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第16話「勇者の"遅れて登場して全部持っていく"を不発にする」

 三日目の朝に、ツカサの右足は完全に馬鹿になっていた。


 痛みが消えたわけではない。踵の豆が潰れた部分が硬くなり、痛覚のほうが根負けしただけだ。ローファーの底はもう街道の石を一枚も吸収してくれない。足裏に直接地面を貼りつけているのと大差なかった。


 北西の街道は、朝になると薄い霧が地面を這う。


 領都を出てから三日、二人はほとんど無駄口を叩かなかった。リネットの脚は初日の午後から明らかにペースが落ち、二日目には足を引きずるのを隠さなくなっていた。ツカサは歩幅を縮め、それについて何も言わなかった。リネットも、何も言われないことについて何も言わなかった。


 干し杏は三つ目を昨夜分け合って食べた。残り二つ。


「……見えたわ」


 リネットが霧の向こうを指した。


 街道の先に、石壁が横に長く伸びている。城壁だ。その上に旗が何本か立っていて、朝日にぼんやり色づいている。


 街道都市フォルテス。


 領都ラングフォートより一回り小さいが、四方に伸びる街道の交差点に築かれた要衝で、交易量では領都に並ぶ。常駐の自警団がいて、平時の治安は良好——というのが、領都の酒場で拾った事前情報だった。


 南門は朝の物流で賑わっていた。荷馬車が二台並んで通れる幅の門をくぐると、石畳の大通りが中央の広場へまっすぐ延びている。


「先に波形を見る。座れる場所は」


「広場に噴水があるって話だった」


 リネットは頷いて、もう歩き出している。


 疲労で無駄な動きが消えた人間の歩き方は速い。ツカサは革靴の残骸みたいなローファーで石畳を踏みながら、あとを追った。


  *


 広場の噴水は、想像より立派だった。


 円形の石の水盤に、交差する四本の街道を象徴する四方の柱が水を吐いている。朝の光が水面を砕いて、広場全体に白いちらつきを撒いていた。


 リネットは噴水の縁に腰かけ、左手首の魔導端末を展開した。


 ツカサはその隣に座り、広場を見回した。


 市場は東側に広がっている。荷運びの男たちが朝一番の木箱を積み上げ、果物売りの女が天幕を張っている。西側には自警団の詰所が見えた。開いた窓から、朝の引き継ぎらしい声が漏れている。


 そして——ツカサの目には、それ以外のものが見えていた。


 東の城壁に沿って、薄い膜のような因果ラベルが揺らいでいる。


 【防衛が間に合わない補正】。


 文字がそう読める。城壁の一区画——商業区画の倉庫群に隣接する、他より明らかに低い壁面に、ちょうど蓋をするように貼りついていた。


 ツカサは視線を動かした。


 広場の上空にも、もう一枚。


 こっちは形が違う。都市全体を覆うように薄く広がった、網目状のラベルだ。


 【ちょうどいいタイミングで襲撃する補正】。


 背筋の温度が、一度だけ下がった。


 エルデンで見た【被害拡大】と同じ匂いがする。あのときは村の上空に浮いていた。今回は——都市だ。スケールが違う。


「リネット」


「分かってる。出てるわ」


 端末の画面を覗き込んだ。因果波形のグラフが、右肩上がりの不規則な山を描いている。


「この波形パターン、前に壊した森の核と類似してる。ただし出力が二倍以上。都市規模の人口密集地を対象にしてるからかしら」


 リネットの指が画面をなぞった。


「二つの補正が連動してる。まず『防衛が間に合わない補正』が自警団の初動を遅らせる。遅れた分だけ被害が広がり、その被害が大きいほど『ちょうどいいタイミングで襲撃する補正』が盗賊団の動きを"勇者が来る直前のピーク"に合わせて調整する」


「つまり」


「フォルテスの防衛はわざと穴を開けられてる。盗賊が最大限に暴れた直後に、レオが到着するよう因果が組まれてるの」


 噴水の水音が、やけにはっきり聞こえた。


 エルデンの焼け跡を思い出す。家が燃え、冬支度の備蓄が灰になり、写真立てを握って泣く老婆がいた。あのときと同じだ。勇者が華々しく登場するために、先に街が壊される。


 ただし、今回は——もう見えている。


 先に壊すものが見えているなら、先に壊せる。


「順番を決めよう」


 ツカサは立ち上がった。


「先に『防衛が間に合わない補正』を叩く。自警団が正常に動ける状態を取り戻す。そのあとで『襲撃タイミング補正』を潰して、盗賊の行動を"ただの犯罪計画"に戻す」


「根拠は?」


「防衛側が先に整わないと、襲撃補正だけ壊しても被害が出る。守る側が動ける状態にしてから、攻める側のお膳立てを壊す」


 リネットが端末を操作しながら、視線だけをツカサに向けた。


「合理的ね」


 それだけ言って、また画面に戻った。


  *


 東の城壁沿いを歩く。


 朝の倉庫街は活気がある。荷下ろしの声、馬のいななき、木箱の軋む音。日常の騒音の中に混じって、ツカサの目には城壁の低い区画に貼りついた因果ラベルがくっきり浮いている。


 【防衛が間に合わない補正】。


 色は淡い灰色。浅層だ。現象に貼りついているタイプで、剥がしても副作用は小さい——と、過去の経験から推測できる。


「深度は」


「浅い。エルデンの森の核より浅い。都市構造物に付着してるだけで、人の認識には絡んでない」


「了解」


 壁の低い区画に近づく。倉庫の裏手で、荷運び人の目が届かない一角。


 ツカサは腰の右側からハリセンを引き抜いた。


 煤と土の汚れ、先端の曲がり、核粉砕の焦げ跡。五回——いや六回、七回と使い込まれた張りぼてが、手の中で軽く鳴った。


 因果ラベルは、壁面の石組みに溶け込むように揺らいでいる。文字の輪郭がゆっくり脈打つ。


 ツカサは一歩踏み込んで、ハリセンを振った。


 ぱんっ。


 乾いた音が倉庫街に弾けた。


 灰色のラベルが砕ける。紙吹雪のように散って、朝の光の中で消える。


 それだけだ。派手な爆発もなければ、光の奔流もない。ただの紙を叩く音が一つ。


「消失確認。因果波形——低下。自警団側の初動遅延パターンが消えたわ」


 リネットの声が後ろから届いた。端末を睨んだまま、早口で数値を読み上げている。


「……面白いわね。補正が消えた途端、自警団の巡回パターンがリアルタイムで変わってる。今まで東壁の低い区画を"なぜか"見落としていたのが、普通に巡回ルートに組み込まれ始めた」


 ツカサは壁の上を見上げた。


 さっきまで薄暗く見えていた城壁の一角が、ただの日陰に戻っている。特別に脆い場所でも、見落とすべき場所でもない。最初からそうだった——補正が、そうじゃないように見せていただけだ。


「次」


「広場上空。ちょうどいいタイミングのほう。でもあっちは面積が広いから、ラベルの中心を見つけて」


 来た道を戻る。広場に出ると、噴水の水柱の向こうに、網目状のラベルが朝日に透けて浮いていた。


 中心は——広場のど真ん中だ。四本の街道が交差する地点。都市の心臓部。


 荷運びの男たちが行き交う中を縫って、ツカサは噴水の正面に立った。


 見上げる。


 網目の中心に、少し濃い結節点がある。色はやはり淡い灰色。浅層。


「真上」


「端末に反応がある。因果波形の集束点——高さは地上から約八メートル。物理的に届く?」


「届かなくていい」


 ツカサはハリセンを頭上に掲げて、振り下ろした。


 地面を叩く。


 ぱんっ、と乾いた音が広場に響いた。


 荷運びの男が何人か振り返った。噴水の水面が一瞬だけ波打った。


 網目状のラベルが、中心から亀裂を走らせて砕けた。破片が薄い光になって散り、朝の空に溶けて消える。


「……消失確認」


 リネットの声に、微かな驚きが混じった。


「地面を叩いて上空の集束点を消したの? 端末の反応が一瞬でゼロになった」


「場所の補正なら、その場所に衝撃を与えれば壊れる。たぶん」


「たぶんって言わないで。再現性の問題よ」


「じゃあ仮説。補正は空間に貼りついてるから、その空間内で発動すれば接触判定が出る」


「……あとで検証するわ」


 リネットは端末を何度か叩いて、波形データを保存した。眼鏡の奥の翡翠色の瞳が、科学者の目をしている。


 ツカサはハリセンを腰に戻した。先端の曲がりが少し広がった気がする。


  *


 午前中いっぱいを使って、フォルテスの避難導線を確認した。


 と言っても、大したことはしていない。


 ツカサは東の商業区画を歩き回り、倉庫と住宅の間にある裏路地の幅と行き止まりを確認した。リネットは自警団詰所の近くで、端末の因果波形が安定したことを確かめ続けた。


 補正が消えたフォルテスは、ただの——よく整備された交易都市だった。


 城壁は厚く、門は頑丈で、自警団は二十人以上が常駐している。巡回は日に三度、交代は規則的。東壁の低い区画にも、補正が消えた今朝から巡回が入るようになっていた。


 つまり、最初からこの街は守れる街だった。


 守れないように、見えないように、されていただけだ。


「どう思う?」


 昼前、広場の端の屋台で買った硬いパンを齧りながら、ツカサは聞いた。支払いはリネットの手当から——もう何度目か数えるのをやめた。


「盗賊団の襲撃予測は明日と見ていたけど、補正が消えたことで前倒しになる可能性がある」


「前倒し?」


「『ちょうどいいタイミング補正』が消えたということは、盗賊団のスケジュールが"レオの到着に合わせた最適タイミング"から解放されたということよ。彼らは今、自分たちの都合で動ける。準備ができていれば今日にでも来る」


 ツカサはパンを飲み込んだ。


「準備は整ってるか?」


「自警団側は。補正が消えてから、巡回頻度が上がってる。詰所の窓から見える限り、装備の点検も始まってた。——誰かが指示を出したわけじゃない。"なぜか手を抜いていた"ことに気づいた人間が、自発的に動き始めただけ」


 それが、補正を壊すということだ。


 誰かを操って動かすんじゃない。操っていたものを消して、もともと動ける人間に自分の判断を返す。


「あとは——来るのを待つだけか」


「待つだけ。ただし、東壁の近くに移動しておきましょう。来るなら東側から。何が起きても即座に対応できる位置にいたい」


 ツカサは頷いた。パンの最後の欠片を口に押し込み、二人は東の商業区画へ向かった。


  *


 午後の早い時間に、それは来た。


 ツカサとリネットは、東壁の低い区画を斜めに見通せる倉庫街の角に腰を据えていた。ツカサが市場通りの木箱に背を預け、リネットが端末を開いて因果波形を監視している——そのとき、城壁の外で煙が上がった。


 壁の上を巡回していた自警団の隊員が叫んだ。


「東壁外に武装集団! 二十以上! 梯子を——梯子を持ってるぞ!」


 自警団の詰所から鐘が三度鳴る。整然とした足音が石畳を叩いて、東門と東壁の巡回ポイントに人が散っていく。


 因果ラベルは——ない。盗賊団の頭上にも、城壁にも、空にも、テンプレ補正の残滓は一つも浮いていない。


「波形安定。異常な因果干渉なし。これは——ただの襲撃よ」


 リネットの声が、どこか拍子抜けしたように聞こえた。


 東壁の低い区画を乗り越えようとした盗賊の先発隊が、巡回中の自警団に発見された。鐘が鳴り、増援が来て、梯子を掛けようとした盗賊たちは壁の上から槍で突かれて落ちた。


 南側に回り込もうとした別働隊は、補正が消えたことで「なぜか見落とされていた」脇道が封鎖されていることに気づいて立ち往生した。


 壁上の自警団が再び声を上げた。


「東壁外の二手目——火矢の準備をしてる! 位置は城壁外、二十歩!」


 リネットの指が端末の上を走った。


「——壁外、東寄り二十歩。因果波形で位置を特定した」


 左手を石畳に押しつけるように伸ばし、低い声で呪文を紡ぐ。


 地面が鳴った。


 石畳の振動がツカサの靴底にも伝わった。小さく、短く——城壁の下をくぐって、壁の外の地面に伝わっていく。


 地中を走った術式が、城壁外の地表を突き上げた。壁の外で怒声と悲鳴が上がった。壁上の自警団が身を乗り出して下を覗き込み、一瞬の間を置いて叫んだ。


「火矢隊、自滅! 足元が崩れて——火が自陣に回ってるぞ!」


 リネットは端末を確認し、静かに手を引いた。


「足元を隆起させただけ。それ以上はしてない」


「見えてたのか? 壁の向こう」


「見る必要はないわ。地面の隆起は地中を伝わる。位置は端末の波形と、壁上の報告で十分」


 ツカサは市場通りから動かなかった。盗賊が市場まで入り込む気配はなかった。城壁の外と壁際で自警団が食い止めている。


 荷台の裏に隠れていた子供を二人見つけたのは、そのときだ。親は自警団の鐘で西側へ避難済みだったが、子供たちが荷台の下に潜り込んで動かなくなっていた。


「出ろ。西に走れ。広場の噴水のほうへ行けば人がいる」


 子供たちは目を丸くしたが、ツカサの声が断定的だったからか、素直に荷台の下から這い出して走った。


 それだけだ。


 一時間もしないうちに、終わった。


 盗賊団の規模は三十人弱。武装はそこそこだったが、統率が雑で、連携が下手で、何より——"劇的に強い悪役"ではなかった。ただの武装盗賊だ。街道沿いの村を荒らしてきた程度の犯罪者集団が、準備の整った自警団にぶつかれば、こうなる。


 生存者は全員捕縛。死者なし。怪我人は自警団側に三名、いずれも軽傷。住民の被害は、東壁近くの倉庫の窓ガラスが一枚割れたのと、市場の果物売りの天幕が煙で煤けたことだけ。


 倉庫街の角から広場に戻ると、噴水の水が何事もなかったかのように午後の光を弾いている。さっき逃がした子供たちはもう親のところに帰っていた。


「終わったわ」


「終わったな」


 何の感慨もない声が重なった。


 英雄的なシーンは一つもなかった。聖剣の閃光も、奇跡の逆転も、涙と感動の喝采もない。自警団が仕事をして、盗賊が捕まって、街が守られた。


 それだけだ。


 ツカサは噴水の縁に座った。右足のローファーを脱いで、踵を確認した。豆の跡が硬くなって、赤黒い色をしている。


「……これ、元に戻るのか」


「皮膚の話? 角質化してるだけだから、負荷をかけなければ治るわ」


「負荷をかけない生活の予定がない」


「知ってる」


 リネットが干し杏の紙包みを差し出した。残り二つ。


「一つずつ。最後よ」


 ツカサは受け取って、口に放り込んだ。甘さが口の中に広がって、三日分の疲労が少しだけ軽くなった気がした。


 広場には日常が戻っている。果物売りの女が煤けた天幕を叩いて文句を言い、荷運びの男たちが「今年の盗賊は根性がねぇな」と笑っている。


 誰も、ツカサの名前を呼ばない。


 誰も、ハリセンを持った少年が何をしたか知らない。


 自警団が街を守った。それが全てで、それでいい。


  *


 夕方、広場の北側から喇叭の音が聞こえた。


 ツカサとリネットは広場の東側にある安宿の二階——壁の薄い、しかしベッドが二つある部屋に入ったところだった。窓は広場に面している。


 喇叭はもう一度鳴った。北門の方角——広場から北へ延びる大通りの奥から、高く長く響いてくる。


 窓から顔を出した。


 大通りの奥はまだ建物の影に遮られて見えない。だが喇叭に続いて、馬蹄の音が石畳を叩く規則的なリズムが近づいてくる。一頭ではない。何頭もの馬が隊列を組んでいる。


 やがて——大通りが広場に接続する地点に、旗が現れた。


 深紅の旗にクレストリア王家の紋章。旗持ちの騎馬が二騎、大通りの角を曲がって広場に入ってくる。その後ろに整列した騎士が八人、磨き上げた鎧を夕日に光らせている。


 そして——中央に、白銀の鎧と深紅のマント。


 聖剣ルクス・プリマの鞘が、騎馬の腰で揺れている。金髪が夕日を受けて、遠目にも目立つ。


 神城レオ。


 勇者が、フォルテスに来た。


「……あの入り方」


 リネットが窓枠に片手をついて、呟いた。


 レオは騎馬隊を率いて広場に入ると、馬上で聖剣を高く掲げた。


 刃が夕日を弾いて光る。周囲の騎士たちが一斉に「勇者万歳」の声を上げ——


 広場を見回したレオの動きが、止まった。


 喝采がない。


 広場にはそこそこの人がいたが、誰もパニックに陥っていない。逃げ惑う市民もいなければ、焼け落ちた建物もない。泣き崩れる母親も、怯える子供も、「勇者様が来てくれなければ死んでいた」と叫ぶ老人もいない。


 果物売りの女が、馬の蹄に天幕の端を踏まれそうになって「ちょっと、どこ通ってんだい!」と怒鳴った。


 レオは聖剣を掲げたまま、数秒間、微動だにしなかった。


 遠くからでも分かる。あの姿勢は"歓声を待っている"姿勢だ。視線が広場を走り、期待した反応がどこにもないことを確認している。


 やがてレオは聖剣を下ろした。


 馬を降り、随行の騎士に何かを言っている。声はここまで届かないが、身振りは大きく、明らかに苛立っている。近くにいた騎士が慌てて走り出し、自警団の詰所に向かった。


「聞きに行ってる」


「盗賊は? 被害は? って聞いてるんでしょうね」


 リネットの声は平坦だった。


 窓から見下ろしていると、騎士が詰所から戻ってきてレオに報告した。レオの身体が一瞬止まる。それから両手を広げて、何かを言った。


 声は聞こえない。でも、口の動きは読めた。


 ——もう終わったの?


 ツカサは窓から離れた。


「……もう終わったの、か」


「そう。もう終わってる」


 リネットが窓を閉めた。夕日が遮断されて、部屋が薄暗くなる。


「勇者が来る前に。被害が出る前に。誰も勇者を必要としない状態で——終わった」


 あの男は今、初めて経験しているはずだ。


 自分の"舞台そのものが存在しない"ということを。


 エルデンでは、村が燃えた。村人が泣いた。勇者が最後の一撃を放って、拍手が起きた。あの森では、魔族が口上を述べて、舐めプの隙を突いて勝った。


 どの場面にも、"勇者が介入する余地"があった。被害があり、危機があり、絶望があり——そこへ現れることで、存在意義が確定する。


 今回、それがない。


 被害はほぼゼロ。危機は事前に処理済み。絶望は発生していない。勇者が来る理由が、ない。


 レオにとって、それがどういう意味を持つか——ツカサには想像がつく。


 あの男の世界では、自分がいない場所に完結があってはならない。


  *


 夜。


 宿の一階の食堂で薄いスープと黒パンを食べたあと、二階の部屋に戻った。


 リネットが端末を閉じた。


 その手が、白かった。


 指が端末の縁を握りしめていて、関節の色が抜けている。


「どうした」


「伝令が来た」


 リネットの声は静かだった。静かすぎた。


「レオ側から。私に復帰命令」


 ツカサは黙った。


 リネットは端末を膝に置いた。画面には短い文面が表示されている。距離があって読めなかったが、読む必要もなかった。


「代理の魔術師では術式の精度が出なかったんでしょうね。次の大型任務に向けて、まともな制御役が必要になった。だから戻れ、と」


「お前の意思は」


「聞いてないでしょうね。命令だから」


 沈黙が落ちた。


 壁の向こうから、隣室の旅商人の鼾が微かに聞こえる。窓の外では、自警団の夜間巡回の足音が規則的に通り過ぎていく。正常な街の、正常な夜の音だ。


 リネットの指が、まだ白い。


「どうする」


 ツカサは聞いた。それ以上は言わなかった。


 リネットは一拍、間を置いた。


 端末を握る手が少しだけ緩んで、指に血の色が戻る。


「……明日、直接言いに行く」


 その声には、迷いがなかった。


 迷いがないからこそ、指が震えていた。

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