第13話「村を襲うためだけに湧く魔物の巣を叩く」
階段を降りると、老店主がカウンターの向こうで茶器を磨いていた。
客は一人もいない。朝日が入口の硝子越しに床を四角く切り取っている。
「出るのか」
「ええ。お世話になりました」
リネットが丁寧に頭を下げると、老店主は鼻を鳴らして磨き布を畳んだ。
「礼はいらん。——ただ、北東の森に行くなら、日が高いうちに戻れ。あの辺は夕方から獣が出る。魔物じゃない、普通の獣がな。そっちの方がよっぽど面倒だ」
「獣」
「猪だ。テンプレだの因果だの知らんが、猪に補正はついとらんぞ。牙は本物だ」
ツカサは思わず口の端を上げた。この老人は、昨夜二階から漏れていた会話の断片を聞いていたのかもしれない。だが追及する空気はなく、ただ「気をつけろ」と言っているだけだった。
「ありがとうございます」
「礼はいらんと言った」
二人は茶館を出た。
領都ラングフォートの朝は静かだった。石畳の道を、荷車を引いた農夫が一人だけ通り過ぎていく。空気がまだ冷たい。
「朝市はどこだ」
「南門の内側。歩いて十分くらい」
リネットは迷いなく歩き出した。ツカサはその半歩後ろについた。右足の踵が、最初の一歩で鈍く抗議する。豆はもう潰れ切っているはずなのに、地面を踏むたびに忘れさせてくれない。
朝市は思ったより小さかった。
天幕を張った露店が十ほど並んでいる。野菜、干し肉、パン、水袋、蝋燭。生活に必要なものだけが、飾り気なく台の上に置かれている。
リネットが懐から革の小袋を出した。中で金属が擦れる音がする。
「クレス銀貨。この国の基本通貨。一枚で干し肉三日分くらい」
「高いのか安いのか分からん」
「学生の昼食二回分。——安くはない」
リネットは手際よく水袋二つ、干し肉の包み、硬いパンの塊を購入した。ツカサは横で突っ立っているしかなかった。通貨の価値も、相場も、交渉の作法も分からない。この世界で自分が持っているのは、煤だらけのハリセンと、レールから外れた目だけだ。
「はい」
水袋を渡された。革の水筒より一回り大きい。肩から下げられる紐がついている。
「ありがとう」
「お礼は要らない。——あなたが壊すデータの方が、この世界の通貨より価値がある」
昨夜と同じ言い回しだった。合理的で、でも少しだけ不器用な。
朝市を出て、北東の街道へ向かう。
領都の門を抜けると、道は緩やかに丘を下り、麦畑の間を抜けて森林地帯へ向かっていく。空は快晴。風が麦の穂を揺らしている。
普通なら、気持ちのいい朝だ。
「歩きながら説明する」
リネットが左手首の端末を起動した。淡い光が手首の上に浮かぶ。
「因果波形の異常値は、領都を出た時点ですでに平常値の一・四倍。森に近づくにつれて上がっていくはず」
「分かりやすく言うと」
「この辺りの空気が、すでに少し歪んでいる。森の核に近づけば近づくほど、歪みは強くなる」
「つまり俺の目に見えるラベルも増えるかもしれない、と」
「そう。——ただし、個別のイベント補正とは性質が違う可能性がある。今まであなたが壊してきたのは、特定の場面に貼りついた単発の因果ラベル。今回の核は、魔物の異常発生そのものを維持している構造。もっと深く、もっと根を張っている」
ツカサは腰のハリセンに手を当てた。布の端切れで括りつけた仮留めがわずかに揺れ、先端のわずかな曲がりが指に触れた。
「壊せるか壊せないか、行ってみないと分からないってことか」
「行ってみないと分からない。——だから行く」
リネットの声に迷いはなかった。
*
街道は二時間ほどで農地を離れ、疎らな林に入った。
道幅が狭くなる。轍の跡はあるが、荷車がすれ違えない程度だ。木漏れ日が地面に斑を作っている。
ツカサの右足は、二時間の歩行で馴染みの痛みに戻っていた。豆の跡が靴底に押されるたびに、小さな針を踏むような感覚がある。慣れたと言えば慣れた。慣れたくなかったと言えばそれも正しい。
「波形、上がってきた」
リネットが足を止めた。端末の光が、さっきより明るい。
「一・八倍。——この先の森に入ると、もっと跳ねるはず」
ツカサは前方を見た。
街道の先で、林がいきなり密度を増している。陽光が途切れて、暗い。明確な境界線があるように、そこから先だけ木が太く、枝が低く、下草が深い。
そして——見えた。
木と木の間に、薄い靄のようなものが漂っている。文字ではない。色でもない。強いて言えば、空気の質感が違う。ゼリーの表面を覗き込んでいるような、わずかな屈折。
「……なんか、ある」
「具体的に」
「文字じゃない。ラベルでもない。空気が、なんか……重い。見える重さがある」
リネットが端末を森へ向けた。指が画面の上を走る。
「因果波形の飽和前兆。核に近いほど、個別のラベルではなく波形そのものが空間を満たしている状態。——あなたの目には、それが"空気の異質さ"として映るのかもしれない」
「俺の目は便利だけど取扱説明書がついてない」
「だから私がいる」
言い切る声が、妙に頼もしかった。
森に入った。
一歩目で、音が変わった。
風は吹いている。枝は揺れている。だが、木の葉が擦れる音がやけに遠い。自分の足音だけが近く聞こえる。リネットのブーツが落ち葉を踏む音、自分のローファーが枝を折る音。それ以外の音が、幕一枚を隔てたように遠退いている。
「鳥がいない」
リネットが呟いた。
ツカサも気づいていた。さっきまで聞こえていた鳥の声が、森に入った途端に消えた。
「嫌がって寄りつかないのか」
「魔力循環が歪んでいる影響。動物は本能的にそれを感知する。人間より正直ね」
十分ほど歩くと、靄が濃くなった。
ツカサの目に、ようやく文字が浮かび始める。ただし、これまで見てきた因果ラベルとは形が違った。【舐めプ補正】や【ラッキースケベ補正】は、対象の頭上や背後にぶら下がるプレートのような形をしていた。読めて、掴めて、叩ける。
今見えているのは、そういう個別のプレートではない。
地面の下から、文字が滲み出している。
【襲——】
途切れている。土に半分埋まった看板のように、文字の上半分だけが地表に露出している。しかもそれが一つではない。歩くたびに、足元の地面のあちこちに、同じ文字の断片が浮いている。
「足元に何かある。文字の欠片みたいなやつが、地面からいくつも出てる」
「位置を教えて。——端末側でも、波形が急上昇してる」
「あっちにも。こっちにも。……全部同じ文字だ。【襲撃イベント発生フラグ】。断片だけど、繋げれば読める」
「根。——核から伸びた根が、周囲に文字として滲出している」
リネットの声が硬くなった。端末を操作する指の動きが速い。
「核の本体はもっと奥。この根が周辺の魔力循環に食い込んで、定期的に魔物を異常発生させている。——木の根が地面から水を吸い上げるように、この核は周囲の魔力を吸い上げて、それを魔物の発生に変換している」
ツカサは足を止めた。
前方、二十歩ほど先。
木の根が絡み合った窪みの中央に、それはあった。
巨大な因果ラベルが、地面に突き刺さっている。
今まで見てきたどのラベルよりも大きい。ツカサの背丈ほどの高さがあり、幅は両腕を広げたくらい。半透明の板が地面から斜めに生えていて、そこから無数の根——いや、触手のような文字の束が、放射状に地中へ潜っている。
ラベルの表面に、くっきりと浮かんでいる文字。
【襲撃イベント発生フラグ:定期起動型・自動生成・範囲指定あり】
ツカサは息を吐いた。
「……でかい」
「核ね」
リネットが隣に並んだ。端末が甲高い警告音を発している。
「因果波形、平常値の三・二倍。私の端末でも異常が可視化できるレベル。——あなたには、どう見えてる?」
「でかい板が地面にぶっ刺さってて、そこから根が四方八方に伸びてる。根の一本一本にも文字がある。全部同じ——【襲撃イベント発生フラグ】」
「構造が分かった。核が本体で、根が伝達経路。根を通じて周辺の魔力循環に干渉し、一定周期で魔物の異常発生トリガーを送信している。——時限爆弾みたいなもの。核を壊せば根も死ぬはず」
「はず」
「理論上は。——実測データがないから断言はできない」
正直だった。
ツカサは腰からハリセンを抜いた。
布の端切れがほどけかけている。煤の跡と土汚れが染みついた張りぼて。先端のわずかな曲がり。三連続の粉砕で蓄積した負荷が、形に残っている。
これで、あのでかい板を叩く。
「リネット。壊した後、何が起きる」
「根が消えれば、根が吸い上げていた魔力が行き場を失って暴れる。森の魔力循環が一時的に不安定になる。——その安定化は私がやる」
「時間は」
「核が壊れてから、魔力が暴走するまで数秒の猶予があるはず。安定化の術式は組んである。ただし、暴走が始まったら私は術式に集中するから、あなたの援護はできない」
「援護がいるような事態になるのか」
「魔力の急変で、近くにいる魔物が一時的に興奮する可能性がある。核の供給が止まれば新たな異常発生はなくなるけど、既に森にいる個体が暴れる可能性はゼロじゃない」
「つまり、壊した直後が一番危ない」
「そう。——だから、壊す瞬間に私が観測して、最適なタイミングを指示する。核の波形が最も薄くなる瞬間がある。心臓の拍動と同じで、因果波形にも律動がある。谷間を叩けば、最小の衝撃で核を砕ける」
ツカサはハリセンを握り直した。
「頼む」
「任せて」
リネットが三歩下がった。端末を核に向けて固定し、画面に流れる波形を読み始める。
ツカサは核の正面に立った。
でかい。間近で見ると、半透明の板の中に文字が層になって重なっている。【襲撃】【定期】【自動生成】——同じ命令が、何重にも書き込まれている。上書きに上書きを重ねた、分厚い脚本。
これが、何年も村を襲い続けてきた装置の正体か。
勇者がちょうどいいタイミングで駆けつけて、ちょうどいい規模の被害を出して、ちょうどいい感動を演出するための——予約済みの災厄。
ツカサの視界が、少しだけ鮮明になった。
怒りではない。もっと静かなものだ。この板の裏側に、毎回の襲撃で怯えた子供がいる。毎回の襲撃で家畜を失った農夫がいる。そしてその恐怖を、誰も「おかしい」と思えなかった。これが当たり前だと、世界ごと思い込まされていた。
「——波形の谷、十二秒周期。次の谷まであと八秒」
リネットの声が、森の沈黙を切った。
「七」
ツカサはハリセンを振りかぶった。
「六、五」
核の表面が、かすかに明滅している。文字が濃くなり、薄くなり、また濃くなる。
「四、三」
薄くなる瞬間。文字が一番弱くなる瞬間。
「二——今」
振り下ろした。
ぱぁん、と。
張りぼてが核の表面を叩いた音は、いつものハリセンの音だった。間の抜けた、乾いた破裂音。だがその直後に、音ではないものが広がった。
核の表面に、蜘蛛の巣状の亀裂が走る。
亀裂が文字を割り、文字が光の粒子に分解され、粒子が空気に溶けていく。板の中央から外縁へ、崩壊が波紋のように広がる。
同時に、地中に伸びていた根が光り始めた。核から切り離された根が、一本ずつ、先端から順に光の粒子になって消えていく。足元の地面が、一瞬だけ薄く発光した。
それは、綺麗だった。
長い間この森を蝕んでいた脚本が、文字通り塵に還っていく光景。見る者がツカサしかいないのが、少しだけ惜しいと思った。
「——魔力暴走、開始。術式展開」
リネットの声が背後から飛んできた。
ツカサが振り返ると、リネットは両手を地面に向けて広げていた。端末の光が消え、代わりに彼女の足元に淡い青白い光の円が広がっている。術式。因果波形ではなく、純粋な魔力制御の術式だ。
森の空気が、一瞬だけ荒れた。
風のない場所で落ち葉が舞い上がり、木々の枝が揺れた。地面から押し上げられるような圧力を、ツカサは足の裏で感じた。核が吸い上げていた魔力が、出口を失って暴れている。
リネットの術式が、それを受け止めた。
足元の光の円から、細い線が地面の中を走っていくのが見える。線は核の根があった場所を辿り、空になった経路に新しい魔力の流れを通している。ダムが壊れた川に、即席の水路を掘るようなものだ。
十秒。二十秒。
落ち葉が地面に落ちた。枝の揺れが止まった。空気の圧力が、すっと引いていく。
三十秒で、森は静かになった。
静かに——なった。
さっきまであった、あの異質な重さが消えている。空気の屈折が消えている。森はただの森に戻っていた。
そして、鳥が鳴いた。
一羽。二羽。遠くで、三羽目。
森に入ってから一度も聞こえなかった鳥の声が、戻ってきた。
「……安定した」
リネットが両手を下ろした。息が荒い。額に汗が浮いている。
「魔力循環を既存の地脈に再接続した。核が吸い上げていた分のエネルギーは、本来の流れに戻したから、数日で森全体が正常化するはず」
「大丈夫か。顔色悪い」
「術式の消費が重かっただけ。五分休めば動ける」
リネットは近くの木の根元に座り込んだ。コートの裾が落ち葉に広がる。
ツカサもその隣に腰を下ろした。右足の踵が、座った瞬間にずきりと主張した。半日の歩行と、核を叩いた衝撃の反動が、遅れて足に来ている。
「壊れたな」
「壊した。——あなたが」
「お前が合わせたから壊せた。あのタイミング指示がなかったら、多分もっとぐちゃぐちゃになってた」
リネットは眼鏡を外して、レンズを袖で拭いた。
「理論上は分かっていた。因果波形には律動がある。谷間を叩けば最小出力で最大効果が出る。——でも、実際にやったのは初めて。あなたが本当に谷間で叩けるかどうかは、賭けだった」
「賭けに勝った」
「賭けに勝った」
同じ言葉を繰り返して、リネットは小さく息を吐いた。笑ったのかもしれない。眼鏡をかけ直す手が、微かに震えていた。
ツカサはハリセンを見た。
新しい傷が増えている。核を叩いた面に、うっすらと焦げ跡のようなものがついている。さっきまでなかった染み。粉砕した因果の残滓が、張りぼてに焼きついたのだ。
煤跡、土汚れ、端のほつれ、先端の曲がり、そして今度は焦げ跡。
こいつも大概ボロボロだな、と思った。
*
森を出たのは、日が真上に来る少し前だった。
街道に戻ると、空気がまるで違った。さっきまで森の中で感じていた重さが嘘のように、風が軽い。木漏れ日が普通の木漏れ日に見える。当たり前のことが、当たり前に感じられる。それがこんなに安堵するものだとは思わなかった。
街道を少し南西に戻ると、森の縁に小さな集落があった。
家が七つか八つ。畑と家畜小屋が点在する、典型的な農村だ。街道から少し外れた位置にあるが、森との距離が近い。魔物の発生源があの森にあったなら、この村が定期的に襲われていたのは当然だ。
村の入口で、猟師と目が合った。
四十代くらいの男。日焼けした顔に短い顎髭。手に弓を持ち、腰に短剣を下げている。獲物を探しに森へ向かう途中だったのだろう。
男がツカサとリネットを見て、怪訝な顔をした。旅装とも言えない格好の若い男と、学院のローブを着た若い女。この辺りでは珍しい組み合わせだろう。
「あんたら、森から出てきたのか」
「ええ」
「……さっきから、急に森の方の空気が変わった。なんだあれは」
猟師は弓を下ろして、森の方を振り返った。
「昼飯の支度をしてたら、急に感じが変わったんだ。ずっとあった嫌な圧——体の奥がざわつくような、何かが押してくるような、あれが、ふっと消えた。飼い犬もそれまでいつも通り森に向かって唸ってたのが、ぴたりと静かになりやがった」
リネットがツカサをちらりと見た。
核を壊したのが、ちょうどその時刻だ。
ツカサは黙って頷いた。
「それ、多分もう戻らない」
「は?」
「森の奥にあった……まあ、魔物が湧いてた原因みたいなもんを、壊した。だから空気が変わったんだと思う」
猟師が目を丸くした。
「壊した? あんたらが? ——勇者様の討伐隊じゃなくて?」
「勇者は関係ない」
ツカサの声が、自分でも思ったより硬かった。
猟師はしばらくツカサの顔を見つめていたが、やがて視線を森へ戻した。
「……そうか。あんたらが何者かは知らんが、空気が変わったのは確かだ。三年飼ってる犬が、さっき初めて森の方を向いても吠えなかった。それだけは本当だ」
それだけ言って、猟師は頷いた。礼の言葉はなかった。代わりに、表情がほんの少しだけ緩んでいた。
村の中に入ると、他の住人の反応はまちまちだった。
畑で作業していた女が、ツカサたちの姿を見て手を止めた。井戸端にいた年配の女性二人が、ひそひそと何か話している。子供が一人、遠巻きにこちらを見ていた。
声をかけてきたのは、村の中ほどにある小さな広場のベンチに座っていた老人だった。
白い髭を蓄えた、杖を持つ老人。背中が丸く、目が細い。
「若いの。お前さん、さっき森から出てきただろう」
「ああ」
「森で何をした」
「魔物が湧く原因を壊した」
老人は、しばらく黙っていた。
それから、困ったような、寂しいような、よく分からない顔をした。
「……そうかい。それは——まあ、ありがたいことなんだろうなぁ」
語尾が、濁った。
「でもなぁ。わしらはずっと、こうだったんだ。魔物が来て、怖い思いをして、でもそのうち勇者様が来てくださって、退治してくださる。それが——うん、それがいつもの流れでな」
ツカサは何も言わなかった。
「勇者様が来てくださるから、わしらは耐えられた。怖いけど、最後には助けてもらえる。その……なんというか。流れが決まっとると、安心できたんだ。怖いのは怖いが、終わりが見えとるから」
老人は杖の先で地面を突いた。こつ、こつ、と乾いた音。
「原因を壊したと言われてもな。次に魔物が来た時、誰が助けてくれるんだ? 勇者様は来てくれるのか?」
——来ない。
少なくとも、あの勇者は来ない。来たとしても、それは村を助けるためじゃない。村が燃えるのを待って、その炎を背景に剣を振るうだけだ。
ツカサの口は開かなかった。
言いたいことはあった。「そもそも魔物が来なくなるなら勇者もいらないだろう」と。正論だ。理屈は通る。だがこの老人が求めているのは、正論ではない。
長い間、世界ごと「そういうものだ」と刷り込まれてきた安心感。恐怖と引き換えに与えられていた、予定調和の物語。それを奪われた不安。
テンプレ因子は魔物を生むだけじゃない。人の中にも根を張っている。
「——魔物が来なくなれば、助けてもらう必要もなくなります」
リネットが口を開いた。老人に向けた声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「怖い思いをしなくて済むなら、勇者を待つ必要もない。それは悪いことではないはずです」
「そうかもしれんがなぁ」
老人は首を振った。納得しているようには見えなかった。
ツカサとリネットは広場を離れた。
村外れの道に出ると、ツカサは小さく息を吐いた。
「あの爺さんの気持ち、分からなくはない」
「分かる必要はない」
リネットの声が、少しだけ尖っていた。
「……いや、分かるとは言わないけど。仕組みとしては理解できる。長い間"そういうもの"として受け入れてきた人に、急に"それは嘘だった"って言っても、すぐには受け取れない」
「テンプレ因子は魔物だけじゃなく人の認識にも作用する、という仮説の補強にはなった」
「お前、今ちょっと冷たかったぞ」
「事実を述べただけ」
「事実の述べ方にも温度がある」
リネットは眼鏡の奥で目を伏せた。反論はしなかった。
*
村を出て街道に戻り、二十歩ほど歩いた時だった。
「あの——!」
後ろから声がした。
振り返ると、子供が走ってきた。さっき村で遠巻きにこちらを見ていた少年だ。十二、三歳。そばかすの浮いた日焼け顔に、使い古された弓を背負っている。猟師の見習いだろう。
少年は息を切らせてツカサの前で止まった。膝に手をついて、しばらく呼吸を整えている。
「大丈夫か」
「だい、じょうぶ。——あの、さっきのおじいちゃんの言葉、気にしないでほしくて」
少年が顔を上げた。目が真っ直ぐだった。
「おじいちゃんは怒ってたんじゃなくて、たぶん怖いんだ。いつもと違うことが起きたから。大人って、いつもと違うことが怖いんだと思う」
「……ああ」
「でも俺は——」
少年が唇を噛んだ。それから、言った。
「俺は、毎回魔物が来るたびに怖くて泣いてた。家の隅っこで耳塞いで、終わるの待ってた。母ちゃんが『大丈夫、勇者様が来てくださる』って言うけど、来るまでの間がずっと怖くて。——来なくなるなら。魔物が来なくなるなら、それが一番いい。勇者様が来るとか来ないとかじゃなくて」
素朴な声だった。飾りがない。理屈もない。ただ怖かった子供が、怖くなくなれるなら嬉しいと言っている。
ツカサは、少年の頭のてっぺんを見た。因果ラベルは何も浮いていない。補正もフラグもない。この子はただの子供だ。
「ああ」
ツカサは頷いた。
「それが普通だ。怖いのが嫌で、怖くなくなるのが嬉しい。——それ以外に理由はいらない」
少年がぱっと笑った。歯が一本欠けている。乳歯が抜けた跡かもしれない。
「ありがとう! ——あ、名前聞いてなかった。俺、トーマ!」
「ツカサ」
「ツカサ。変な名前!」
「お互い様だ」
少年は笑いながら、来た道を走って戻っていった。弓が背中で揺れている。
ツカサは少年の背中が村に消えるまで見送った。
隣で、リネットの端末が音を立てた。
低い、断続的な電子音。警告ではない。分析完了の通知音だ。
ツカサが振り返ると、リネットの顔から表情が消えていた。
端末の画面を見つめている目が、さっきまでとは違う色をしている。
「どうした」
「……核の残滓データ。壊した後に残った因果波形の痕跡を記録していた」
「それで」
リネットは端末をツカサに向けた。画面には波形のグラフが表示されている。ツカサには読めないが、一つだけ分かることがある。グラフの中に、核の波形とは別のラインがもう一本走っていた。核の波形は消えているが、もう一本のラインはまだ微かに脈動している。
「この核、単独で発生したものじゃない」
リネットの声が、風の中で乾いていた。
「核の内部に、外部から定期的にエネルギーを供給されていた痕跡がある。核は自分で魔力を生成していたんじゃなく、どこか別の場所から送られてくるエネルギーを受け取って、それを魔物の発生に変換していた」
「……つまり」
「発生源を壊しても、発生源に餌を送っていた大元は、まだ動いている」
風が吹いた。街道の砂埃が舞い上がり、リネットの灰色のコートの裾を揺らした。
「供給元のエネルギー波形は、王都方面に向かって減衰している。——つまり供給元は王都側にある可能性が高い」
ツカサは、来た道を振り返った。南西の方角。領都の向こう、遥か先に王都がある。
あの方角から、この森の核に"餌"が送られ続けていた。何年も。何十年も、かもしれない。村の子供が耳を塞いで泣いている間も、勇者がちょうどいいタイミングで到着する舞台を維持するためだけに。
「リネット」
「ええ」
「今日壊したのは、末端だ」
「末端。——そう、末端。この核は枝葉に過ぎない。幹はもっと深い場所にある」
リネットは端末を閉じた。
「でも、枝を一本折ったことで、幹の存在が確定した。それは大きい。——恩師が遺した言葉、覚えてる?」
「『世界の物語補正には発生源がある』」
「今日、その仮説が観測データで裏付けられた。発生源はある。単なる自然蓄積じゃない。意図的にエネルギーを供給し、テンプレ因子を維持し続けているシステムが、どこかに存在する」
リネットは王都の方角を見つめた。眼鏡のレンズに、午後の光が白く反射した。
「次に壊す枝を探しましょう。枝を壊すたびに、幹の輪郭が見えてくる」
ツカサは腰のハリセンを叩いた。焦げ跡の増えた張りぼてが、いつもの間の抜けた音を立てた。
「デバッガーの仕事は、バグを一個ずつ潰すことだ。——派手じゃないけどな」
「派手さは勇者に任せておけばいい。私たちは地道にやる」
街道を、二人は歩き出した。
背後の森で、鳥がまた一羽、鳴いた。




