第32話:闇へ続く搬入口
無地のトラックが、ゆっくりと倉庫七号の奥へ進もうとしていた。
荷台に積まれているのは、黒いラックケース。
美鈴が拡大した映像には、側面に貼られた管理ラベルがはっきり映っていた。
TBFS-LOG-SR03
「東京ベイフーズの物流ログサーバーです」
美鈴の声は硬かった。
「配送ルート、搬入時刻、第三埠頭の使用履歴、再配送のログ……給食物流の記録が残っているはずです。これが消えれば、昨日の委員会で求めた資料の根幹が消えます」
そのトラックが向かっている先には、黒い鉄扉があった。
通常の搬出口ではない。
倉庫の奥にひっそりと設けられた、作業員でさえ普段近づかない扉。
トラックが鉄扉の前で一度停止した、その瞬間だった。
土田が、共用通路から飛び出した。
「土田さん!」
剛の叫びが、夜の埠頭に響いた。
トラックのヘッドライトが、土田の背中を白く焼く。
巨大な車体の前に立つ彼の姿は、あまりに小さかった。
だが、土田は動かなかった。
「あれを入れられたら、もう二度と出てこねえ」
土田の声は、震えていた。
それでも、足は一歩も引いていない。
「四十年この港で働いてきた。あそこが貨物の搬入口じゃねえことくらい、俺には分かる」
警備員たちが一斉に動いた。
「どけ!」
「業務妨害だ!」
怒号が飛ぶ。
だが、その言葉の多くは日本語ではなかった。互いに交わす指示は中国語。制服も、いつもの港湾警備会社のものではない。名札もない。
剛が低く吐き捨てた。
「こいつら、最近増えた連中だ。現場の人間じゃねえ」
千鶴も目を細める。
「正式な港湾警備じゃない。少なくとも、私が税関にいた頃の警備会社の制服じゃないね」
警備員の一人が土田の肩を掴もうとした。
その時、黒い鉄扉が、重い音を立てて開き始めた。
ギィ、と低い金属音が夜に響く。
扉の隙間から、冷たい白い光が漏れた。
陸は息を呑んだ。
そこは、古い排水設備ではなかった。
白く塗られた新しい壁。
無機質なLED照明。
床に引かれた黄色い誘導ライン。
天井の防犯カメラ。
壁際に並ぶ配線ラック。
奥には、生体認証式のゲートまで見える。
そして、その横の表示板に、陸の目が釘付けになった。
一時保護区画 A-3
その下には、小さく中国語の管理コードが記されていた。
千鶴が、かすれた声で呟いた。
「排水設備なんかじゃない……」
土田も、振り返らずに言った。
「昔は、あそこから水を抜いた。人も荷物も通す場所じゃなかった。あんな壁も、ゲートも、昔はなかった」
美鈴が端末を操作する。
画面には、港湾施設台帳が表示されていた。
「確認しました。ここは港湾施設台帳上、旧排水補助坑。二十年前に使用停止になっています。現役の搬入経路には登録されていません」
彼女はさらに、東京ベイフーズの公式配送経路図を呼び出した。
「食品物流の配送経路にもありません。教育庁に提出された学校給食の再配送ルートにも、この地点は存在しません」
陸は美鈴を見る。
「記録に残せば、議会で使えますか」
「使えます」
美鈴の声は、はっきりしていた。
「ただし、単体では弱いです。港湾台帳では使用停止。配送経路図にもない。そこへ東京ベイフーズの物流ログサーバーが運び込まれようとしている。さらに、三井の現場指揮、車両ナンバー、警備員、扉の内部。全部が揃って初めて、これは証拠になります」
陸は、反射的に一歩前へ出た。
「俺が撮りに行きます」
その肩を、橘が掴んだ。
「馬鹿野郎」
陸が振り返る。
橘の目は、怒っていた。
「お前が捕まったら終わりだ。議会で戦う人間が、ここで潰されてどうする」
「でも、記録がなければ――」
「だから俺が行く」
橘は、望遠カメラを握り直した。
「こういう時のためのジャーナリストだ」
「橘さん」
「お前は見てろ。そして、後でこいつを武器にしろ」
そう言うと、橘は低く身をかがめ、共用通路のぎりぎりまで走った。
美鈴が即座に端末を操作する。
「遠隔保存、同期開始。最低二十秒必要です」
「二十秒?」
橘が走りながら苦笑する。
「十秒にしろ!」
「無理です!」
「じゃあ、二十秒稼ぐ!」
橘は、フェンス越しにカメラを構えた。
シャッター音が連続して鳴る。
黒いラックケース。
TBFS-LOG-SR03 のラベル。
無地のトラックのナンバー。
開いた地下扉。
一時保護区画 A-3 の表示。
中国語で指示を出す警備員。
そして、倉庫前に立つ三井。
三井は夜の港に不自然なほど馴染んでいなかった。
上質な黒いコート。磨かれた革靴。貼りついたような穏やかな顔。
彼は、警備員に短く指示を出していた。
その声も中国語だった。
橘はさらに踏み込んだ。
レンズを扉の奥へ向ける。
その瞬間、警備員の一人が橘に気づいた。
「撮るな!」
二人の警備員が橘へ向かって走り出す。
「美鈴!」
橘が叫ぶ。
「あと十五秒です!」
「長えな!」
橘は舌打ちしながら、なおもシャッターを切った。
警備員がフェンス越しに手を伸ばす。
橘は身をひねってかわす。だが、もう一人が横から回り込み、彼の腕を掴んだ。
「カメラを渡せ!」
「やなこった!」
揉み合いになる。
カメラのストラップが橘の首に食い込み、レンズが鉄柵にぶつかった。鈍い音と共に、レンズの端が割れる。
それでも橘は、片手でカメラを守った。
「あと何秒だ!」
「八秒!」
美鈴の声が震える。
その時、土田が大声を張り上げた。
「おい! 俺をどけたいなら、正式な港湾管理者を呼べ!」
警備員たちの注意が、一瞬、土田へ向いた。
土田は、トラックの前で両足を踏みしめている。
「ここは排水設備だ! 貨物の搬入口じゃねえ! 俺は四十年ここで働いてきたんだ。見たこともねえ連中に、港の使い方を教えられる筋合いはねえ!」
剛も、その後ろに立った。
「そうだ! ここは俺たちの現場だ!」
さらに二人の港湾労働者が並ぶ。
警備員たちの動きが、ほんの数秒だけ乱れた。
その数秒が、橘には十分だった。
彼は壊れかけたカメラを抱え直し、地面に膝をつきながら、最後の映像を送った。
「美鈴!」
「同期完了!」
美鈴の端末に、保存完了の表示が出た。
時刻同期済み。
位置情報付き。
映像、音声、複数カット。
完全ではない。
だが、消せない。
次の瞬間、警備員の体当たりを受け、橘の身体が鉄製の標識に叩きつけられた。
鈍い音。
橘が呻く。
カメラが地面に落ち、レンズが砕けた。
「橘さん!」
陸は走り出そうとした。
千鶴が腕を掴む。
「今行くんじゃない! あんたまで捕まる!」
「でも!」
「橘は、あんたを行かせないために出たんだよ!」
その言葉に、陸は足を止めた。
橘は地面に膝をつき、右腕を押さえていた。脇腹を打ったらしく、顔が歪んでいる。警備員が壊れたカメラを拾い上げた。
「撮影データを渡せ!」
橘は、血の混じった唾を吐き、笑った。
「残念だったな」
警備員が眉をひそめる。
橘は、美鈴の方へ顎をしゃくった。
「もう、上がってるよ」
その瞬間、三井の顔から笑みが消えた。
地下搬入口の扉が、ゆっくりと閉じ始める。
無地のトラックは、いったん後退した。
土田はまだ、その前に立っている。
剛と労働者たちも、その背中を支えていた。
美鈴が小さく息を吐いた。
「止まりました……今は」
千鶴が言った。
「でも、記録は取れた」
救急車のサイレンが、遠くから近づいてきた。
千鶴が呼んでくれていたらしい。
陸は橘へ駆け寄った。
「橘さん!」
橘は苦しげに顔をしかめながら、いつものように悪態をついた。
「騒ぐな。肋骨がちょいと鳴っただけだ」
「腕もやってます」
「多分な」
「笑ってる場合ですか」
「笑うだろ」
橘は、痛みに顔を歪めながらも、陸を見た。
「撮ったんだ。笑わなきゃ損だ」
陸は、何も言えなかった。
土田がゆっくり戻ってきた。
顔には恐怖も怒りも残っている。だが、その奥には、どこか晴れたような表情もあった。
「先生」
「土田さん、無茶をしすぎです」
「すまねえな」
土田は、閉じた鉄扉を見た。
「でも、見えたろ」
陸は頷いた。
「あれは、排水設備じゃありませんでした」
「そうだ」
土田は、低く言った。
「あれが、連中が俺たちの港の腹の中に作ったものだ」
その時、陸は視線を感じた。
倉庫七号の前。
三井が、まだそこに立っていた。
夜の闇の中で、彼の顔だけが倉庫の照明に照らされている。
三井は、ゆっくりと陸を見た。
そして、誰にも聞こえないほどの声で、しかし陸には確かに届くように言った。
「高遠陸」
陸は動きを止めた。
三井の唇が、薄く動く。
「君の父親も、同じように現場を見ようとした」
潮風が、二人の間を吹き抜けた。
陸の胸の奥で、何かが凍りついた。
父も、ここに迫っていた。
三十年前、この闇へ続く搬入口の前に。
そして、戻ってこられなかった。
三井は、再びあの貼りつけたような笑みを浮かべると、倉庫の奥へ消えていった。
黒い鉄扉は、完全に閉じた。
東京港は、何事もなかったかのように、また静かな夜へ戻っていく。
だが、陸たちは見た。
公式には死んでいるはずの入口。
その奥で生きていた施設。
そして、父が三十年前に見ようとした闇を。
陸は、閉じた扉を見つめた。
今度は、見なかったことにはしない。
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