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第11話「それは火力じゃない。世界に入り込んだ脚本を剥がしてる」

 話がしたい、と女は言った。


 翡翠色の瞳。銀灰色のロングヘア。低い位置で束ね、細い銀フレームの眼鏡をかけている。学院のローブに灰色のコート。左手首の端末が夕陽を拾って、まだ光っていた。


 二階席にいた——リネットだ。勇者パーティの魔術師。


 あの講堂で、俺が通路を歩いて補正を叩き潰している間——ずっと上からこっちを見ていた。


 ツカサは足を止めたまま、半歩だけ後ろに重心を移した。


「……なんでここにいる」


 警戒を隠さなかった。この世界で知らない人間に声をかけられて良いことがあった試しがない。


 女は走ってきた息をひとつ整えてから、端末を持ち上げた。光る画面をツカサの方へ向ける。


「先に見せた方が早いわ」


 画面に表示されていたのは、折れ線グラフのようなものだった。


 横軸は時間。縦軸は——読めない。この世界の文字だ。だが、線の動きは分かる。ぐちゃぐちゃに乱れていた波形が、ある一点で一気に落ち着いている。乱高下が止まり、穏やかな波へ収束する。


 その「一点」には、小さな印がついていた。


「この急落点。あなたが講堂で最初に何かをした時刻と、秒単位で一致してる」


 ツカサは画面から目を上げた。


「……何のグラフだ、これ」


「因果波形。この世界の因果——物事の原因と結果の流れが、どれだけ正常値から逸脱しているかを示す数値よ。この端末で拾えるのは大まかな異常検知だけだけれど、それでもこれだけのデータは取れる」


 因果波形。


 市場通りのあの時も同じ言葉を使っていた。だがあの時は伝令に遮られて、聞き損ねた。「異常値が正常に戻った」という意味は分かる。


 女は端末を下ろし、ツカサを真っ直ぐ見た。


「さっきの婚約破棄の件。あなたが何かしたわね」


 断定だった。質問ではない。


「……見てたんだろ」


「二階席から。あなたが通路を歩きながら、何かを——叩いたように見えた。空気を殴っているようにも見えた。でも、あなたが動くたびに、会場中の空気が変わった。観客の興奮が消えた。証拠の矛盾が急に見えるようになった。被害者の女性が、初めて声を出せた」


 正確だった。


 全部見ていた。しかも、何が起きたかを、ただの喧騒としてではなく——順序と因果として把握している。


「それで?」


「それで、じゃないわ。聞いてるの。あなたは何をしたの」


 声に苛立ちはない。ただ、知りたいという欲求が、冷静な声の奥で圧力になっていた。


 ツカサは少し考えた。


 話すべきか。目の前の女が何者か、まだ分からない。勇者パーティの人間かもしれない。レオの側の人間かもしれない。


 だが——。


 この女は、「あなたが何かした」と言った。


 あの講堂で俺がやったことを、誰も見ていなかった。観客は補正が消えたことに気づかず、ただ「なんか変だったな」としか思わなかっただろう。壇上の令息たちは自分の偽証が崩れたことに必死で、通路を歩いた男のことなど覚えていないかもしれない。


 でも、この女は見ていた。


 見て、記録して、追いかけてきた。


「……場所、変えないか」


 ツカサは街道の先を顎で示した。


「ここだと目立つ。あんたも、学園の関係者がうろうろしてる場所で、こんな話をしたくないだろ」


 女は一拍だけ間を置いてから、小さく頷いた。


「外れに古い茶館がある。この時間なら空いてるわ」


 意外だった。この辺りの地理を知っているらしい。


「……あんた、この街に来たことあるのか」


「学院の修了者よ。研究調査で来ることがある」


 それだけ言って、女は先に歩き出した。


  *


 古い茶館は、領都の外壁から十分ほど歩いた丘の中腹にあった。


 石壁に蔦が這い、看板の文字は半分消えかけている。一階が客席で、天井の低い四卓だけの小さな空間。ランプが二つ、壁の燭台に揺れていた。客はいない。店主らしい老人が奥で椅子に座ったまま眠っている。


 窓際の席に向かい合って座る。


 夕陽が傾いている。窓の外に領都の屋根が並び、学園の尖塔が遠くに見えた。


 女は注文も取らずに端末を卓上に置き、グラフを再度表示した。


「改めて。私はリネット・アークライト。王立魔導学院を首席で修了した魔術師よ」


「……乾ツカサ。追放された元・勇者パーティの雑用」


「知ってるわ。神城レオに追放された召喚者。固有スキル——『物理ツッコミ』」


 やはり知っている。ということは、勇者パーティ側の人間だ。


「あんた、レオの——」


「所属は勇者パーティ。ただし今は学院への研究調査名目で短期離脱中。戻るかどうかは……まだ決めていない」


 言い淀んだ。


 初めて、冷静な声に僅かなひびが入った。


 ツカサはそれ以上踏み込まなかった。代わりに、卓上のグラフを指さした。


「さっきの続き。あんたの質問に答える前に、一つ聞いていいか」


「何」


「あんた、俺に何が見えてるか知ってるか」


 リネットの眉が動いた。


「見えてる?」


「この世界に来てからずっと——俺にだけ、変なものが見える。空中に浮いてる文字列。ラベルみたいなやつだ。人の頭上だったり、場所にくっついてたり、出来事の上に貼りついてたりする」


 リネットは黙っていた。否定も肯定もせず、ただ聴いている。


「最初は気のせいかと思った。でも違った。あの召喚の日からずっと見えてる。【勇者補正】とか【好感度誘導】とか【感動演出】とか——そういう、この世界の"お約束"を名札にしたような文字が、あちこちに浮いてる」


「……続けて」


「で、それを——叩ける。俺のハリセンで」


 腰の右側に括りつけたハリセンを示した。煤と土で汚れ、端がほつれ、先端がやや曲がっている。文化祭の小道具だった張りぼてだ。


「叩くと、消える。ラベルが砕けて、そこに貼りついてた"お約束"ごと壊れる。あの講堂でやったのもそれだ。壇上の令息に貼りついてた【冤罪補正】、観客席の【観客熱狂補正】、令嬢の上にあった【反論不能補正】——順番に叩いて壊した」


 言葉にすると、改めて馬鹿みたいだった。


 ハリセンで透明な文字列を叩いてます。以上。


 信じろという方が無理がある。


 だがリネットは、笑わなかった。


 端末を操作し、別のデータを呼び出した。


「五日前。王都の城下町で、因果波形が瞬間的に正常化する現象が起きた」


 五日前——市場通りだ。ラッキースケベ補正を叩いた日。


「それ以前にも、辺境から王都への帰路の森で一度。そしてさらに前、辺境村エルデン周辺でも異常値の一時正常化が起きていた」


 森は舐めプ補正を壊した時だ。辺境村は——直接叩いたわけじゃないが、村の上空にラベルが出ていた。


「全部、あなたの行動圏と一致する。私はこの因果波形の異常をずっと追っていた。独自に、端末で」


 リネットの指が端末の画面をなぞる。折れ線グラフの乱れと正常化が、時系列で並んでいた。


「ただ、端末で拾えるのは大まかな異常検知だけ。精密な因果波形の記録を取るには——」


 そこでリネットはコートの内ポケットから、布に包まれた小さな包みを取り出した。卓上に置き、布を開く。


 中には——金属とも宝石ともつかない、小さな欠片が五つ。


 光を受けると、微かに輪の名残のような紋様が見える。


「これは——あなたも知っているはず。私の恩師が遺した《星環計》の残骸」


 声が、一瞬だけ硬くなった。


「元は七層の輪を持つ演算器だった。それを——勇者が壊した」


 レオが。


 ツカサは何も言わなかった。言えなかった。あの男が何をしたか、ツカサは知っている。目の前で見ていた。


 リネットは感情を呑み込むように一つ息をついて、続けた。


「七つに割れた欠片の演算回路にはまだ残留容量がある。二つを使って、あなたの行動圏の因果波形を精密記録した。回路は使うたびに消耗して灰になるから、もう使えない。残りは五つ」


 五つの欠片が、ランプの灯りに静かに光っている。


「そのデータと、今日の講堂のリアルタイム観測を照合した結果——」


 リネットは端末を操作し、二つのグラフを重ねて表示した。


 一つは精密記録された過去の因果波形。もう一つは今日の講堂のリアルタイムデータ。


 どちらも同じパターンを示していた。ツカサが動いた瞬間に、異常値が急落し、正常化する。


「結論を言うわ」


 リネットはグラフから目を上げ、ツカサを見た。


 翡翠色の瞳に、ランプの炎が映っている。


「あなたのスキルは——火力じゃない」


 静かな声だった。


「世界に入り込んだ不正な脚本を、剥がしてるのよ」


  *


 不正な脚本。


 その言葉が、妙に腑に落ちた。


「脚本……」


「あなたが見ている"ラベル"は、この世界に貼りついた因果の異常——物事がある特定の筋書き通りに進むように強制する力の、視覚的な表象だと思う。勇者が劇的に登場する。敵が舐めプをする。被害者は黙って泣く。悪役は断罪される。助けた相手は即座に惚れる。——全部、誰かが書いた台本みたいに、この世界の出来事が歪められている」


 言われなくても知っている。俺はそれを——ずっと見てきた。


「あなたのハリセンが壊しているのは、相手の体力でも魔力でもない。その"台本"そのもの。この世界の因果を不正に歪めている補正を、物理的に剥離しているの」


「剥離」


「因果波形上は、まさにそう見える。異常な波形——本来あるべきでない因果のねじれが、あなたの一撃で剥がれ落ちて、その場所の因果が正常値に戻る。あなたが壊しているのは展開じゃない。展開を不正に固定していた力そのものよ」


 ツカサは自分の手を見た。


 ハリセンを振るう、この手。


 ずっと——ただ馬鹿みたいに空気を殴ってるだけだと思っていた。見えない文字列を叩いて、そうしたら何かが変わって、誰かの声が戻って、偽物の証拠が崩れて。


 でも、それが何なのか分からなかった。


「……あのな」


「何」


「俺は、自分が何をしてるか——ちゃんと分かってなかった。最初は村で、走り回って人を逃がしただけだ。その後も、見えたラベルを片っ端から叩いてみて、壊れたらラッキー、くらいの感覚だった。今日のだって——順番を考えて叩いたのは初めてだけど、理論で分かってやったわけじゃない」


 リネットは黙って聴いていた。


「でも——」


 ツカサは言葉を探した。上手く言えない。理屈じゃなくて、感覚の話だ。


「あの講堂で。最初に観客席の熱狂を叩いた時——会場が静かになった。異様な興奮が消えて、みんなが自分の目で壇上を見始めた。次に冤罪のラベルを壊したら、証拠の嘘が崩れた。最後に反論不能を壊したら、あの令嬢が——初めて声を出した」


 まだ耳に残っている。


『私はそんなことしていません』


 震えていたけど、はっきりした声だった。


「あれは——嘘を壊したんじゃなくて、嘘に蓋をされてた声を、元に戻しただけだ。俺が作ったんじゃない。あの人の声は最初からあった。ただ、出せなくさせられてた。それを——剥がした」


 リネットの目が、わずかに見開かれた。


「……ええ。そう。まさにそういうこと」


 声がかすかに柔らかくなった——ような気がした。ランプの灯りのせいかもしれない。


「あなたの言い方の方が正確かもしれないわ。あなたは何かを壊しているんじゃない。この世界の人間が本来持っている判断力や声を、不正に封じていた力を——除去している。因果の矯正。私はそう呼ぶことにした」


 因果の矯正。


「……じゃあ勇者——レオのことも、同じか」


「同じよ」


 リネットの声が、ほんの少しだけ温度を下げた。


「勇者が強いんじゃない。世界が不自然に、勝たせていただけ。敵は舐めプを強制されて弱くなり、周囲は称賛を強制されて功績を吸い上げられ、被害者は沈黙を強制されて声を奪われる。全部——勇者が主役であり続けるための、不正な舞台装置」


「……知ってる。見てきた」


「あなたのツッコミは暴力じゃないわ。被害者を増やし続ける因果の歪みを、正常に戻す力よ」


 それは——。


 ツカサは、自分の胸の奥で何かが動くのを感じた。


 認められた、とか、理解された、とか。そういう甘い話ではない。


 ただ——名前がついた。


 ずっと、名前のない行為だった。ハリセンで空気を殴る。馬鹿みたいなスキル。誰にも説明できない。自分でも何をしているか分からない。ただ、おかしいと思ったものを叩いたら、何かが変わった。その繰り返し。


 それに今、初めて——正確な言葉が与えられた。


 不正な脚本の剥離。因果の矯正。


 目の前の女が、データに基づいて、それを証明している。


「……ありがとう、とは言わないぞ」


「言われても困るわ。感謝が欲しくてここにいるんじゃない」


 にべもなかった。


  *


 茶を二杯頼んだ。リネットが払った。ツカサには金がない。


 渋い味の、この世界の茶だった。温かいものを飲むのは何日ぶりだろう。空きっ腹に沁みた。


 リネットは茶に口をつけてから、端末を操作し、データの時系列を表示した。


「ここからは、互いの情報を突き合わせたい。まず、あなたが今まで見たラベルと、壊したラベルを全部教えて。時系列順に」


「全部か」


「全部」


 ツカサは記憶を辿った。


 召喚の日。謁見の間。レオの背後に浮かんでいた【勇者補正】【好感度誘導】【感動演出】、そしてあの巨大な【主人公補正】。


 訓練場の【注目誘導】。


 辺境村エルデンの【被害拡大】【勇者の劇的到着】【涙の感謝イベント】。


 森の戦闘での【舐めプ補正】——あれが初めて意図的に叩いたやつだ。


 城下町の【ラッキースケベ補正】。


 街道の盗賊事件の【奴隷落ちヒロイン遭遇イベント】【イベントNPC:適度に残虐、適度に弱い】【ここで助けたら即依存・好感度MAX】。


 そして今日の講堂。【冤罪補正】【観客熱狂補正】【公開処刑演出】【屈辱受容補正】【反論不能補正】。


 一つずつ話した。


 リネットは端末に記録しながら、ほとんど口を挟まなかった。ただ一度だけ、辺境村の話の時に——【被害拡大】と【勇者の劇的到着】の名前を聞いた時に、端末を握る指が白くなった。


 それだけだった。


「——以上。見たのが全部で十九種。叩いて壊したのが六回・八種。今日の講堂で残りの二つ——【公開処刑演出】と【屈辱受容補正】は俺が直接叩く前に、他のラベルが壊れたのと一緒に勝手に消えた」


「自壊ね。舞台の骨組みを壊されたことで、残りの演出が維持できなくなった……理屈は通る」


 リネットは端末のグラフとツカサの証言を照合していた。時刻、場所、波形の変動——全てが一致しているのだろう。


「辺境村で、あなたは因果波形を直接見て村を走ったの?」


「走った。ラベルが見えたから——このままだと被害が広がるって分かった。だから先回りして人を逃がした」


「……それで死者が出なかった」


「死者はな。でも家も畑も倉庫も焼けた。冬の備蓄も。あの村の人たちの生活は——」


 言いかけて、止めた。


 リネットは知っているはずだ。勇者パーティにいたなら。あの日、レオが最後に魔物を斬って喝采を浴びた時、隣にいたはずだ。


「知ってるわ」


 静かな声だった。


「知っていて——何もできなかった。私にはラベルが見えない。波形の異常を端末で検知しても、それが何を意味するか分からなかった。あの頃は、まだ」


 リネットは茶碗を両手で包んだ。


「でも今は分かる。あなたのデータと照合して、初めて——この世界の因果異常に、構造がある。人為的な、いえ——人為よりも大きな力で強制されたパターンがある。それが確定した」


「パターン」


「勇者が主役であり続けるためのパターン。敵は適度に弱く、味方は適度に称賛し、被害者は適度に黙り、見せ場は適度に盛り上がる。——全部、勇者を主役にするための因果の歪み。そしてあなたはそれを、肉眼で見て、物理的に壊せる」


 リネットは端末を閉じ、ツカサの目を見た。


「私には因果波形の理論と観測手段がある。でも、壊す力がない。あなたにはラベルを見て壊す力がある。でも、理論がない」


「……つまり?」


「理論側と実行側。組めば、この世界の歪みの正体に辿り着ける」


 提案だった。


 交渉の余地がない、という顔をしていた。データに基づいた確信。この女は感情で動いていない。


 ——いや。


 感情がないわけじゃない。卓上に置かれた《星環計》の欠片を、時折ちらりと見る目がある。恩師の遺品。レオに壊された、たった一つの研究装置。その五つの欠片を——この女は布に包んで持ち歩いている。


 感情がないなら、そんなことはしない。


「あんた、大丈夫なのか」


 ツカサは訊いた。


「大丈夫って?」


「勇者側にいるんだろ。こんなことしてるのがバレたら」


「短期の外出届は出してある。勇者パーティ内での私の扱いは——まあ、便利だけど替えの利く技術屋、程度。すぐには問題にならない」


 便利だけど替えの利く技術屋。


 自分でそう言い切る声に、感情の温度がなかった。事実を述べているだけだ。散々そう扱われてきたから、もう怒る気力すらないのか。それとも——怒りの向き先が、もう別の場所にあるのか。


「……もう一つ聞いていいか」


「何」


「あんたは——恩師の研究を継いでる、とは聞いた。でもそれだけで、ここまで追えるもんじゃない。何がお前を動かしてる」


 リネットは黙った。


 長い沈黙だった。ランプの炎が揺れて、五つの欠片の影が卓上で震えた。


「恩師がいた」


 ぽつりと出た声は、それまでの理知的な冷静さとは違う——もっと深い場所から出てきた音だった。


「王立魔導学院で、私に因果理論の基礎を教えた人。この世界の因果に異常があることに最初に気づいた人。この《星環計》を設計して、私に遺した人」


 布の上の五つの欠片を、リネットは見つめていた。


「亡くなったわ。私が学院にいる間に。——生前、一つだけ言い残してた」


 窓の外に目をやった。夕陽が沈みかけている。空が橙から紫へ変わる途中だった。


「『世界の物語補正には、発生源がある』」


 発生源。


「……どういう意味だ」


「今あなたが壊しているラベル——因果の歪みは、勝手に湧いて出ているわけじゃない。どこかに、それを生み出し続けている元がある、ということ。恩師はそれを探そうとしていた。《星環計》は——その発生源を突き止めるために作られた装置だったのかもしれない」


 その装置を、レオが壊した。


 自分の技の見栄えを盛るために。


「……まだ見つかってないのか。その発生源は」


「見つかっていない。恩師の研究は途中で止まった。私は引き継いだけれど、理論と端末だけでは限界がある。——でも、あなたが現れた」


 リネットはツカサを見た。


「あなたは因果の歪みを肉眼で見て、物理的に壊せる。私は因果波形を観測し、理論で構造化できる。組めば——恩師が辿り着けなかった場所まで行ける可能性がある」


 それは——学者の好奇心の話だけではない。


 恩師が残した問い。壊された研究装置の最後の五つの欠片。「便利だけど替えの利く技術屋」として消費されてきた時間。


 この女の中に溜まっているものが、理論の言葉の下に見えた。


「分かった」


 ツカサは言った。


「組もう」


 リネットの表情は変わらなかった。だが、端末を握る手の力が、ほんの少しだけ緩んだ。


「一つだけ条件がある」


「何」


「俺はあんたの研究の道具にはならない。あんたも俺のハリセンの付属品にはしない。対等だ。情報は全部共有する。隠し事はなし。——いいか」


「……当然よ。最初からそのつもりだけど」


「ならいい」


 ツカサは茶碗を持ち上げ、一口飲んだ。渋い。でも温かい。


 追放されてから初めて、誰かと向かい合って座っている。


  *


 夜になった。


 老人の店主が起きてきて、ランプの油を足した。追加の茶と、硬いパンを二つ持ってきた。リネットが払った。ツカサは金がないので、黙って食べた。空腹の限界だった。


 情報の突き合わせは続いた。


 リネットは自分が勇者パーティ内で観測してきたデータを見せた。訓練場での功績吸収のパターン。辺境村での因果波形の乱れと、レオの「劇的到着」のタイミングが完全に同期していたこと。《星環計》を使って取得した精密データの一部。


 ツカサは自分が見てきたラベルの詳細を語った。ラベルの位置、大きさ、色調の違い。叩いた時の感触の差。壊れやすいものと壊れにくいもの。レオの背後で脈動していた巨大な【主人公補正】の異質さ。


「あれは他のラベルと格が違った。大きさも、密度も。心臓みたいに脈打ってた」


「……主人公補正、か」


 リネットの声が低くなった。


「私の端末でも、レオの周囲の因果異常値は桁違いに高い。他の補正——あなたが【舐めプ補正】や【冤罪補正】と呼んでいるものは、いわば個別の舞台装置。でもレオに貼りついているものは——」


「舞台の柱だ。あれが折れたら、全部の演出が崩れるような」


「……その表現は近いかもしれないわね」


 リネットは端末にメモを取った。


 その手が止まった。


「もう一つ、あなたに伝えておくことがある」


「何だ」


「五日前——王都の城下町で因果波形が正常化した時、私はそれをリアルタイムで検知していた。あなたに接触しようとしたの」


「……覚えてる。あの時——」


「王宮の伝令が来て、大型任務の招集がかかった。会話が途切れた」


 あの時だ。市場通りで、因果波形がどうとか言いかけたところで伝令が来て、会話が途切れた。


「あの続きを——ずっと追ってたのか」


「ええ。あの時の端末データが、今日の精密記録の起点になっている。あれから追い続けて——領都方面で因果波形が急変動したから、学院への研究名目でパーティを離れ、ここまで来た」


 つまり。この女はずっと——俺の行動圏の因果波形を追跡していた。


「……どおりで話が早い」


「遅かったのよ、むしろ。もっと早く接触できていたら——」


 言いかけて、リネットは口を閉じた。


 もっと早く接触できていたら。何だ。《星環計》が壊される前に? 追放される前に?


 ——考えても仕方ない。過去は変えられない。


 ツカサは窓の外を見た。


 夜空に星が見えている。領都の灯りが遠くで揺れている。学園の尖塔は暗い影になって、空に突き出していた。


「なあ」


「何」


「あんたの恩師が言ってた——『発生源がある』って」


「ええ」


「俺がこれまで壊してきたのは、全部——一個一個の舞台装置だった。ラッキースケベとか、冤罪とか、舐めプとか。個別の茶番を、一つずつ潰してきた」


「そうね」


「でも——それを生み出してる元がどこかにあるなら。俺が潰してるのは、枝の先の葉っぱだ。幹はまだ立ってる」


 リネットは黙って頷いた。


「レオ一人を殴って終わる話じゃないんだな」


「……おそらくは」


 リネットの声は静かだった。確信と、未知への警戒が同居していた。


「レオの背後にある【主人公補正】は、私の観測データ上でも異常に巨大で、他の個別補正とは明らかに性質が違う。あれが個人の力なのか、それとも外部から供給されているのか——まだ分からない。でも、恩師の遺言と合わせて考えれば——」


「でかい茶番が、まだ動いてるってことだ」


 茶碗はもう空だった。


 パンの最後の一かけらを飲み込んだ。味は覚えていない。


「小さい茶番は潰せるようになった」


 ツカサは窓の外の夜空を見上げた。星が、やけに多かった。


「でも——でかい茶番は、まだ動いてる」


 リネットは何も言わなかった。


 ただ、五つの欠片を丁寧に布で包み直した。その手つきだけが、この女の中にある——理論では語れない何かを、静かに語っていた。


 二人の間に、契約書も誓いの言葉もなかった。


 ただ、古い茶館の窓際で、因果波形のグラフと壊されたラベルの記録が、卓上に広がっていた。


 それが今の全部だ。


 理論と実行。観測と粉砕。


 あてはなかった。金もない。地図もない。仲間と呼ぶには、まだ早い。


 でも——。


 初めて、一人じゃない。


 窓の外で、領都の灯りが一つ、また一つと消えていく。夜が深くなる。


 明日から、この世界の歪みの正体を追う。


 ハリセンひとつと、端末ひとつ。それだけ持って。

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