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第14話「敵の舐めプを消したら、こっちも本気を要求された」

 テンプレ因子の実地データを増やすため、二人は冒険者ギルド経由で迷宮探索パーティに同行していた。


 古代迷宮の入口は、森の斜面に口を開けた石造りの裂け目だった。


 苔むした門柱の片方が崩れて地面に横たわり、もう片方だけが斜めに立っている。かつて何か文字が刻まれていたらしい表面は風化で読めない。門柱の根元に、冒険者ギルドの管理票が打ちつけてある。日付と入場パーティ名を書く欄が並んでいるが、半分以上が雨で滲んで判読不能だった。


「足元、気をつけろよ。入口から十歩くらいは苔で滑る」


 先頭を歩く剣士が振り返らずに言った。ガゼルと名乗った男で、革鎧の上に鎖帷子を重ね、腰に幅広の長剣を帯びている。日焼けした首筋に古い咬み傷が二本。迷宮慣れした動きで、足の置き場を選びながら暗がりへ降りていく。


 その背中に続くのは盾持ちのドルク。ガゼルより頭ひとつ大きく、背中の丸盾が通路の壁に擦れるたびに石の粉が落ちる。無口で、ここまで聞いた言葉は「ああ」と「いや」だけだ。


 三番手が弓使いのカーラ。亜麻色の髪を後ろで結び、矢筒を腰の低い位置に固定している。ツカサたちをギルドの受付で見たときから、ずっと値踏みするような目を向けてくる。


 四番手に短剣使いの青年——名前はフィン。パーティの中で一番若く、二十歳前後に見える。腰の両側に短剣を一本ずつ吊るした二刀の軽装で、身のこなしが速いが、何かと先輩三人の顔色を窺う癖がある。


 そしてツカサとリネットが最後尾。


「……あの盾の人、俺より横幅あるな。追い越せないぞこの通路」


「追い越す必要がないから最後尾なのよ」


 リネットが左手首の端末に目を落としながら答えた。薄い光が翡翠色の瞳に反射する。因果波形のモニタリングを開始しているのだろう。


 ギルドの受付では、リネットが交渉を担当した。学院修了者の肩書きと、魔術支援を無償で提供する条件を出したところ、ガゼルのパーティが「魔術師がいると中層まで楽になる」と同行を受け入れた。ツカサについては「連れの荷物持ち」で通してある。


 通路は緩やかに下り、空気が変わった。地上の土と草の匂いが消え、湿った石と、かすかな鉱物の匂いに置き換わる。壁面に一定間隔で嵌め込まれた魔石灯が青白い光を放ち、足元だけはかろうじて見える。


 ツカサの目には、今のところラベルは見えない。


 ただ、壁の継ぎ目や天井の亀裂に、ごく淡い因果の滲みのようなものが引っかかる。あの森で見た「空気の屈折」ほど濃くはないが、この迷宮にもテンプレ因子が薄く漂っている気配はあった。


「波形、微弱だけど平常値の一・三倍」


 リネットが小声で耳打ちした。


「森のときの半分以下か」


「核があるほどの濃度じゃない。でも、何かが定期的に通過している痕跡はある」


 何かが通過する痕跡。つまり、ここを縄張りにしている存在がいるということだ。


 上層は冒険者たちが慣れた顔で処理した。三体ほどの魔物——石壁に擬態する蜥蜴型と、天井から糸を垂らす蜘蛛型——を、ガゼルとドルクの連携で手際よく片付ける。カーラの矢が逃げようとした一体を射止め、フィンが動かなくなった魔物から素材を手早く剥ぎ取った。


 作業だ。慣れた人間にとって、この階層の魔物は作業でしかない。


 ツカサは戦闘に参加していない。参加できるほどの戦闘力がないことは、ここにいる全員が暗黙に了解している。リネットも上層では術式を使わず、端末のモニタリングに集中していた。


「中層、入るぞ。ここからは気を引き締めろ」


 ガゼルが足を止めた。通路が階段状に落ち込み、空気の湿度がもう一段上がる。魔石灯の間隔が広くなり、影が濃くなった。


 階段を降りきると、通路は三人分の幅に広がり、天井も高くなった。壁面の装飾が上層より凝っている。ここが本来の迷宮の主要部だったのだろう。


 フィンが先行して角を覗き込み、手信号でガゼルに合図を送る。ガゼルが頷き、パーティは慎重に進んだ。


 三つ目の分岐を左に折れたとき、通路が急に開けた。


 広間だった。


 天井が五メートルほどに跳ね上がり、石の柱が四本、等間隔に立っている。奥に通路が二本分岐する。柱の一本は半ばから折れて瓦礫が散乱し、床の一角に水溜まりができていた。


 魔石灯は壁面に二つだけ。広間の中央付近は薄暗い。


「待て」


 ガゼルの手が上がった。


 広間の奥——分岐する二本の通路の間に、人影があった。


 壁に背をつけて立っている。フード付きの軽装革鎧。フードの隙間から、短い二本の角が覗く。腰に曲刀。人間と大差ない体格だが、肌の色がわずかに青みがかっている。


 魔族の斥候。


「出やがったな」


 ガゼルが剣を抜いた。ドルクが盾を構え、カーラが弓に矢をつがえる。フィンは両腰から短剣を引き抜いた。右手が順手、左手が逆手。低い姿勢でガゼルの斜め後ろにつく。


 連携が速い。慣れている。


 そして、斥候が口を開いた。


「——我が名は魔族第七斥候隊の——」


 始まった。


 ツカサは見ていた。斥候の背後に、見覚えのあるラベルが浮かんでいる。


 【舐めプ補正】。


 あの森で——魔族の斥候指揮官の背後に見たのと同じ字体、同じ色、同じ揺らぎ方。寸分違わず同じラベルが、まったく別の個体に貼りついている。


「——この迷宮は我らの領域であり、侵入者には相応の——」


 口上が続く。文法的に整った、芝居がかった宣告。戦場で敵を前にして長々と自己紹介する行為の、あの不自然さ。


 カーラが矢を引いたまま、隣のフィンに小声で囁いた。


「また口上。隙だらけ」


 フィンが頷く。「いつものパターンだな。喋り終わるまで待って、隙を——」


 だがツカサは、斥候の目を見ていた。


 フードの下の目。切れ長の、暗い色の瞳。


 そこに浮かんでいるのは敵意ではなかった。


 困惑だ。


 ——なぜ自分はこんなことを喋っているのか。


 その目は、あの森の指揮官と同じだった。自分の口から出ていく言葉を、自分自身が不思議がっている。戦術的に不合理だと分かっているのに、身体が勝手に口上を続けてしまう。そういう目。


 ツカサは確信した。


 これは個人じゃない。


 あの森の指揮官に貼りついていた【舐めプ補正】は、あの一人だけのものじゃなかった。魔族の斥候という**役割**に対して、世界が自動的に付与している。どの斥候でも、冒険者や勇者と遭遇した瞬間に、同じ補正が起動する。


 だから冒険者たちは「いつものパターン」だと言える。毎回そうだからだ。毎回、魔族の斥候は長話を始め、隙だらけになり、簡単に倒される。それが「お約束」として定着している。


 誰も疑問に思わない。敵が弱いのは、ただ弱いからだと思っている。


 ——違う。弱く**されている**んだ。


「——よって、ここで我が力を——」


 ツカサは腰のハリセンを引き抜いた。


「おい、何して——」


 カーラの声が聞こえた。ツカサはそれを無視して、広間の中央へ踏み出した。


 斥候の背後に浮かぶ【舐めプ補正】。淡く脈動する文字列。因果のラベル。


 ツカサは走った。右足の踵が痛む。水溜まりを踏んで水が跳ねた。


 振りかぶる。


 張りぼてのハリセンが空気を叩き、迷宮の壁に間の抜けた音が反響した。


 ぱぁん、と。


 ラベルが砕けた。光の粒子が散って、薄暗い広間に一瞬だけ白い花火が咲いた。


 斥候の口が止まった。


 途中まで発音しかけた言葉が途切れ、口が半開きのまま固まる。


 一秒。


 二秒。


 斥候の目が変わった。


 困惑が消え、代わりに——明晰さが戻った。フードの下の瞳が、広間全体を一瞬で走査する。柱の位置。瓦礫の散らばり。冒険者四人の配置。魔石灯の光源の角度。二本の退路。


 全部を、一息で読み取った。


 そして、結論を出した。


「——退路なし」


 短い呟き。声色が変わっていた。口上のときの芝居がかった抑揚が消え、低く、硬く、乾いた声。


 曲刀を抜く動作は見えなかった。気づいたときには、斥候は右の柱の陰に身体を滑り込ませていた。


「は?」


 ガゼルが虚を突かれた。口上が終わるまで待ち、弛緩した瞬間を叩く——それが「いつものパターン」だったからだ。口上が途中で切れて、敵がいきなり遮蔽物に隠れるなど、想定にない。


「散開! 柱に——」


 ガゼルの指示が終わる前に、柱の陰から灰色の粉末が飛んだ。


 煙幕。


 斥候が腰の小袋から撒いた鉱物粉末が広間の中央に拡散し、魔石灯の光を乱反射させて視界を塞いだ。石と金属の混じった刺激臭が鼻を突く。


「目が——!」


 フィンが咳き込んだ。


 煙幕の中で、足音がした。石の床を蹴る音。だが柱から柱への移動ではない——音は広間を斜めに横切り、左側の通路へ向かっている。斥候は煙幕を目くらましにして、退路の一本へ走ったのだ。


 ドルクが盾を正面に構えて動かない。正しい判断だ。視界のない状況で下手に動けば味方を斬る。


 カーラが壁際まで下がり、煙の薄い位置を探して弓を引いた。だが矢を放つ先が見えない。


「リネット!」


 ツカサが叫んだ。


「分かってる」


 リネットの声は、ツカサの想像より冷静だった。


 左手首の端末が淡く光り、リネットの右手が術式を組む。短い詠唱——空気圧縮の初歩術式を、煙幕の中心に向けて放った。


 圧縮空気が膨張し、煙幕が広間の四隅へ吹き飛ぶ。視界が戻った。


 斥候は、広間の左側通路の入口にいた。通路の中へ数歩入った位置で壁に片手をつき、こちらを振り返っている。煙幕に紛れて広間を走り抜け、通路へ滑り込んでいたのだ。


 この分岐通路は、広間から続く中層の主通路より幅が狭い。二人がかりで並べる程度で、大盾を持つドルクなら壁に触れずに通るのがやっとだろう。


 ——おかしい。退路なし、と呟いたはずだ。


 違う、とツカサは気づいた。退路がないのは逃げ切れないという意味ではなく、**この空間から逃げてもこの迷宮からは出られない**という意味だ。だから斥候は逃走ではなく、通路を利用した持久戦を選んだ。狭い通路に引き込めば、数の優位が消える。


 ガゼルも同じことに気づいたらしい。


「追うな! 通路に入ったら狭路で——」


 遅かった。フィンが反射的に踏み込んでいた。パーティ内で最も足が速い短剣使いの本能が、逃げる敵を追わせた。


「フィン!」


 リネットが端末を翳した。画面に因果波形ではなく、魔力の残留痕跡が映っている。


「待って! 通路の入口すぐ先、床に魔力痕! 罠——」


 フィンの足が通路の石畳を踏んだ。三歩目。四歩目の床が、他より微かに浮いている。


 リネットの警告は間に合った。フィンは四歩目の直前で足を止め、浮いた石畳を跨いで踏み越えた。


 だがそれは、斥候の狙い通りだった。


 罠を避けるために一瞬減速し、跨ぐ動作で片足だけが五歩目の石畳に着く——体重が一点に集中して、身体がまだ前傾している不安定な一瞬。


 斥候は、その二歩先の壁際で待っていた。曲刀を低く構えたまま、フィンが着地する瞬間に正面から踏み込んだ。


 金属がぶつかる音がした。


 フィンの左手の短剣が逆手のまま曲刀を受け、弾く。だが右手——利き手の順手の短剣を振り下ろす前に、斥候の爪先がフィンの軸足の脛を低く蹴り払った。着地直後の全体重が乗った足が外から横に弾かれ、支えを失って身体が傾く。


 曲刀が閃いた。


 体勢を崩したフィンの右腕の外側を、浅くない一閃が裂いた。


「っ——!」


 赤い線が革の腕当ての下に走った。右手の指が開き、順手の短剣が掌から滑り落ちて石の床に甲高い音を立てた。


「下がれフィン!」


 ガゼルの怒号が通路に反響した。フィンは左手の短剣だけを握りしめたまま、歯を食いしばって後ろへ退がった。右腕を庇いながら足を引く。一歩。踵の下に、微かに浮いた石畳の感触。罠だ。さっき跨いだ四歩目がすぐ背後にあった。踏み抜く寸前で気づき、そのまま大きく足を引いて跨ぎ越した。罠の手前側に着地する。


 通路の入口まで退がったところで、壁に背をつけて身を薄くした。


「ドルク、先行! 盾で潰せ!」


 ガゼルの指示に、ドルクが無言で動いた。丸盾を前面に構え、通路へ踏み込む。フィンが壁際で身を縮め、ドルクの巨体がその横を抜けて通路の奥へ進んだ。


 四歩目。浮いた石畳を、盾の下端で踏み潰す。仕掛けが作動し、石板の下から粉末が噴き出したが、盾の表面にぶつかって散った。先ほどと同じ鉱物粉末。煙幕の二段構え。


 だが今度はリネットが即座に空気圧縮を放ち、煙が広がる前に散らした。


「もう同じ手は通らないわよ」


 罠を踏み潰したドルクがさらに進む。その後ろからガゼルが通路に入った。ドルクが壁に身を寄せ、ガゼルが横を抜けて前に出る。


 斥候は通路の突き当たりで壁を背にしていた。これ以上退がれない。


 曲刀を正眼に構えた姿は、口上を述べていた数分前とはまるで別の生き物だった。無駄な動きがない。呼吸が静かだ。


 ガゼルが一歩踏み込んだ。


 幅広の長剣と曲刀がぶつかった。二合、三合。通路の狭さが長剣の振りを制限する。斥候はそれを読んでいた。曲刀の弧を活かして刃を滑らせ、長剣の間合いの内側へ潜り込む。


 近すぎる。長剣が振れない。ガゼルが半歩退いて間合いを取り直した。


 その一瞬を、ドルクが逃さなかった。


 ガゼルが退いた隙間へ、後方から盾ごと体重を押し込む。ガゼルが壁に身を寄せ、ドルクの巨体が斥候の正面に出た。


 丸盾が斥候の身体を壁に叩きつけた。圧倒的な体格差。斥候の背が石壁に張りつき、盾と壁に挟まれて曲刀を振る空間が消える。


 ドルクが押しつけたまま、半歩だけ横にずれた。壁と盾の間に斥候を固定しつつ、自分の体の横にわずかな隙間を作る。


 ガゼルの長剣が、その隙間を通った。


 袈裟に振り下ろされた一撃が、斥候の左肩から胸にかけてを裂いた。


 斥候が崩れ落ちた。


 曲刀が石の床に落ちる音が、通路に長く響いた。


 全員の呼吸が荒い。


 ドルクですら、盾を持つ腕が微かに震えていた。


  *


 広間に戻ると、フィンが柱の根元に座り込んでいた。右腕の傷を左手で布を巻いて押さえているが、血が布を滲ませて赤黒く広がっている。落とした右手の短剣はカーラが通路から回収し、フィンの腰の鞘に戻していた。


「見せて」


 リネットがフィンの腕を取り、布をめくった。外側の筋肉を斜めに裂く切創。骨には届いていないが、このまま放置すれば感染する深さだ。


「止血と簡易治癒はできるけど、完治にはギルドの治癒師が必要ね」


 リネットが端末を操作し、治癒術式を起動した。淡い光がフィンの腕を包む。出血が緩やかになり、フィンの顔から痛みの色がわずかに引いた。


 ガゼルが長剣の血を布で拭き取りながら、沈黙を破った。


「……おい」


 ツカサを見ていた。


「なんで急に敵が本気出した」


 声に刺がある。


 カーラが続いた。弓の弦を緩めながら、目がツカサを射抜いている。


「あたしも聞きたい。あんた、敵が口上始めたとき飛び出して何かしたろ。あのハリセンで」


 ツカサは黙っていた。


「いつもならもっと楽に倒せた」


 フィンが右腕を押さえたまま、低い声で言った。痛みと苛立ちが混じっている。


「口上の間に背後に回り込んで、喋り終わった直後に四人で囲む。それがセオリーだ。なのに口上が途中で止まって、いきなり煙幕を撒かれて、罠まで仕掛けられて——こんなの初めてだ」


「……」


「あのハリセンの兄ちゃんが何かしたんじゃないか?」


 カーラがガゼルに向き直った。


「敵が弱いまま倒せるなら、そのほうがいいだろ。なんでわざわざ余計なことした」


 ツカサは口を開きかけた。


 説明するなら、今だ。因果ラベルのこと。テンプレ因子のこと。あの斥候は「弱かった」のではなく「弱くされていた」のだと。補正を剥がしたことで、本来の戦闘力が戻っただけだと。


 だが。


 この場で何を言っても、「じゃあ剥がさなければよかったじゃないか」で終わる。フィンの右腕から滲む血が、どんな理屈より雄弁にツカサを指差している。


「——すまない。敵が強くなったのは、俺のせいだ」


 ツカサはそれだけ言った。


 リネットが視線を上げた。ツカサの横顔を、翡翠色の瞳が見つめた。


「……ちょっと待って」


 リネットの声は、静かだが硬かった。


「前提を整理させて。あの斥候は、口上を始めた時点で隙だらけだった。それが"いつものパターン"だとあなたたちは言ったわね」


「ああ。魔族の斥候はいつもああだ。出会い頭に長話を始める」


「それ自体がおかしいと思ったことは?」


 ガゼルの眉が寄った。


「おかしいって何がだ」


「斥候は偵察と情報収集が任務の兵種よ。敵と接触した瞬間に自己紹介を始める斥候なんて、軍事的にありえない。それが"いつも"起きているなら、斥候が弱いんじゃなくて、何かが斥候を弱くしているの」


 ガゼルは答えなかった。


 カーラが口を挟んだ。


「理屈はそうかもしれないけどさ。今まで問題なく倒せてたものを、わざわざ面倒にする理由がないだろ」


「問題なく倒せていたのは、敵が不自然に弱体化されていたからよ。本来の難度が、さっきの戦闘」


 沈黙が落ちた。


 フィンが顔を上げた。治癒術式の光が消え、傷は塞がりかけているが、まだ鈍い痛みが残る顔をしている。


「……理屈は分かった。でも——」


 フィンは右腕を見下ろした。


「——俺の腕は、理屈じゃ治らない」


 ツカサは何も言えなかった。


 それ以上の言葉は出なかった。ガゼルが「撤退だ。フィンの治療が先だ」と判断し、パーティは迷宮を引き返し始めた。


 帰り道は無言だった。


  *


 迷宮の入口に出ると、午後の日差しが目に刺さった。


 苔むした門柱の横で、ガゼルがパーティの報酬分配を手早く済ませた。斥候の素材——曲刀と革鎧の一部——をカーラが回収していたが、普段より少ない獲物だ。フィンの治療費を考えれば、今日は赤字だろう。


「次から同行するなら、余計なことはするな」


 ガゼルは最後にそれだけ言って、パーティを率いて去った。フィンがちらりとツカサを振り返ったが、何も言わず、足を引きずるように仲間の背中を追った。


 カーラだけが立ち止まった。


「あんたの連れの魔術師は優秀だよ。煙幕を散らしたのも、罠を見つけたのも、治癒をしたのも全部あの子だ。——でもあんたは、状況を悪化させただけだ」


 そして振り返らず歩いていった。


 二人だけが残った。


 ツカサは迷宮の外壁——風化した石壁にもたれて、空を見上げた。


 青い。雲がひとつ、東のほうへ流れていく。


「……テンプレを壊すと、現実が戻ってくる」


「ええ」


「現実は、テンプレより厳しい」


 リネットは隣には立たなかった。少し離れた場所で、端末を閉じ、眼鏡を外して目頭を押さえた。術式を三回使った疲労が出ているのだろう。


「でも」


 眼鏡をかけ直し、ツカサのほうを見た。


「テンプレの中では、"楽に勝てる代わりに"誰かが踏み台にされていた。あの斥候、あなたが補正を壊す前——目を見たでしょう」


「ああ」


「困惑してた。自分がなぜ口上を述べているのか分からないまま、身体だけが勝手に動いていた。——あの森のときの指揮官と同じ。彼らは"弱い敵"を演じさせられていたのよ」


 ツカサは腰のハリセンに手を伸ばした。焦げ跡がまた一つ増えた張りぼて。先端の曲がりが少しひどくなっている。


「分かってる。だからやった。やったことは間違ってない」


「間違ってない」


「——でも、フィンの腕は、確かに理屈じゃ治らない」


 リネットは答えなかった。


 風が吹いた。迷宮の入口から、湿った石の匂いが微かに流れてくる。


「今日、一つ分かった」ツカサは言った。「あの【舐めプ補正】は、個人に貼りつくんじゃない。"魔族の斥候"っていう役割に対して、世界が自動で付けてる。どの斥候が来ても同じだ。だから冒険者たちは"いつものパターン"だと思ってる」


「役割ベースの自動付与」リネットが端末を開き直し、何かを記録した。「個体ではなく、カテゴリに対する補正。……これは厄介ね。個別に壊しても、次の斥候にまた同じ補正が起動する可能性がある」


「根本を潰さないと、永遠にイタチごっこだ」


「ええ。——でも、今日のデータは大きいわ。個体付与じゃなくてカテゴリ付与という仕組みが分かった。それだけでも、テンプレ因子のシステム構造が一段見えた」


 リネットは端末をコートのポケットにしまった。


 そして、珍しく少しだけ口調が柔らかくなった。


「あなたが謝ったとき、止めようかと思った」


「……何で」


「あなたが悪いんじゃないもの。補正に弱体化された敵を、補正がある前提で戦い方を組んでいた冒険者たちの——いえ、それも違うわね。冒険者たちも悪くない。"そういうもの"として成立していた世界のほうが歪んでいる」


 リネットは王都の方角を見た。あの森を出た日と同じ方角。恩師が遺した言葉がある方角。エネルギーの供給元がある方角。


「冒険者だけじゃない。この世界の多くの人が、"気持ちいい物語"に慣らされてしまっている。敵は都合よく弱くて、勇者はちょうどいいタイミングで現れて、被害は最低限で、最後は拍手で終わる。——それが何十年も続けば、誰だって"それが現実"だと思い込む」


「……テンプレを壊しても感謝されるとは限らない、か」


「限らない、じゃなくて、多分そっちが多数派よ。正しいことをしても、結果が"今より不便"なら、人は不便のほうに怒る」


 ツカサは壁から背を離した。右足の踵が鈍く痛む。


「じゃあ、やめるか?」


 リネットは眼鏡の奥で、かすかに目を細めた。


「やめないわよ。あなたも、やめないでしょう」


「やめない」


「なら、答えは出てる。理解されなくても壊す。壊した後の厳しさを、引き受ける覚悟ごと」


 ツカサはハリセンをベルトの布に差し直した。間の抜けた音が鳴った。


 迷宮の上空を、鳥が一羽横切った。


「——次は、どうする」


「データを整理して、パターンを詰める。カテゴリ付与の仕組みが分かった以上、次に壊すべき補正の優先順位が変わるわ」


「具体的には」


「魔族の斥候に自動付与されるなら、他の"役割"にも同じことが起きている可能性がある。冒険者、騎士、商人、村人——どのカテゴリに、どんな補正がデフォルトで貼られているのか。それを洗い出さないと、壊す順番が決まらない」


 街道を、二人は歩き出した。


 振り返れば、迷宮の入口が森の斜面に口を開けたまま残っている。あの中で倒れた斥候は、「いつものパターン」の犠牲者だ。弱くされて、隙を晒させられて、都合よく倒される役を押しつけられていた。


 ツカサが補正を壊したことで、あの斥候は最後の数分間だけ本気で戦えた。


 結果として——重傷を負い、仲間に引きずられて撤退した。


 それでも——口上を喋らされたまま殺されるのと、自分の意思で剣を振って死ぬのは、違う。


 少なくとも、ツカサはそう思いたかった。


 ——思いたいだけで十分か?


 答えは出ない。


 足元の街道が、午後の光に白く伸びていた。

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