第31話:港の証人たち
「東京ベイフーズが、明日未明、第三埠頭の一部倉庫から資料を移すらしい」
橘のその言葉で、事務所の空気が一変した。
さっきまで、美鈴の祖父を汚す偽情報への怒りが部屋を満たしていた。だが今、その怒りは一つの方向へ収束していく。
第三埠頭。
東京ベイフーズ。
東亜港湾管理。
地下施設。
給食物流。
そして、浅野がゲームの中に残した地下水路の図面。
すべてが、そこへ向かっていた。
美鈴はすぐに端末へ向かった。
「状況を整理します。昨日の文教委員会で、東京ベイフーズと第三埠頭の関係が公の議事録に残りました。さらに、今日の情報工作で、ミライ・コミュニケーションズと東京ベイフーズの繋がりも見えた。敵は、資料提出要求が正式に動く前に、物的証拠を移すつもりです」
陸は、画面に表示された第三埠頭の地図を見た。
「警察や都庁に通報しても……」
「無駄だな」
橘が遮った。
「今の段階で通報すれば、どこから漏れるか分からねえ。仮に現場に踏み込んでも、連中は“通常の書類移送です”で逃げる。こっちに必要なのは、何を、どこから、誰の指示で動かしているのかの記録だ」
美鈴も頷いた。
「移送そのものを止めるより、記録することが重要です。車両、時刻、搬出物、関係者、動線。その全てが揃えば、議会で使えます」
陸はしばらく黙った。
彼の頭に浮かんだのは、杉原栄養士の声だった。
――子供たちが毎日口にするものです。それが、どこを通って、誰の手を経て届いているのか、私たち現場にも分からなくなっているんです。
そして、港で働く男たちの顔。
「現場の証言が必要です」
陸は言った。
「議会で使える形で。あの場所を知っている人たちの目が必要です」
橘が、わずかに笑った。
「なら、あの姉御に連絡だな」
陸はすぐに港野千鶴へ電話をかけた。
数回の呼び出し音の後、千鶴の声が聞こえた。
『こんな時間に、嫌な予感しかしないね』
「千鶴さん。第三埠頭が動きます」
一瞬の沈黙。
『ついに、かい』
「東京ベイフーズが、明日未明に倉庫から資料を移すそうです。現場で記録を取りたい。剛さんたちに、話を聞かせてもらえませんか」
電話の向こうで、千鶴が深く息を吐いた。
『証言を取るなら、あんたも覚悟しな。あの人たちは、ずっと黙らされてきたんだ。家族がいる。仕事がある。簡単に口を開けるわけじゃない』
「分かっています。だから、直接会って話します」
『……いいよ。今夜、休憩所に来な』
夜の東京港は、昼間とは別の顔をしていた。
巨大なクレーンは闇の中で黒い骨組みのようにそびえ、ところどころに灯る水銀灯が、濡れたアスファルトに鈍い光を落としている。海から吹く風は冷たく、油と潮と鉄の匂いが混じっていた。
陸、橘、美鈴の三人は、千鶴に案内され、港湾労働者たちが使う古い休憩所へ向かった。
中には、剛と土田、そして数人の労働者たちが集まっていた。
壁には色褪せた安全標語。
古いストーブ。
油で黒ずんだ作業手袋。
テーブルの上には、缶コーヒーと灰皿が置かれている。
最初、誰も口を開かなかった。
陸は、その沈黙を急かさなかった。
やがて、若い作業員が言った。
「先生。俺たちが名前を出したら、明日から仕事がなくなるかもしれないんです」
別のベテランが続けた。
「家族がいる。住宅ローンもある。正義だけじゃ飯は食えねえ」
その言葉には、怒りではなく、諦めが混じっていた。
陸は、深く頭を下げた。
「名前を出せとは言いません。まずは、皆さんが見たことを教えてください。何を出すか、どう守るかは、その後で一緒に考えます」
千鶴が腕を組んだまま、労働者たちを見回した。
「この人は、あんたたちを使い捨てる政治家じゃない。少なくとも、私はそう見た」
短い沈黙。
最初に口を開いたのは、土田だった。
白髪混じりの髪を短く刈り込んだ、四十年近く港で働いてきた男だ。彼は作業着の胸ポケットから、古びた手帳を取り出した。
「倉庫七号だ」
美鈴が、すぐに端末を開く。
「第三埠頭の奥にある倉庫ですね」
「ああ。表向きは東京ベイフーズの食品保管と再配送の拠点だ。だが、夜中に食品とは思えねえ荷物が出入りしてる」
「どんな荷物ですか」
「やけに重い金属ケースだ。冷蔵でも冷凍でもねえ。紙の資料でもねえ。ありゃサーバーか、機材だ」
剛が続けた。
「最近は、中国船籍の貨物だけ、別のゲートを通る。日本側の荷役チームには触らせない。伝票もおかしい。日本語の伝票には“食品関連備品”とあるが、中国語の方には“設備部材”と書いてあった」
美鈴の指が止まる。
「二重伝票……」
若いフォークリフト作業員が、ためらいながら言った。
「俺、それ見ました。中身は知らない。でも、バーコードが通常の物流システムに通らないんです。手入力で処理しろって言われました」
千鶴が低く言った。
「それだけじゃない。倉庫七号の奥には、昔の排水設備へ繋がる地下搬入口がある。本来は閉じているはずの場所だ」
剛が頷く。
「最近、夜中に開いてる。地下で振動がするって言ったろ。あれは気のせいじゃねえ。何かが動いてる」
陸は、美鈴と目を合わせた。
ゲームの地下水路。
別添四。
港の下。
その言葉が、また胸の奥で響いた。
土田が、さらに手帳を開いた。
「これも見てくれ」
そこには、1年以上前の日付が記されていた。
パナマ船籍の大型貨物船。
積み荷名目――農業機械。
搬入先――第三埠頭倉庫七号。
通常出庫記録――なし。
陸は、その記録を見つめた。
かつて、東京湾の埠頭に運び込まれた、正体不明のコンテナ。
あれは、ここに繋がっていたのか。
美鈴は、土田の手帳を慎重にスキャンした。
「これは……台帳です。非公式ですが、現場の台帳です。日時、車両、搬入物、担当会社、全部記録されている」
土田は照れくさそうに鼻を鳴らした。
「変な荷物は全部メモしてる。職業病みてえなもんだ」
「土田さん」
陸は真っ直ぐに彼を見た。
「この証言を出せば、必ず圧力が来ます。名前を伏せることもできます」
また沈黙が落ちた。
土田は、しばらく自分の手帳を見ていた。
「俺は名前を出す」
剛が驚いた。
「土田さん」
土田は笑った。
「俺はもう、早期退職で切られた身だ。今さら守る椅子もねえ。だが、港だけはまだ俺の港だ」
そして、少しだけ声を低くした。
「俺が黙ったら、息子に顔向けできねえ。あいつ、俺の背中を見て港で働きたいって言ってるんだ」
剛も、ゆっくり頷いた。
「俺も出す」
千鶴が言った。
「私も。元税関職員として、見たことを話す」
若い作業員たちは迷っていた。
陸は彼らに向き直った。
「名前を出すかどうかは、それぞれが決めてください。匿名でも、あなたたちの声は無駄にしません」
その言葉に、若い作業員が小さく頷いた。
時刻は、深夜を回っていた。
資料移送は、午前三時前後。
陸たちは第三埠頭へ向かった。
違法な侵入はしない。港湾労働者たちが使える共用通路、休憩所、外周から記録を取る。千鶴は、どこまでなら立ち入れるかを熟知していた。
「ここから先は入っちゃ駄目だ。入った瞬間、こっちが犯罪者にされる」
「分かりました」
陸は頷いた。
「記録できる範囲で、記録します」
美鈴は時刻同期された録画システムを準備した。
橘は望遠レンズを構えた。
剛たちは、現場の動きを目で追う。
午前二時四十分。
倉庫七号の照明が点いた。
黒いワゴン車。
白い保冷車。
無地のトラック。
普段より多い警備員。
倉庫のシャッターが開き、中から荷物が運び出される。
紙の資料ではない。
黒いラックケース。
施錠された金属ケース。
サーバーのような機材。
美鈴が映像を拡大した。
ラックケースに貼られた管理ラベルが読み取れる。
TBFS-LOG-SR03
「東京ベイフーズの物流ログサーバーです」
美鈴の声が緊張を帯びた。
「これがあれば、配送ルート、搬入時刻、第三埠頭の使用記録が残っているはずです」
陸は息を呑んだ。
これが消えれば、給食物流の証拠が消える。
その時、倉庫前に一人の男が現れた。
東亜港湾管理の幹部、三井。
上質なコートを着たその男は、夜の港に不自然なほど馴染んでいない。だが、現場の警備員たちは彼に従っている。三井は短く指示を出した。
日本語ではない。
中国語だった。
橘が望遠レンズ越しに呟く。
「東亜港湾管理の関与、押さえた」
その瞬間、三井がふとこちらの方角を見た。
陸は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
目が合ったような気がした。
木下。
木村。
三井。
同じ監視網の中で、自分はまた見られている。
やがて、倉庫七号の奥で、通常は閉じられている鉄扉が開いた。
土田が低く言った。
「あそこだ。昔の排水設備に繋がってる」
無地のトラックの一台が、地上出口ではなく、その地下搬入口へ向かう。
美鈴が地図データを確認する。
「地図上には、ここに現役設備はありません。正式な搬入口ではないはずです」
敵は証拠を外へ運び出すのではない。
地下へ隠そうとしている。
ゲームの地下水路と、現実の地下搬入口が、今、繋がった。
陸は、撮影を続けるよう美鈴と橘に合図した。
だが、その時、土田が震える声で言った。
「あれを入れられたら、もう二度と出てこねえ」
剛が腕を掴む。
「土田さん、無茶するな」
土田は首を振った。
「俺は四十年、この港で働いてきた。あんな連中に、俺たちの港の腹の中まで好きにさせるわけにはいかねえ」
陸も止めようとした。
「土田さん、今は証拠を取るのが先です」
土田は、陸を見た。
「先生、証拠ってのは、消えた後じゃ撮れねえんだ」
そして彼は、共用通路からトラックの進路へ歩き出した。
「土田さん!」
美鈴が叫ぶ。
橘がカメラを構えたまま舌打ちした。
剛が走り出す。
警備員が怒号を上げる。
巨大なトラックのヘッドライトが、土田を白く照らした。
土田は、動かなかった。
四十年、港で働いてきた男の背中は、ライトの中で小さく見えた。
だが、その小さな背中が、東京港の地下へ続く闇を、たった一人で塞いでいた。
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