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第19話「"逆張り野郎"というレッテルも、補正の一種だった」

 朝の光が木漏れ日になって落ちてきたとき、最初に感じたのは右足踵の鈍い痛みだった。


 角質化した豆が、寝返りのたびに地面の小石を拾っている。もう鋭い痛みではない。ただ、そこに在り続ける。慢性という言葉の意味を、ツカサは踵で学んでいた。


 目を開けると、灰色がかった空が木々の隙間に見えた。曇り。薄い光。焚き火はとうに消えていて、炭の残り香だけが鼻先に届く。


「——起きた?」


 リネットは沢の方に腰を下ろしていた。膝の上に端末を広げ、片手で画面をなぞっている。もう片方の手には枯れ枝。先端で地面に何かの図形を書いていた痕跡がある。


「何時だ」


「日の出から一刻半くらい。あなたがよく寝てたから起こさなかった」


 声に棘はない。ただの事実報告。けれど、「よく寝てた」の一言に、昨夜の焚き火越しの会話が薄く透ける。互いの痛みに名前をつけた夜の、その翌朝。


 ツカサは上体を起こした。落ち葉が背中から滑り落ちる。


 水袋を取り、沢の水を口に含んだ。冷たい。空っぽの胃が水を受けて、一瞬だけ満足の信号を送り、すぐに空腹に戻る。


「食料の当てはあるか」


「中継町まで歩けば、安い粥くらいは出る。——手当の残りで、二人分を一食。それが最後」


 リネットの声は平坦だった。感情を削ぎ落としたのではなく、感情を込める余裕が食料と同じくらい底を突いているのだとわかる。


 ツカサは立ち上がった。ローファーの底が石を踏んで、足裏に地形がそのまま伝わる。靴としての機能はほぼ終わっている。


「中継町まで、どのくらいだ」


「南方街道に戻れば、半日かからないくらい。フォルテスとエルデンの中間あたりにある小さな宿場」


 リネットは端末を閉じ、立ち上がった。コートの内側に手を入れて布包みの位置を確認する動作が、もう癖になっている。《星環計》の欠片。五つ。恩師の最後の残り火。


「行こう」


 焚き火の跡を踏み消して、二人は丘陵地帯の林を出た。


  *


 南方街道は、フォルテスの南門から王都方面へ緩やかに弧を描いて伸びている。ツカサたちが合流したのは、街道がちょうど丘を越えて平地に出るあたりだった。


 道幅は馬車二台がすれ違える程度。両脇に麦畑が広がり、ところどころに木柵で囲った牧草地が見える。フォルテスほどの賑わいはないが、商人の荷馬車や旅装の二人組が時折すれ違っていく。


 ツカサは歩きながら、すれ違う人々の頭上を見る癖がついていた。


 因果ラベルは見えない。ここにいるのは、テンプレに操られた登場人物ではなく、ただの旅人と農民と荷馬車の御者だ。


 当たり前のことが、少しだけ安心させる。


「——あなた、今見てたでしょう」


 横を歩くリネットが、視線の先を追って言った。


「ラベルの確認。見えないなら、それでいい」


「一般市民に因果ラベルが直接付与された事例は未確認。街道の旅人に見えないのは想定通り」


 リネットの口調は学術的だった。端末を開く素振りはない。歩きながらの会話は、情報の確認であり、同時に沈黙を埋める行為でもある。


 昨夜、あれだけのものを曝け出した二人が、翌朝どう喋ればいいかの正解はない。だからリネットはデータの話をして、ツカサはラベルの話をする。痛みを共有した後の、不器用な平衡。


 三時間ほど歩いた頃、ツカサの右足がわずかに引きずり始めた。


「休む?」


「いや。止まると余計に動けなくなる」


 嘘ではない。歩き続けている間は鈍痛が一定のリズムに馴染むが、止まると筋肉が冷えて次の一歩が重くなる。それを何度も繰り返して覚えた。


 リネットは何も言わず、歩調をほんの少しだけ落とした。


  *


 中継町は、街道の分岐点に居座るような小さな集落だった。


 石造りの建物が二十軒ほど。中央に井戸のある広場があり、その脇に「旅人の止まり木」と書かれた看板を掲げた酒場兼宿屋がある。あとは馬具屋、乾物屋、鍛冶場。街道を行き来する旅人に必要なものだけを揃えた、それ以上でも以下でもない場所。


 日はまだ高い。昼過ぎ。


 リネットが乾物屋の前で足を止めた。


「ここで食料を買うか、酒場で食べるか。手当の残りだと——どちらか一方」


「情報が欲しい。酒場にしよう」


 ツカサの判断は即座だった。レオ側の情報工作がどこまで広がっているか。フォルテスでは自警団長が味方だったから影響は限定的だったが、ここはフォルテスより王都寄りだ。


 酒場の扉を押すと、木と煤と安い麦酒の匂いが混ざった空気が押し寄せてきた。


 昼時を少し過ぎた店内には、十席ほどのテーブルに五組ほどの客がいた。荷馬車の御者らしい中年の男が二人、隅のテーブルで粥を啜っている。窓際では旅装の女が一人、干し肉を齧りながら地図を広げている。奥のカウンター席には白髪混じりの男が腰掛けて、ぬるい麦酒をちびちびやっている。


 ツカサとリネットはカウンターから二つ離れた席に座った。


「粥を二つ」


 リネットが注文すると、禿げ頭の店主が無言で頷き、鍋の蓋を開けた。安い麦の粥。具は干し野菜が少し。


 待っている間、ツカサは店内の空気を探っていた。


 因果ラベルは見えない。それは確認済み。だが、何か——空気の質が、フォルテスと違う。


 フォルテスでは、ツカサの名前を知る者はほぼいなかった。自警団以外には「ただの旅人」で通せた。だが、ここの空気には、妙な方向性がある。


 それが何かを言語化する前に、声が耳に入ってきた。


「——だから、追放された奴がまだウロウロしてるんだと」


 御者の一人が、もう一人に向かって言っていた。声を潜めるでもなく、かといって大声でもない。酒場で交わされる、ごく普通の世間話の温度。


「勇者様に嫉妬してるって話だろ? ハリセンとかいう変な武器で人を殴り回してるとか」


「聞いた聞いた。正論ぶって空気壊すタイプの、あれだよ。パーティにいた頃から問題児だったらしいぜ」


 ツカサは粥の椀を受け取りながら、表情を変えなかった。


 内容はディルクが流した通信文そのままだ。「追放された無能が勇者に嫉妬して妨害している」——その骨格に、「ハリセンで人を殴る危険人物」「正論ぶって空気を壊す陰キャ」という肉付けがされている。


 驚きはない。昨夜、リネットと確認した情報工作の内容と一致する。


 驚いたのは、別のことだった。


「——まあ、気持ちはわかるけど。勇者様の邪魔するのはどうかと思うよ」


 窓際の女が、地図から顔を上げずに言った。


 御者たちの会話に加わったわけではない。独り言に近い。だが、その声には確信があった。噂の内容を疑う余地のない、「まあそうだろうな」という自然な着地。


 カウンターの白髪の男も、小さく頷いていた。麦酒を傾けながら。誰に向けるでもなく。


 ツカサは箸を止めた。


 五組の客のうち、この噂を聞いていたのは三組。そのうち噂を語った御者が一組、無関係に同調した女が一人、無言で頷いた男が一人。残りの二組は別の話をしている。


 全員が一致して批判しているわけではない。


 だが——同調の速度が、おかしい。


 この町の誰もツカサの顔を知らない。勇者パーティの内情を知っているわけがない。にもかかわらず、「追放された男が悪い」「勇者の邪魔をするのは間違い」という結論だけが、まるで最初からそこにあったかのように定着している。


 疑問を挟む隙間がない。反証を求める気配もない。ただ、「そういうもの」として、噂が場に溶けている。


 リネットの匙が、粥の椀の中で止まった。


 ツカサは横目で見た。リネットの視線は粥ではなく、左手首の端末に落ちていた。画面が淡く光っている。


「——外に出よう」


 リネットは粥を半分だけ残して立ち上がった。声が低い。


 ツカサは残りを一気に流し込み、椀をカウンターに置いて後を追った。


  *


 町外れの井戸の裏。石壁が影を作る一角で、リネットは端末を全開にしていた。


 画面には波形が走っている。ツカサには読めない数値の羅列と、不規則に揺れるグラフ。


「さっきの酒場で計測してた」


「気づいてた。匙が止まった瞬間から」


 リネットは眼鏡の位置を直した。癖だ。データに集中するとき、無意識にフレームを押し上げる。


「噂の伝播速度がおかしい。フォルテスからこの町まで、馬で一日半。情報が届いてからまだ二日も経っていないのに、この浸透度はありえない。通常の口伝だけでは説明がつかない」


「ディルクの通信文だけじゃないってことか」


「通信文は聖堂広報局宛。公式の布告には至っていない段階のはず。なのに、街道沿いの宿場町で、一般の旅人が"知っている"。しかも全員が同じ結論に落ちている」


 リネットは端末の画面を指で広げた。波形の一部が赤く点滅している。


「因果波形に混ざっている。この噂自体に」


 ツカサは息を止めた。


「……噂に、補正が乗ってるのか」


「正確には、噂の内容に付随する形で、レオの主人公補正から派生した因果波形が検出されている」


 リネットの指が画面を滑り、別のグラフを呼び出した。過去の観測データとの比較らしい。


「名前をつけるなら——**批判者矮小化補正**」


 言葉が、空気を変えた。


「レオを批判する人間の言葉を、"嫉妬"や"逆張り"に自動変換する性質。主人公補正の派生型。レオ本体が意図的に発動しているわけではなく、主人公補正が自己を維持するために自動的に生成する防御機構に近い」


「自動生成——」


「主人公の物語を脅かす要素を、周囲の認識レベルで無効化する。声を上げれば上げるほど、"逆張り"の烙印が強くなる。しかも——」


 リネットは画面を切り替えた。地図上に色分けされた濃淡が表示されている。王都を中心に、同心円状に色が薄くなっていく。


「距離減衰する。レオとの物理的距離が近いほど効果が強い。フォルテスではだいぶ薄まっていた。でもこの中継町は、フォルテスより王都に近い。——ほら、波形の振幅が違う」


 二つの波形が並んでいた。フォルテスで記録したものと、さっき酒場で計測したもの。後者の振幅は、明らかに大きい。


「もう一つ。この補正が強く発動する条件がある」


 リネットの声が、さらに冷えた。研究者が、自分の発見に怒っている声だ。


「**"レオを批判する文脈"でのみ、強く作用する**」


 ツカサは黙って聞いていた。


「あなたが追放後に人助けをしていたとき——辺境村の前の村で子供を避難させたとき、メルを助けたとき、婚約破棄を潰したとき。あの時期、あなたへの評価はそこまで歪まなかった。領都ラングフォートでは、あなたの行為を正当に評価する人もいた」


「ああ。あの時は、比較的まともに話が通じてた」


「それは"レオから離れていた"だけじゃない。あなたがやっていたことが、"レオへの批判"ではなく"人助け"だったから。文脈が批判ではなかったから、補正が弱かった」


 ツカサの脳裏に、ディルクの通信文の内容が蘇った。


 ——追放された召喚者が勇者の活動を妨害している。


「今回は、向こうが文脈を作った」


「そう。ディルクの情報工作は、あなたを"勇者の批判者"という文脈に固定するためのもの。"妨害者""嫉妬""逆張り"——全部、レオへの批判という枠組みの中に押し込む言葉。その文脈が成立した瞬間、残存する批判者矮小化補正と人為的な宣伝が**相乗効果**で強まる」


 リネットは端末を閉じた。


「補正が噂を加速させ、噂が補正の発動文脈を維持する。共振構造。人の手と世界の歪みが、きれいに噛み合っている」


 ツカサは壁に背をつけた。石の冷たさが背中に染みる。


 酒場のあの空気が、理屈として繋がった。


 誰もツカサの顔を知らない。証拠も見ていない。なのに「そういうもの」として結論だけが先に着地していたのは、補正が「疑う」という回路を薄めていたからだ。


 人為的な嘘に、世界の自動補正が乗っかっている。


 嘘を嘘と見抜く力が、聞き手の側で減衰させられている。


「……リネット」


「何」


「一つ、聞いていいか」


 リネットは頷いた。


「この補正は——俺がパーティにいた頃も、動いてたのか」


 沈黙が落ちた。


 リネットの翡翠色の瞳が、ツカサを見据えた。そこに浮かんでいるのは驚きではなかった。ツカサがその問いにたどり着くのを、待っていた顔だった。


「……私の観測データは追放後からしかないから、完全な立証はできない」


「推測でいい」


「推測ではなく、**論理的帰結**」


 リネットの声が、わずかに震えた。怒りだ。


「主人公補正は召喚時から存在していた。あなたが召喚の日に見たラベル。好感度誘導、感動演出、主人公補正。あれが存在していたなら、批判者矮小化は同時に存在していたと考えるのが自然。主人公の物語を守る防御機構なんだから」


 ツカサは目を閉じた。


 ——訓練場の日。


 「さっきの訓練、安全に終われたのは全部あの魔術師の制御のおかげだろ」と言ったとき、場が凍った。全員がツカサを見て、けれど誰一人として「そうかもしれない」とは言わなかった。リネットの功績は空気ごと蒸発して、レオの剣技だけが記憶に焼きついていった。


 ——追放の日。


 「人の研究も、思い出も、お前の見せ場の燃料にしていいわけがない」と叫んだとき、周囲が返したのは同意ではなかった。哀れみですらなかった。「勇者様に嫉妬する陰キャ」「空気を壊す余り物」——まるで台本があるかのように、批判がツカサへ集中した。


 あの時。


 あの場所で。


 自分の声は、口から出た瞬間に"ノイズ"に変換されていた。


 どれだけ正しいことを言っても、「批判者」という文脈に乗った瞬間、聞く側の「疑問を持つ」回路が削がれる。結果だけが残る。正論を言った人間が悪者になる結果だけが。


「……あの時から、俺の声は最初から届かないようにされてたのか」


 言葉にすると、思ったより静かだった。


 怒りは——あった。だが、沸騰するような怒りではなかった。


 もっと深い場所から、長いため息のように漏れ出る何かだった。


 パーティにいた半月間。毎日のように「おかしい」と思い、何度も口にして、そのたびに壁に跳ね返された。自分が間違っているのかと疑い、それでも目の前の不条理が消えないから言い続けた。


 それが全部、システムに回収されていた。


 正しさも怒りも、「主人公に楯突いた脇役の醜態」として処理されていた。


 声を上げること自体が罠だった。


「……ツカサ」


 リネットの声が、静かに割り込んだ。


「あなたが訓練場で私の名前を出してくれたとき。あの瞬間——場の空気が一瞬だけ揺らいだの、覚えてる?」


「覚えてない。というか、あの時は自分が何を壊したのかもわかってなかった」


「私は覚えてる。一瞬だけ、騎士団長が——ガルドが、こちらを見た。本当に一瞬。すぐにレオの方へ戻ったけど」


 リネットは端末を指で撫でた。画面は消えている。


「批判者矮小化補正は万能じゃない。距離が近くても、文脈が強くても、完全に声をゼロにはできない。でなければ、私があなたの言葉に気づくこともなかった」


 ツカサは目を開けた。


「だから、声を上げたこと自体は無駄じゃなかった——って言いたいのか」


「違う。**上げ続けるだけでは足りない**と言いたい」


 リネットの目が据わっていた。


「この補正は"批判する文脈"で発動する。つまり、あなたがレオの非を訴えれば訴えるほど、聞く側の認知が歪む。王都に近づけば近づくほど、効きも強くなる。声で殴っても、声が曲がる」


「じゃあどうする」


「**声じゃなく、証拠で殴る**」


 リネットは壁から背を離した。


「人の証言。数字の記録。物理的な痕跡。——批判者矮小化補正は"あなたの声"を歪めるけれど、"被害者自身の声"や"記録された事実"にまで同じ効果があるかは未検証。仮説としては、補正の対象は"レオを批判する個人"であって、"レオに関わる事実そのもの"ではない」


「根拠は」


「追放後、あなたが人助けの文脈で動いていた時は補正が弱かった。ということは、補正は**誰が・どういう意図で発信するか**に反応している。事実そのものには貼りつけない——少なくとも、一対一では」


 ツカサは腕を組んだ。


 声を上げれば歪む。正論を言えば歪む。


 なら、歪められない形で並べるしかない。


「レオが踏み潰してきたものの痕跡を、一つずつ拾い集める」


 言葉にした瞬間、輪郭が固まった。


「証言と、データで。向こうが"嫉妬する逆張り野郎"の物語を作るなら、こっちは"踏みにじられた人間の記録"を積む」


 リネットは眼鏡を押し上げた。


「具体的には?」


「まずエルデン。家を焼かれた村人たちの声を聞く。焼け跡の記録があるなら、それも。——次に、手柄を吸われた騎士や、囮にされた冒険者。パーティの戦場記録とつき合わせれば、功績がどう書き換えられたか見えるはずだ」


「エレインも。婚約破棄事件の偽証と捏造の証拠は、彼女が自力で集めているはず。あとメル。商隊の定期便ルートを教えてもらっている。連絡手段になる」


 ツカサは頷いた。


「レオ個人を攻撃するんじゃない。"勇者の物語"の裏で実際に何が壊されたかを、並べる。批判じゃなく、記録として」


 リネットの端末が鳴った。短い電子音。データ処理の完了通知。


 彼女は画面を確認し、唇の端をわずかに持ち上げた。笑みとは言えない。けれど、何かが定まった顔だった。


「距離減衰のデータ、もう少し精度を上げたい。この町を出て、エルデンまでの街道上で三点か四点、観測ポイントを取る。レオからの距離と補正強度の相関曲線が描ければ、今後の行動計画が立てやすくなる」


「了解。——ところで、宿に泊まる金はあるか」


「ない」


「だろうな」


 ツカサは壁から背を離した。右足の踵が鈍く抗議する。


 通貨はない。食料は底を突いた。旅装もない。靴は限界。情報工作は加速する。王都に近づくほど、声は曲がる。


 それでも。


 歩く方向は、決まった。


  *


 町を出たのは午後も遅い時間だった。


 南方街道を南東へ。次の目的地は辺境村エルデン。ツカサが最初に「人命だけでは足りない被害」を知った場所。家が焼け、畑が灰になり、冬支度の備蓄が消え、写真立てを握る老婆が泣いていた村。


 街道の日差しは傾き始めていた。長い影が二つ、東へ伸びる。


 歩きながら、リネットが端末を操作している。観測ポイントの一点目。


「……波形、記録した。フォルテスの値と比較する」


「どうだ」


「まだ一点じゃ何も言えない。ただ、酒場で測った値よりは弱い。人が密集している場所の方が、補正の伝播効率が高い可能性がある」


「人が多いほど、噂が回りやすいから——物理的な伝播と補正の増幅が重なるってことか」


「仮説としては、そう。人の認識が補正の媒質になっている」


 ツカサは空を見上げた。雲が薄くなり、西の空が橙色に染まり始めている。


「リネット」


「何」


「昨日の夜、お前が話してくれたこと。あれは"批判"じゃなかった」


 リネットの足が、一瞬だけ止まった。


「……何の話」


「お前が《星環計》のことを語ったのは、レオを批判するためじゃなかった。自分の痛みを、自分の言葉で取り戻しただけだ」


 リネットは黙って歩き始めた。端末の画面が、夕焼けの光を反射している。


「——証言を集めるときも、同じだ」


 ツカサは前を向いたまま言った。


「俺たちがやるのは、レオを批判する旅じゃない。踏みにじられた人間が、自分の言葉を取り戻すための旅だ。文脈を"批判"にしない。"記録"にする。そうすれば——」


「補正の発動条件を、外せるかもしれない」


 リネットの声に、初めてかすかな熱が混じった。


「証明はまだ先。でも理屈は通る」


「理屈が通るなら、やる価値はある」


 夕陽が街道を染めていた。影が長く伸びて、二人の輪郭が東の地面に重なる。


 右足が痛い。腹が減っている。金はない。


 行く先では、あの写真立ての老婆が待っている。家を焼かれた怒りを、「勇者だから仕方ない」と飲み込まされた人が。


 今度は——飲み込ませない。


 ツカサは歩いた。リネットが横にいた。


 二人の旅は、ここから始まる。

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