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第31話「迷ってる暇はない。精密に殴ればいい」

 目が覚めたとき、窓の外は白かった。


 ただし太陽の白じゃない。王都の方角、空の低い位置がぼんやりと発光している。英雄叙事炉の出力が夜通し上がり続けた結果だ。昨日の夕方よりも、明らかに光が強い。


 昨夜、仮眠を取ったのは二時間か三時間か。石の床に敷いた布一枚の上で丸まっただけだが、それでも身体は正直で、全身を支配していた鈍い疲労が八割方に減っていた。


 右踵だけは別だ。


 起き上がってローファーに足を通した瞬間、腫れた皮膚が革の内側に擦れて熱を持った。昨日より悪化はしていないが、回復もしていない。まあいい。今日は走らなくていい日だ。


 机の前で、リネットが端末を操作していた。


 灰色のコートを肩に掛けたまま、翡翠色の瞳が画面のデータを追っている。仮眠を取った形跡はある——髪を束ねた紐が少しずれていて、眼鏡が普段より低い位置に落ちている。ただ、机に並べられた四つの欠片と、端末に展開された設計図の密度を見る限り、起きてからの作業量は尋常じゃない。


「……起きた?」


 視線は端末に落としたまま、声だけがこちらに飛んできた。


「ああ。何時間寝てた?」


「あなたは三時間弱。私は二時間」


「足りてないだろ」


「足りてない。でも残滓が待ってくれないから、仕方ない」


 反論の余地がなかった。


 水袋から水を一口飲んで、干し肉を齧った。味はしないが、胃に何か入れないと頭が動かない。リネットの分の黒パンを千切って差し出すと、端末から目を離さずに受け取って、無言で咀嚼し始めた。


 食べながら、ツカサはベルトに目を落とした。


 ハリセンを括りつけていた布の端切れ。昨夜の戦闘で引きちぎれたまま、ほつれた繊維がだらしなく垂れている。このままだと移動中にハリセンを落とす。


「リネット。布、余ってないか」


「何に使うの」


「ハリセンの固定。昨日の引き抜きで括りつけが壊れた」


 リネットは初めて端末から顔を上げた。ツカサのベルト周りを一瞥して、コートの裾をめくった。裏地の縫い目の端に、フィールドワーク用の補修布が縫い込まれている。小さなナイフで丁寧に切り出して、こちらに放った。


「ありがたい」


「コートの裏地だから丈夫よ。前のより保つはず」


 灰色の布を受け取って、ハリセンの柄をベルトの金具に通し、二重に巻いてから結んだ。引っ張ってみる。昨日の端切れよりは確実にしっかりしている。正式なホルダーを作る時間はないが、これなら当面は抜け落ちない。


「——で」


 ツカサは椅子を引いて、リネットの隣に座った。


「整理できたか」


 リネットの指が端末を操作した。画面が切り替わる。


 そこには、これまで二人が遭遇してきた全ての補正が、縦軸に「深度」、横軸に「対象カテゴリ」で整理された一覧表が表示されていた。


「旅の間からずっと計算していたの。証言を集めて回る間、端末のバックグラウンドで因果観測データの統計処理を走らせてた」


「あの旅の最中に?」


「歩きながら考えるのは得意よ。それに、あなたが補正を壊すたびに取得できた波形データが十五回ぶん溜まってた。十五回も叩けば、傾向は見える」


 リネットの指が画面の上部を示した。


「まず**浅層**。現象に貼りつくタイプ。ラッキースケベ、舐めプ、被害拡大、襲撃タイミング調整——あなたが最初期から壊してきたものの大半がこれ。補正の根は現象そのものに張っていて、人間の内側には届いていない。だからハリセンで叩けば一発で消える。副作用なし」


 端末の画面で、浅層に分類された補正のリストが青く光っている。見慣れた名前ばかりだ。


「次に**中層**。人の認識や評価に絡むもの。批判者矮小化、観客熱狂、反論不能——このあたり。補正が消えたとき、対象者は一時的に混乱する。"さっきまで自分が信じていた判断が急に根拠を失う"から。でも根が人格の土台まで達していないから、混乱が収まれば本人は元に戻る」


「婚約破棄のとき、観客が一瞬ぽかんとしてたのがそれか」


「そう。あれは中層補正の消失による認知リセット。あの教師が証拠の矛盾に気づけたのは、観客熱狂補正が消えて、本来の分析力が戻ったから」


 端末のリストが黄色に変わる。中層。


 そしてリネットの指が、画面の最下部——赤く表示された領域を指した。


「**深層**」


 声の温度が一段下がった。


「人格、立場、存在意義にまで根を張るもの。昨日あなたが壊した【勇者絶対擁護補正】がこれ。そして——」


 画面の最深部に、一つだけ他より大きく表示された名前がある。


 **【主人公補正】**。


「レオの核。炉の全出力の受け皿であり、制御アンカー」


 ツカサは赤い表示を見つめた。


 昨日の路地裏が蘇る。あの騎士の目。三十年の忠誠を土台にして、たった一ヶ月で全身に根を張り切った赤紫の蔦。それを引き剥がしたとき、騎士の目から一切の光が消えた瞬間。


「あの騎士に起きたことを、理論で説明できるか」


「できる」


 リネットは端末をスワイプして、波形グラフを表示した。


「深層補正は、宿主の**本物の感情**を苗床にする。あの騎士の場合、三十年かけて培った"王国と勇者への忠誠心"が本物だったから、補正の根はそこに絡みついた。忠誠が強いほど根は深い。愚かだから寄生されるんじゃない。本物だから狙われる」


「……たちが悪いな」


「最悪よ。しかも寄生速度が異常に速い。召喚からたった三十七日で、三十年ぶんの忠誠に根を張り切ってた。数か月、数年の話じゃないの。英雄叙事炉が本気で稼働し始めたら、深層補正はひと月足らずで人間の核まで届く」


 ツカサは黙って聞いていた。


 問題は明確だ。今のハリセンでは、深層補正を壊すとき、補正と宿主の境界が分からない。鈍器で殴れば補正ごと人間の一部まで持っていく。


 あの騎士は——まだ路地裏にいるのか。それとも動けたのか。分からない。分からないが、あの目は忘れない。


「で、ここからが本題」


 リネットが端末を閉じて、ツカサの方を向いた。眼鏡越しの翡翠色が、真っ直ぐこちらを捉えている。


「壊し方を変える」


「変える?」


「今まであなたのハリセンは鈍器だった。叩いたものを全部粉砕する。浅層や中層ならそれでいい。でも深層では、補正と宿主の組織が絡み合っていて、鈍器では分離できない」


 リネットは机の上に指で図を描くように話した。


「だからメスにする。鈍器をメスに」


「原理は」


「共振分離」


 四文字を、リネットは一切の迷いなく言い切った。


「補正はそれぞれ固有の因果波形を持ってる。宿主の本来の因果波形とは周波数が違う。今まで私が端末で観測してきたのは、その周波数の差異よ。差があるなら——そこに合わせられる」


 リネットの指が机を叩いた。リズムを刻むように。


「ハリセンの出力を、補正側の波形にだけ同調させる。同調した状態で打撃を加えると、補正の因果構造だけが共振して崩壊する。宿主側の波形は周波数が違うから共振しない。つまり——触れない」


「補正だけ揺らして、人間は揺らさない」


「そう。グラスの周波数に合わせた音波でグラスだけ割る実験、知ってる? あれと同じ。**隣のグラスには傷一つつかない**」


 ツカサは、昨日の路地裏で感じた手応えを思い出した。あの湿った引き剥がしの感触。粘着テープを生き物の皮膚から剥がすような、鈍くて重い抵抗。


 あれが——共振で消える。


「ただし」


 リネットの声に棘が混じった。いつもの「ここからが難しい」の合図だ。


「現状のハリセンには、出力調整も範囲指定も対象の周波数合わせもない。あなたの腕力と視認だけで全部やってる。だから深層を叩くと宿主まで巻き込む。**調整する装置が、ない**」


「欠片を三つ使うんだったな」


「ええ」


 リネットの視線が、机の上の四つの欠片に落ちた。


 鈍い銀色の光。七つの輪が精緻に噛み合って回転していた頃の面影は、もうない。四つの不揃いな破片。それでもまだ、内部に因果波形を受信・解析する回路が微かに残っている。


「欠片の内部回路を分解して、ハリセンの柄に補助演算枠として組み込む。演算枠が因果波形をリアルタイムで読み取り、ハリセンの出力——振動周波数を自動的に補正側へ同調させる。私の端末からの指示で、同調の微調整もできるようにする」


「つまり、お前が"今"って言ったタイミングで俺が叩けば、補正だけが砕ける」


「大筋はそう。**ただし深層は誤差が許されない**。あなたの一撃の精度と、私の観測の精度が両方揃って初めて成立する。どちらかが欠けたら——」


「昨日の騎士と同じことが起きる」


「ええ」


 沈黙が落ちた。


 窓の外の白い光が、少しだけ強くなった気がした。炉の出力は上がり続けている。


 ツカサは分類表の最深部を見た。赤い文字。【主人公補正】。


「あいつの補正核は、この表で言うと最深だな」


「最深で、最大。炉の全出力の基準点を担ってるアンカーだから、通常の深層補正よりさらに人格への食い込みが深い可能性がある。三十七日間、英雄叙事炉に"お前が主人公だ"と二十四時間言い続けられてきた男の核よ」


「——加えて」


 ツカサは言葉を選んだ。


「あいつの場合、元から自分が中心で世界が回ると思ってた。補正が食い込む前から、土壌ができてた」


「そう。忠誠心が本物だったから寄生されたあの騎士とは逆のパターン。自己中心性が本物だったから、補正と地の性格の境界が極めて曖昧。**剥がすべき蔦と、元々の幹の区別が一番つきにくい相手**」


 リネットの声には感情がなかった。分析として淡々と述べている。だが、その淡々さの奥に、恩師の遺品を壊された記憶が張りついていることを、ツカサは知っている。


「壊すつもりはない」


 ツカサは言った。


 リネットが顔を上げた。


「補正を剥がして、"主人公だから許される"を終わらせる。聖剣の上乗せも、加護も、無条件の喝采も、全部消す。でもあいつ自身は生かす」


「……そうね」


「生きたまま、全部失わせるほうが——」


「処刑としては正しい」


 リネットが先に言い切った。


 目が合った。翡翠色の瞳に、冷たい確信があった。


「死んだら終わりよ。あの男には、特別扱いを全て失った状態で、自分がしてきたことを自分の目で見てほしい。村を焼いた事実も、《星環計》を壊した事実も、人を踏み台にした事実も——補正のせいにできない状態で」


「ああ」


「環境が歪んでいたのは事実。でも——」


「考えないことを選んだのは、あいつ自身だ」


 同じ結論に、別の道筋から辿り着いていた。


 迷いはなかった。二人とも。


 迷っている暇がないのではなく、迷う理由がない。やるべきことは、路地裏で騎士が崩れ落ちた瞬間に確定した。精密に殴る。それだけだ。


「——じゃあ、作業に入る」


 リネットは椅子から立ち上がり、机の上の四つの欠片を丁寧に並べ直した。


 鈍い銀色が四つ。窓から差し込む光を受けて、それぞれが微かに違う角度で光る。七つあった頃は一つの円を描いて回転していたはずの輪の、残骸。


 三つを消費すれば、補助演算枠が作れる。


 残るのは、一つ。


「三つを回路素材として分解する」


 リネットの声は平坦だった。


「内部の因果受信回路を取り出して、ハリセンの柄に沿う形に組み直す。分解の過程で回路構造は不可逆的に変化するから、元には戻せない。使えば灰になる」


「……ああ」


「残りの一つは手元に残す。術式素材としてはもうほとんど使えない。でも」


 言葉が途切れた。


 ツカサは何も言わなかった。


 あの宝石のような七層の輪を、レオが笑顔で焼き潰した夜のことを覚えている。「俺の勝利演出の一部になれたなら名誉じゃん」——あの台詞を。


 七つのうち、二つはデータ取得で灰になり、一つは炉との共振で砕けた。残ったのがこの四つ。そのうち三つを、さらに。


 リネットの右手が、一番左の欠片に触れた。


 指先が、微かに震えていた。


 ツカサはその震えを見て、口を閉じた。


 この決断を押す権利は、自分にはない。急かす権利も、慰める権利も。リネットが自分の手で、自分の判断で選ぶ瞬間を、黙って見ていること。それだけが、今できる唯一の誠実さだ。


 窓の外で、王都方角の空がまた少し白くなった。


 残滓が来る。早ければ今日の夜。遅くても明日。


 リネットは目を閉じた。


 呼吸が一つ。深く吸って、長く吐いた。


 目を開けたとき、指の震えは止まっていた。


「——始めましょう」


 欠片を持ち上げる手は、もう揺れていなかった。

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