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第17話「リネット、勇者の物語から降板する」

 朝が来た。


 窓の外で、自警団の交代の声が聞こえる。昨日の盗賊撃退で気が引き締まったのか、掛け声がいつもより一段大きい。フォルテスの街は、自分たちの力で街を守れたという事実を、まだ咀嚼している最中だった。


 ツカサが顔を洗って部屋に戻ると、リネットはもう身支度を終えていた。


 濃紺のローブの上に灰色のコートを羽織り、眼鏡の位置を指先で直している。コートの内側が微かに膨らんでいるのは、布に包んだ《星環計》の欠片をいつも通り身に着けているからだ。左手首の端末の画面は消えていた。いつもなら起きた直後からデータを流し読みしている人間が、画面を落としたまま立っている。


「行くのか」


「ええ」


 リネットは窓の外を見ていた。広場を挟んだ向こう側——噴水の北西に、領主邸の灰色の屋根が朝日を受けて光っている。レオの勇者パーティはそこを仮本営にしていた。


「一人で行く」


 ツカサは何か言いかけて、やめた。


 代わりに、壁に立てかけてあったハリセンを取り上げ、ベルトと布の端切れで腰の右側に括りつけた。結び目がもう馴染んで、手が覚えている。張りぼての表面に焦げ跡と土汚れと煤がこびりついていて、端のほつれも目立つ。七回連続で使った道具の疲弊が、そのまま模様になっていた。


 水袋を肩にかける。これで全財産だった。


「近くにいる。何かあったら出ろ」


「何かって?」


「わからん。だから近くにいる」


 リネットの口元が、ほんの一瞬だけ動いた。笑ったのか、何かを飲み込んだのか、判別がつかない程度の変化だった。


「……ありがとう」


 彼女はそう言って、部屋を出た。


 足音が階段を降りていく。一段ごとに、速度が変わらない。迷いのない人間の足音だった。


 ツカサは少し間を置いてから、自分も宿を出た。


  *


 領主邸は噴水広場の北西にある、三階建ての石造りの建物だった。


 正面に騎士が二人立っている。白銀ではなく、フォルテスの自警団とも違う、勇者パーティの紋章入りの装備。昨日北門から入ってきた連中の一部だろう。


 リネットがその前を通り過ぎるのを、ツカサは広場の噴水越しに見ていた。


 騎士の一人がリネットに声をかける。何を言っているかはここからでは聞こえない。リネットが何か短く答え、騎士が頷き、正面の扉が開く。


 灰色のコートの背中が、扉の向こうに消えた。


 扉が閉まる。


 ツカサは噴水の縁に腰を下ろした。


 水面に四方の水柱が立っている。フォルテスの象徴だという四本の街道を模した噴水は、朝の光を受けて細かい飛沫を散らしていた。水音が規則的に響く。平和な街の、平和な朝の音。


 待った。


 広場を横切る商人の荷車が二台。市場の開店準備をする店番が三人。自警団の巡回が一度通り過ぎた。彼らは昨日、自分たちだけで盗賊を追い返した連中だ。足取りに昨日までなかった自信がある。


 ツカサはそれをぼんやり眺めながら、右足のローファーの踵を地面にこすりつけた。角質化した豆が、いつもの鈍い痛みを返してくる。もう鋭さのない、慣れきった信号。消えることはないが、歩けなくなるほどでもない。ただ、ずっとそこにある。


 領主邸の扉は閉まったままだった。


 何分経ったか。


 十分か、二十分か。体感が伸縮するのは、自分が落ち着いていない証拠だった。


 別に心配しているわけじゃない。


 嘘だ。心配している。ただ、あそこに踏み込む資格は自分にはない。あれはリネットの戦いで、リネットの言葉で、リネットが片をつけるべき決着だ。


 噴水の飛沫が風で顔にかかった。冷たい。


 扉が開いた。


 ツカサは立ち上がった。


 リネットが出てきた。


 ——足取りが、速い。


 行きよりも速い。逃げているのではなかった。あの速度は、もう振り返る理由がない人間の歩き方だった。


 背筋が真っ直ぐだった。コートの裾が朝風に靡いて、それでも歩幅が一定のまま崩れない。扉の前の騎士二人が何か声をかけたが、リネットは答えなかった。答える必要がなかったのだろう。


 広場を斜めに横切り、噴水を回り込み、東側の路地に入る。


 ツカサはその動線を読んで先に回った。


 路地の角で壁に背を預けて待つ。


 五秒。


 角を曲がったリネットと、目が合った。


「終わったか」


 リネットは足を止めた。


 眼鏡の奥の翡翠色の瞳が、わずかに充血していた。泣いたのではない。泣くのを止めたあとの色だった。


「ええ」


 声は安定していた。


 ただ、その一語を出すまでに、普段のリネットにはない半拍の間があった。


「……終わった」


 もう一度、自分に確認するように言った。


 ツカサは壁から背を離した。何も聞かなかった。聞かなくても、彼女の目の赤みが全部を語っていた。


 二人は並んで路地を歩き始めた。


 狭い石畳の通りだった。建物の二階が迫り出していて、朝日が届かない。空気がひんやりしている。市場の方向から、店の開く気配と、鍋を叩く金属音が聞こえてくる。


 リネットが口を開いたのは、路地を半分ほど進んだところだった。


「《星環計》のこと、覚えてるかって聞いた」


 ツカサは黙って歩いた。


「覚えてた。あの人は覚えてたの。壊したことを」


 リネットの声は、事実を報告する時の平坦な口調だった。データの読み上げと同じトーン。だからこそ、その下にあるものの輪郭が際立つ。


「——で、謝ったのか」


「謝る気がないだけだった」


 足音が三歩分、沈黙を埋めた。


「『結果的に俺の勝利に貢献した』って」


 リネットの引用は短かった。一文だけ。それで十分だった。


 ツカサの奥歯が鳴った。


「貢献」


「ええ。恩師の遺品を壊して、七年分の研究を灰にして、それが"貢献"」


 リネットの歩調が変わらないのが、逆に重かった。怒りを制御しているのではない。怒りの段階をとうに通り過ぎた人間の足取りだった。


「それで?」


「言ったわ。あれは私の研究で、恩師の遺品で、私の人生の一部だったって。あなたの演出素材じゃないって」


「……聞こえたか、あいつに」


「聞こえたかどうかは分からない。でも、言った。今度は言った」


 今度は。


 その一言が、あの日——ツカサが追放された日へ繋がる。


 あの日、リネットは何も言えなかった。言いたいことを抱えながら、パーティ内での孤立と後ろ盾のなさから声を上げられなかった。ツカサはそれを知っている。責めたことは一度もない。


「離脱を通告した。戦場ログと魔導記録のコピーは持っていくって伝えた。私が立案して、私が観測して、私が記録したものだから」


「正当な権利だ」


「レオは——」


 リネットが初めて歩調を落とした。半歩分だけ。すぐに元に戻したが、その減速に感情の全部が乗っていた。


「最後に言ったの。『どうせお前の研究も俺を勝たせるためにある。一人で何ができる』って」


 ツカサは何も言わなかった。


 あの男の台詞だった。人の努力を自分の付属品だと本気で信じている人間の、悪意なき蔑視。悪意がないからこそ、刃が深い。


「何て返した」


 リネットの足が止まった。


 路地の出口に朝日が差し込んでいた。その光の手前で、リネットは振り返らずに答えた。


「——『それを確かめに行くのよ』」


 声が、少しだけ震えていた。


 震えていたのは、不安ではなかった。言えた、という実感の震えだった。


 ツカサは息を吐いた。短く、静かに。


「いい台詞だな」


「……自分でもそう思う」


 リネットの声に、ほんのかすかな笑いが混じった。泣いた直後の笑いだった。鼻の奥がまだ詰まっている声。


 路地を抜けた。


 朝日がまともに当たる通りに出た。市場の喧騒が近い。フォルテスの住人たちが、昨日自分たちの手で守った街で、いつも通りの朝を始めている。


 リネットが足を止めた。


「ツカサ」


「ん」


「……あの時——あなたが追放された時、私は何も言えなかった」


 その言葉は、路地の中で言えなかったものだった。暗い場所ではなく、光の下で言うべき言葉だった。


「今日、やっとその分を返せた気がする」


 ツカサはリネットの横顔を見た。


 翡翠色の目の充血は、朝日の下では目立たない。眼鏡のレンズが光を弾いて、表情の細部を隠している。それでも、彼女の口元が引き結ばれている力の入り方で、どれだけのものを飲み込んでここに立っているかは分かった。


「別にお前のせいじゃない」


「知ってる」


 リネットは前を向いた。


「知ってて、ずっと重かった」


 ツカサは返す言葉を探して、見つからなかった。


 見つからなかったので、黙った。


 代わりに歩き出した。リネットの半歩前を。安宿に向かう方角へ。


 リネットの足音がついてきた。半拍遅れて、しかし途切れずに。


  *


 安宿に戻ったのは、宿代の精算のためだった。


 一階の食堂で、宿の主人に二泊分の代金を告げられる。リネットがコートの内側から小さな革袋を出し、銀貨を数えて卓に置いた。


 学院の調査手当。残りの硬貨が、革袋の中で寂しい音を立てた。


「……あと何日分ある」


「あまり数えたくない額ね」


 リネットは革袋の口を締めながら、淡々と返した。


 宿の主人が銀貨を確認し、鍵を受け取って頷く。それだけだった。面倒な手続きはない。商いの街の宿らしい、あっさりした精算だった。


 表に出た。


 噴水広場を横切る。四方の水柱が朝日を受けて虹色の飛沫を上げている。


 その向こうに、領主邸の灰色の屋根が見える。


 リネットの足が一瞬だけ遅れた。


 ツカサは気づいたが、何も言わなかった。


 リネットが端末を起動し、指を数回滑らせた。画面を確認して、閉じる。


「未練か」


「まさか」


 リネットは眼鏡を押し上げた。


「因果波形を確認しただけ。あの建物の方角から変動がないか」


「——で?」


「ない。あの人の補正は相変わらず安定して脈動してる。私が抜けたことで、何も変わっていない」


 その報告の声が、わずかに硬かった。


 何も変わっていない。一人の人間が七年分の怒りを叩きつけて去っても、勇者の物語は揺らぎもしない。英雄の脚本は、端役の離脱ごときでは一行も書き換わらない。


「——今はね」


 リネットは領主邸から目を離した。


「今は、まだ」


 ツカサは頷いた。


 南門へ向かう。来た道を戻るのではない。ここから先は、勇者パーティの行軍ルートとは関係のない道を行く。


 広場を抜ける手前で、リネットが噴水に目を向けた。四方の水柱が水面に街道の地図を描いている。


「ここの水、昨日まで濁ってたの。知ってた?」


「知らなかった」


「昨日の戦闘で給水路の一部が詰まって、自警団が夜中に直したんですって。さっき宿の主人が言ってた」


「……だから今朝やけに澄んでるのか」


「自分たちの街を、自分たちで直した。それだけのことなのに——」


 リネットは水面に映る空を見下ろした。


「——それだけのことが、今まではできなかった」


 ツカサは返事をしなかった。


 返事の代わりに、南門へ向かって歩き出した。


 リネットがついてきた。


 今度は、半歩遅れではなかった。並んでいた。


  *


 フォルテスの南門をくぐった時、リネットが端末を開いた。


 画面に、膨大な量のログデータが流れている。


「戦場ログの初期解析、始めるわ。歩きながらでいい?」


「ああ、頼む。俺は道を見てる」


「……分担が板についてきたわね」


「デバッガーと理論屋だろ。最初からそうだ」


 リネットの指が端末の上を滑り始めた。


 街道は南へ延びている。左右に麦畑が広がり、遠くに丘陵の稜線が見える。朝の風が乾いた土の匂いを運んでくる。


 勇者の物語から降りた魔術師と、勇者の物語を壊す処刑人が、街道を歩いている。


 目的地はまだ定まっていない。


 ただ、戦場ログの中に眠っているはずの——レオの"英雄譚"の裏で踏みにじられた人々の記録を掘り起こすこと。それが、次の一歩だった。


 ツカサは前を向いた。


 右足の踵が、慢性化した鈍痛を送ってくる。ローファーの底はほぼ機能していない。通貨もない。旅装もない。食料の当てもない。リネットの手当も底が見えている。


 それでも——


 隣に、自分の言葉で立つことを選んだ人間がいる。


 それだけで、道は続く。

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