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第12話「テンプレ因子という病名」

 朝日が、埃っぽい窓硝子を斜めに貫いた。


 二階だ。古い茶館の、昨日まで物置だった二階。


 老店主が「どうせ誰も使わん」と鍵を開けてくれたその部屋は、積み上げられた木箱と黄ばんだ棚布、それから蜘蛛の巣の残骸でできていた。


 木箱を三つ寄せて、板を渡した。


 それが今のテーブルだ。


 その上に、一晩ぶんの思考が散らばっている。


 リネットの端末が映す因果波形のグラフ。彼女が記録紙に書き写した数列の羅列。そしてツカサが帳簿の裏紙に描いた——ラベルのスケッチ。


 自分の字が汚い。


 それは知っていた。だが「改めて見ると読めない」のレベルに達しているとは思わなかった。


「……この殴り書き、読める?」


 向かいの木箱に腰を下ろしたリネットが、スケッチの一枚を指先でつまみ上げた。翡翠色の瞳が細まる。


「辛うじて。【被害拡大】はまだいい。問題はこっち」


 彼女が裏返したもう一枚には、ツカサが昨夜の記憶を頼りに走り書いた文字列がある。


「【イベントNPC:適度に残虐、適度に弱い】——最後の三文字が判読不能。"弱い"なの? "弱き"なの?」


「弱い。普通に弱い」


「"き"に見える」


「達筆じゃなくて悪かったな」


 リネットは何も言わず、端末を操作して波形グラフの時間軸を広げた。


 朝日が木床に四角く落ちている。埃が光の中で回転している。


 ツカサは右足を伸ばした。踵の豆が靴の中で鈍く痛む。慢性だ。もう驚かない。


 代わりに、腹が鳴った。


 昨夜の硬いパンはとっくに消化されている。茶も残っていない。革の水筒はからだった。


「……あと十分で、店主が朝の茶を淹れてくれるはず。それまで持つ?」


「持つ。胃がもう諦めてる」


「それは持つとは言わない」


 リネットの声は平坦だったが、指が端末の画面を閉じかけた。中断するか迷っている動作だ。


「続けてくれ。腹は後でいい」


「……分かった」


 端末の画面が再び開いた。


 因果波形のグラフが、朝の光の中に青白く浮かぶ。


  *


「整理する」


 リネットの声が変わった。


 柔らかさが消えて、骨組みだけになる。分析モードだ。ツカサは背筋を伸ばした。


「あなたが目視した因果ラベルは、全部で十八種。そのうち意図的に粉砕したのが六回、八種。自壊を確認したのが二種」


「ああ」


「私が持っている因果波形データは、召喚の翌日——騎士訓練場から始まる。あの時点では"端末で記録していた"だけで、この異常に名前はまだなかった。ただ、波形の異常値と、レオへの評価の偏りが相関しているのが気になって、継続的に記録を取り続けていた」


 リネットは端末を操作し、時系列のグラフを縦に並べた。


「訓練場。辺境村。森の遭遇戦。城下町の市場。街道。領都の学園。——六つの地点で、因果波形が異常値を記録している」


「俺がラベルを見た場所と、全部一致するか」


「時刻まで一致している」


 リネットの指が、グラフの波形を一つずつ指した。


「訓練場では、レオの剣技披露の直前に因果波形が跳ね上がった。あなたが見た【注目誘導】と同じタイミング。辺境村エルデンでは、あなたが住民を避難させている最中に波形が揺れ続け、あなたがいなかった区画——レオが"劇的に登場した"区画だけ、波形が急激に上昇してから安定した」


「安定した? 上がったまま落ち着いたってことか」


「ええ。"物語通りに進行した"区画は、波形が高い値で安定する。介入されなかった展開は、世界にとって"正常"だから」


 ツカサは顎を引いた。


 つまり、歪んでいる状態が、この世界では安定なのだ。


「続ける。森の遭遇戦では、あなたが【舐めプ補正】を叩いた瞬間に波形が急落した。私の端末は王宮にいたから直接記録できなかったけれど、同時刻に王都側の因果基底値がわずかに揺れた記録がある。城下町の市場——【ラッキースケベ補正】を壊した瞬間も同じ。あのとき因果波形が一瞬だけ正常値に戻った。私があなたに声をかけようとしたのは、あの変動がきっかけ」


「あの時か。伝令が来て、流れたやつ」


「そう。あれ以降も追跡を続けた。あなたが追放されて王都を離れたあと、私の端末からはあなたの行動圏の直接観測ができなくなった。でも——」


 リネットは端末のグラフを横にスクロールさせた。


「因果波形の"正常化パターン"が、王都から離れた地点で散発的に発生し始めた。街道沿い。宿場町の近く。それから領都ラングフォート」


「……全部、俺がいた場所だ」


「だから追いかけた。学院の研究調査名目で、因果波形の急変動が観測された領都方面へ」


 グラフの最後のスパイクは、昨日。領都ラングフォートの学園。


 婚約破棄イベントを壊した、あの瞬間だ。


「あなたの行動圏で、因果波形が正常化するパターン。時系列も位置も、完全に一致している」


 リネットは端末を閉じた。


「偶然じゃない。あなたが何かをするたびに、世界の因果が——一時的にだけど——本来あるべき値に戻っている」


  *


 階下から、薬缶が火にかかる音がした。老店主が朝の支度を始めたらしい。


 ツカサは、散らばったスケッチの中から一枚を拾った。


 自分が一番最初に見たラベル。召喚の瞬間に浮かんでいた、あの文字列。


 ——【勇者補正】。【好感度誘導】。【感動演出】。


「ここまでは、昨夜の時点で分かっていたことだ」


「ええ」


「じゃあ、朝になって整理して——何が変わった」


 リネットは一拍、間を置いた。


 言葉を選んでいるのではなく、結論の重さを量っているような沈黙だった。


「パターンが見えた」


 彼女は帳簿の裏紙を一枚引き抜き、端末のペンで書き始めた。


「訓練場の【注目誘導】。辺境村の【被害拡大】【勇者の劇的到着】【涙の感謝イベント】。森の【舐めプ補正】。城下町の【ラッキースケベ補正】。街道の【奴隷落ちヒロイン遭遇イベント】【イベントNPC】【好感度MAX】。学園の【冤罪補正】【観客熱狂補正】【反論不能補正】」


 リストが裏紙を埋めていく。ツカサの殴り書きより、はるかに整然とした文字列。


「種類はバラバラに見える。戦闘、恋愛、断罪劇、日常——ジャンルも規模も全然違う。でも、全部に共通する性質が一つだけある」


「……全部、レオが得をする展開だった」


「正確にはもう少し広い。"勇者が気持ちよく活躍するための筋書き"を、現実に押しつける力」


 リネットのペンが止まった。


「敵が舐めプをすれば、勇者は余裕で勝てる。美少女が転べば、勇者にラッキーイベントが起きる。冤罪で誰かが潰されれば、勇者が颯爽と——いえ、この場合は勇者が出てくる前にあなたが壊したけれど——勇者が正義を示す舞台になる。被害が拡大すれば、勇者の登場はより劇的になる」


「知ってる。全部見てきた」


「でも、あなたは一つずつ個別の問題として対処してきた。"こいつがおかしい""このイベントがおかしい"——そうでしょう?」


 図星だった。


 ラッキースケベを壊したとき、それはラッキースケベの問題だと思った。舐めプを壊したとき、それは敵の戦い方の問題だと思った。婚約破棄を壊したとき、それはあの断罪劇の問題だと思った。


 一つずつ。目の前の不条理を、目の前で殴る。それがツカサのやり方だった。


「個別じゃない。——そう言いたいんだろ」


 リネットは頷いた。


「これらは全部、同じ病理の症状。風邪で熱が出て、咳が出て、頭が痛い——でもそれは三つの別の病気じゃない。一つの感染症が、体のあちこちに違う症状を出しているだけ」


 ペンが裏紙に、一つの単語を書いた。


 ——**テンプレ因子**。


「これが、病名」


  *


 テンプレ因子。


 ツカサは、その文字列を見下ろした。


「……テンプレ」


「気に入らない?」


「いや。——しっくりくる」


 しっくりくるのが、むしろ怖かった。


 この世界で感じてきた違和感の全部に、たった七文字で名前がついた。


「仮説を言う」


 リネットの声には、学術的な慎重さと、慎重さを押し破ろうとする熱量が同居していた。


「この世界では、異世界召喚が過去に何度も行われてきた形跡がある。文献を辿れば、少なくとも数百年前から記録がある。そのたびに勇者が呼ばれ、魔王を倒し、英雄譚が語られてきた」


「……何回も」


「何回も。そしてそのたびに、"勇者が気持ちよく活躍するための物語的な補正"が——世界に残った」


 リネットは窓の方を向いた。朝日が彼女の銀灰色の髪を白く光らせる。


「一回の召喚で残る補正は、たぶん微量。でもそれが何百年も蓄積すれば——世界法則の一部になる。水に少しずつ塩を溶かし続ければ、いつか海になるのと同じ」


「海」


「この世界の因果そのものが、"勇者が主役の物語"に最適化されている。自然にそうなったんじゃない。何百年ぶんの物語補正が沈殿して、固まって、因果の地層になった。——だから」


 リネットはツカサの方を向き直した。翡翠の瞳が、真っ直ぐだった。


「だから敵が勝手に舐めプをする。だから美少女が都合よく転ぶ。だから冤罪が通る。だから被害が拡大する。だから——誰もそれを"おかしい"と思わない」


「世界がそう動くのが、普通だから」


「そう。住んでいる人にとっては、空気みたいなもの。気づかない。気づけない」


 ツカサは壁に背を預けた。


 木の壁が、朝の冷気を含んでいた。


 妄想じゃなかった。


 召喚の瞬間から感じていた、あの"ズレ"。レオだけに拍手が集まる不自然さ。村が燃えても笑顔で喝采する観衆。勝てるはずの敵が長話を始める不条理。


 全部、繋がっていた。


 一つの病気の、違う症状だった。


「——安心した」


「安心?」


「自分の目がおかしいんじゃなかった。世界の方がおかしかったんだ」


 口に出したら、思ったより声が震えていた。


 十三日間。


 この世界に来てからずっと、自分だけが見ている景色があった。誰にも見えない文字列が浮かんで、誰にも共有できない違和感を抱えて、「お前の方がおかしい」と言われ続けた。


 追放された。無能だと言われた。嫉妬だと笑われた。


 でも、見えていたものは、あった。


 ちゃんと、あった。


「……同時に、途方もない」


「ええ」


「世界規模の病気だろ、これ。ハリセン一本で殴ってどうにかなるスケールじゃない」


「なるスケールじゃないわね」


「冷静に言うな」


「冷静じゃなかったら、こんな仮説は組めない」


 それは、そうだった。


  *


 階下から、陶器が触れ合う音が聞こえた。店主が茶を用意してくれているらしい。


 ツカサは空の水筒を手に取りかけて、やめた。先に聞いておくべきことがある。


「もう一つ。——ずっと引っかかってた」


「言って」


「なんで俺にだけ見えるんだ」


 因果ラベル。この世界にべたべた貼りついている、あの文字列。


 レオには見えていない。リネットにも見えていない。王宮の誰にも、騎士にも、村人にも、魔族にも——ツカサ以外の誰にも、あの文字列は見えていない。


 リネットは端末を操作して、召喚当日のデータを呼び出した。


「私は召喚の現場にはいなかった。でも、王宮の因果基底値は記録してある。召喚の瞬間——異常なエネルギーが流入して、それがレオに集中した。スキル、祝福、加護、属性。全部がレオへ向かって収束している」


「知ってる。俺には何も来なかった」


「違う」


 リネットの声が、一段低くなった。


「何も来なかったんじゃない。"弾かれた"の。膨大なエネルギーがレオへ集中するとき、あなたの位置にノイズが発生している。祝福がレオに向かう過程で、あなたを通過した——というより、あなたにぶつかって散乱した残響」


「……残響」


「例えるなら、こう。大量の水を一つの容器に注ぎ込むとき、隣に立っていた人に飛沫がかかった。その飛沫が、あなたの認識構造を——ほんの少しだけ、ズラした」


 ズラした。


 世界の物語補正は、レールの上を走る列車のようなものだ。この世界に住む人間は全員、そのレールの上にいる。だからレールの存在に気づかない。乗客は線路を見ない。


 でもツカサは、召喚のノイズでレールの外に弾き飛ばされた。


 半歩だけ。


 レールの上にいる者には見えない構造が——レールから外れたツカサにだけ、見える。


「物語のレールから、半歩ズレた観測者」


 リネットが、仮説にラベルを貼った。


「あなたにだけラベルが見えるのは、あなただけがレールの外にいるから。物語の中にいる人間には、物語の枠は見えない。でもあなたは枠の外に——ほんの少しだけ、はみ出している」


 ツカサは、腰のハリセンに手を触れた。


 布越しに、張りぼての感触がある。煤と土で汚れて、端がほつれて、先端が曲がった——文化祭の残骸。


「ハズレスキルだと思ってた」


「ハズレスキルよ。勇者パーティの基準で言えば。剣も振れない、魔法も使えない、数値上のステータスは最底辺」


「フォローが下手だな」


「フォローしてない。事実を言ってる。——ただ」


 リネットの指が、端末の因果波形グラフをなぞった。


 六つのスパイク。六つの正常化。


「世界のバグが見えて、それを物理的に除去できる人間は、この世界に一人しかいない。勇者のスキルリストに載っていないだけで、あなたのやっていることは——世界のデバッグ」


 デバッガー。


 ツカサは天井を見上げた。


 物置の天井だ。蜘蛛の巣の跡が乾いてこびりついている。


「……デバッガーか」


「気に入らない?」


「さっきも聞いたな、それ」


「答えてないから」


「——悪くない」


 勇者の代わりに世界を救う英雄、ではない。


 世界に溜まったバグを見つけて、一個ずつ潰すデバッガー。


 地味で、地道で、誰にも気づかれない。


 それでも——やることに意味がある。


 ツカサは椅子代わりの木箱から立ち上がった。右踵が痛んだが、もう慣れた。


「テンプレ因子。デバッガー。——名前がつくと、急に輪郭が見えるな」


「名前は思考の取っ手。掴めないものに名前をつければ、分析できる。分析できれば、対策が立つ」


「理論屋の言い分だ」


「理論屋だから」


 階段を、ゆっくりとした足音が上がってきた。老店主が盆を持って現れる。湯気の立つ茶が二杯と、昨日より少しだけ柔らかそうなパンが二切れ。


「朝飯だ。金はいらん。——どうせ持ってないだろう」


「……すみません」


「客が来ん店に、客が来とるだけで珍しい」


 店主は盆を即席テーブルの端に置いて、階段を下りていった。


 ツカサは茶を一口含んだ。昨夜と同じ、苦くて温かい液体だ。


 今度は、味がした。


  *


「もう一つ、聞いていいか?」


 パンをちぎりながら、ツカサは言った。


「テンプレ因子が何百年もかけて蓄積したものなら——今更、一個や二個ラベルを壊したところで、焼け石に水じゃないのか」


 リネットはパンに手をつけず、茶だけを啜っていた。


「焼け石に水か。——正直に答えていい?」


「正直以外いらない」


「全体量で言えば、あなたがこれまで壊した八種の補正は、海の水を茶碗で掬ったようなもの」


「……」


「でも、局所的には確実に効果がある。街道では一人の少女が自分の人生を取り戻した。学園では令嬢が初めて反論できた。——世界全体は変わらなくても、その場にいた人間の因果は正常化された」


「対症療法だ」


「今は、そう」


 リネットの声のトーンが変わった。分析モードから、もう一段深い——推論の領域に踏み込む声。


「でも私は、ずっと一つのことが気になっている」


「なんだ」


「テンプレ因子は、本当に"自然に"蓄積したものなの?」


 茶碗を持つ手が、止まった。


「何百年もの召喚で、勝手に溜まった残留物。——その説明で辻褄は合う。でも」


 リネットは端末を再び開いた。因果波形の全データを俯瞰する画面。


「波形の蓄積パターンが、均一すぎる。自然に沈殿したなら、もっとムラがあっていい。強い召喚の年は多く残り、弱い年は少なく残る。でも実際のデータは——まるで一定の速度で、意図的に積み重ねられているように見える」


「……蓄積させている何かがある、って言いたいのか」


「まだ仮説にもならない。けれど——」


 リネットは、茶碗を両手で包んだ。


「恩師が遺した言葉。"世界の物語補正には、発生源がある"。——あの人は感覚で物を言う人じゃなかった。データに基づいて、そう結論したはず」


 発生源。


 レオの背後で脈打っている巨大な【主人公補正】。あれがレオ個人の力なのか、それとも外部から供給されているのか。昨夜リネットが口にした疑問が、今、もう一段具体的な形を取り始めている。


「全部は分からない。まだ全然足りない」


 リネットは茶碗をテーブルに置いた。


「でも、分かることから潰していく方法はある」


「具体的には」


「実地でテンプレ因子を壊しながら、データを集める。壊した瞬間の因果波形の変動、壊す前後の世界の反応、補正の発生パターン。——一つ潰すごとに、全体像の一片が見える」


「やることは今までと変わらないのか」


「違う。今までは場当たり的に目の前の補正を壊していた。これからは——」


 リネットの翡翠の瞳が、ツカサを射た。


「観測と記録を伴った、系統的な除去。あなたが壊す。私が記録する。そのデータが次の標的を特定する。——その繰り返しで、最終的に発生源へ辿り着く」


「気が長い話だな」


「短くする方法があるなら教えて。ない? じゃあ、長い話を始めましょう」


 ツカサはパンの最後の一切れを口に放り込んだ。


 硬い。昨日よりはマシだが、硬い。


 噛みながら、考えた。


 世界規模の病気。何百年ぶんの蓄積。発生源は不明。手持ちはハリセン一本と、端末一台と、壊れた魔導演算器の欠片が五つ。


 金はない。地図もない。旅装もない。


 勝てる根拠は、何一つない。


「——最初の標的は?」


 リネットは、端末に領都周辺の因果波形マップを表示した。


「領都近郊の森。北東に半日の距離。この森では、定期的に魔物群が周辺の村を襲っている。間隔がほぼ等間隔で、"勇者が駆けつけるのにちょうどいいタイミング"に合わせたように発生している」


「見覚えのある話だ」


「辺境村エルデンと同じ構造。ただし——」


 リネットの指が、因果波形の一点を叩いた。


「この森には、波形が異常に高い固定点がある。個別の補正ラベルじゃない。魔物の異常発生そのものを維持している、もっと深い——核のようなもの」


「核」


「仮にそれを壊せたら、個別のラベルを一枚ずつ剥がすより、はるかに大きなデータが取れる。発生源の構造を理解する手がかりになるかもしれない」


 ツカサは腰のハリセンを叩いた。張りぼてが、間の抜けた音を立てた。


「半日か」


「歩きで、ね。あなたの足の状態を考えると——」


「考えなくていい。歩く」


「言うと思った」


 リネットは端末を閉じて立ち上がった。灰色のコートの裾が木箱にかすれる。


「出る前に、最低限の準備が要る。水と食料。それから——あなた、この世界の通貨を一枚も持っていないでしょう」


「持ってたら言ってる」


「私の手持ちで足りる。学院の調査手当が多少ある」


「借してくれ」


「返さなくていい。——あなたが壊すデータの方が、この世界の通貨より価値がある」


 合理的で、同時に少しだけ不器用な言い方だった。


 ツカサは即席テーブルの上に散らばったスケッチと記録紙を集め始めた。


 朝の光が窓から入って、因果波形のグラフを照らしている。


 テンプレ因子。


 昨日まで名前のなかった敵に、名前がついた。


 レールから外れたデバッガーと、レールの上からデータを読む理論屋。


 やることは見えた。見えただけだ。先はまだ何も分からない。


 でも——


「行くか」


「行きましょう」


 二人は、古い茶館の二階を出た。


 埃の舞う物置に、木箱のテーブルと、空の茶碗と、因果波形の残像だけが残った。

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