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永田町クエスト ――ボンボン二世議員、父のノートで国を取り戻す  作者: 九条ケイ・ブラックウェル
第二章「東京湾の罠」

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第30話:名前を奪う者

美鈴は、画面を見つめたまま動かなかった。

端末には、ネットニュースの見出しが大きく表示されている。


『高遠陸都議の“十五パーセント資料”に疑義

作成したIT参謀・鈴木美鈴氏の祖父に中国共産党スパイ疑惑』


記事は、美鈴の祖父・劉文清の名を汚すだけではなかった。


昨日、文教委員会で陸が提示した給食費十五パーセント上昇のデータ。

その作成者である美鈴の出自に疑義がある。

ならば、そのデータも信用できないのではないか。


そういう筋書きだった。


東京フロンティアの議員たちは、もう動き始めていた。


「高遠委員の資料は、第三者検証が済むまで扱うべきではない」

「教育庁への資料提出要求は、いったん凍結すべきだ」


昨日、ようやく議事録に刻んだ東京ベイフーズと第三埠頭の関係。

その小さな前進を、敵は一夜で潰しに来たのだ。

美鈴の指先が、かすかに震えていた。

記事には、古い家族写真、亡命記録、人権団体の名前、そして中国当局の内部資料らしき文書が並んでいる。劉文清は民主化運動の学生たちを売った。日本への亡命も偽装だった。美鈴は、その血を引く二重スパイの孫だ――。

SNSには、罵倒が流れ始めていた。


『裏切り者の孫が高遠の参謀か』

『十五パーセント資料も捏造じゃないの?』

『結局、中国の工作員同士の内ゲバだろ』


「違います」

ようやく、美鈴が声を絞り出した。

「おじいちゃんは……そんな人じゃありません」

その声は、陸が初めて聞くほど弱かった。


「おじいちゃんは、日本語が下手でした。でも毎朝、日本の新聞を読んでいました。分からない言葉を辞書で調べて、ノートに書いて。港の灯りを見ると、いつも言っていました。ここで初めて自由を見た、って」

彼女は、画面の中の祖父の名前を見つめ続けていた。

「私に、よく言っていました。名前を奪われるな、と。国家が人から最初に奪うのは、命じゃない。名前だって」

陸は、玲子の手紙を思い出した。


母が子に遺すもの。

名前。


敵は、また名前を汚しに来たのだ。

「美鈴さん」

陸は静かに言った。

「平気な顔をしなくていい。父を汚された時、俺も冷静ではいられませんでした。母が狙われた時も、そうです」

美鈴が、ゆっくりと顔を上げる。

「でも、あなたのお祖父さんが本物だったことは、あなたの生き方が証明しています」


美鈴は唇を噛んだ。

そして、震える手をキーボードに戻した。


「……なら、証明します。おじいちゃんの名前と、私たちの資料の信用を、同時に取り戻します」


そこからの美鈴は速かった。

記事に掲載された「中国公安内部資料」を拡大し、一行ずつ追っていく。字体が違う。部署名が、当時の組織名と一致しない。日付形式が新しすぎる。スキャン画像には、現代の補正処理の痕跡がある。


そして、決定的だったのは名前だった。

「ここです」

美鈴は、祖父の名が記された箇所を指さした。


「劉文清の“清”の字が違います。おじいちゃんは、この字を絶対に間違えません」

「そこまで分かるのか」

橘が聞いた。


「亡命後、日本の人権団体へ提出した全ての書類で、祖父は自分の名前の表記にこだわっていました。中国で自分の名前を歪められたからです」

美鈴は、まっすぐ画面を見た。

「これは、おじいちゃんを知らない人間が作った文書です」

だが、それだけでは足りない。


第三者の証言が必要だった。

橘はコートを羽織った。

「古い借りを返してもらう」

そう言い残し、事務所を出ていった。


数時間後、橘は戻ってきた。

「劉文清を日本へ迎えた人権団体の元事務局を見つけた。坂本昭子。今は郊外に住んでる。ビデオ通話なら応じるそうだ」

画面に、白髪の老女が映った。

坂本昭子は、最初、固い表情を崩さなかった。


『もう昔のことです。あの頃関わった人たちは、みんな傷つきました』


美鈴は、一枚の写真を画面に映した。

祖父が幼い美鈴を抱いている写真だった。

坂本の表情が変わった。


『……文清さん』

彼女は、長い沈黙のあと、ぽつりと語り始めた。

『文清さんが日本に来た時、ひどく衰弱していました。でも、最初に求めたのは治療ではありません。学生たちの名前を守ってくれ、と言ったんです』

「名前を……」

美鈴が呟く。

『彼は、民主化運動に関わった学生たちの名簿を国外へ持ち出しました。当局に売るためではありません。彼らが、なかったことにされないようにするためです』

坂本の証言が終わると、橘がノートパソコンの前に立った。


「さっき、事務局の倉庫に保存されてた音声データをもらった。三十年前に録音されたものだそうだ」

再生ボタンを押す。

ノイズの奥から、若い男の声が聞こえた。

『もし私が死んでも、彼らの名前を残してください。名前が残れば、人は完全には消えない。国家が最初に奪うのは、命ではありません。名前です』


美鈴は、涙をこらえていた。

だが、崩れなかった。

画面の向こうで、坂本が静かに言った。


『文清さんは、スパイなんかじゃありません。あの人は、自分の名前より先に、若者たちの名前を守ろうとした人です』


美鈴は、深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

通話が切れると、美鈴はすぐに次の作業へ移った。

祖父の名誉を守るだけでは終わらない。

敵の足跡を掴む。


彼女は、記事を配信した匿名ニュースサイトの経路を追った。ドメイン登録、広告タグ、画像生成環境、SNSの初動アカウント群。細部の説明は不要だった。美鈴の画面には、点と点が繋がっていく。


やがて、彼女は手を止めた。

「同じです」

「何が」

陸が聞く。

「偽領収書の記事、父上の偽文書記事、今回の祖父の記事。全部、同じ配信基盤を使っています。広告タグも、画像生成環境も、初動アカウント群も一致しています」

橘が、持ち帰ったメモを机に置いた。

「ミライ・コミュニケーションズ。表向きは都市政策PRとシンクタンク向け広報支援をやってる小さな会社だ」


美鈴が照合する。

「未来都市政策研究所の関連団体から業務委託を受けています。さらに……東京ベイフーズの広報業務も受託しています」

橘が低く笑った。

「美鈴のじいさんを汚した奴と、東京ベイフーズを守ってる奴は、同じ穴のムジナってわけだ」


美鈴は、静かに言った。

「なら、この記事は失敗です。私を潰すつもりで、自分たちの足跡を残した」

美鈴は、坂本の証言と偽文書解析をまとめ、短い反証動画を作った。

学生たちの実名は伏せた。

陸が言ったのだ。


「全てを出す必要はありません。守るべき名前は、守りましょう」


動画の最後の文章を、美鈴は何度も書き直した。


祖父は無実です。

これは偽情報です。

私は関係ありません。


どれもしっくり来なかった。

最後に、彼女はこう書いた。


『私は、劉文清の孫です。

そして、祖父が守ろうとした自由の側に立ちます。

昨日の文教委員会で示した給食費データも、第三者検証を受けます。

逃げません。私の名前で、責任を持ちます』


美鈴は、陸に画面を見せた。

「……これで、大丈夫ですか」

「大丈夫です」

陸は、彼女を見た。

「あなたの名前で責任を持つ。それが、一番強い言葉です」

動画は公開された。


SNSの流れは、少しずつ変わった。


『学生を売ったんじゃなくて、守った人じゃないか』

『名前を守るって言葉、重い』

『十五パーセント問題から逃げるために美鈴さんを攻撃したのか?』

『#名前を奪う者』


東京フロンティアの資料提出要求凍結の主張も、勢いを失い始めた。

他会派からは、逆に声が上がった。


「美鈴氏のデータに疑義があるというなら、その疑義を出した記事の信憑性こそ確認すべきではないか」

「給食費の十五パーセント差そのものは、まだ説明されていない」


敵の攻撃は、美鈴を完全には潰せなかった。


夜。

美鈴が、再び画面の前で手を止めた。

「……記事公開の数時間前、ミライ・コミュニケーションズの担当者が、東京ベイフーズの役員に暗号化メールを送っています」


件名は一つ。


広報対応 第二段階


「広報対応……?」


橘が眉をひそめた。


「情報工作だけじゃない。何か、別の動きがある」


その時、橘の携帯が鳴った。

短く話す。

電話を切ると、彼は陸を見た。

「来たな」

「何ですか」

「東京ベイフーズが、明日未明、第三埠頭の一部倉庫から資料を移すらしい」

事務所の空気が変わった。

陸は、画面の件名を見た。


広報対応 第二段階。


「情報工作で俺たちの足を止めて、その間に物的証拠を動かす。それが連中の戦略か」

美鈴は静かに頷いた。

陸は、窓の外の夜を見つめた。


港は、眠っているように見えた。

だが、その地下で何かが動き始めている。


敵は、美鈴の祖父の名前を奪おうとして、逆に自分たちの足跡を残した。


次に戦うのは、議会ではない。

現場だった。

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