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第18話「あなたは奪われた人の怒りを、ちゃんと怒りとして扱ってくれる」

 南方街道は午後の陽を浴びて白く乾いていた。


 二人は黙って歩いた。リネットは端末を操作しながら、ツカサは前方の街道と周囲の地形を交互に見ながら。時おりすれ違う荷馬車の御者が怪訝な顔をしたが、声をかけてくる者はいなかった。


 追放された元勇者パーティの雑用係と、勇者パーティを降りた天才魔術師。どちらも、旅人と呼ぶには装備が貧弱すぎた。


「街道を外れたほうがいい」


 ツカサが言ったのは、フォルテスの城壁が背後の丘に隠れた頃だった。


「根拠は?」


「勘。レオがリネットの離脱を問題にし始めたら、街道沿いの宿は全部探される」


「……それは勘じゃなくて推論ね」


「どっちでもいい。結論は同じだ」


 リネットは端末を閉じ、街道の左手に広がる丘陵地帯を見渡した。低い丘が連なり、その間に雑木林が点在している。水場があれば野営には十分だった。


「あの林の手前、窪地になってる。風除けにはなるわ」


「見てくる」


 ツカサは街道を逸れ、乾いた草を踏んで丘の斜面を登った。右足の踵から送られてくる鈍痛は、もう痛みというより体の一部になりつつある。ローファーの底がほぼ機能していないせいで、地面の凹凸がそのまま足裏に伝わった。


 窪地は悪くなかった。


 三方を低木に囲まれ、街道から直接は見えない。落ち葉が厚く積もった地面は、石混じりの街道より遥かにましだった。近くを細い沢が流れている。水音は小さいが、水袋を満たすには足りる。


「使える」


 戻って伝えると、リネットは頷いて斜面を登り始めた。


  *


 野営の準備は、二人とも初めてだった。


 正確に言えば、ツカサは辺境村エルデンへの行軍で野営の経験があるが、あれは騎士団の手配した天幕と装備があった。リネットに至っては学院育ちで、野外調査の経験はあっても自力での火起こしは座学の知識しかない。


「枯れ枝を集める。細いのと太いの、分けて持ってきてくれ」


「……わかったわ」


 リネットが林の中へ消えていく間に、ツカサは窪地の中央を少し掘り、石を並べて簡易の焚き火台を作った。乾いた落ち葉を焚き付けにする。火打ち石の代わりは——ない。


「リネット」


「何」


 枯れ枝を抱えて戻ってきたリネットに、ツカサは石を二つ差し出した。


「これで火がつけられるか」


「火花の着火式なら魔術のほうが早いわ。ただし出力は最低限に絞る。魔力痕跡が派手だと追跡される可能性があるから」


 リネットは右手の指先に蒼い光をごく小さく灯した。焚き付けの枯れ葉に触れると、ふわりと炎が立ち上がる。


「……便利だな」


「最低限の家事スキルよ。これくらい、学院の寮生なら誰でもできるわ」


 炎が細い枝へ移り、やがて太い枝にも火がついた。窪地の中に橙色の光が広がる。木々の間から覗く空は、すでに藍色に沈んでいた。


 ツカサは沢まで往復して水袋を満たし、リネットは端末を膝の上に開いて戦場ログの解析を再開した。


 食事はない。


 干し杏はとうに消費済みで、フォルテスで食料を買い込む余裕もなかった。リネットの学院調査手当は宿代で底が見えている。明日には何か考えなければならないが、今夜は水だけで凌ぐしかなかった。


 焚き火の音だけが、二人の間を埋めている。


  *


 端末の画面が、リネットの眼鏡に青白く反射していた。


 指が滑るように操作を続けていたのが、不意に止まった。


 ツカサは焚き火の向こう側で膝を抱えていた。寝てはいない。視線は炎の揺れを追っているようで、実際には林の奥の暗がりに意識を向けていた。音を聞いている。異常がないかを。


「——ツカサ」


 名前を呼ばれて、視線を戻した。


 リネットは端末を閉じていた。膝の上に伏せるように置いて、両手をその上に重ねている。焚き火の明かりが眼鏡のレンズに踊っていたが、その奥の翡翠色の瞳は、画面ではなくどこか遠くを見ていた。


「……ずっと平気なふりをしていた」


 声が低かった。


 いつもの理性的で毒舌混じりの声ではなく、感情を押し込めるために使う力が足りなくなったような声だった。


 ツカサは何も言わなかった。


 口を挟む場面じゃない、と直感で分かった。


「あの日——大型任務の前夜のこと」


 リネットが自分の言い間違いを訂正するように首を振る。焚き火の光が、銀灰色の髪を暖色に染めていた。


「《星環計》の調整をしていたの。七層の輪が正常に回っているか、一層ずつ確認して、因果の演算精度を合わせていた。先生が——恩師が遺してくれた装置だから。あの一台しか、世界のどこにも存在しないから」


 リネットの声は淡々としていた。報告のように聞こえた。でも、淡々としていること自体が不自然だった。


「レオが来たのは、三層目の調整中だったわ」


 指がコートの内側に触れた。布に包まれた《星環計》の欠片を無意識に確かめる動作だった。


「最初は何をしに来たのか分からなかった。『聖剣の光の軌跡、もっと盛れるだろ』って。笑ってた。私の返事を待たなかった。待つ必要がないと思ってた。だって——勇者だから」


 最後の『勇者だから』に、ほんの微かな軋みが混じった。


「端末を操作させろと言ったんじゃないの。勝手に接続したの。《星環計》に直接。演出強化モジュールとして使おうとした。私が制御卓の前に立っていたのに、横から手を伸ばして、自分の聖剣の出力回路に繋いだ」


 焚き火が爆ぜた。


 小さな火の粉が舞い上がり、リネットの頬の近くを通り過ぎたが、彼女は瞬きもしなかった。


「過負荷がかかった瞬間、音が聞こえた」


 そこで、リネットの声が初めて変わった。


 報告ではなくなった。


「……高い音。金属と水晶が軋む音。七層の輪が、一番外側から順に焼き切れていった。一つ目が割れたとき、私は手を伸ばした。止められると思った。二つ目が割れたとき、制御卓に触れた。三つ目が——」


 声がかすれた。


「四つ目が割れたとき、もう間に合わないと分かった」


 リネットの両手が、膝の上の端末を握りしめていた。指先が白い。


「五つ目。六つ目。七つ目。全部の輪が焼き切れて、七つの欠片になって、床に散らばった。温かかった。まだ熱を持っていた。それが——先生の最後の体温みたいで」


 その先を、リネットは一度飲み込んだ。


 焚き火の炎が風に煽られて揺れ、影が二人の周囲で大きく動いた。林の向こうで梟が一声鳴いた。


「レオは笑ってた」


 声が、低く硬くなった。


「『俺の勝利演出の一部になれたなら名誉じゃん』って。『君の恩師も、勇者の勝利に貢献できたなら喜ぶんじゃない?』って」


 リネットの唇が薄く引き結ばれた。


「……あの瞬間、宣告されたと思った。私の研究も、先生の想いも、私がこの数年間で積み上げてきた全部が——あいつの見せ場より価値がないって。この世界では、勇者の映えのほうが、一人の人間の人生より重いんだって」


 沈黙が落ちた。


 焚き火の音だけが鳴っている。


 リネットは俯いていた。銀灰色の髪が頬にかかり、表情が半分隠れていた。震えてはいない。泣いてもいない。ただ、抑え込んでいたものを吐き出した後の、静かな消耗がそこにあった。


  *


 ツカサは、しばらく黙っていた。


 焚き火の炎を見ていた。橙色の光が揺れるたびに、目の前に座る魔術師の横顔が明滅する。


 優しい言葉が、喉まで来て止まった。


 「大変だったな」とか「辛かったな」とか。そういう、柔らかい着地を用意する言葉。


 ——違う。


 それは、受け止めるふりをして流す言葉だ。


「リネット」


 声が出た。自分でも驚くほど、低かった。


 リネットが顔を上げた。焚き火の光が、翡翠色の瞳を照らしている。


「あれは道具じゃない」


 ツカサは言った。


「お前の人生の一部だろ」


 リネットの目が、わずかに見開かれた。


「お前が何年かけて調整してきたか。恩師が何を想ってお前に託したか。あいつは一秒も考えなかった。考える必要がないと思ってた。勇者だから」


 声に滲んだのは、優しさではなかった。


 怒りだった。


「お前が悲しいのは当たり前だ。怒っていいに決まってる」


 焚き火の炎が風に押されて傾いだ。ツカサの影が大きく揺れた。


「それを——"勇者の勝利の前では些細なこと"なんて処理させるな。お前が積み上げたものは、あいつの見せ場の材料じゃない。あいつの笑顔で帳消しにしていい痛みじゃない」


 言い切った。


 声は大きくなかった。怒鳴ったわけでもない。ただ、一語一語に質量があった。


 リネットは動かなかった。


 焚き火の光の中で、翡翠色の瞳が揺れていた。何かを探すように。あるいは、目の前の言葉が本物かどうかを確かめるように。


「……怒ってるの?」


「怒ってる」


「私のために?」


「お前の研究と、お前の恩師と、お前の時間を、あいつが笑顔で踏み潰したことに、だ」


 リネットの唇が開きかけて、閉じた。もう一度開いた。


「……誰にも、そう言ってもらえなかった」


 声が小さかった。焚き火の爆ぜる音に紛れそうなほどに。


「勇者パーティの中では、言い出せなかった。後ろ盾がないから。学院にも相談できなかった。勇者に逆らったと思われたら、研究の場所を失うから。自分の中で処理するしかなかった。"仕方ない、勇者だから"って」


 リネットの声が、わずかに震えた。


「——仕方なくなんか、ない」


 呟くように。


 自分自身に言い聞かせるように。


「仕方なくなんか、なかったのに。ずっと、そう言いたかった」


 沈黙が降りた。


 焚き火が静かに燃えている。木の枝が崩れて、灰が舞い上がった。


 リネットは焚き火を見つめていた。眼鏡のレンズに炎が映り込んでいる。しばらくして、声が聞こえた。


「あなたは奪われた人の怒りを、ちゃんと怒りとして扱ってくれる」


 ツカサを見ていた。


「勇者みたいに、誰かの痛みを演出に変えない。感動の道具にもしない。痛いものを、痛いまま受け止める」


 声は震えていた。でも、泣いてはいなかった。眼鏡の奥の翡翠色は濡れていない。涙の代わりに、そこにあったのは静かな確信だった。


「怒ってるだけだ」


 ツカサは視線を炎に戻した。


「そんな大したことじゃない」


 リネットが、小さく首を横に振った。


「大したことよ」


 断言だった。


「この世界では、それが一番難しいんだから」


  *


 焚き火が弱くなり始めた。


 ツカサが太い枝を二本くべると、火勢が少し戻った。木の脂がじゅっと音を立てて燃える。


 二人の間にあった空気が、さっきまでとは違っていた。


 何かが変わった、という大げさな感覚ではない。ただ、リネットが端末を膝から下ろして両手を焚き火に翳したとき、その動作に「ここにいていい」という安堵が混じっていた。ツカサの目にはそう見えた。


「——感傷に浸っている場合じゃなかった」


 リネットが端末を取り出した。声のトーンが切り替わる。理性的な、分析者の声。だが、さっきまでの"平気なふり"とは違う。本当に切り替えている。感情を閉じたのではなく、出し終えた後の、自然な移行だった。


「戦場ログの初期解析中に、気になるデータが出てきたの。フォルテスの自警団長が話してくれた情報と、今日レオの仮本営で見かけた書類の一部を照合して——」


 リネットの指が端末を操作し、画面を回転させてツカサに見せた。


 ツカサには魔導式の読み方は分からない。だが、画面上に並んだ文字列の中に、読める部分があった。


 ——『追放された召喚者による勇者への妨害行為について』。


「これは?」


「仮本営の応接室で、レオの側近——たぶんディルクという男が書いた通信文の控えよ。離脱を通告しに行ったとき、机の端に乗っていたのが見えた。宛先は王都の聖堂広報局」


 ツカサの眉が寄った。


「フォルテスの自警団長は、昨夜の盗賊撃退のことで私たちに好意的だった。今朝別れ際に、こう教えてくれたの。『王都方面から早馬が来て、"追放された召喚者が勇者の活動を妨害している"という通達が届いた。まだ正式な布告じゃないが、噂として広まり始めている』と」


 リネットは端末を自分の手元に戻した。


「つまり、レオ側は王都方面で情報を流し始めている。あなたの名前を出して、"追放された無能が勇者に嫉妬して妨害している"というストーリーを作ろうとしているわ」


 焚き火の炎が、ツカサの横顔を照らしている。


「……今度は俺にレッテルを貼って、口を封じるつもりか」


「可能性は高い。フォルテスではまだ影響が薄いけれど、王都に近い地域では噂の浸透速度が違う。先に声を潰されたら、どんな証拠を揃えても届かなくなる」


 ツカサは焚き火を見つめた。


 炎の向こうに、リネットの顔がある。さっきまで感情を剥き出しにしていた魔術師が、もう次の戦場を見据えている。


「……やることが増えたな」


「ええ。戦場ログの解析と被害者の記録の掘り起こし。それに加えて、情報工作への対処。少なくとも、向こうのストーリーが固まる前に、こちらの証拠を揃えないといけない」


 リネットは端末を閉じた。


「でも今夜は、もう寝たほうがいい。明日から動く。まず辺境村エルデンの方面へ向かって、あの村で何が起きたかを記録に残す。それから——」


「リネット」


 ツカサが遮った。


「何?」


「今日の分は、もう十分だ。全部明日でいい」


 リネットが一瞬、面食らった顔をした。


 それから——ほんの少しだけ、口元が緩んだ。


「……そうね」


 端末をコートの内ポケットにしまう。布包みの《星環計》の欠片に、指先がそっと触れた。


「見張りの交代、どうする」


「前半は俺がやる。後半を頼む」


「了解」


 リネットは焚き火から少し離れた場所に、コートを羽織ったまま横になった。落ち葉の上に背中を預ける。


 しばらく無言が続いた。


「ツカサ」


「何だ」


「……ありがとう、は言わないわ」


「言わなくていい」


「でも、覚えておく」


 それきり、リネットは目を閉じた。


 ツカサは焚き火に枝をくべた。


 夜の林は静かだった。遠くで梟がもう一度鳴いた。沢の水音が細く続いている。


 右足の踵が、いつもの鈍痛を送ってくる。通貨はない。旅装もない。食料の当てもない。明日からの道は、今日よりも厳しくなる。


 情報工作が始まっている。声を上げれば上げるほど、レッテルが強くなる構造が出来上がりつつある。


 それでも——


 さっき、焚き火の向こうで、一人の人間が自分の痛みを痛みとして取り戻した。


 それは、テンプレを殴るのとは違う手応えだった。


 ハリセンで補正を叩き割るときの乾いた音ではなく、もっと静かで、もっと重い何かだった。


 ツカサは炎を見ていた。


 火の粉が舞い上がり、夜の空へ消えていく。


 明日は辺境村エルデンの方面へ向かう。レオの英雄譚の裏で、焼かれた家と、踏みにじられた生活と、飲み込まされた怒りを掘り起こしに行く。


 焚き火が静かに燃えている。


 夜半を過ぎた頃、ツカサはリネットの肩を軽く叩いた。リネットは一瞬で目を開け、無言で頷いて起き上がった。交代の合図に言葉はいらなかった。


 落ち葉の上に横たわると、疲労が一気に押し寄せてきた。薄い明かりの向こうで、リネットが焚き火に枝をくべる音が聞こえる。


 火は、朝まで絶えなかった。

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