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第32話「ハリセン精密制御、開発開始」

 最初の欠片が、リネットの指先で割れた。


 割れた、という表現は正確ではない。術式が水晶の表面を走り、内部の金属繊維と結晶層の接合を一本ずつ解きほぐしていく。欠片の内側が淡い光を放ち、七層の輪だった頃の名残のように、微かな虹が作業机の上を這った。


 ツカサは小屋の壁に背を預けたまま、口を閉じていた。


 リネットの指が動くたびに、水晶の断面から髪の毛ほどの細さの回路が引き出される。金属でも糸でもない、光を含んだ線。それが机の上に整然と並べられていく。


 一つ目の分解に、四十分かかった。


 リネットは額の汗を袖で拭い、二つ目の欠片を手に取った。


 手元が震えていた。一つ目のときより、明らかに。


 ツカサはそれを見た。見て、視線を窓の外に向けた。王都の方角、日中でも空が白く滲んでいる。英雄叙事炉の出力がまた上がったのだろう。昨晩より明らかに強い。


 見て見ぬふりではない。ただ、今この場所で一番大事な仕事をしているのはリネットで、自分にできるのは黙ってここにいることだけだと、わかっていた。


 二つ目の欠片が解かれていく。虹の色が、一つ目よりわずかに深かった。残留している因果波形の周波数が違うのだと、リネットなら説明するだろう。ツカサにはただ、色が違うとしかわからない。


 二つ目の分解が終わったとき、リネットの手が一瞬だけ止まった。


 机の上に並んだ回路素材が二組。虹の残光がゆっくり消えていく。


 残り二つの欠片が、窓から差し込む白い光の中に並んでいる。


 リネットは三つ目を持ち上げた。


「……これで、最後」


 分解対象としては。


 三つ目は、他の二つより少しだけ小さかった。七層の輪の、最も内側の層——つまり心臓に一番近い部分の欠片だったのかもしれない。


 術式が走り始める。虹が広がる。回路が引き出される。


 途中で、リネットの指が完全に止まった。


 五秒。十秒。


 窓の外を風が吹いた。丘の草がざわめく音。それだけが小屋の中に流れた。


 ——指が動いた。


 残りの工程を一息に終わらせた。最後の金属繊維が引き抜かれ、三つ目の欠片だったものは透明な粉末になって机に散った。虹が消えた。


 三組の回路素材が机に並ぶ。


 リネットは右手で最後の一欠片——四つ目の、分解しない方の欠片を持ち上げた。


 親指と人差し指の間で、それは小さく光っていた。七層の輪の欠片。恩師ソフィア・メルヴィスが設計し、組み上げ、何年もかけて調整し続けた《星環計》の、最後のかけら。


 リネットは眼鏡を外した。


 レンズ越しではなく、裸眼で欠片を見つめている。ツカサがリネットの素顔を見るのは、これが初めてだった。翡翠色の瞳が、欠片の光を映して薄く揺れていた。


「……術式素材としては、もうほぼ使えない」


 声が少しだけ、掠れた。


「でも」


 欠片を胸元に持っていく。灰色コートの内ポケットに、指先でそっと滑り込ませる。


「先生がこの世界にいた証拠を、物理的に一つだけ持っていたい」


 ツカサは壁から背を離した。


「ああ」


 それだけ言った。


 それ以上の言葉は要らない。綺麗に飾る必要も、感動的にまとめる必要も。この人は恩師の研究を三つ壊して、一つだけ残した。その事実に余計な修飾をつけることは、むしろ冒涜だ。


 リネットは眼鏡をかけ直した。


 表情が切り替わる。研究者の顔に戻る。


「——組み込むわよ。ハリセン、出して」


  *


 ツカサはベルトに巻きつけていた布の結び目を解いた。リネットのコート裏地の補修布で応急固定していた二重巻きを外すと、張りぼてのハリセンが手の中に残る。


 文化祭の小道具。紙と竹の塊。こんなものが、異世界で因果法則を殴り壊す執行具になっている。改めて見ると、笑えるような、笑えないような。


「柄を見せて」


 リネットが手を伸ばす。ツカサはハリセンを差し出した。


 リネットは柄の部分を指で辿り、素材の厚みと曲率を確かめた。端末を操作し、何かのデータと照合する。


「演算回路を柄に沿わせて巻きつける。接着は術式固定——物理的には回路の金属繊維が柄の表面に馴染む形になる。重さはほぼ変わらない。ただし」


 ツカサを見る。


「手触りは変わるわ。柄の表面に微細な凹凸ができる。振るたびに因果波形の同調補助が走るから、感覚的には——そうね、弦楽器の弦に触れている感触が近いかもしれない」


「弦楽器弾いたことない」


「知ってるわよ。比喩で言ったの」


 リネットは三組の回路素材を机の上に広げた。髪の毛より細い、光を含んだ線。それを一本ずつ撚り合わせ、三重の螺旋構造に組み上げていく。


 指先が正確に動く。震えは、もうない。


「この螺旋が因果波形の受信部。あなたが補正を視認したとき、その波形データを自動的に読み取って、ハリセンの出力——振動周波数を補正側の波形へ同調させる」


「……グラス共振の応用」


「覚えてたのね」


「お前が三回説明したからな」


 螺旋が完成した。リネットはそれをハリセンの柄に沿わせ、術式で表面に固定していく。金属繊維が柄の素材に沈み込み、表面に微かな紋様を残す。


 最後に、端末と回路を接続するための微細な術式リンクを設定する。リネットの左手首の端末が一瞬明滅し、回路が応答した。


「接続確認。端末からの微調整指示も通る。——出力テスト、やるわよ。軽く振って」


 ツカサはハリセンを受け取った。


 重さは変わらない。リネットの言った通りだ。だが——柄を握った瞬間、指の腹に伝わる感触が違った。滑らかだった表面に、かすかな脈動がある。心臓の鼓動よりずっと速い、微細な振動。


 弦楽器の弦、というリネットの比喩が、少しだけわかった気がした。


 軽く振る。


 空気を切る音に、今まではなかった薄い倍音が混じった。


 リネットの端末が反応する。


「波形、正常。同調率は基準値内。——いけるわね」


 ツカサはハリセンを握り直した。コート裏地の補修布で二重巻きに固定し直し、ベルトに通す。張りぼての見た目は変わらない。だが、手に伝わる脈動が——これは確かに、さっきまでとは別のものだ。


「これで理論上は、補正の因果構造だけに共振をかけて分離できる。宿主の人格にも、周囲の物理現象にも触れずに」


「理論上は」


「だから訓練するのよ。——外に出て」


  *


 小屋の外は、丘陵の裏手に広がる荒れた平地だった。かつてフィールドワーク用の仮設拠点として使われていた名残で、測量杭の朽ちた跡や、石で組まれた観測台の残骸が点在している。


 夕暮れの空が、西から赤く、東から——王都の方角から白く染まっている。二色の空が丘の上でぶつかっていた。


「まず浅層」


 リネットが観測台の残骸に近づき、端末を操作した。指先から薄い術式が伸び、石の表面に因果波形の痕跡を人工的に貼りつける。


「これはテスト用の擬似因子。浅層相当、深度1。ラッキースケベや舐めプと同じレイヤーのもの。壊しても副作用はない。——やって」


 ツカサはベルトの補修布を解き、ハリセンを引き抜いた。右足の踵が地面を踏むたびに鈍く痛む。走るのは無理だ。


 石の正面に立つ。腕を伸ばせばハリセンの先端が表面に届く距離。


 石の表面に、薄い因果ラベルが見える。文字はない。ただ光の膜のようなものが張りついている。


 ハリセンを構える。柄の脈動が、わずかに速くなった。


 左足を半歩踏み込み、振り下ろす——


 バァン。


 音が鳴った。ハリセンが石の表面を叩いた。


 石が砕けた。


 擬似因子だけでなく、観測台の残骸ごと粉々になった。石片が放射状に飛び散り、リネットが端末でシールドを張って防ぐ。


「…………」


「…………」


 沈黙。


「観測台は補正じゃない」


「分かってる」


「石もよ」


「……分かってる」


 リネットは眼鏡の位置を直した。


「出力が同調する前に物理衝撃が先行してる。振りのタイミングを0.2秒遅らせて、波形が噛み合ってから打ちなさい」


「0.2秒って、感覚でどのくらいだ」


「息を吸い始めてから、吐き始めるまでの間。あなたの呼吸周期だと、ちょうどそのくらいのはず」


 ツカサは目を瞬いた。


「……俺の呼吸周期、把握してんの」


「戦場ログに記録があるもの。あなた、戦闘中の呼吸パターンがかなり規則的よ。意識してやってるわけじゃないでしょうけど」


 把握されていた。息の速さまで。


 次の標的。リネットが別の石に擬似因子を貼る。


 ツカサは石の正面に立ち直した。ハリセンを構える。息を吸う。柄の脈動を感じる。波形が——噛み合う感触がある。吐き始め、のタイミングで左足を踏み込み——


 振り下ろす。


 バァン。


 今度は石が割れなかった。代わりに、空気が弾けるような音が鳴り響いた。丘の裏手にいた鳥が一斉に飛び立つ。


 擬似因子は——残っている。


 石も無傷。因子も無傷。ただ音だけが凄まじかった。


「……音圧だけ無駄に強くなったわね」


「え」


「共振は起きてるけど、対象に到達する前にエネルギーが空気中に拡散してる。振りの角度が3度ほど外れてる」


「3度ってどうやって」


「近所迷惑よ」


「廃墟だろここ」


「鳥が全部逃げたわ。生態系への影響も考慮しなさい」


 理不尽だった。


 三度目。今度はリネットが端末を手元に構え、リアルタイムで波形データを読み上げる体制を取った。


「深度1、位置は石の表面。——構えて」


 ツカサが構える。


「呼吸。——合わせて。波形の谷が来る……来た。振り上げ開始」


 ハリセンを振り上げる。柄の脈動がリネットの読み上げと連動するように速くなる。


「波形の山……0.3秒後にピーク。——今!」


 左足で踏み込む。振り下ろす。


 バァン。


 石の表面を叩く。ハリセンが着弾した瞬間、手に伝わったのは物理的な衝撃ではなく——薄い膜を突き破るような、奇妙な手応えだった。


 因果ラベルが、ガラスが割れるように砕けた。光の破片が散り、消える。


 石は無傷。


 リネットが端末を確認する。


「……擬似因子、消失。石の物理構造、変化なし。周辺因果波形、正常値」


 成功。


「もう一回」


 リネットの声が、わずかに硬い。確認するように。


 四つ、五つ、六つと、石に貼った擬似因子を壊していく。三回に一回は失敗した。石ごと割ったり、音だけ出したり、隣の石の因子を巻き込んだり。


 七つ目で、リネットの端末にノイズが走った。画面が一瞬バチッと明滅し、表示が乱れる。


「ちょっと」


「何」


「私の観測装置を壊さないで」


「すまん」


「出力の指向性が甘いの。対象に向かう波形以外の漏れ波が端末の受信回路に干渉してる。打つ直前に手首を半回転——」


「待て、振りながら手首半回転は物理的に」


「できるわよ。手首の回内運動と打撃の振り下ろしは別系統の筋肉だもの」


「お前は筋肉の話をしてるけど俺の手首はそこまで器用じゃ」


「やりなさい」


 やった。


 三回失敗して、四回目で端末へのノイズが消えた。


  *


 日が落ちた。


 丘陵の裏手に、リネットが術式で小さな光源を灯す。青白い光が作業場を照らし、石と草の影を長く伸ばした。


 訓練は段階を上げていた。


「次。深度2。中層相当」


 リネットが木の幹に擬似因子を貼る。浅層より一段深い、認識系の補正を模したもの。


「中層は人の認識に絡むレイヤー。剥がすと一時的な混乱は出るけど、人格は無傷。——ただし、浅層より根が深い。同調にかかる時間が長い」


「どのくらい」


「呼吸二つぶん。波形が安定するまで、打たずに構え続ける必要がある」


 二呼吸。息を吸って吐いて、吸って吐いて。その間ずっと、ハリセンを振り上げた姿勢で止める。


 地味に腕がきつい。


「深度2、位置は幹の内周に浸透。同調開始——」


 ツカサは幹の前に立ち、ハリセンを構えたまま待つ。柄の脈動が低く唸るように変わる。波形が深い層を探っている感覚。


「一呼吸目……まだ。噛み合わない。——0.1ずらして」


 何を0.1ずらすのか。感覚で——手首の角度か、力の入れ方か。わからない。だが、柄から伝わる振動の質が変わるポイントがある。そこを探る。


「——噛み合った。二呼吸目……ピーク来る。——今!」


 左足を踏み込む。振り下ろす。


 バァン。


 木の幹に着弾。手応えは浅層より重い。膜を突き破るというより、粘土から何かを引き剥がすような感触。


 因果ラベルが——剥がれた。幹の表面にへばりついていた光の層が、べりっと音を立てて崩れる。


 木は無傷。枝も葉も揺れていない。


「消失確認。……いいわね」


 リネットの声に、初めて満足に近い響きが混じった。


「ただし今の、ピークのタイミングが0.05秒遅い。実戦で深層に挑むなら、この0.05秒の誤差が宿主の人格を削るわ」


「0.05秒」


「そう、0.05秒。——もう一度」


 繰り返す。


 繰り返す。


 東の空から月が昇った。丸に近い形だが、薄雲がかかって地上に届く光は頼りない。リネットの術式光源が作業場の唯一の実用的な照明だった。


 十回、二十回と中層擬似因子を壊し続ける。成功率が上がっていく。五割。六割。八割まで来て、そこで頭打ちになった。残りの二割は、タイミングか角度か出力のどれかが微妙にずれて、木の表皮ごと薄く削ってしまう。


「人の認識に貼りつく補正で二割失敗は、実戦では許容範囲ギリギリ。中層なら宿主に一時的な混乱が出るだけで済むけど——」


「深層では済まない」


「そう。あの騎士と同じことが起きる」


 聖堂の幹部騎士。勇者絶対擁護補正を雑に剥がしたとき、補正と一緒に忠誠に基づくアイデンティティの一部まで引き剥がしてしまった。崩れ落ちた騎士の、虚ろな目を覚えている。


「深層の擬似因子は?」


「作れないわ。深層は人格に根を張って初めて成立するもの。模擬できるのは中層まで」


「じゃあ深層の精密制御は——」


「ぶっつけ本番」


 リネットは端末を操作しながら、淡々と言った。


「私の観測精度と、あなたの一撃精度。両方が理論値に達していれば、深層でも宿主を傷つけずに剥がせる。計算上は」


「計算上は、ね」


「だからこそ、中層の成功率を限りなく十割に近づける。ここで詰められる精度が、深層での余裕になる」


 ツカサはハリセンを握り直した。


「もう一回」


  *


 何度目かわからない振り下ろしのあと、ツカサは腕を下ろして息を吐いた。


 右足の踵がずっと鳴っている。打つたびに左足で踏み込んではいたが、軸足として立ちっぱなしの右足への負荷は避けられない。もう限界に近い。左足に体重を預けている時間が長くなっていた。


「休憩」


「まだ——」


「座りなさい」


 リネットの声が鋭かった。端末を見ている。


「右足、重心が左に偏ってる。最後の三回、振り下ろしの着弾点が左に1.2ずれてた。足に来てるでしょう」


「……大丈夫だ」


「嘘。データに出てる。五分休みなさい。崩れた姿勢で百回振るより、正しい姿勢で十回振る方が速い」


 反論できなかった。


 ツカサは観測台の残骸に腰を下ろした。石の冷たさが心地いい。夜風が汗を冷やす。


 リネットが水袋を投げてよこした。ツカサのではなく、リネット自身の携帯用。


「俺の水袋が——」


「あなたのは残り少ないでしょう。明日使いなさい。これは私のぶん」


 受け取る。ぬるい水が喉を通る。五口飲んで、残りをリネットに返した。


 二人とも無言で座っている。


 夜風。虫の声。王都の方角だけが白く光っている。


「……リネット」


「何」


「お前、今日の訓練——最初の頃と指示の出し方が変わってる」


「そう?」


「最初は数値だけ言ってた。深度いくつ、角度いくつ。途中から——呼吸のタイミングに合わせて指示を出すようになった」


 リネットは端末の画面を見たまま、少し間を置いた。


「あなたの出力は、呼吸周期と完全に連動してる。数値で指示を出すより、呼吸のリズムに乗せた方が同調率が高い。——データが示してるだけよ」


「データね」


「データよ」


 そういうことにしておく。


「あと十五分で再開するわ。それまでに右足を伸ばして」


 ツカサはローファーを脱いだ。右足の踵が赤く腫れている。水膨れが潰れた痕に、新しい水膨れが重なりかけている。靴擦れの限界だった。


 リネットがちらりとそれを見て、すぐに視線を外した。


「……王都に入ったら、最初に靴を調達するわ」


「それより先にやることが」


「靴がなければ走れないし、走れなければ戦場に立てない。——優先順位の問題よ」


 合理的だった。合理的すぎて、心配の言い訳にしか聞こえなかった。


 十五分後、ツカサは靴を履き直して立ち上がった。


  *


 深夜。


 月が中天を過ぎた頃、リネットが端末の画面から顔を上げた。


「最後に一回。——木に貼る。深度3。中層の上限」


 中層で最も深い擬似因子。これを宿主(木)を傷つけずに剥がせれば、精密制御の基礎は完成する。


 リネットが太い楢の幹に因子を貼った。光の層が樹皮の下に沈み込み、木目に沿って浸透していく。


「深度3。位置は幹の内部に浸透。表面から約0.3の深さ。——これは今日やった中で最も深い。三呼吸は必要」


 ツカサは幹の正面に立ち、ハリセンを構えた。


 三呼吸。息を吸って、吐いて。吸って、吐いて。吸って——


 柄の脈動が、呼吸と同期していく。振動の質が変わる。浅い周波数から、徐々に深い層へ潜り込んでいく感覚。


「一呼吸目——未到達。まだ浅い」


 待つ。


「二呼吸目——接触。波形が絡み始めた。角度、右に0.3ずらして」


 手首をわずかに回す。柄の振動が変わる。


「噛み合った。——三呼吸目。ピークが——来る」


 リネットの声と、柄の脈動と、自分の呼吸が一つの線になった。


「今」


 左足を踏み込む。振り下ろす。


 バァン。


 着弾。


 手に伝わったのは——今までで一番深い手応え。木の内部に根を張った因子を、一本ずつ引き剥がすような、粘りのある抵抗。それが共振で崩れ、砕ける。


 因果ラベルが内側から弾け飛んだ。光の破片が夜空に散る。


 楢の幹は無傷。枝の先の葉一枚すら揺れていない。樹皮に触れると、温かかった。木そのものの温度がそのまま残っている。


 リネットが端末を確認する。


 五秒。十秒。


「……擬似因子、完全消失。木の細胞構造、変化なし。周辺因果波形、正常値。精密度——」


 画面を見つめたまま、リネットの口元がわずかに緩んだ。


「理論値に近いわね」


 ツカサは息を吐いた。


「近い、ってことはまだ足りないのか」


「十分よ。中層までなら、これで実戦に出せる」


 リネットは端末を閉じ、ツカサに向き直った。


「……少しだけ褒めてあげる」


「上から来たな」


「事実を述べただけよ。あなたの習得速度は異常に速い。これは褒め言葉ではなくデータに基づく評価」


「それを褒め言葉って言うんだよ普通」


「そう。じゃあ褒め言葉ね」


 翡翠色の瞳が、術式光源の青白い光の中で静かに光っていた。眼鏡のレンズに映る光が二重になって、一瞬だけ、七層の輪の残像のように見えた。


  *


 小屋に戻る。


 リネットは作業机に端末を置き、最後のデータ整理を始めた。ツカサはハリセンを手の中で回した。


 重さは変わらない。張りぼての紙と竹。文化祭の小道具。見た目は何一つ変わっていない。


 だが柄を握ると、微かな脈動がある。リネットが恩師の遺品を三つ壊して組み込んだ演算回路が、因果波形を待ち受けている。


「補助装置は完成」


 リネットが端末から目を離さずに言った。


「あなたのハリセンは、今日から"まとめて粉砕する鈍器"じゃない。狙った補正だけを処刑する執行具に変わった」


 ツカサはハリセンを握り直した。


 処刑する執行具。


 大げさな言い方だと思った。だが——リネットがそう呼ぶなら、そうなのだろう。恩師の遺品三つぶんの覚悟と、今夜の訓練で積み上げた連携の精度。それが、この張りぼてに載っている。


「……ああ」


 ツカサがそう返した瞬間だった。


 足元が揺れた。


 小さな震動。コップの水が波立つ程度。だが明らかに、自然の地震ではなかった。振動の方向が一定すぎる。王都の方角から、低く、重い地鳴りが伝わってくる。


 リネットが弾かれたように端末を掴んだ。画面が明滅する。


 数秒の沈黙。


 リネットの顔から、血の気が引いた。


「魔王残滓が動き出した」


 声が平坦だった。感情を押し殺しているのが、逆にわかった。


「予測より早い。——移動速度が、昨日の観測値の1.7倍に跳ね上がってる。英雄叙事炉の出力上昇と連動してる。誘導用の因果牽引が一段階強化されたのね」


「到達は」


「王都到達——明日の夕刻。最短で十八時間後」


 十八時間。


 ここから王都の外壁まで、徒歩で六時間。潜入経路を確保して、下町の廃倉庫まで合流地点を設定して、協力者を集めて——


「今夜中に出なければ間に合わない」


 リネットの声が、現実を一文に圧縮した。


 ツカサはハリセンをベルトの布に通し、二重巻きで固定した。右足の踵が痛む。ローファーの限界が近い。水も食料も残り少ない。変装術式はとっくに消えている。


 だが。


 柄に触れると、脈動がある。


「行くぞ」


 ツカサは立ち上がった。


 リネットは端末を懐にしまい、灰色コートの内ポケットを——最後の一欠片が入っているポケットを、一瞬だけ手で押さえた。


「ええ」


 術式光源を消す。小屋が闇に沈む。


 窓の向こうで、王都の空が白く脈打っていた。

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