第33話「村の続きは、王都で終わらせる」
扉を押した。
蝶番が軋む。冷たい空気が頬を切った。
月はほぼ満月のはずだが、薄雲が厚い。地面に落ちる光はぼんやりとした白で、輪郭というものがない。代わりに、北の空だけが異質だった。王都の方角。あの光は月でも星でもない。英雄叙事炉の出力が、夜空そのものを白く脈打たせている。
足元の震動は止まなかった。
「——行く前に」
リネットが小屋の中に半身を残したまま、端末の画面をツカサに向けた。暗がりの中で、青白い光が二人の顔を下から照らす。
「持っているもの、全部確認する。一回だけ」
声に感情がなかった。それは平常運転だ。リネットが本当に冷静なときと、感情を封じ込めているときの声は同じで、区別がつかない。だが今は——端末を持つ指先が、ほんの少しだけ白かった。
「ハリセン」
ツカサはベルトの布に手を当てた。二重巻きの結び目を確かめる。リネットのコート裏地から切り出した補修布で括りつけた応急固定。正式なものを作る時間は、ついに来なかった。
柄に触れる。三重螺旋の演算回路が組み込まれた柄は、指先に微かな脈動を返してくる。心臓の鼓動とは違う。もっと細かく、もっと規則的な——因果波形のリズム。
「精密制御、中層まで実証済み。深層は」
「ぶっつけ本番。変わってない」
「ええ。変わっていない。——端末」
リネットは画面をスクロールした。
「全データ蓄積済み。補正深度分類表、訓練ログ、制御式断片、補助演算枠の仕様。戦場ログと魔導記録のコピー。被害者八件の時系列整理」
指が止まる。
「告発用反証資料の紙の控え。裏面に制御式の圧痕記録」
左手が灰色コートの内ポケットへ滑った。一瞬だけ触れて、戻す。
「《星環計》の欠片、一つ」
それ以上は言わなかった。ツカサも聞かなかった。最後の一欠片が何のためにあるかは、二人とも知っている。術式素材としてはもう使えない。ただ、恩師がこの世界にいた物理的な証拠として、リネットの胸元に残っている。
「通信石」
リネットはコートの別のポケットを示した。
「ゼクスへの回線。使用保留中」
「連絡は」
「王都に入ってから。潜入が露見する前に打つ。最後まで温存する理由はもうない」
端末の画面が切り替わる。連絡先の一覧。エレイン。メルの商隊定期便ルート。ナタリア。元騎士。冒険者。エルデン村の青年——その祖母の証言の写し。
「証言者への連絡手段は全経路生きてる。王都入りのタイミングで一斉に発信する。下町の廃倉庫を合流地点にして、全員を招集」
「足りないものは」
ツカサが聞いた。
リネットは端末を閉じた。青白い光が消えて、二人の顔が闇に沈む。
「時間以外は全部ある」
*
小屋を出る前に、ツカサはハリセンを一度抜いた。
暗がりの中で、ただ握った。
目を閉じる。
——辺境村エルデンの空が赤かった。
レオが最後の魔物を斬った瞬間、喝采が上がった。だがその歓声の足元で、倉庫が燃えていた。冬支度の備蓄が灰になっていた。老婆が写真立てを握っていた。指が黒焦げの縁に食い込んで、離せなくなっていた。命は助かった。でも、人生が焼けた。
——七つの輪が、一つずつ焼き切れる音。
高く澄んだ金属音。弦が切れるような、硬いガラスが割れるような。それが七回。七つの欠片に分かれて転がった《星環計》を見下ろして、レオは笑っていた。「俺の勝利演出の一部になれたなら名誉じゃん」。あの声は、今でも耳に残っている。
——追放の日、門の前。
リネットは壁際に立っていた。ツカサはあのとき、彼女の顔を見ていない。振り返らなかった。だが後から知った。彼女は言いたいことを抱えたまま、声を上げられなかった。後ろ盾がなかった。パーティの中で孤立していた。あの口を閉じさせていたのも、きっと——補正だ。
——手柄を奪われた騎士の、乾いた声。功績報告書の数字を指でなぞりながら、「ここに俺の仲間の名前があったはずなんだ」と言った。
——囮にされた冒険者の、片目の眼帯の下。「見せ場のために泳がせたんだよ、あいつは。俺らが盾になってる間に」。
——エレインが初めて口を開いた瞬間。「私はそんなことしていません」。たったそれだけの言葉を、補正が塞いでいた。
——避難経路を封鎖された王都の退避路。騎士が立ちはだかっていた。その騎士の目は虚ろで、補正が人格の奥まで根を張っていた。剥がしたら——崩れ落ちた。膝から力が抜けて、自分がしてきたことを一気に理解して、壊れるように。
全部が繋がっている。
辺境の村で見た炎。王宮で見た空気。街道で見た盗賊。学園で見た茶番。迷宮で見た本気。街道都市で見た不発。王都で見た封鎖。
全部が、同じシステムの被害だ。
目を開けた。
ハリセンの柄が脈打っている。
「今度は燃やされる前に止める」
声に出した。
「踏み台にされる前に奪い返す」
リネットが小屋の入口から、黙ってこちらを見ていた。月光が弱すぎて表情は読めない。でも、視線の温度は感じた。
「——村で間に合わなかった分を、王都で終わらせる」
沈黙が落ちた。
地鳴りが一つ、足元を揺らした。
リネットが口を開いた。
「あの村で間に合わなかった分を、今度こそ」
反復ではなかった。確認だった。自分の中で、その言葉の重さを量り直しているような声だった。
「ええ。行きましょう」
ツカサはハリセンをベルトの補修布に通し直し、二重巻きの結び目を締め直した。
*
丘陵を下りる坂道で、右足の踵が鳴いた。
痛みではない。痛みはとっくに超えている。ローファーの踵部分が皮膚と擦れるたびに、水膨れの重なった層が潰れて再生して、また潰れる。その繰り返しの感触が、靴底を通して足裏全体に広がる。一歩ごとに、足首から上へ向かって鈍い熱が這い上がる。
歩ける。まだ歩ける。走れない。だが、歩ける。
街道に出た。
深夜の街道は、異様に静かだった。戒厳令の影響だろう。商隊も旅人もいない。遠くの王都方面から断続的に聞こえる地鳴りだけが、大気を低く震わせている。
月明かりは頼りない。薄雲越しのぼやけた白が街道の土を照らしているが、三十歩先はもう輪郭が溶ける。石畳ではなく土の道だから、足音が吸い込まれて消える。
二人は並んで歩いた。リネットが右、ツカサが左。ツカサの右足をかばう側に、自然とリネットが位置している。
一時間が過ぎた。
地鳴りが、さっきより近い。
「速度は」
「端末のログだと、一時間前より0.08増加。誤差の範囲かもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「はっきりしろよ」
「はっきりしないから誤差って言ってるの。——ただ、到着予測は変わらない。明日の夕刻。最短で十二時間前後」
十二時間。王都に着いたら、潜入して、廃倉庫にたどり着いて、協力者を招集して、中継への乱入タイミングを見極めて——。
足りるか。足りるしかない。
二時間目に入ったあたりで、リネットが唐突に口を開いた。
「怖くないの?」
ツカサは半歩ぶん足を引きずりながら、横を見た。リネットは正面を向いたままだった。端末の光も点けていない。薄い月明かりの下で、銀灰色の髪が白っぽく浮いて見える。
「怖いに決まってるだろ」
「そう」
「……そうって何だよ。聞いといてそれか」
「確認しただけ。怖くないって言ったら、正気を疑うところだった」
ツカサは鼻を鳴らした。
「深層補正を人格ごと引き剥がしかけた前科持ちに正気もクソもあるか」
「だからこそよ」
リネットの声が、少しだけ柔らかくなった。
「あの失敗を——騎士を壊しかけたことを、怖いと思える人間だから、精密制御が完成したの。怖がれない人には振れない。自分が壊す可能性を知っていて、それでも振る。それが精密ってこと」
ツカサは黙った。
五歩ぶんの沈黙。
「……お前さ」
「なに」
「その理屈、俺を持ち上げてるのか落としてるのかわかんないんだけど」
「褒めてるに決まってるでしょう。わかりにくかった?」
「わかりにくい」
「じゃあ直球で言い直す。——あなたのハリセンを信じてる」
ツカサは前を向いた。
北の空の白い光が、さっきより明るい。王都に近づいている。
「……怖いけど、怖がってる場合じゃない。それだけだ」
リネットは小さく笑った。声というより、息の形が変わっただけの音だった。
「ええ。次も必要なら殴ればいいだけ」
「お前、それ口癖にするつもりか」
「口癖じゃない。方針よ」
短い笑いが、夜の街道に散った。
*
四時間目。
右足の感覚が鈍くなっていた。痛みの鋭さが消えて、代わりに足首から下が別の生き物になったような重さがある。一歩ごとの着地に意識を使わないと、つま先が地面に引っかかる。
リネットは何も言わなかった。ただ、歩幅が少しずつ狭くなっていた。ツカサに合わせている。
地鳴りは、もう間隔を数えられるほど規則的になっていた。五分に一度。大きな何かが、一定のリズムで大地を踏みしめているような振動。
「魔王残滓の歩行周期と一致してる」
リネットが呟いた。端末を見ずに、足元の振動だけで判断している。
「接近してるの、わかるな」
「ああ」
「でも向こうは真っすぐ王都へ向かってる。私たちとは経路が違う。遭遇はしない。ただ——」
リネットが少し遅れて息を吐いた。
「この振動を、王都の人たちも感じてるはずよ。戒厳令の夜に、五分おきに地面が揺れる。眠れないでしょうね」
ツカサは答えなかった。
眠れない夜を過ごしている人たちの中に、レオに補正を剥がされた聖堂の騎士がいるかもしれない。あの男は——一昼夜の混乱の中で、自分がしてきたことと向き合っているのだろうか。
五時間目。
街道の傾斜が変わった。緩やかな上り坂。王都ヴェルディアは丘陵地帯の高台に建てられている。外壁に近づくにつれ、道が上る。
足が重い。水袋の中身はもうほとんどない。干し肉も黒パンも、口に入れる余裕がなかった。歩くことに全部を使っている。
リネットの歩調も乱れ始めていた。訓練の疲労が残っているのだ。端末を胸元に抱えるようにして、時々つまずく。
「——あと、一時間」
リネットの声がかすれていた。
「うん」
ツカサは頷いた。それだけ。
頷いて、歩いた。
*
六時間目。
坂を登りきった瞬間——視界が開けた。
最初に見えたのは、光だった。
英雄叙事炉の白光が、王都ヴェルディアの上空を覆っている。それは夜空に貼りつけた巨大なヴェールのようで、星も月も飲み込んで、王都だけを不自然な昼のような明るさで照らしていた。
だがツカサの目には、もっと多くのものが見えていた。
因果ラベルだ。
王都の外壁から上へ向かって、数え切れないほどのラベルが立ち上っている。重なり合い、絡み合い、層を成している。色も大きさもバラバラだった。小さなものは指先ほど、大きなものは塔を覆い尽くすほど。それが何百、何千と——いや、もう数えること自体に意味がない密度で、王都全体を包んでいた。
読み取れるものだけでも——
【英雄出陣補正】。【民衆熱狂補正】。【中継映え補正】。【被害拡大許容補正】は粉砕済みのはずだが、別の地点に新しく貼り直されたものが見える。【邪魔者乱入補正】が外壁沿いに連なっている。侵入者——つまりツカサを排除するための因果の壁だ。
その全てが、一つの中心へ向かって脈動していた。
王宮の方角。
ラベルの群れの奥に、他の全てとは桁が違う光がある。
巨大で、重く、深い。
英雄叙事炉の全出力を受けて脈打つ、レオの【主人公補正】核。
心臓のような拍動。五秒に一度、膨張して収縮する。膨張のたびに、周囲のラベルが波紋のように同調し、王都全体の因果が一斉にレオを中心に引き寄せられる。
——この世界が、あの男を主役にするために、どれだけの因果を塗り替えているか。
ツカサは、立ち尽くした。
隣で、リネットが息を呑む気配。端末を開いたのだろう。画面の光が横顔を照らす。
「……因果波形密度が、観測値の上限を振り切ってる。端末のスケールが足りない」
その声は、震えてはいなかった。ただ、静かだった。嵐の目のような静けさ。
「全部——レオの補正核を基準点にして、同期してる。王都全体が一つの舞台装置になってるのよ。レオが主役の、最終決戦の舞台に」
ツカサは、目を細めた。
ラベルの群れの向こうに、まだ暗い空がある。王都の反対側——南東の空の低いところ。そこに、別の脈動が見えた。英雄叙事炉の白光とは違う、もっと濁った、もっと重い波動。
魔王残滓。
まだ遠い。だが、確実に近づいている。地鳴りのリズムが、さっきより速い。
レオの補正核が脈打つたびに、王都の因果がレオへ引き寄せられる。それと同じリズムで、魔王残滓が王都へ引き寄せられている。因果牽引。炉が災厄を呼んでいる。最高の敵役を、最高の舞台へ。
——でかい茶番だ。
今まで見たどの補正より巨大で、どの演出より周到で、どの被害より規模が大きい。辺境村ひとつを焼いた因果が、今度は王都全体を飲み込もうとしている。
ツカサはハリセンの柄に手を置いた。
脈動が返ってくる。柄の三重螺旋が、王都から流れ込む因果波形に微かに共振している。リネットの組んだ演算回路が、すでに対象を捉え始めている。
「……でかい茶番だな」
声に出した。
「だが——」
ハリセンを握る。
「ハリセンの射程に入った」
リネットが端末を閉じた。画面の光が消えて、また闇。だがもう、さっきまでの闇とは違う。王都の白光が二人の輪郭を淡く浮かび上がらせている。
「裏門。南西の旧水路口から入る。戒厳令の配置図は端末にある。外壁の巡回間隔は二十分」
「変装は」
「術式はもう使えない。——夜闘用の灰色コートと、あなたのシャツの煤の色がちょうどいい。暗がりに紛れるなら、下手な術式より地味な服のほうが利く」
ツカサは自分のシャツを見下ろした。制服のシャツ。もう白とは呼べない。煤と土埃と汗で、くすんだ灰色に変わっている。
リネットの灰色コートと並べば、確かに——夜闇の中では、ただの影だ。
「足は」
リネットが視線を落とした。ツカサの右足。ローファーの踵が、暗がりの中でもわかるほど変形している。
「王都に入ったら最初に調達する。約束は守る」
「……助かる」
右足に体重をかけ直す。鈍い熱が足首を伝う。あと少し。あと少しだけ、このローファーに保ってもらう。
二人は外壁に沿って、南西の旧水路口へ向かった。
背後で、地鳴りが鳴った。
ツカサは振り返らなかった。
前を見た。
因果ラベルの群れが、壁のように立ちはだかっている。その向こうに、レオの補正核が脈打っている。その手前に、仕込まれた舞台がある。避難経路を絞られた市民がいる。中継魔導具が配置されている。聖堂の騎士がレオの出撃ルートを守っている。
そして、それら全部の裏で——被害者たちが、声を上げる準備をしている。
辺境村の青年。元騎士。冒険者。エレイン。メル。
補正を剥がされて崩れ落ちた聖堂の騎士は——来てくれるか。わからない。だが、あの男が自分の判断で選ぶなら、それでいい。
ゼクスへの通信石は、潜入後に使う。
全部揃っている。
時間以外は。
旧水路口が見えた。石造りの排水溝の出口。人ひとりが屈めばくぐれる高さ。錆びた鉄格子が嵌まっているが、格子の下部が腐食して外れかけている。
リネットが端末を一瞬だけ点灯させ、巡回の時間を確認した。
「あと八分。——行ける」
ツカサは鉄格子に手をかけた。腐食した金属が、軽い力で外側にたわむ。
身を屈めて、暗い水路に体を滑り込ませた。
リネットが続く。
水路の中は完全な暗闇だった。足元に浅い水が流れている。くるぶしまで。冷たい。ローファーの中に水が染み込んで、右足の踵に沁みた。
痛い。
でも、歩ける。
水路を抜ければ、王都ヴェルディアの下町だ。廃倉庫まで、あと少し。
ツカサは暗闇の中で、ハリセンの柄に触れた。
脈動が返ってくる。
——村の続きは、王都で終わらせる。
水路の向こうに、白い光が漏れていた。




