疑っている。助けてくれた相手にさえ、対価を確認する。それは冷たさではなく、この世界の街道で一人で生きてきた人間の、当然の処世術だ。


 ツカサは少し考えて、答えた。


「水を一口もらえると助かる」


 メルは数秒、ツカサの顔を見つめた。


 それから、背嚢の口を開けて水筒を取り出し、無言で差し出した。


「一口だけだからね」


「十分だ。ありがとう」


 水を受け取って、一口だけ飲んだ。ぬるい。だが、乾いた喉に沁みた。


 水筒を返す。メルは中身を確認してから、蓋を閉めた。


 ——あの補正が残っていたら、今頃この子はどうなっていたんだろう。


 考えて、すぐにやめた。


 考えなくても分かる。【奴隷落ちヒロイン遭遇イベント】の結末は、名前の通りだ。盗賊に連れ去られ、奴隷に落とされ、そこを「勇者」か「主人公」に拾われて、即座に依存し、好感度MAXで付き従う。


 メルの人生は、そのルートに消費されるはずだった。


 商隊で荷番をしていた日常も。自分で水の残量を確認する手堅さも。見知らぬ相手に「見返りは?」と聞ける警戒心も。全部、「可哀想なヒロイン」という記号に塗りつぶされて、なかったことにされる。


 ——それが、普通に嫌だった。


 特別な正義感じゃない。大層な信念でもない。


 ただ、人の人生が台本に書き換えられるのが嫌だった。


 それだけだ。


「行くぞ」


 ツカサは街道の方を指した。「日が暮れる前に、できるだけ進みたい」


 メルは背嚢を背負い直して、ツカサの横に並んだ。


 並んだ、というより——二歩ほど後ろだ。まだ距離を取っている。


 それでいい。


 ツカサは歩き始めた。踵が痛む。ローファーの底が砂利を噛む。隣に——いや、二歩後ろに、メルの足音が続く。


 仲間にするつもりはない。


 この子には、この子の人生がある。商隊がある。荷番の仕事がある。ツカサが「お前は俺のパーティだ」と言えば、それは形を変えたテンプレの再生産だ。助けたから仲間。助けたから好感度。助けたから、ついてくるのが当然。


 そんなものは、さっき殴り壊したばかりだ。


 宿場町で商隊を見つけて、メルを返す。


 それで終わりだ。


 街道は南西に伸びている。午後の日差しが傾き始めて、二人の影が長くなっていく。


「……ねえ」


 後ろからメルの声がした。


「なに」


「さっき、盗賊を殴る前に——何か叩かなかった? 空中を」


 ツカサは一瞬、足を止めかけた。


「……見えたのか」


「見えてない。でも聞こえた。あの人たちを殴る前に、一回、何もないところで音がした。ぱぁんって」


 鋭い。


 補正を叩き壊した時の音だ。ラベル自体は誰にも見えない。だが、ハリセンが空気を叩く物理的な音は、当然聞こえる。


「……ちょっとした儀式みたいなもんだ」


 嘘ではない。完全に嘘ではない。


「変な人」


「よく言われる」


 二度目だった。


 メルはそれ以上聞かなかった。


 街道を歩く。二人分の足音だけが、午後の空気に落ちていく。


 ツカサはふと、前を見た。


 街道の先。南西の方角。太陽が傾いて、道の先が淡い橙色に染まり始めている。


 この先に何があるのかは知らない。


 地図はない。案内もない。王都の庇護も、勇者パーティの後ろ盾もない。


 あるのは、ハリセン一本と、透明なラベルを視る目と、さっき殴り壊した台本の残骸だけだ。


 ——まあ、いい。


 テンプレが来るなら、殴る。


 それだけのことだ。


 踵が痛む。


 構わず、歩く。

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