第28話「王都大襲撃イベント、国ぐるみで開幕」
二日が経った。
二日前の朝、ツカサは顔に煤を塗り、街道沿いの集落まで片道二時間を歩いて食料と鉛筆を買った。指名手配の触れ書きは集落の掲示板にも貼ってあったが、似顔絵は「やや鋭い目つきの黒髪の青年」という程度で、煤と泥で顔を汚した旅の少年には誰も二度見しなかった。干し肉の塊と黒パン二切れ、それと木炭の芯が入った鉛筆を一本。異世界の通貨は持っていなかったが、リネットが端末に入れていた少額の旅費を使った。
昨日の昼、リネットが補助演算枠の設計図を完成させた。
必要な《星環計》の欠片——三つ。
残りの全部だった。
リネットはそれを告げたとき、眼鏡のブリッジを指で押し上げただけで、声に揺れはなかった。ただ、コートの内ポケットに手を入れて布包みの感触を確かめる仕草を、ツカサは見ていた。
設計は終わった。だが実装——欠片を回路素材に分解し、ハリセンの出力系統へ組み込み、実地で調整する作業——はこれからだ。最低でも丸一日、失敗込みなら二日か三日。
そして今朝が来た。
ツカサは小屋の戸口に腰を下ろし、干し肉を千切りながら北東の空を見た。
白かった。
夜だけだった光が、もう朝日の下でも消えない。薄い絹を一枚かぶせたような、不自然に均された白が、王都がある方角の空を覆っている。雲ではない。風で流れない。太陽の光を透かしても、その白だけがじっと貼りついたまま残る。
炉の出力が、また上がった。
「——リネット」
声をかけると、小屋の奥から「起きてる」と短い返事が来た。
端末を膝に載せたまま、リネットは石の台に片肘をついていた。眼鏡の下に薄い隈ができている。昨夜も遅くまで波形データを回していたらしい。
「外、見たか」
「窓の隙間から。……昼間でもあれが見えるなら、炉の出力は二日前の一・四倍から一・五倍近くまで上がってる。体感じゃなくて、データが一致してる」
リネットは端末の画面を指先で弾いた。グラフの線が右肩上がりに跳ね上がっている。
「出力を上げてる理由は分かるか」
「分かる。——分かった、のほうが正確」
端末を回して、ツカサに画面を向けた。
「魔王残滓の移動軌跡。過去五日ぶんの推定位置を因果波形の擾乱域からプロットした」
地図の上に、赤い点が並んでいた。南東から北西へ。まっすぐ王都を指して。
「この軌跡と、炉の出力パルスのタイミングを重ねた」
もう一本、青い波形が重なった。赤い点が北西へ動くたびに、青い波が揺れている。同期していた。
「残滓は自然に王都へ向かってるわけじゃない。炉が出力を上げるたびに、残滓の進路が矯正されてる。聖堂が英雄叙事炉を使って——意図的に王都へ誘導してる」
ツカサの手が止まった。干し肉の断面が指の腹に冷たく触れていた。
「あいつらが呼んでるのか」
「英雄譚には、最後にぶつける敵が必要でしょう。レオの"史上最大の決戦"を成立させるためには、それに見合う脅威が王都に到達しなきゃいけない。——到達する方向も、規模も、タイミングも、全部調整されてる」
リネットの声は平坦だった。怒りを通り越して、分析に沈んでいる。
「脅威自体は本物よ。魔王残滓の破壊力は実際に危険。でもそれが"いつ""どこに""どのくらいの強さで"来るかは、聖堂と英雄叙事炉が決めてる」
「——仕込まれた災害か」
「郊外のやらせと同じ構造。でも規模が違う」
リネットは画面を切り替えた。王都の略図が出た。赤い点がいくつか、主要な通りの交差点に打たれている。
「これは因果波形の異常集積点。端末でも遠方から波形シグネチャは拾える。……主要退避路にあたる地点に、浅層補正の反応がある」
「被害拡大許容補正」
「たぶん。距離があるから補正の名前までは確定できないけど、波形パターンは辺境村で記録したものと同系統。避難経路を塞いで、被害の拡大を"許容"する補正」
ツカサは立ち上がった。干し肉を袋に戻し、手の脂をシャツの裾で拭いた。
「郊外のときは、被害規模が"ちょうどいい範囲"に抑えられてたんだろ」
「ええ。レオが"ギリギリ間に合って救う"のに最適な範囲。……今回は違う」
リネットが端末から目を上げた。翡翠色の瞳が、小屋の薄暗がりの中でまっすぐツカサを捉えた。
「今回は、**被害が大きいほどレオの救出が映える設計になってる**」
沈黙が、壁の隙間から差す朝の光の中で固まった。
「郊外のやらせは"適度な被害で英雄が助ける"ショーだった。でも王都は違う。全国中継がある。規模が大きいほど、救った時の英雄譚のスケールが跳ね上がる。被害を抑える設計じゃない。**被害を許容する設計**。逃げ場を絞って、壊される量を増やして、その中からレオが"劇的に"助け出す——」
「燃えたほうが、見栄えがいいからか」
声が低かった。ツカサ自身の声が、自分の耳に遠く聞こえた。
辺境村エルデン。
あの日のことが、音もなく甦った。
家屋が焼け、田畑が灰になり、冬支度の備蓄が一晩で消えた。死者は出さなかった。ツカサが走り回って子供と老人を裏路地から引きずり出したから。でも——**生活が焼けた**。写真立てを握って泣いていた老婆。孫の顔を見ながら、「命が助かっただけありがたい」と自分に言い聞かせていた、あの声。
あれと同じことが、今度は何万人の上に降る。
「構造が同じだ」
ツカサは呟いた。
「村でやったことを、都市でやろうとしてる。規模が違うだけだ。燃やして、壊して、人の暮らしを舞台装置にして、最後にレオが拍手を浴びる——同じ手口だ」
リネットは何も言わなかった。端末を膝から降ろして、両手で抱えるように持っていた。
その沈黙の間に、端末が甲高い音を立てた。
リネットが反射的に画面を確認する。
「——中継信号が出た」
「中継?」
「全国中継用の魔導信号。強い。……これは、王都中央広場からの発信」
リネットが端末の音声出力を上げた。雑音の奥から、声が浮かんだ。
よく通る声だった。
自信に満ちた、朗々とした、隙のない声。聞いたことがある。忘れるわけがない。
『——聞いてくれ、この国の全ての民よ!』
神城レオ。
中継の向こう側で、勇者が喋っている。
『魔王の残滓が、我らが王都ヴェルディアを狙っている! だが恐れることはない。俺がいる。この聖剣——ルクス・プリマがある限り、この街は、この国は、守られる!』
歓声が重なった。何千、何万という声が渦を巻いて、端末のスピーカーを震わせた。
『全員——この戦いの証人になれ! 俺が魔王の残滓を討ち、この国に平和を取り戻す! 勇者の物語の、最後の章が始まる!』
喝采。拍手。足踏み。号泣。
音の洪水が、小屋の石壁を叩いた。
ツカサは戸口に寄りかかったまま、腕を組んでいた。目を閉じてはいなかった。北東の空——あの不自然な白を、ずっと見ていた。
「——"証人になれ"、か」
声は静かだった。
「観客を動員してるだけじゃねえか」
中継はまだ続いている。レオの声に応じて、王宮の誰かが戒厳令の発令を告げている。王都全域の出入りが制限され、軍の指揮系統がレオを頂点に再編されると。全国中継の魔導具は王都各所に配置され、"勇者の決戦"をリアルタイムで全土へ届けると。
ツカサは聞いていた。一語も漏らさず。
中継魔導具が事前に設置されている。戒厳令が即座に発令できている。軍の再編が滑らかに進んでいる。
全部、準備済みだ。
昨日今日で整えられるものじゃない。何日も前から——おそらく残滓を誘導し始めた時点から、このイベントのための下準備は進んでいた。
「リネット」
「ええ」
「中継魔導具が事前に配置されてるのは、郊外の時と同じか」
「同じ。あの時も、騒ぎが始まる前から設置済みだった。今回はそれの大規模版。……全国中継って、この世界の情報インフラを考えたら異常な規模よ。国を挙げてやってる」
**国ぐるみ**。
王家。聖堂。騎士団。中継。戒厳令。避難経路の封鎖。残滓の誘導。
一人の勇者の見せ場のために、国家が丸ごと舞台装置として稼働している。
ツカサは壁から背を離し、小屋の中に入った。石の台の前に立ち、リネットの端末に目を落とした。王都の略図。赤い異常集積点。退避路を塞ぐ補正の痕跡。
「何万人だ」
「王都の人口は公称で十二万。実数はもう少し多いでしょうね。城外の郊外住民を含めたら十五万かそれ以上」
「その全員が、レオの英雄譚の——」
「燃料にされる。ええ。そういう設計」
リネットの声が、初めて少しだけ掠れた。
「エルデン村の時は、火が消えた後に写真立てを握って泣いてる人がいた。家と畑と備蓄を失って、それでも"命があるだけ"って飲み込まされてた。——あれが十五万人ぶんになる」
ツカサは右手を見た。
拳の関節に薄い瘡蓋が残っている。治りかけの皮膚が乾燥で白く浮いている。
あの村で走り回った手だ。子供を抱えて裏路地を駆け、老人の腕を引いて納屋の裏へ回った手。それでも家屋は燃えて、田畑は灰になった。
二度目は、ない。
同じ手口で人を踏み潰させるのは、もう終わりだ。
「リネット。残滓はあとどのくらいで来る」
リネットが端末を操作した。波形データのグラフが更新される。赤い軌跡の先端が、王都を示す点に近づいている。
リネットの指が止まった。
「……予測より早い」
「どのくらい」
「最短であと二日。遅くても四日以内」
ツカサは歯を噛んだ。
精密制御の実装には、最低でも丸一日。訓練を含めたら二日か三日。残滓が最短で来たら、間に合わない。
「精密制御は——」
「設計は終わってる。実装と調整に最短で丸一日、安全を見るなら二日。それは変わらない」
「じゃあ急ぐしかない」
「急ぐ。でも、それだけじゃ足りない」
リネットが端末の画面を王都略図に戻した。赤い異常集積点を指で示す。
「残滓が来る前に、王都で先にやらなきゃいけないことがある。——避難経路が絞られてる。レオの"劇的救出"を成立させるために、逃げ場が潰されてる。残滓が到達する前にこれを何とかしないと、着弾した瞬間に被害が跳ね上がる」
「補正を壊せばいいんだろ。退避路にかかってる浅層補正を」
「壊せる。あなたの今のハリセンでも壊せる。被害拡大許容補正は浅層だから、精密制御がなくても副作用なく剥がせる」
「だったら——」
「でも王都に入る必要がある。指名手配されてる状態で」
ツカサは黙った。
退避路の補正は、遠方から壊せない。ハリセンの射程は、ラベルが見える距離——つまり至近距離だ。壊すには王都に潜入して、封鎖地点を一つずつ回るしかない。
だがレオの深層補正——主人公補正核は、精密制御なしでは手が出せない。雑に殴れば、聖堂騎士の二の舞になる。レオの人格ごと引き剥がしてしまう。
二つの作業。片方は王都の中で。もう片方は小屋の中で。
同時に走らせるしかない。
「封鎖地点の補正は、先に潰しに行く」
ツカサは言った。
「王都に入って、退避路の浅層補正を壊す。それが終わったら戻ってくる。ハリセンの仕上げは——」
「私がここで進めておく。設計図の仕上げと分解手順の確定まではあなたがいなくてもできる。分解と実装は、戻ってきてから」
「いつ動く」
「ここから王都まで徒歩で半日。午後に出れば、日が暮れる頃に外壁近くまで着く。潜入は夜のほうがいい、人の目が少ないから。——変装は蓄積型で刻んでおく。王都の外壁が見えたら自分で起動して。起動してから六時間保つ」
「蓄積型?」
「術式パターンだけ先に肌に刻んでおいて、魔力の注入は起動時に一度だけ行う方式。私がその場にいなくても使える代わりに、起動は一回きり。六時間で消える」
「六時間で足りるか」
「封鎖地点は少なくとも三カ所。王都に入ってから地点を回って補正を叩いて、外壁の外まで出る。——六時間で足りるかどうかじゃなくて、六時間で終わらせて。余ったら変装が保つうちに離脱する。切れてから王都の中にいたら指名手配の顔がそのまま出る」
「要するに、時間勝負」
「そう。だから迷わないで」
「合流は」
「封鎖補正を潰したら、王都を出て即座に戻って。設計図の詰めは一人で進めておくけど、欠片の分解から先はあなたのハリセンが要る。——遅くとも明日の夜まで」
明日の夜。最短で残滓到達まであと二日。ぎりぎりだ。
「分かった。午後まで何をする」
「変装の刻印と、退避路の波形データの転写。潜入したら端末は持っていけない——私の手元で解析を回し続けるから、集積点の位置はあなたの紙の地図に写しておく」
ツカサは頷いた。
午前中が、準備で埋まった。
リネットが端末のスタイラスの先から淡い光を灯し、ツカサの左の手首の内側に小さな幾何学模様を刻んでいく。冷たくもなく熱くもない、微かな圧力が皮膚の上を走る感触だった。
「起動は簡単よ。この紋様の中心を親指で三秒押さえるだけ。じわっと温かくなったら発動してる」
「痛みは」
「ない。ただし一回きりだから、無駄打ちしないで。外壁が見えてから」
刻印が済むと、ツカサは端末の略図を覗き込み、退避路の異常集積点の配置を鉛筆で紙に写した。正確な地点は現場で因果ラベルを視認しないと分からないが、おおよその位置と数——少なくとも三カ所の強い反応——は把握できた。
リネットは刻印の作業を終えると、すぐに石の台の上に《星環計》の欠片の布包みを広げ、分解手順の最終確認に入った。三つの欠片を並べ、端末の設計図と照らし合わせながら、どの欠片のどの回路層から切り出すかを鉛筆で書き込んでいく。
ツカサが手を出せる作業ではなかった。黙って水袋の水を補充し、干し肉を携行ぶんと留守番ぶんに分け、ローファーの踵を踏み直して足をしっかり入れた。歩き通しで革が伸びている。右踵の鈍痛はいつも通りだった。
南向きの窓から差す光が、板の隙間を通って石の床を這い、じりじりと角度を変えていった。朝の細い線だった光が、いつの間にか斜め下へ傾いている。
午後になっていた。
「——できた」
リネットが顔を上げた。端末の画面には、三つの欠片それぞれの分解順序と切り出し箇所が色分けで表示されている。
「ツカサ。変装の起動を忘れないで。外壁が見えてから、紋様の中心を三秒。——六時間過ぎたら顔が戻るから、それまでに必ず王都の外に出て」
ツカサは左手首の内側を見た。薄い幾何学模様が、肌の色に溶け込むように刻まれている。触れても凹凸はない。知らなければ気づかない。
腰の右側に布で括りつけたハリセンに手を当てた。張りぼての感触が、ベルトと端切れ越しに掌へ返ってくる。
軽い。どこまでも軽い。聖剣でもない。魔法の杖でもない。文化祭の小道具から生まれた、ただの張りぼて。
でもこれで壊せる。少なくとも、退避路を塞いでいる浅い補正は。
深い補正は——戻ってきてから仕上げる。
「一つ確認していいか」
「何」
「避難経路の補正が消えたら、封鎖の不自然さに気づく人間は出てくるか」
「出てくる。補正がなければ、現場の騎士や市民は自分の頭で判断できるようになる。物理的なバリケードまでは壊せないかもしれないけど、"なぜここが封鎖されてるのか"に疑問を持てるだけで、状況は変わる」
「充分だ」
ツカサは水袋を肩にかけ、干し肉の袋を腰に括りつけた。右踵に鈍い痛みが走ったが、もう慣れていた。
戸口で一度だけ振り返った。
リネットは石の台に端末と布包みを並べていた。布包みの中に、四つの欠片がある。先生の遺したものの、最後の全部。
あのうち三つを使って、ハリセンを完成させる。
それができたら——レオの胸で脈動している、あの巨大な主人公補正核を、人格に触れずに砕ける。
「先に行く。退避路を開けてくる」
「——気をつけて」
リネットの声は、普段より少しだけ低かった。
ツカサは頷いて、丘を下りはじめた。
午後の日差しが背中を押した。北東の空が白い。その白の下に、踏み台にされる十五万人がいる。
あの光を止める。
今度は——村の続きを、王都で終わらせる。




