表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/33

第26話「お前らが守ってるの、希望じゃなくて"気持ちいい脚本"だろ」

 朝の光が窓から差し込んで、ツカサは目を開けた。


 石壁の冷たさが背中に馴染んでいる。昨夜はいつの間にか壁にもたれて眠っていたらしい。首の右側が痛い。


 目の前で、リネットがすでに端末を開いていた。


 画面に流れる数式と波形図が淡い光を放ち、彼女の横顔を下から照らしている。眼鏡の奥の翡翠色の瞳が、データの行を追うたびに微かに左右する。


「……いつから起きてた」


「二時間前。先生のメモの数値と、私の過去の観測ログを時系列で並べてる。まだ全然足りない」


 声に疲労の色はない。集中しているときのリネットは、空腹も眠気も後回しにする癖がある。


 ツカサは立ち上がり、荷袋の中を確認した。干し果物が五粒。パンの切れ端が掌に収まる程度。二人で分けたら昼までもたない。


 それから、指の間に挟んだままだった鉛筆の軸を見た。芯のない木の棒。書くものがなければ記録は増えない。


「買い出しがいる。食い物と、鉛筆」


「通貨がないのに?」


「……そうだった」


 リネットの視線が一瞬だけ端末から離れ、ツカサの顔を見た。


「村で何か手伝えば対価をもらえるかもしれないけど、あなた指名手配されてるのよ」


「顔が割れてるかどうかだな。布告が回ってるのは王都と主要街道沿いだろ。近郊の小さい村なら、まだ」


 そこまで言いかけたとき、リネットの端末が短く震えた。


 画面の隅に、赤い警告が点滅する。


「——因果波形の異常検知。方角は東北東、距離……近い。街道沿いの集落圏内」


 リネットの指が端末を叩く速度が変わった。解析モードに切り替わったのが、画面の光の色でわかる。


「魔力循環の乱れ。魔物の発生パターンに近いけど、自然発生にしては急すぎる」


「炉の出力が上がってるって話だったな」


「ええ。英雄叙事炉の出力上昇に引きずられて、周辺の因果が不安定になってる。小規模なテンプレ因子の核が、あちこちで自然凝固し始めてるのかもしれない」


 ツカサは腰の右側に括りつけたハリセンに手を伸ばした。張りぼてが、指先に触れる。


「行くぞ」


 リネットは端末を閉じずにコートの内側へ滑り込ませ、立ち上がった。


  *


 石の小屋から東へ、丘陵の裏手を抜けて街道に出るまで、小走りで二十分弱。


 右足の踵がいつも通り鈍く痛む。走ると振動が響いて、足首から脛まで重い不快感が這い上がる。もう慣れた。慣れたことが嫌だった。


 街道に合流すると、東北東——王都の方角に、薄い煙が上がっていた。


「あの辺り、地図で見たことがある。畑と牧草地に囲まれた小さな村よ。三十戸くらいの」


 リネットが端末を片手に併走する。走りながら画面を確認する器用さは、フィールドワーク経験のたまものだろう。ツカサにはできない芸当だ。


「因果波形、さっきより振幅が大きくなってる。核がまだ活性化してる最中ね」


「間に合うか」


「走れば」


 二人は走った。


  *


 村に着いたとき、最初に見えたのは、畑の畝を踏み荒らして暴れる三頭の魔物だった。


 体高は牛ほど。猪に似た体型だが、背中に赤黒い棘が密生し、目が四つある。鼻面から噴き出す息が地面の草を枯らしている。


 村人たちは家の中に逃げ込んでいた。戸板の隙間から怯えた目が覗いている。窓を閉め切った家から、子供の泣き声がくぐもって聞こえた。


 そして——


 ツカサの目に、それが見えた。


 村の中央、井戸の上空に浮かぶ因果ラベル。


 【襲撃イベント発生フラグ】


 半透明の文字が、空中で脈動している。文字の下に、もうひとつ。


 【被害拡大】


 辺境村エルデンで見たのと同じだ。


 ただし、あのときより小さい。淡い。核の密度が低い。英雄叙事炉の余波が固まっただけの、言わば破片のようなものだろう。


「リネット」


「端末に反応——浅層の因果核よ。波形が浅い。発生したばかりで根が浅い。今のあなたなら一撃で壊せるはず」


 ツカサはハリセンを抜いた。


 張りぼての紙と竹ひごが手に馴染む。この武器を笑う人間は多い。ツカサ自身も、最初は笑っていた。


 でも今は、これでしか壊せないものがある。


 魔物の一頭がツカサに気づいた。四つの目が一斉にこちらを向く。鼻面の息が太くなり、枯れ草の焦げた匂いが風に乗って届いた。


 突進してくる。


「ツカサ、端末の反応が最も強いのは井戸の真上。因果波形の供給源がそこにある。魔物はその異常波形に引き寄せられてるだけ。供給源を壊せば収まる」


「わかってる」


 魔物の突進を横に跳んで躱した。ローファーの底が土を削り、右足の踵に衝撃が走る。歯を食いしばった。


 二頭目が横合いから突っ込んでくる。棘の生えた背中が柵を薙ぎ倒し、木片が弾け飛んだ。


 ツカサは走った。


 魔物の間を縫い、井戸へ向かう。背後で三頭目の蹄が地面を叩く音がした。振り返らない。


 井戸の縁に片手をついて、跳んだ。


 空中で、ラベルが真正面に来る。


 【襲撃イベント発生フラグ】


 半透明の文字が目の前で脈を打っている。エルデンで見たものより薄い。根が浅い。だからこそ——


 振りかぶった。


 ハリセンが空気を裂く。張りぼてから放たれた衝撃が因果ラベルにぶつかる。


 ——ぱん。


 乾いた音。


 ラベルが砕けた。破片が光の粒になって散り、空気に溶ける。同時に【被害拡大】のラベルも薄れ、ひび割れ、消えた。浅い核は、主核が壊れれば付随するものも連鎖して崩れる。


 ツカサは井戸の向こう側に着地した。右足の踵が石畳を打ち、鈍痛が膝まで突き抜けた。


 ——後ろ。


 振り返ると、三頭の魔物が動きを止めていた。


 四つの目が忙しなく瞬いている。背中の棘が縮み、鼻面から噴き出していた枯死の息が止まった。一頭がのろのろと首を振り、自分がどこにいるのか確かめるように周囲を見回している。


「因果エネルギーの供給が途絶えた。異常行動パターンが解除されてる」


 リネットが端末を操作しながら、村の外縁部に立っていた。走ってきたはずなのに、息はもう整っている。端末の画面を見つめる目が冷静だ。


「魔力循環を整えるわ。周辺の残留因果が散逸するように、この辺りの地脈の流れを少し調整する。五分ちょうだい」


 リネットの指が端末を叩く。画面に複雑な術式が展開され、空気中に微かな光の線が走った。


 その間に、魔物たちは完全に大人しくなった。棘が寝て、目が二つずつ閉じ、やがて一頭が森の方角へとろとろ歩き始める。残りの二頭もそれに倣うように、畑から出ていった。


 村に、沈黙が戻る。


 最初に戸を開けたのは、日焼けした腕の壮年の男だった。


 鍬を握ったまま、魔物が去った畑と、井戸の傍に立つツカサを交互に見ている。


「……あんた、旅の人か」


「まあ、そんなところだ」


「あの化け物ども、何だったんだ。急に暴れ出して、うちの牛小屋の壁をぶち抜いて——」


「この辺りの魔力が不安定になってた。おかしくなってた原因は潰した。しばらくは同じことは起きないはずだ」


 嘘ではない。核を壊した。ただし、英雄叙事炉の出力が上がり続ける限り、また別の場所で別の核が凝固する可能性はある。それを言っても仕方がないから、言わなかった。


 男は鍬を下ろした。警戒が完全には解けていないが、目の前で魔物が去ったのは事実だ。


「——ありがとよ。正直、もうだめかと思った」


 他の家からも、ぽつぽつと人が出てきた。


 エプロンをつけたままの中年女性が、畑の惨状を見て口を押さえている。壁を壊された牛小屋の持ち主らしい老人が、崩れた板壁を呆然と見つめていた。


 それでも、怪我人はいない。


「あんた、怪我してないかい」


 エプロンの女性がツカサの手を見た。拳の皮が剥けた跡が、まだ赤い。


「これは前からだ。大丈夫」


「水くらい持っていきなよ。あんたもそっちのお嬢さんも、走ってきたんだろう」


 リネットが端末を閉じて、村の中に入ってきた。調整は終わったらしい。


 井戸から汲んだ水を差し出され、二人は受け取った。冷たい水が喉を通る。走った後の身体に、それだけで少し力が戻る。


 村人たちの顔に、少しずつ安堵が広がっていた。


 壮年の男が、ツカサの肩を叩いた。


「助かったよ。ほんとに。——名前、聞いていいか」


 ツカサは一瞬だけ迷った。


 指名手配されている。名前を出せば、あとで面倒になるかもしれない。


 でも。


 助けた相手に偽名を使うのは、自分の信じたいものと違う。


「——ツカサだ」


 男は頷いた。「ツカサか。覚えとくよ」


  *


 その空気が壊れたのは、三十分も経たないうちだった。


 街道の方角から、蹄の音が近づいてきた。


 二騎。


 白銀の鎧に太陽紋。面頬付きの兜。


 聖堂の巡回騎士だった。


 ツカサの背筋に、温度のない緊張が走る。視界の解像度が一段上がった。周囲の音が遠くなり、蹄の音だけが鮮明になる。


 騎士たちは村の入り口で馬を止め、兜の面頬を上げた。一人は若い。もう一人は顎に傷がある壮年の騎士。


 壮年の騎士の視線が、村を一巡して——ツカサで止まった。


「——貴様」


 声が変わった。命令と教義を反復する、あの口調。


 壮年の騎士が馬を降りた。甲冑が石畳に響く。


「黒髪。汚れたシャツ。腰に——なんだ、その紙の武器は」


 若い騎士が懐から紙を取り出した。布告の写し。ツカサの特徴が列記されているのだろう。


「聖堂布告第七四三号に基づき通告する」


 壮年の騎士が声を張った。村全体に聞こえる声量。


「**この男は、英雄譚を乱し民衆の希望を損なう異端者として、聖堂より指名手配を受けている。すみやかにこの者から離れよ**」


 空気が凍った。


 さっきまでツカサに水を差し出していた女性が、手を引っ込めた。壮年の男が鍬を拾い直し、半歩後ずさる。


「——え?」


 誰かが呟いた。


「異端者? この人が?」


「さっき魔物を追い払ってくれた——」


「黙れ。異端者の言に惑わされるな。こやつの存在そのものが、この地の因果を乱している」


 壮年の騎士が断言した。揺るぎのない声だった。自分の言葉を疑った形跡がない。命令をそのまま声に変換する装置のように、淀みがなかった。


 ツカサは見た。


 騎士の頭上に、淡いラベルが揺れている。


 【批判者矮小化補正】


 レオの主人公補正から派生する中層の補正。レオから離れるほど減衰し、「レオを批判する文脈」で強く発動する。


 今、この騎士は布告を読んでいる。布告の内容は「勇者を乱す異端者」。文脈そのものが、補正を呼び込んでいる。


 そしてもうひとつ。


 騎士の言葉を聞いた村人たちの頭上にも、薄く——本当に薄く——同じラベルの影が滲み始めていた。


 伝播する。


 騎士の声が媒介になって、補正が空気に溶けていく。


 さっき名前を覚えると言った壮年の男が、ツカサを見る目に迷いを浮かべている。助けてもらった記憶は消えていない。でも、聖堂の騎士が「異端者だ」と断じた。権威が言葉に乗り、補正がその言葉に説得力を上乗せする。


 ——また、これか。


 ツカサは奥歯を噛んだ。


「リネット」


「わかってる。退くわ」


 リネットの声は低く、冷静だった。


 彼女はまだ指名手配されていない。だが、ツカサと一緒にいるところを記録されれば、次の布告に名前が載る可能性がある。


 ツカサは村人たちを見た。


 エプロンの女性が、目を伏せている。水をくれた手を、エプロンの裾で拭いていた。何かを消すように。


 壁を壊された老人だけが、まだこちらを見ていた。目が合った。老人は何も言わなかったが、その目は——怒っていた。ツカサにではない。状況に。自分の足元が急に変わったことに。


 でも、声は出ない。


 ツカサは踵を返した。


 背中に、壮年の騎士の声が追いかけてくる。


「ここは聖堂が管轄する。住民への聴取を行い、被害状況を記録する。異端者の暴虐に関する報告書を作成する」


 ——被害状況。


 魔物を退けたことが、「異端者の暴虐」になる。


 聴取。


 「あいつに助けてもらった」という証言が、どう書き換えられるか。想像するまでもない。


  *


 村から街道を外れ、丘の裏手まで戻ったとき、ツカサは一度だけ振り返った。


 村は見えない。丘の稜線に遮られている。でも、あの村で今何が起きているかは——わかる。


 騎士が村人から聴取する。「異端者が現れた」「魔物が暴れた」「騎士が駆けつけた」。事実の断片は嘘ではない。ただし、順番が書き換わる。因果が逆転する。


 「魔物を呼んだのは異端者だ」。「聖堂の騎士が事態を収拾した」。


 助けた側が加害者になり、後から来た側が救世主になる。


 エルデンで見た構造と同じだ。手柄の帰属が書き換わる。ただし今回は、レオではなく聖堂が受け皿になっている。


 本質は変わらない。


 ツカサは歩いた。右足の踵が鈍く痛む。朝から走った分、いつもより重い。


「——リネット」


「何」


「あの騎士の頭に、批判者矮小化補正が乗ってた。あいつが布告を読み上げた瞬間、村人にも伝播した。薄いけど、確かに」


 リネットは端末を見ていた。歩きながらデータを確認している。


「そうでしょうね。布告の文言自体が"勇者の批判者"という文脈を作るから、その文脈に乗って補正が空気感染する。騎士個人の悪意ではなく、仕組みとしてそうなってる」


「だからどうしようもないって言いたいのか」


「逆よ。だから個別に訂正しても無駄だと言ってるの」


 リネットの足が止まった。


 ツカサも止まる。


 彼女は端末を閉じて、コートのポケットに入れた。眼鏡の奥の瞳が、ツカサを真っ直ぐに見ている。


「あの村で起きたことは、数時間後には王都の伝令網に乗る。『異端者が王都近郊の村を襲撃した。聖堂が鎮圧した』。あなたが魔物を退けたことは消える。村人が感謝したことも消える。代わりに、勇者を脅かす危険人物の凶行として記録される」


「わかってる」


「じゃあ、怒ってるのは何に?」


 ツカサは息を吐いた。


 怒りは、あった。ずっとある。追放されたときから。いや、もっと前——辺境村エルデンで、焼け跡の写真立てを握る老婆を見たときから。


 でも今の怒りは、少し違う。


「……聖堂も、あの騎士も、布告を聞いた村人も」


 言葉を選ぶ。選びきれない。だから、そのまま口にした。


「守ってるのは、**人の命**じゃない」


 丘の風が吹いた。草が揺れる。


「**"勇者が救ってくれる気持ちいい脚本"を守ってるだけだ**。現実に誰が助けたかなんて、脚本に合わなけりゃ書き換える。あの村人たちは、目の前で助けられたのに——布告ひとつで、自分の経験を疑い始めた。見たものより、聞かされたことを信じるように、空気ごと持っていかれた」


 リネットは黙っていた。


 反論ではなく、続きを待っている沈黙だった。


「怒ってるのは、聖堂にだけじゃない。俺が一番腹が立ってるのは——**あの仕組みに乗っかって安心してる空気のほうだ**。勇者がいれば大丈夫。聖堂が守ってくれる。その安心の中身が、人の命の安全じゃなくて、**気持ちいい物語が続くことの安心**になってる」


 拳を握った。皮の剥けた関節が引きつれて痛む。


「あの老人だけ、怒ってたよ。壁を壊された老人。あの人だけ、おかしいって目をしてた。でも声は出せなかった。あの空気の中で、一人だけ違うことを言うのは——」


 自分がやってきたことだ。


 レオの前で。王宮の前で。パーティの中で。


 そして追放された。


 声を上げた人間を排除する仕組みが、精度を上げて動いている。


「……だからこそ」


 リネットが口を開いた。


「個別の嘘を一つずつ訂正しても追いつかないのよ。布告を撤回させても、次の布告が出る。あの村の記憶を正しても、隣の村で同じことが起きる。**大元を止めないと**。脚本を作り続けてる装置を」


「……炉を、止められるのか」


「ええ」


 ツカサは頷いた。


 正しいことをしても報われない。それは辛い。でも辛さの本質は、報われないことじゃない。


 ——正しいことが、正しいまま記録されないことだ。


 誰が助けたか。誰が壊したか。誰が泣いたか。その全部が、脚本の都合で上書きされる。


 だったら、脚本を書いてる側を止めるしかない。


「次は、大元に行く」


「順番通りよ。まず先生のメモと観測データの照合を終わらせる。炉の制御構造がわからなければ、殴りに行っても殴る場所がない」


「……お前がいなかったら、俺は多分、ただ殴りに行ってた」


「知ってる。だから私がいるの」


 リネットの声に、ほんの少しだけ柔らかいものが混じった。


 ほんの少しだけ。


 二人は丘の裏手を南西へ歩き始めた。石の小屋へ戻る道。日が傾き始めている。


  *


 街道を避けて丘陵の裏道を辿っているとき、リネットの端末がまた震えた。


 今度は因果波形の警告ではない。通信の着信。


 リネットが端末を開いた。画面に文字が流れる。


 彼女の足が止まった。


 ツカサも止まる。


 リネットの表情が——一瞬だけ、凍った。


 唇が薄く開き、眼鏡の奥の瞳が画面に釘づけになる。呼吸が止まっていた。三秒。五秒。


 それから、唇を引き結んだ。


「……ナタリアから」


「確か学院時代の同窓の子か」


「情報が早い子で、研究仲間の間では伝書鳩って呼ばれてた」


 リネットの指が端末を握り直した。力が入っている。


「聖堂が——私を**『危険研究者』として指定した**。学院への出入り禁止。**アクセス権の全面封鎖**が通達された」


 風が吹いた。草の穂が揺れる音だけが、二人の間に落ちた。


 リネットの声は平坦だった。感情を意図的に均している声。ツカサはもう、その声の裏にあるものを知っている。


「……ギリギリだった」


 リネットが呟いた。


「あと一日遅れてたら、昨日の禁書庫調査が丸ごとできなかった。必要な記録は——もう、取ってある」


「昨日の潜入が、嗅ぎつけられたんだな」


「おそらく。禁書庫の入退館記録は学院管理だけど、聖堂から照会があれば開示される。私が長時間滞在していた記録と、ツカサの指名手配を結びつけるのは——それほど難しくない」


 ツカサは考えた。


 リネットの学院アクセス権は、ここまでの調査の生命線だった。禁書庫に入れたのも、恩師のメモを見つけられたのも、この権限があったからだ。


 それが閉じた。


 だが、閉じたタイミングは——最悪ではなかった。必要な記録は昨日取得済み。恩師の紙片もコートの中にある。


「リネット」


「大丈夫。データは全部端末にある。先生の紙片もここに。失ったのは、今後の追加調査の手段だけ。今持っている材料で、炉の制御構造は解析できる。できなきゃ、する」


 声が硬い。でも折れてはいない。


 ツカサは別のことを考えていた。


「……包囲を狭めてきてる」


 リネットが顔を上げた。


「聖堂は、俺たちが炉に近づいてることに気づき始めてる。指名手配だけじゃ足りないから、お前の権限も潰しに来た。次は——」


「次は、私の指名手配ね」


「だろうな」


 沈黙。


 丘の上から、遠く東北東の空を見た。王都の方角。夕日を受けた雲の下に、不自然に白い光がうっすらと滲んでいる。炉の出力上昇に伴う現象だと、リネットが以前言っていた。


 光が、じわじわと明るくなっている。


 逃げる猶予が、削られている。


「急ごう」


 リネットが言った。端末をコートに戻す。


「先生のメモと私のデータの照合。今夜中に終わらせる。炉の制御構造の、少なくとも骨格だけでも。時間がない」


「食い物と鉛筆は——」


「明日、あなたが街道沿いで何か調達して。顔が割れていない範囲で。私はデータに集中する」


 ツカサは頷いた。


 二人は小屋へ向かって歩き始めた。


 背中に、王都方面の白い光がちらついている。振り返らなかった。


 正しいことをしても書き換えられる。助けても加害者にされる。権限は潰される。包囲は狭まる。


 でも。


 手の中に、データがある。記録がある。証言がある。


 怒りがある。


 それは、脚本には書き換えられない。


 ツカサは右手で腰のハリセンに触れた。張りぼてが、腰の横で乾いた音を立てた。


 まだ殴れる。


 殴る場所を、見つけるだけだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ