第7話「主役を立てられない無能は退場しろ」
朝が来た。
夜が明けたというより、石壁の隙間から灰色の光が染み出してきた、という方が正確だった。
ツカサは硬い寝台の上で目を開けた。一瞬、自分がどこにいるか分からなかった。天井が高い。石造り。窓の外に見たこともない鳥が飛んでいる。
——ああ、異世界か。
九日目。
身体を起こすと、右足の踵がすぐに自己主張してきた。豆が潰れたまま一晩経って、皮がぱりぱりに乾いている。ローファーに足を入れた瞬間、小さな痛みが脳まで突き抜けた。
腰のハリセンを確認する。布の端切れとベルトで括りつけた雑な固定は、寝返りで少しずれていた。位置を直す。紙と竹。何の変哲もない張りぼて。
でも昨夜、はっきりした。
これは——何かを壊せる。
少なくとも、この世界にべったり貼りついた「お約束」を殴り飛ばすことはできる。それだけは、もう確信に近い。
制服のシャツを見下ろす。煤の染みが、もう落ちない。洗ったはずなのに繊維の奥まで染みている。エルデン村の火事の煤。あの村の空気を、まだ着ている。
今日は大型任務だ。
北東峡谷の大型魔獣群を討伐する。昨夕のブリーフィングで、ツカサは壁際に放置された。役割は一切振られていない。
もとよりそうだ。このパーティにおいて、乾ツカサに期待されている仕事はない。
ないのだが——。
寝台を出て、顔を水で洗った。冷たい。頬を叩く。
頭の中で、昨夜の光景が再生される。
七つの輪が、外側から一つずつ焼き切れていく音。乾いた「ぱちん」が七回。最後の一つが、一番小さかった。
そして、床に膝をついたリネットの背中。
震える手で欠片を拾い集めるあの姿。壊されたものを嘆くのではなく、残ったものを守ろうとしていた。
——人の研究も、思い出も、お前の見せ場の燃料にしていいわけがない。
喉の奥に、言葉がある。
昨夜から、ずっと。
*
出発準備広間は、王宮の中庭に面した石畳の大広間だった。
高い天井からは朝の光が斜めに射し込んでいて、埃が金粉みたいに漂っている。壁際に武器架が並び、机の上には地図と作戦書が広げてある。
既にほぼ全員が揃っていた。
中央にレオ。
白銀の鎧に深紅のマント。腰には聖剣ルクス・プリマ。左腕の包帯だけが勇者の出で立ちに唯一の傷をつけているが、本人はまったく気にしていない様子で、大きな声で笑っている。
その周囲を、勇者パーティの前衛二人と斥候一人が固めている。全員がレオの方を向き、レオの話を聞き、レオの冗談に反応している。
少し離れた位置にガルド騎士団長。腕を組んで壁に背を預け、目を閉じている。地図も作戦書も広げてあるのに、見ようとしない。何かを噛み殺しているような、険しい顔だった。
廷臣たちが数名。豪奢な宮廷服に包まれた中高年の男女が、出発前の視察という名目で並んでいる。全員の視線がレオに集まっている。
ツカサは広間の入口で立ち止まった。
——いつもの光景だ。
いつもの、全員がレオに向いている光景。
ただ今朝は、その光景が違って見えた。
レオの背後に、あの巨大なラベルが揺らめいている。
【主人公補正】。
心臓のように脈動するそれは、今朝もぎらぎらと光っていた。周囲の人間を引き寄せる引力のように、広間の空気を一人の男に集約している。
ツカサが入口に立っても、誰も振り向かない。
いや——一人だけ。
広間の端、武器架の影に立っていたリネットが、ほんの一瞬だけこちらに目を向けた。
翡翠色の瞳。銀縁の眼鏡越しに、何かを言いかけるような——言いかけて、やめたような。
視線は一瞬で逸れた。
リネットは左手首の端末に目を落とし、何かの数値を確認している風を装っていた。
装っている。ツカサにはそう見えた。
その手は——昨夜、欠片を拾い集めていた手だ。
ツカサは広間に入った。右足の踵が痛む。靴底が石畳を叩くたびに、小さな刺激が足裏から膝まで走る。
誰も見ていない。
レオが何か言った。広間に笑いが起きた。廷臣の一人が「さすが勇者様」と口を添えた。前衛の一人が盾の角度を調整しながら「今日も頼みますよ、勇者殿」と応じた。
ツカサは壁際の定位置に向かって——
——歩かなかった。
足が、壁際に向かわなかった。
代わりに、広間の中央へ向かっていた。
レオの方へ。
あの巨大なラベルが脈動する、その正面へ。
*
「おい」
声は、自分で思っていたより平坦だった。
怒鳴るつもりはなかった。拳を振り上げるつもりもなかった。昨夜の襟首の件で、兵士たちの目が光っているのは分かっている。
だから、歩いて、止まって、声を出した。それだけだ。
広間の笑いが途切れた。
レオが振り向いた。金髪碧眼、身長185cm。見下ろす角度。困惑でも怒りでもない、「あれ、こいつまだいたの?」という顔。
「何、ツカサ? 今忙しいんだけど」
「知ってる。大型任務の朝だ」
ツカサは一拍置いた。
周囲の空気が変わるのを感じた。広間にいる全員——ガルドも、廷臣も、パーティメンバーも——が、ツカサとレオの間に生まれた不協和音に反応している。けれどその反応は「何が起きるのか」を見守る好奇心ではなく、「場の空気を壊す奴が何かやらかす」という、あらかじめ結論の出た苛立ちだった。
そんなことは、もうどうでもいい。
「昨夜のことだ」
レオが首を傾げた。昨夜。《星環計》を壊したことだ。廊下でツカサが襟を掴んだことだ。七つの輪が一つずつ焼き切れて、リネットが蒼白になったことだ。
——覚えてすらいない顔をしている。
「あの魔導器は」
ツカサは、声が震えないようにだけ気をつけた。
「リネットが恩師から受け継いで、何年もかけて調整してきたものだ。一点物で、もう二度と同じものは作れない」
広間の空気が、さらに冷えた。
冷えたのではない。固まったのだ。
「勇者の前で、勇者を非難する空気」というものが許容されない場所で、ツカサは正面からそれをやっている。周囲の人間たちの表情が、一様に——本当に一様に、判で押したように——不快のほうへ傾いていくのが見える。
その不自然さに、ツカサは気づいている。
レオの背後で、【主人公補正】が脈動した。
どくん、と。
空気を吸い寄せるように。
「人の研究も、思い出も、お前の見せ場の燃料にしていいわけがない」
言った。
言い切った。
声は震えなかった。
広間は静まり返っている。朝の光が埃を照らしている。誰も動かない。
レオが、目を瞬いた。
一回。二回。
それから——本気で困惑した顔をした。
怒りではない。反省でもない。侮蔑ですらない。純粋な、混じりけのない困惑。「え、何言ってるの?」という顔。
「え、だって」
レオは聖剣の柄に手をやりながら、心底不思議そうに言った。
「結果的に俺が勝てば全部報われるだろ? 俺は勇者だぞ?」
悪意がない。
それが、一番怖かった。
嘘をついているのではない。演技でもない。神城レオは本心からそう信じている。勇者が勝てば全てが報われる。勇者の見せ場のために何かが犠牲になるのは、犠牲ではなく名誉だ。勇者が使ったものは、使われたことで価値を持つ。
その論理に、一点の曇りもない顔をしている。
ツカサの指先が、かすかに震えた。
怒りではない。恐怖に近かった。
壊したものの意味を理解していないのではない。そもそも「壊した」という認識すら存在しないのだ。レオの世界には「他人が大切にしているもの」というカテゴリーが——
「ツカサくん」
廷臣の一人が口を開いた。白髪交じりの中年男。宮廷服の襟元を正しながら、穏やかなのに有無を言わせない声で。
「勇者様は我が国の希望であり、その活躍が民の安寧に繋がっている。研究器具の損壊は残念だが、勇者様の装備強化の過程で起きた事故だ。あまり——」
「事故じゃねえよ」
ツカサの声が、廷臣の声を遮った。
「無断で人の道具に聖剣突っ込んで壊して、謝りもせずに『名誉だろ?』って笑ってたんだ。どこが事故だ」
廷臣の顔が強張った。
だが、不思議なことが起きた。
ツカサの言葉は——論理としては正しいはずなのに——広間に響いた瞬間、空気に吸い込まれるように消えていった。
正確には、意味が変わった。
ツカサが怒りを込めて放った言葉が、周囲の耳に届く頃には「嫉妬」に変換されていた。少なくとも、廷臣たちの反応はそうだった。
「やはり、勇者様への嫉妬かね……」
別の廷臣が、隣の同僚にだけ聞こえるつもりの声量で呟いた。だが広間は静かだったから、全員に届いた。
ガルドは腕を組んだまま、目を閉じていた。一言も発しない。あの厳つい顔が何を考えているかは、読み取れなかった。
「可哀想に。あの方も何か——」
「空気壊すの得意だよな、あいつ」
前衛の一人が、もう一人の前衛に小声で言った。
声は小さかった。だが広間は石造りで、音がよく反射する。
——聞こえている。
全部聞こえている。
そしてツカサは、この瞬間、はっきり理解した。
自分の言葉が間違っているから退けられているのではない。正しいから退けられているのだ。
レオを中心にした引力が、正論を「ノイズ」に書き換えている。
あの巨大なラベルが——【主人公補正】が——この空間の空気そのものを歪ませている。
意見の問題ではない。力場の問題だ。
この部屋でレオに不利なことを言う人間は、内容に関係なく、「場を乱す異物」として処理される。理屈ではなく、もっと根深い何かで。
ツカサの視線が、広間の端に向いた。
リネットが立っている。
武器架の影。銀灰色の髪を低い位置で束ね、濃紺のローブに灰色のコート。左手首の端末を握りしめている。
唇が、薄く開きかけていた。
何か言おうとしている——ように見えた。
だが声は出なかった。
リネットの視線がツカサを捉え、一瞬だけ揺れて、床に落ちた。
——分かっている。
ツカサは、恨まなかった。
あの市場で、「因果波形が一瞬だけ正常値に戻った」と問いかけてきた女がいた。この世界のおかしさに、自分以外で気づいている人間がいた。
その人間が、今、声を上げられない。
パーティの中で孤立し、後ろ盾がなく、平民寄りの出自で「便利な道具」としてしか見られていない人間が、この空気の中で勇者に異を唱えることは——。
できない。
できないのだ。この空間では。
そして、**声を上げられる人間が声を上げられない**という事実そのものが、この世界の空気がどれほど壊れているかの証明だった。
ツカサは、レオに向き直った。
「お前さ」
静かに言った。
「昨夜、あの魔導器が壊れた時、リネットの顔見たか?」
レオが、また首を傾げた。
「顔?」
「蒼白になってただろ。声も出なかっただろ。あれが——あれが何を意味してるか、分かってないのか」
レオの碧眼が、一瞬だけ虚を突かれたように揺れた。
だが、すぐに戻った。
困惑が、面倒くささに変わった。
「いや、だからさ」
レオは天井を一瞬仰いだ。聖剣の柄から手を離し、両手を広げて——その動作一つにすら、舞台俳優のような大仰さがあった。
「俺が勝てば、全部意味が出るんだよ。俺の勝利は、みんなの勝利だろ? リネットの道具だって、俺の勝利に貢献できたなら——」
「もう聞いた。昨夜、それと同じ台詞を聞いた」
ツカサの声が、レオの声を切った。
「**お前の恩師も、勇者の勝利に貢献できたなら喜ぶんじゃない?**——そう言ったよな」
広間が、また静まった。
リネットの方を見なかった。見たら、彼女に注目が集まる。この空気の中でそれは、彼女にとって味方ではなく攻撃になる。
だからツカサは、レオだけを見た。
「恩師ってのは、死んだ人間だ。死んだ人間の遺したものを、笑いながら壊して、名誉だと言い切った。それが——お前の言う、勇者か」
一拍の沈黙。
ツカサの言葉が広間に落ちた。
そして——。
空気が動いた。
ツカサの方へではない。レオの方へ。
まるで広間全体に見えない潮流があるかのように、場の空気がレオを中心にぐるりと回り込んでいく。ツカサの言葉がどれほど正しくても、その正しさはこの潮流に呑まれて、形を変えて、別の意味になって——。
「いい加減にしなさい」
年長の廷臣が、声を上げた。
「勇者様の好意を踏みにじるような発言は——」
「好意? どこに好意が」
「勇者様はあなたのことも仲間だと思っておられるのですよ。それを——」
「仲間なら人の大切なもん壊して謝るだろ普通」
「——あなたの劣等感は理解しますが、それを勇者様にぶつけるのは」
噛み合わない。
噛み合わないのだ。
ツカサが「物を壊した」という事実を言っている。廷臣は「嫉妬している」という感情の話にすり替えている。会話の位相が違う。
だが周囲の人間は、全員が廷臣の位相で聞いている。
事実の話をしているのに、感情の話として処理される。論理を投げても、空気が受け取らない。
——これが、この世界の病気か。
ツカサは、自分の声が広間に染み込んでいかないのを感じた。石壁に跳ね返るのではなく、空気に吸い込まれて消えていく。存在はしているのに、誰の認識にも定着しない。
レオの【主人公補正】が、どくん、と脈打った。
大きく。
まるでツカサの正論を栄養にして膨らんでいるかのように。
「はあ」
レオが、息を吐いた。
困惑はもう消えていた。代わりに浮かんでいるのは、面倒なものを片付ける時の顔。ゴミを拾う時の顔。テストの点が悪かった後輩に「まあ頑張れよ」と言う時の顔。
その顔のまま、レオは言った。
「お前さ、最初からずっとそうだよな」
声は大きくなかった。でも広間の隅まで届いた。レオの声は、いつもそうだ。この世界で、この男の声だけは、空気に吸い込まれない。
「エルデンでも、森でも、市場でも——いっつも空気悪くするだろ。みんなが気持ちよくやってるところに水差して、俺の邪魔して。何がしたいの? マジで」
水を差す。邪魔をする。空気を壊す。
全部、ツカサが言ったことの中身には一切触れていない。触れる必要がない。レオにとっても、周囲にとっても、ツカサの発言の「中身」は最初から審議の対象外なのだ。
問題は内容ではなく、「勇者に逆らった」という事実だけ。
ツカサは、口を開いた。何か言おうとした。
だがレオの方が速かった。
「俺の物語を濁す脇役はいらない」
レオは言い切った。
両手を軽く振って。
芝居がかった仕草で。
まるで映画の主人公が仲間はずれを宣告するシーンの——台詞回しのように。
「**主役を立てられない無能は退場しろ**」
広間が、静まった。
だが、その静寂はツカサの正論に対する沈黙とは質が違った。
——拍手の前の、息を吸い込む沈黙だった。
案の定、廷臣の一人が深く頷いた。ガルドは最初から最後まで動かなかった。前衛の騎士が視線を逸らした。斥候が靴先を見つめた。
誰も、ツカサの側に立たない。
レオの宣告は、この空間においては「正解」なのだ。場の空気が、勇者の決定を自動的に承認する。
「退去ですな」
廷臣の一人が、ツカサに向かって言った。声は穏やかだった。丁寧ですらあった。丁寧で穏やかで——まるで、落ちた枯葉を掃くような調子で。
「本日中に王都をお離れいただきます。旅費は支給しかねますが——」
「いらない」
ツカサは言った。
自分でも驚くほど、声は冷静だった。
怒りが消えたわけではない。煮えたぎっている。ただ、それが一定の温度を超えたせいで、逆に静かになった。水が沸騰するのではなく、蒸発して見えなくなるような。
レオを見た。
最後に、まっすぐ。
金髪碧眼の勇者。白銀の鎧。深紅のマント。聖剣の柄に手を置いた、絵画のような立ち姿。
その身体に、巨大な【主人公補正】のラベルが深々と刺さっている。
心臓のように、脈打っている。
どくん。
どくん。
どくん。
それはレオの一部であると同時に、レオに突き立てられた杭のようにも見えた。この男を勇者として動かしている何かが、同時にこの男を蝕んでいるようにも。
だが、今のツカサにそこまで考える余裕はなかった。
「——了解した」
ツカサは、そう言った。
振り向いた。
歩き始めた。
広間を横切る。入口へ向かう。石畳を踏む靴音が、やけに大きく響いた。右足の踵が痛む。構わない。
歩きながら、視界の端でリネットを見た。
武器架の影。端末を握りしめたまま、動けない女。
彼女の唇が、もう一度開きかけた。
そして——閉じた。
音のない言葉が、空気に溶けて消えた。
ツカサは歩き続けた。振り向かなかった。
あの空気の中で声を上げろとは言えない。言わない。あの潮流に逆らうことが、どれほど——。
いや。
恨みの話ではない。
**あの空気の中で声を上げられないこと自体が、この世界の本当の病気なのだ。**
ツカサは広間を出た。
*
廊下を歩いた。
兵士が二人、後ろについてきた。護衛ではない。監視だ。「門まで」とだけ告げられた。
石の廊下は長かった。窓から朝の光が帯になって射し込んでいて、歩くたびに明暗が交互に顔を叩いた。
持ち物は何もない。
着の身着のまま。制服のシャツに煤の染み。腰にハリセン。ローファー。財布もない。地図もない。この世界の通貨すら持っていない。
旅装は、そもそも最初から支給されていなかった。採寸すらされなかった。
最初から、いなくていい人間だったのだ。
王宮の正門が見えた。
大きな門だ。召喚された初日に、この門をくぐったはずだが、その時の記憶はあまりない。レオの歓迎に沸く人混みの中を、ツカサは後ろの方で歩いていただけだった。
門番が、兵士たちに目配せした。重い扉がゆっくりと開く。
朝の光が、門の隙間から溢れた。
城下町の朝の匂い。パン屋の煙。馬車の車輪が石畳を叩く音。人の声。
ツカサは、門をくぐった。
外に出た。
背後で、門が閉まり始めた。
重い金属の音。ゆっくりと、しかし確実に、石と鉄が噛み合っていく。
振り返らなかった。
だが——門が閉じる寸前、背後に気配を感じた。
門の内側。廊下の奥。視線。
リネットの、かもしれない。
確認はしなかった。振り向いたら、あの空気の中で「追放者に情を示した」と見なされる。彼女のためにならない。
門が閉じた。
重い音が、朝の空気を震わせた。
それきり、王宮は沈黙した。
*
ツカサは門の前に立っていた。
城下町の朝が動いている。荷車が通り過ぎ、商人が声を張り上げ、子供が走っていく。誰もツカサを見ていない。追放された少年など、この街の日常にとっては何の意味もない。
右足の踵が、じくじくと痛む。
腰のハリセンが、風に揺れた。
紙と竹。
張りぼて。
刃もない。魔力も宿っていない。
だが——殴れるのだ。この世界に貼りついた「お約束」を。
ツカサは、手の中のハリセンを見下ろした。
布の端切れとベルトで括りつけた雑な固定。煤が少しついている。折れ目がある。端が少しほつれている。
正論は届かなかった。
あの広間では、何を言っても無駄だった。声を上げるほど、レオの引力が強くなった。正しいことを言うほど、「場を壊す異物」として処理された。
だが、ここにいる必要はもうない。
あの空気の中で、許可を求めて、顔色を伺って、壁際で黙って立っている必要は——もう、ない。
「……やっと、遠慮なく振れるな」
声に出した。
誰にも聞こえない。聞こえなくていい。
怒りがある。煮えたぎっている。レオに対して。あの廷臣たちに対して。「仕方ない」で全部を呑み込むあの空気に対して。
声を上げられなかったリネットの横顔が、まだ目の裏に残っている。あの唇の動き。音にならなかった言葉。
——あいつが声を上げられる場所を、作らなきゃいけない。
そんなことを、思った。
同時に、奇妙な感覚があった。
解放感。
追放されたのだ。無能と呼ばれ、脇役と切り捨てられ、門の外に放り出された。
なのに——胸の中に、鎖が外れたような軽さがある。
「勇者パーティの一員」でいなければならないという義務。「場の空気を壊すな」という圧力。「勇者様の前では」「身の程をわきまえろ」という無数の見えない首輪。
全部、門の内側に置いてきた。
もう、壁際に立たなくていい。
もう、許可を求めなくていい。
もう——殴る相手を、選べる。
ツカサは城下町の雑踏に向かって歩き始めた。
右足の踵が痛む。金もない。地図もない。行く当てもない。
腰にはハリセン。
紙と竹。
それだけ持って。




