第26話「お前らが守ってるの、希望じゃなくて"気持ちいい脚本"だろ」
朝の光が窓から差し込んで、ツカサは目を開けた。
石壁の冷たさが背中に馴染んでいる。昨夜はいつの間にか壁にもたれて眠っていたらしい。首の右側が痛い。
目の前で、リネットがすでに端末を開いていた。
画面に流れる数式と波形図が淡い光を放ち、彼女の横顔を下から照らしている。眼鏡の奥の翡翠色の瞳が、データの行を追うたびに微かに左右する。
「……いつから起きてた」
「二時間前。先生のメモの数値と、私の過去の観測ログを時系列で並べてる。まだ全然足りない」
声に疲労の色はない。集中しているときのリネットは、空腹も眠気も後回しにする癖がある。
ツカサは立ち上がり、荷袋の中を確認した。干し果物が五粒。パンの切れ端が掌に収まる程度。二人で分けたら昼までもたない。
それから、指の間に挟んだままだった鉛筆の軸を見た。芯のない木の棒。書くものがなければ記録は増えない。
「買い出しがいる。食い物と、鉛筆」
「通貨がないのに?」
「……そうだった」
リネットの視線が一瞬だけ端末から離れ、ツカサの顔を見た。
「村で何か手伝えば対価をもらえるかもしれないけど、あなた指名手配されてるのよ」
「顔が割れてるかどうかだな。布告が回ってるのは王都と主要街道沿いだろ。近郊の小さい村なら、まだ」
そこまで言いかけたとき、リネットの端末が短く震えた。
画面の隅に、赤い警告が点滅する。
「——因果波形の異常検知。方角は東北東、距離……近い。街道沿いの集落圏内」
リネットの指が端末を叩く速度が変わった。解析モードに切り替わったのが、画面の光の色でわかる。
「魔力循環の乱れ。魔物の発生パターンに近いけど、自然発生にしては急すぎる」
「炉の出力が上がってるって話だったな」
「ええ。英雄叙事炉の出力上昇に引きずられて、周辺の因果が不安定になってる。小規模なテンプレ因子の核が、あちこちで自然凝固し始めてるのかもしれない」
ツカサは腰の右側に括りつけたハリセンに手を伸ばした。張りぼてが、指先に触れる。
「行くぞ」
リネットは端末を閉じずにコートの内側へ滑り込ませ、立ち上がった。
*
石の小屋から東へ、丘陵の裏手を抜けて街道に出るまで、小走りで二十分弱。
右足の踵がいつも通り鈍く痛む。走ると振動が響いて、足首から脛まで重い不快感が這い上がる。もう慣れた。慣れたことが嫌だった。
街道に合流すると、東北東——王都の方角に、薄い煙が上がっていた。
「あの辺り、地図で見たことがある。畑と牧草地に囲まれた小さな村よ。三十戸くらいの」
リネットが端末を片手に併走する。走りながら画面を確認する器用さは、フィールドワーク経験のたまものだろう。ツカサにはできない芸当だ。
「因果波形、さっきより振幅が大きくなってる。核がまだ活性化してる最中ね」
「間に合うか」
「走れば」
二人は走った。
*
村に着いたとき、最初に見えたのは、畑の畝を踏み荒らして暴れる三頭の魔物だった。
体高は牛ほど。猪に似た体型だが、背中に赤黒い棘が密生し、目が四つある。鼻面から噴き出す息が地面の草を枯らしている。
村人たちは家の中に逃げ込んでいた。戸板の隙間から怯えた目が覗いている。窓を閉め切った家から、子供の泣き声がくぐもって聞こえた。
そして——
ツカサの目に、それが見えた。
村の中央、井戸の上空に浮かぶ因果ラベル。
【襲撃イベント発生フラグ】
半透明の文字が、空中で脈動している。文字の下に、もうひとつ。
【被害拡大】
辺境村エルデンで見たのと同じだ。
ただし、あのときより小さい。淡い。核の密度が低い。英雄叙事炉の余波が固まっただけの、言わば破片のようなものだろう。
「リネット」
「端末に反応——浅層の因果核よ。波形が浅い。発生したばかりで根が浅い。今のあなたなら一撃で壊せるはず」
ツカサはハリセンを抜いた。
張りぼての紙と竹ひごが手に馴染む。この武器を笑う人間は多い。ツカサ自身も、最初は笑っていた。
でも今は、これでしか壊せないものがある。
魔物の一頭がツカサに気づいた。四つの目が一斉にこちらを向く。鼻面の息が太くなり、枯れ草の焦げた匂いが風に乗って届いた。
突進してくる。
「ツカサ、端末の反応が最も強いのは井戸の真上。因果波形の供給源がそこにある。魔物はその異常波形に引き寄せられてるだけ。供給源を壊せば収まる」
「わかってる」
魔物の突進を横に跳んで躱した。ローファーの底が土を削り、右足の踵に衝撃が走る。歯を食いしばった。
二頭目が横合いから突っ込んでくる。棘の生えた背中が柵を薙ぎ倒し、木片が弾け飛んだ。
ツカサは走った。
魔物の間を縫い、井戸へ向かう。背後で三頭目の蹄が地面を叩く音がした。振り返らない。
井戸の縁に片手をついて、跳んだ。
空中で、ラベルが真正面に来る。
【襲撃イベント発生フラグ】
半透明の文字が目の前で脈を打っている。エルデンで見たものより薄い。根が浅い。だからこそ——
振りかぶった。
ハリセンが空気を裂く。張りぼてから放たれた衝撃が因果ラベルにぶつかる。
——ぱん。
乾いた音。
ラベルが砕けた。破片が光の粒になって散り、空気に溶ける。同時に【被害拡大】のラベルも薄れ、ひび割れ、消えた。浅い核は、主核が壊れれば付随するものも連鎖して崩れる。
ツカサは井戸の向こう側に着地した。右足の踵が石畳を打ち、鈍痛が膝まで突き抜けた。
——後ろ。
振り返ると、三頭の魔物が動きを止めていた。
四つの目が忙しなく瞬いている。背中の棘が縮み、鼻面から噴き出していた枯死の息が止まった。一頭がのろのろと首を振り、自分がどこにいるのか確かめるように周囲を見回している。
「因果エネルギーの供給が途絶えた。異常行動パターンが解除されてる」
リネットが端末を操作しながら、村の外縁部に立っていた。走ってきたはずなのに、息はもう整っている。端末の画面を見つめる目が冷静だ。
「魔力循環を整えるわ。周辺の残留因果が散逸するように、この辺りの地脈の流れを少し調整する。五分ちょうだい」
リネットの指が端末を叩く。画面に複雑な術式が展開され、空気中に微かな光の線が走った。
その間に、魔物たちは完全に大人しくなった。棘が寝て、目が二つずつ閉じ、やがて一頭が森の方角へとろとろ歩き始める。残りの二頭もそれに倣うように、畑から出ていった。
村に、沈黙が戻る。
最初に戸を開けたのは、日焼けした腕の壮年の男だった。
鍬を握ったまま、魔物が去った畑と、井戸の傍に立つツカサを交互に見ている。
「……あんた、旅の人か」
「まあ、そんなところだ」
「あの化け物ども、何だったんだ。急に暴れ出して、うちの牛小屋の壁をぶち抜いて——」
「この辺りの魔力が不安定になってた。おかしくなってた原因は潰した。しばらくは同じことは起きないはずだ」
嘘ではない。核を壊した。ただし、英雄叙事炉の出力が上がり続ける限り、また別の場所で別の核が凝固する可能性はある。それを言っても仕方がないから、言わなかった。
男は鍬を下ろした。警戒が完全には解けていないが、目の前で魔物が去ったのは事実だ。
「——ありがとよ。正直、もうだめかと思った」
他の家からも、ぽつぽつと人が出てきた。
エプロンをつけたままの中年女性が、畑の惨状を見て口を押さえている。壁を壊された牛小屋の持ち主らしい老人が、崩れた板壁を呆然と見つめていた。
それでも、怪我人はいない。
「あんた、怪我してないかい」
エプロンの女性がツカサの手を見た。拳の皮が剥けた跡が、まだ赤い。
「これは前からだ。大丈夫」
「水くらい持っていきなよ。あんたもそっちのお嬢さんも、走ってきたんだろう」
リネットが端末を閉じて、村の中に入ってきた。調整は終わったらしい。
井戸から汲んだ水を差し出され、二人は受け取った。冷たい水が喉を通る。走った後の身体に、それだけで少し力が戻る。
村人たちの顔に、少しずつ安堵が広がっていた。
壮年の男が、ツカサの肩を叩いた。
「助かったよ。ほんとに。——名前、聞いていいか」
ツカサは一瞬だけ迷った。
指名手配されている。名前を出せば、あとで面倒になるかもしれない。
でも。
助けた相手に偽名を使うのは、自分の信じたいものと違う。
「——ツカサだ」
男は頷いた。「ツカサか。覚えとくよ」
*
その空気が壊れたのは、三十分も経たないうちだった。
街道の方角から、蹄の音が近づいてきた。
二騎。
白銀の鎧に太陽紋。面頬付きの兜。
聖堂の巡回騎士だった。
ツカサの背筋に、温度のない緊張が走る。視界の解像度が一段上がった。周囲の音が遠くなり、蹄の音だけが鮮明になる。
騎士たちは村の入り口で馬を止め、兜の面頬を上げた。一人は若い。もう一人は顎に傷がある壮年の騎士。
壮年の騎士の視線が、村を一巡して——ツカサで止まった。
「——貴様」
声が変わった。命令と教義を反復する、あの口調。
壮年の騎士が馬を降りた。甲冑が石畳に響く。
「黒髪。汚れたシャツ。腰に——なんだ、その紙の武器は」
若い騎士が懐から紙を取り出した。布告の写し。ツカサの特徴が列記されているのだろう。
「聖堂布告第七四三号に基づき通告する」
壮年の騎士が声を張った。村全体に聞こえる声量。
「**この男は、英雄譚を乱し民衆の希望を損なう異端者として、聖堂より指名手配を受けている。すみやかにこの者から離れよ**」
空気が凍った。
さっきまでツカサに水を差し出していた女性が、手を引っ込めた。壮年の男が鍬を拾い直し、半歩後ずさる。
「——え?」
誰かが呟いた。
「異端者? この人が?」
「さっき魔物を追い払ってくれた——」
「黙れ。異端者の言に惑わされるな。こやつの存在そのものが、この地の因果を乱している」
壮年の騎士が断言した。揺るぎのない声だった。自分の言葉を疑った形跡がない。命令をそのまま声に変換する装置のように、淀みがなかった。
ツカサは見た。
騎士の頭上に、淡いラベルが揺れている。
【批判者矮小化補正】
レオの主人公補正から派生する中層の補正。レオから離れるほど減衰し、「レオを批判する文脈」で強く発動する。
今、この騎士は布告を読んでいる。布告の内容は「勇者を乱す異端者」。文脈そのものが、補正を呼び込んでいる。
そしてもうひとつ。
騎士の言葉を聞いた村人たちの頭上にも、薄く——本当に薄く——同じラベルの影が滲み始めていた。
伝播する。
騎士の声が媒介になって、補正が空気に溶けていく。
さっき名前を覚えると言った壮年の男が、ツカサを見る目に迷いを浮かべている。助けてもらった記憶は消えていない。でも、聖堂の騎士が「異端者だ」と断じた。権威が言葉に乗り、補正がその言葉に説得力を上乗せする。
——また、これか。
ツカサは奥歯を噛んだ。
「リネット」
「わかってる。退くわ」
リネットの声は低く、冷静だった。
彼女はまだ指名手配されていない。だが、ツカサと一緒にいるところを記録されれば、次の布告に名前が載る可能性がある。
ツカサは村人たちを見た。
エプロンの女性が、目を伏せている。水をくれた手を、エプロンの裾で拭いていた。何かを消すように。
壁を壊された老人だけが、まだこちらを見ていた。目が合った。老人は何も言わなかったが、その目は——怒っていた。ツカサにではない。状況に。自分の足元が急に変わったことに。
でも、声は出ない。
ツカサは踵を返した。
背中に、壮年の騎士の声が追いかけてくる。
「ここは聖堂が管轄する。住民への聴取を行い、被害状況を記録する。異端者の暴虐に関する報告書を作成する」
——被害状況。
魔物を退けたことが、「異端者の暴虐」になる。
聴取。
「あいつに助けてもらった」という証言が、どう書き換えられるか。想像するまでもない。
*
村から街道を外れ、丘の裏手まで戻ったとき、ツカサは一度だけ振り返った。
村は見えない。丘の稜線に遮られている。でも、あの村で今何が起きているかは——わかる。
騎士が村人から聴取する。「異端者が現れた」「魔物が暴れた」「騎士が駆けつけた」。事実の断片は嘘ではない。ただし、順番が書き換わる。因果が逆転する。
「魔物を呼んだのは異端者だ」。「聖堂の騎士が事態を収拾した」。
助けた側が加害者になり、後から来た側が救世主になる。
エルデンで見た構造と同じだ。手柄の帰属が書き換わる。ただし今回は、レオではなく聖堂が受け皿になっている。
本質は変わらない。
ツカサは歩いた。右足の踵が鈍く痛む。朝から走った分、いつもより重い。
「——リネット」
「何」
「あの騎士の頭に、批判者矮小化補正が乗ってた。あいつが布告を読み上げた瞬間、村人にも伝播した。薄いけど、確かに」
リネットは端末を見ていた。歩きながらデータを確認している。
「そうでしょうね。布告の文言自体が"勇者の批判者"という文脈を作るから、その文脈に乗って補正が空気感染する。騎士個人の悪意ではなく、仕組みとしてそうなってる」
「だからどうしようもないって言いたいのか」
「逆よ。だから個別に訂正しても無駄だと言ってるの」
リネットの足が止まった。
ツカサも止まる。
彼女は端末を閉じて、コートのポケットに入れた。眼鏡の奥の瞳が、ツカサを真っ直ぐに見ている。
「あの村で起きたことは、数時間後には王都の伝令網に乗る。『異端者が王都近郊の村を襲撃した。聖堂が鎮圧した』。あなたが魔物を退けたことは消える。村人が感謝したことも消える。代わりに、勇者を脅かす危険人物の凶行として記録される」
「わかってる」
「じゃあ、怒ってるのは何に?」
ツカサは息を吐いた。
怒りは、あった。ずっとある。追放されたときから。いや、もっと前——辺境村エルデンで、焼け跡の写真立てを握る老婆を見たときから。
でも今の怒りは、少し違う。
「……聖堂も、あの騎士も、布告を聞いた村人も」
言葉を選ぶ。選びきれない。だから、そのまま口にした。
「守ってるのは、**人の命**じゃない」
丘の風が吹いた。草が揺れる。
「**"勇者が救ってくれる気持ちいい脚本"を守ってるだけだ**。現実に誰が助けたかなんて、脚本に合わなけりゃ書き換える。あの村人たちは、目の前で助けられたのに——布告ひとつで、自分の経験を疑い始めた。見たものより、聞かされたことを信じるように、空気ごと持っていかれた」
リネットは黙っていた。
反論ではなく、続きを待っている沈黙だった。
「怒ってるのは、聖堂にだけじゃない。俺が一番腹が立ってるのは——**あの仕組みに乗っかって安心してる空気のほうだ**。勇者がいれば大丈夫。聖堂が守ってくれる。その安心の中身が、人の命の安全じゃなくて、**気持ちいい物語が続くことの安心**になってる」
拳を握った。皮の剥けた関節が引きつれて痛む。
「あの老人だけ、怒ってたよ。壁を壊された老人。あの人だけ、おかしいって目をしてた。でも声は出せなかった。あの空気の中で、一人だけ違うことを言うのは——」
自分がやってきたことだ。
レオの前で。王宮の前で。パーティの中で。
そして追放された。
声を上げた人間を排除する仕組みが、精度を上げて動いている。
「……だからこそ」
リネットが口を開いた。
「個別の嘘を一つずつ訂正しても追いつかないのよ。布告を撤回させても、次の布告が出る。あの村の記憶を正しても、隣の村で同じことが起きる。**大元を止めないと**。脚本を作り続けてる装置を」
「……炉を、止められるのか」
「ええ」
ツカサは頷いた。
正しいことをしても報われない。それは辛い。でも辛さの本質は、報われないことじゃない。
——正しいことが、正しいまま記録されないことだ。
誰が助けたか。誰が壊したか。誰が泣いたか。その全部が、脚本の都合で上書きされる。
だったら、脚本を書いてる側を止めるしかない。
「次は、大元に行く」
「順番通りよ。まず先生のメモと観測データの照合を終わらせる。炉の制御構造がわからなければ、殴りに行っても殴る場所がない」
「……お前がいなかったら、俺は多分、ただ殴りに行ってた」
「知ってる。だから私がいるの」
リネットの声に、ほんの少しだけ柔らかいものが混じった。
ほんの少しだけ。
二人は丘の裏手を南西へ歩き始めた。石の小屋へ戻る道。日が傾き始めている。
*
街道を避けて丘陵の裏道を辿っているとき、リネットの端末がまた震えた。
今度は因果波形の警告ではない。通信の着信。
リネットが端末を開いた。画面に文字が流れる。
彼女の足が止まった。
ツカサも止まる。
リネットの表情が——一瞬だけ、凍った。
唇が薄く開き、眼鏡の奥の瞳が画面に釘づけになる。呼吸が止まっていた。三秒。五秒。
それから、唇を引き結んだ。
「……ナタリアから」
「確か学院時代の同窓の子か」
「情報が早い子で、研究仲間の間では伝書鳩って呼ばれてた」
リネットの指が端末を握り直した。力が入っている。
「聖堂が——私を**『危険研究者』として指定した**。学院への出入り禁止。**アクセス権の全面封鎖**が通達された」
風が吹いた。草の穂が揺れる音だけが、二人の間に落ちた。
リネットの声は平坦だった。感情を意図的に均している声。ツカサはもう、その声の裏にあるものを知っている。
「……ギリギリだった」
リネットが呟いた。
「あと一日遅れてたら、昨日の禁書庫調査が丸ごとできなかった。必要な記録は——もう、取ってある」
「昨日の潜入が、嗅ぎつけられたんだな」
「おそらく。禁書庫の入退館記録は学院管理だけど、聖堂から照会があれば開示される。私が長時間滞在していた記録と、ツカサの指名手配を結びつけるのは——それほど難しくない」
ツカサは考えた。
リネットの学院アクセス権は、ここまでの調査の生命線だった。禁書庫に入れたのも、恩師のメモを見つけられたのも、この権限があったからだ。
それが閉じた。
だが、閉じたタイミングは——最悪ではなかった。必要な記録は昨日取得済み。恩師の紙片もコートの中にある。
「リネット」
「大丈夫。データは全部端末にある。先生の紙片もここに。失ったのは、今後の追加調査の手段だけ。今持っている材料で、炉の制御構造は解析できる。できなきゃ、する」
声が硬い。でも折れてはいない。
ツカサは別のことを考えていた。
「……包囲を狭めてきてる」
リネットが顔を上げた。
「聖堂は、俺たちが炉に近づいてることに気づき始めてる。指名手配だけじゃ足りないから、お前の権限も潰しに来た。次は——」
「次は、私の指名手配ね」
「だろうな」
沈黙。
丘の上から、遠く東北東の空を見た。王都の方角。夕日を受けた雲の下に、不自然に白い光がうっすらと滲んでいる。炉の出力上昇に伴う現象だと、リネットが以前言っていた。
光が、じわじわと明るくなっている。
逃げる猶予が、削られている。
「急ごう」
リネットが言った。端末をコートに戻す。
「先生のメモと私のデータの照合。今夜中に終わらせる。炉の制御構造の、少なくとも骨格だけでも。時間がない」
「食い物と鉛筆は——」
「明日、あなたが街道沿いで何か調達して。顔が割れていない範囲で。私はデータに集中する」
ツカサは頷いた。
二人は小屋へ向かって歩き始めた。
背中に、王都方面の白い光がちらついている。振り返らなかった。
正しいことをしても書き換えられる。助けても加害者にされる。権限は潰される。包囲は狭まる。
でも。
手の中に、データがある。記録がある。証言がある。
怒りがある。
それは、脚本には書き換えられない。
ツカサは右手で腰のハリセンに触れた。張りぼてが、腰の横で乾いた音を立てた。
まだ殴れる。
殴る場所を、見つけるだけだ。




