第30話「人間の尊厳に寄生するな」
南門を出て、二百歩。
変装が解けかけていた。
左手首の術式紋様が断続的に明滅し、茶色だった髪の端から黒が滲み戻ってくる。リネットが言っていた六時間の制限。昼前に起動して、もう夕暮れだ。計算上はとっくにギリギリだった。
城壁外の集落——南門の外に広がる商人向けの木造長屋と倉庫の群れ——を早足で縫う。戒厳令下でも物流は止まっていないから、荷車と人の流れがまだある。その中に紛れて、南西の丘陵へ抜ける。
右踵が、一歩ごとに抗議する。
ローファーの革が限界まで伸びきって、踵を擦るたびに鈍い熱を送ってくる。もう一日は保たない。どこかで布を巻き直すか——
背後で、金属が鳴った。
鎧の関節が軋む音。走る足音。一人。重い。近い。
ツカサは考えるより先に横の路地へ身を滑らせた。木造倉庫の壁と壁の隙間、人ひとりがようやく通れる幅。足元は砂利と乾いた泥。奥に別の路地が見える。
——抜けられる。
五歩目で、左手首の術式が完全に消えた。
髪が黒に戻る。目元の輪郭が元に戻る。変装の膜が剥落するように溶けて、乾ツカサの顔がそのまま夕暮れの空気に晒された。
抜けた先の路地は、行き止まりだった。
倉庫の裏手。板壁と石壁が三方を囲んでいる。高さは二階分。登れない。
振り返る。
路地の入口に、白銀の鎧が立っていた。
聖堂の太陽紋。面頬のない兜から覗く顔は、四十代の実直そうな男。日に焼けた肌、古い刀傷が顎に一筋。
——南区大通りの封鎖地点にいた、あの幹部騎士。
あのとき見た。退避路の中心部側に立って、南門へ向かおうとする市民の退路を塞いでいた男。「安全のためです」と、本気の目で言い切っていた男。
今、剣を抜いている。
「見つけたぞ、異端者」
低く、地を這うような声だった。
「外縁部の巡回中に見えた。お前の髪が——色が変わった。変装術式だな」
騎士の目に、確信があった。退避路封鎖の現場を離れて、城壁外の集落まで警備状況の視察に回っていたところへ、たまたま変装のちらつきを自分の目で捉えたのだ。
「勇者様の聖戦を前に、これ以上の妨害は許さない。投降しろ」
ツカサの目は、騎士の言葉より先に、その身体を走査していた。
見える。
赤紫色の蔦。
南区大通りで見たのと同じ、あの補正。頭頂から首筋を伝い、肩を這い、胸甲の内側へ潜り込み、さらに腰帯を縫うように腹部から太腿まで根を伸ばしている。浅い金色のラベルとは色も形も違う。表面に貼りついているのではなく、内側へ食い込んでいる。根のように。全身に。
蔦の一本一本が、脈動していた。心臓の拍動に合わせて、微かに明滅する。
——あれは、こいつの一部になってる。
ラッキースケベや舐めプとは、根本的に違う。あれは現象に貼りついていただけだ。叩けば剥がれた。剥がれた後も、誰も傷つかなかった。
だがこの蔦は、人間の中に根を張っている。忠誠心に巻きついて、正義感に絡みついて、判断基準そのものを浸食して、そこに住み着いている。
今のハリセンで叩いたら——根ごと引き抜くことになる。
騎士が一歩踏み出した。
「投降の意思がないなら、拘束する」
間合いが詰まる。路地裏の幅は二人分もない。逃げ場がない。
騎士の剣が持ち上がる。
構えは正統。足運びに無駄がない。長年剣を振ってきた人間の動きだった。本職の騎士と、ハリセンしか持たない高校生。純粋な戦闘力の差は明白だ。
だが騎士の目が、ツカサの腰のハリセンを見た瞬間、赤紫の蔦が一斉に脈動した。
「——その邪器を棄てろ」
声に、初めて感情が乗った。恐怖ではない。嫌悪。蔦が命じる嫌悪だ。勇者を脅かすものへの、自動的な拒絶反応。
騎士が踏み込んだ。
剣が頭上に掲げられる。狭い路地で横には振れない——それを一瞬で判断した動きだった。壁と壁に挟まれた袋小路では横に逃げる余地がない。だからこそ、真上から叩き潰す。長年の実戦経験が選んだ、狭所の定石。
振り下ろし。
白銀の刃が真っ直ぐに落ちてくる。頭蓋を割る軌道。
ツカサは壁に背を押しつけるようにして、横へ身を捻った。刃がツカサの頭の横を通過する。髪が何本か散った。砂利を抉る硬い音が足元で弾けた。
捻った勢いで、体が低くなっていた。壁に半ば寄りかかった姿勢。視界の正面に蔦が見えた。騎士の腰から腹にかけて、赤紫の太い根が走っている。頭頂から下りてきた蔦の幹が、胸甲の内側を経由して腰帯の下へ潜り込む中継点。すぐ目の前だ。
右手が動いていた。
腰の右側、ベルトに布の端切れで括りつけたハリセン。考える前に手が伸びて、布ごと引きちぎった。結び目が弾けて端切れが千切れ飛ぶ。十四回の実戦が体に叩き込んだ反射だった。
低い姿勢から、突き上げた。
ハリセンの面が、騎士の腰を走る蔦の太い根に下から叩きつけられる。
——音が、割れた。
いつもの乾いた「パァン」ではなかった。もっと湿った、何かを引き剥がす音。粘着テープを生き物の皮膚から剥がすような、鈍くて重い音。
蔦が——千切れた。
赤紫の光が飛び散る。腰の中継点を断たれた蔦は、上半身と下半身で同時に崩壊し始め、頭頂から足先まで一斉にほどけていく。だがそれだけじゃなかった。蔦と一緒に、もっと透明な何かが引き剥がされていた。色のない、形のない、けれど確かにそこにあったもの。
騎士の目が、一瞬で変わった。
剣が手から落ちた。石畳に鳴る金属音が、路地裏に響いた。
膝が折れる。
白銀の鎧が、砂利の上に崩れ落ちる。重い音。土埃が舞った。
「——————」
声にならない声が漏れた。
騎士は両手で頭を押さえていた。兜が外れて転がった。禿げかけた頭頂が夕日に晒される。その下の顔が——歪んでいた。
恐怖。混乱。そして、何かを思い出しかけている人間の顔。
「俺は……なん、で……」
途切れ途切れの声。喉が詰まっている。
「あの退避路を……なんで俺が、塞いで……」
両手が震えている。鎧の籠手が砂利に擦れてがちがちと鳴る。
「市民が逃げようとしてたのに。子供を抱えた母親が、通してくれって頼んでたのに。俺は——安全のためだと、言った。本気で、そう思って——」
ツカサは動けなかった。
目の前で、人間が壊れていた。
違う。壊れたんじゃない。
——壊されて*いた*ものが、今ようやく見えるようになっただけだ。
赤紫の蔦は消えていた。粉砕された残滓が空気中に散って、薄れて消えた。だが蔦が食い込んでいた場所に、跡が残っている。見える。透明な傷痕のようなもの。補正が根を張っていた部分が、えぐれたように空洞になっている。
蔦だけじゃなかった。蔦と一緒に、この男の信条——聖堂に三十年仕えてきた忠誠心の根の一部まで、引き剥がしてしまった。蔦はその忠誠を苗床にしていた。だから蔦を引き抜いたとき、苗床ごと抉れた。
それは補正だったのか。それとも本人のものだったのか。
——区別がつかなかったんだ。今のハリセンじゃ。
「俺は聖堂に入って三十年だ。三十年間、聖堂のために剣を振ってきた。だが勇者様が召喚されてから……ここひと月ほどだ。あの方のためなら何でも正しいと、本気で信じるようになったのは……」
騎士は砂利の上で丸くなっていた。鎧を着たまま、胎児のように体を縮めている。
「たったひと月だ。たったそれだけの間に——退避路を塞いで、市民を追い返して、全部……正しいと思って……どこまでが俺の判断で、どこからがあの蔦の——わからないんだ——」
声が途切れた。嗚咽が代わりに漏れた。
ツカサは、ハリセンを握ったまま立っていた。
怒りの形が、また変わった。
あの赤紫の蔦は、ただの認識操作じゃなかった。この男の人生そのものに食い込んでいた。三十年かけて築いた忠誠心を——本物の、自分で選んだ忠誠心を苗床にして、そこに根を張って、自分の養分にしていた。寄生虫が宿主の免疫系に擬態するように、この男の「正しさ」に擬態して、たった一ヶ月で三十年分の信条を乗っ取っていた。
たった一ヶ月。
レオが召喚されて、英雄叙事炉が主軸をロックして、蔦が伸び始めてから——たったそれだけの時間で、三十年間積み上げた人格の土台に根を張り切った。
だからこの男は、退避路を塞いでも疑問を持てなかった。市民の退路を断っても「勇者様のために正しい」と信じ切れた。信じ切れたのは、この男が愚かだったからじゃない。この男の忠誠が本物だったからだ。
本物の忠誠だったから、寄生虫はそこに根を張れた。
英雄叙事炉。
レオの主人公補正。
あの装置は勇者を中心に世界を歪めるだけじゃない。人間の善意にまで寄生する。忠誠を養分にし、正義感を苗床にし、判断力を乗っ取って、人をシステムの部品に変える。それを、たった数週間でやってのける。
——それを許す気はない。
ツカサは騎士を見下ろした。
この男を怖がっている暇はない。この男が壊れたことを嘆いている暇もない。
壊したのは俺じゃない。
壊して*いた*のは、あの蔦だ。
俺がやったのは、蔦を引き剥がすことだ。ただし、雑にやりすぎた。蔦と一緒に、根の周りの土まで抉ってしまった。
「……しばらくここにいろ」
ツカサは言った。
騎士は顔を上げなかった。震えている肩だけが返事の代わりだった。
「俺にはまだ、お前を綺麗に助ける手段がない。だが——」
言葉を探した。見つかったのは、怒りだった。
「お前が壊れたんじゃない。壊されてたんだ。たったひと月で、三十年分の忠誠に食い込まれてた。だから——自分を責めるのは、せめて全部思い出してからにしろ」
それだけ言って、ツカサは路地を戻った。
走れなかった。右踵の痛みが限界だった。早足で集落を抜け、街道を外れ、南西の丘陵に向かう獣道に入る。
頭の中で、さっきの音が反響していた。
あの湿った、引き剥がす音。
浅い補正を叩いたときとは全く違う感触だった。紙を破く快感はなかった。あったのは、何か生きているものを毟り取る感覚だけだった。
——精密に、やらなきゃいけない。
今のハリセンは鈍器だ。補正が浅かろうが深かろうが、同じ力で叩く。浅い補正なら問題ない。ラベルだけが砕けて、後には何も残らない。
だが深い補正は違う。根が人間の内側まで伸びている。同じ力で叩けば、根と一緒に人間の中身まで引き抜く。
精密さが要る。
鈍器じゃだめだ。補正の根だけを切断して、人間の中身には触れない、もっと細い一撃が。
丘陵の斜面を登る。日が落ちかけている。西の空が燃えるような橙から、静かな紫に移り変わっていく。
王都の方角を振り返ると、街の上空がまだ白く光っていた。英雄叙事炉の出力。昼間よりも夕闇の中のほうが、あの光はよく見える。
十五万人が、あの光の下で暮らしている。
そしてあの光は、人の善意に寄生して、人を部品に変えて、勇者の見せ場のために人生を使い潰す装置が放っている。
足を速めた。痛みは無視した。
*
小屋の扉を開けたのは、完全に日が落ちた後だった。
石造りの室内に、端末の青白い光とランタンの橙が混じっている。机の上に工具と欠片が並んでいる。
リネットが顔を上げた。
銀灰色の髪が作業中に解けかけて、片方の肩にかかっている。細縁の眼鏡越しの翡翠色の瞳が、ツカサの顔を一瞥して、次にツカサの手を見た。
ハリセンを持つ右手が、微かに震えていた。腰の右側では、引きちぎった布の端切れが千切れたまま垂れ下がっている。
「退避路の補正は」
「三カ所とも潰した」
「それ以外に、何かあった?」
断定ではなく、確認の口調だった。ツカサの手の震えから、何が起きたかの輪郭だけを読み取っている。
ツカサは石壁に背をつけ、ずるりと座り込んだ。右足のローファーを脱ぐ。踵の皮膚が赤く腫れている。
「……聖堂の騎士に追いつかれた。南門の外で。赤紫の蔦が全身に巻きついてた——退避路の封鎖地点にいた、あの幹部騎士だ」
リネットの指が端末の上を走った。画面に波形データが展開される。数秒の照合。
「……南区封鎖地点で記録した因果波形と一致するわ。あの幹部騎士ね。深い補正が人格に食い込んでいた」
端末を置いて、ツカサの顔に視線を戻す。
「叩いたの」
「斬りかかってきた。反射で叩いた」
リネットの手が止まった。工具を持つ指が、一瞬だけ強張った。
「……剥がれた?」
「剥がれた。補正は消えた。だが——」
ツカサは自分の右手を見た。震えは止まらない。
「——一緒に、あの男の中身まで持っていった。三十年かけて積み上げた忠誠心とか、判断基準とか、そういうものの根っこの一部を。補正と区別がつかなかった。ハリセンが、補正だけを選べなかった」
沈黙が数秒あった。
リネットは眼鏡を外して、レンズの汚れを灰色コートの袖で拭いた。それから眼鏡をかけ直して、静かに聞いた。
「その騎士は今、どうなってる?」
「路地裏で座り込んでた。自分が何をしてきたか、全部思い出してる途中だと思う。退避路を塞いだこと、市民の退路を断ったこと。本気で正しいと思ってやってたことが、全部——」
「補正が剥がれたことで、本来の認知に戻れる可能性はある」
リネットの声は冷静だった。だが「可能性」という言葉を選んでいた。断定しなかった。
「ただ、歪んだ状態での記憶は消えない。聖堂騎士としての経歴は三十年でも、あの蔦が食い込んだのは勇者召喚以降——長くてひと月。けれどそのひと月の記憶を、正気の状態で振り返ることになる。自分がしたことを——自分の判断だったのか蔦の判断だったのか区別できないまま、全部背負う」
ツカサは歯を噛んだ。
「……だから精密にやる」
声が低くなった。
「寄生虫だけを引き剥がして、人間はそのまま返す。補正の根だけを切って、宿主の組織には触らない。そういう一撃を作る。それを最優先に」
リネットはツカサの目を見た。
数秒。
それからゆっくりと、机の上を示した。
四つの欠片が、ランタンの光を受けて鈍く輝いていた。
《星環計》の残骸。七つあった輪の欠片のうち、二つは因果データの取得に、一つは炉との共振で失われた。残りの四つ。恩師ソフィアの研究と人生が結晶した、最後の四欠片。
「分解の手順は整理できた。四つのうち三つを回路素材にすれば、あなたのハリセンに補助演算枠を組み込める。出力の微調整、範囲の限定、対象の指定——補正の因果波形だけに同調して、共振で分離する方式」
リネットの声に迷いはなかった。だが、欠片に向けた視線が一瞬だけ長かった。
「残りの一つは、手元に残す。もう術式素材としてはほとんど使えない。でも——」
言葉が途切れた。
ツカサは何も言わなかった。
あの欠片は道具じゃない。リネットにとっては恩師の存在を物理的に残す最後のものだ。あの勇者に壊されて、七つに砕けて、使うたびに一つずつ灰になっていった。残り四つ。そのうち三つを、さらに犠牲にする。
リネットはそれを分かった上で、手順を整理していた。ツカサが王都から帰ってくる前に。
「方法はある」
リネットは四つの欠片を見つめたまま言った。
「これを使えば」
ツカサは立ち上がった。右踵が抗議したが、無視した。
机まで歩いて、四つの欠片を見下ろした。鈍い銀色の光。砕ける前は七つの輪が精緻に噛み合って回転していたはずだ。今は四つの破片。それでもまだ、微かに光っている。
「……頼む」
それだけ言った。
リネットは小さく頷いて、端末を操作し始めた。画面に制御式の断片データと、補助演算枠の設計図が展開される。
窓の外では、王都の方角の空がまだ白く光っていた。
残滓が来るまで、あと一日か二日。
それまでに——あれを作る。
あの騎士のような人間を、もう出さないために。




