第29話:十五パーセントの壁
玲子の手紙を読んだ翌日、陸は都議会の廊下で桜井を待った。
冬の朝の都庁舎は、ガラスと石でできた巨大な迷路のようだった。議員たちの革靴の音が、冷たい床に乾いた音を立てる。その流れの中を、東京フロンティア幹事長・桜井は、いつもの穏やかな笑みを浮かべて歩いていた。
陸が前に立つと、桜井は足を止めた。
「高遠先生。最近はずいぶんお忙しそうですな」
柔らかな口調。だが、その目は笑っていない。
陸は、無駄な挨拶をしなかった。
「玲子さんの手紙を、まだ覚えていますか」
その瞬間、桜井の顔から血の気が引いた。
ほんの一瞬だった。すぐに彼は、老練な政治家の仮面を貼り直した。
「……何のことですかな」
「三十年前、あなたは何かを預かったはずです」
桜井は、廊下の向こうへ目を逸らした。
「若い頃の記憶など、曖昧なものです。ましてや、亡くなった方の名前を政争に使うのは感心しませんな」
「使うつもりはありません」
陸の声は、低く、静かだった。
「届かせるつもりです」
桜井の目が、初めて揺れた。
怒りではない。
恐怖だった。
彼は周囲を確認すると、声を落とした。
「高遠君。君は、自分が何を開けようとしているのか分かっていない」
「だから、開けるんです」
陸がそう答えると、桜井はしばらく彼を見つめた。
そして何も言わず、去っていった。
陸はその背中を見送った。
桜井は知っている。
玲子のことを。
雅人のことを。
そして、三十年前に何が起きたのかを。
だが、まだ恐れている。
その恐怖の先に、陸たちが探す真実がある。
その日の午後、文教委員会では、地味な議題が予定されていた。
学校給食食材調達コストに関する参考人質疑。
一見すれば、港湾問題とも、東京フロンティアとも、綾小路雅人のスマートシティ計画とも関係のない、退屈な行政案件に見える。
だが陸たちは知っていた。
臨海部の学校だけ、給食食材の調達費が平均十五パーセント高い。
その理由は、食材が通常ルートではなく、東京ベイフーズという新興業者を経由しているためだった。
さらに、その東京ベイフーズは第三埠頭の倉庫を集約拠点として使っている。
子供たちの給食。
港湾物流。
第三埠頭。
東亜港湾管理。
未来都市政策研究所。
すべてが、細い糸で繋がっている。
委員会室に入る前、美鈴は陸に資料を手渡した。
「今日出すのは、この範囲までです」
「東京ベイフーズの背後までは踏み込まない」
「はい。いきなり陰謀の全体像を語れば、相手に“妄想”として処理されます。今日は、数字だけです」
陸は資料を見た。
二十三区の調達単価。
臨海部三地区の単価。
配送距離。
再配送手数料。
中間業者導入前後の比較。
美鈴のグラフは、冷酷なほど明快だった。
臨海部だけが、跳ね上がっている。
「十五パーセントの差だけを、逃げられない形で突きます」
陸は頷いた。
「数字は、感情より強い時がある」
橘が後ろから言った。
「だが、数字だけじゃ人は動かねえ。現場の声も忘れるな」
美鈴は、最後に一枚のメモを陸へ渡した。
「杉原真由美さんです。臨海部の小学校で栄養士をされています。二週間前から、給食の納品ルートの異変について、匿名でこちらにメールを送ってきていました」
「今日の証言は?」
「ご本人が、自分から申し出てくれました。子供たちの食べるものが、どこを通って届いているのか分からないままではいられない、と」
陸は、その名前を見つめた。
政治家でも、活動家でもない。
ただ、毎日子供たちの給食を見ている一人の現場の人間。
その声を、今日、議会に届ける。
委員会が始まった。
東京フロンティアの議員たちは、最初から余裕の表情を浮かべていた。文教委員会の一議題。無所属の新人議員による細かな給食費の追及。そう見ているのだろう。
だが、傍聴席の後方には桜井がいた。
本来、彼がわざわざこの委員会に顔を出す必要はない。
それだけで、陸には分かった。
この議題は、敵の急所に触れている。
陸はマイクの前に立った。
「本日、最も説明責任を負うべき東京ベイフーズは出席していません。では、出席された皆様に伺います。その会社が、なぜ必要だったのかを」
委員会室の空気が、少し変わった。
参考人席には、都教育庁の給食担当課長、東都フーズの担当部長、そして杉原真由美が座っている。
東京ベイフーズの席だけが、空いていた。
理由は、日程が合わない。
その説明を聞いた時、陸は静かに笑った。
逃げたのだ。
だが、逃げたこともまた、記録に残る。
陸は、最初から声を荒げなかった。
「資料一をご覧ください。都内二十三区における学校給食食材の平均調達単価です。次に資料二。臨海部三地区、港区、江東区、品川区の一部学校における調達単価です」
スクリーンにグラフが映る。
一本だけ、不自然に高い棒。
「臨海部三地区だけ、平均で十五パーセント高い。教育庁に伺います。なぜですか」
給食担当課長は、用意していた答弁書を見た。
「臨海部は物流上の特殊性がありまして、保管、再配送、安全確認等のコストが発生しているものと認識しております」
陸は遮らなかった。
最後まで言わせた。
そして、別の資料を掲げた。
「配送距離は、むしろ短くなっています。東都フーズの通常ルートと比較しても、東京ベイフーズ経由の方が遠回りです。保管と再配送が必要になった理由をお答えください」
課長の口が止まった。
陸は次に、東都フーズの担当部長へ向いた。
「御社は、臨海部の学校へ直接配送できなかったのですか」
部長の額に、汗が浮かんだ。
「都側の仕様変更により、臨海部については指定集約拠点を経由する形になりまして……」
「指定集約拠点とは、どこですか」
「第三埠頭の倉庫です」
その言葉が、委員会室に落ちた。
第三埠頭。
陸は、傍聴席の後方を見た。
桜井が、ほんのわずかに身じろぎした。
初めて、公の議事録にその言葉が載る。
陸は、さらに静かに尋ねた。
「その第三埠頭の倉庫を管理している事業者は?」
部長は答えに詰まった。
教育庁課長も目を伏せる。
東京フロンティアの議員が、割って入った。
「高遠委員。細かな契約実務をこの場で詰めるのは、いささか議題の範囲を逸脱しているのではありませんか」
陸はそちらを見た。
「子供たちの給食が、どこを通って学校に届いているのか。それを確認することが、文教委員会の議題を逸脱しているとは思いません」
相手は黙った。
次に、杉原真由美が証言台に立った。
彼女は細身の女性だった。手元のメモを握る指が、少し震えている。明らかに緊張していた。
東京フロンティアの議員が、先に質問した。
「杉原さん。現場としては、食材はきちんと届いている。そうですね?」
杉原は答えに詰まった。
「ええと……はい、届いては、います」
「では、大きな問題はないのでは?」
その言葉に、杉原の表情が曇った。
陸は、マイクを取った。
「杉原さん」
彼女が顔を上げる。
「現場で起きていることを、そのまま話してください。政治的な評価は、こちらで引き受けます」
杉原は、しばらく陸を見つめていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「納品時間が、以前より不安定になりました」
委員会室が静まる。
「朝の準備時間ぎりぎりに届くことがあります。箱の封が、一度開けられたように見えることもあります。ラベルに、中国語の表記が混じっていたこともあります」
東都フーズの部長が、わずかに顔を上げる。
杉原は続けた。
「以前は、配送員さんの顔も分かっていました。何かあれば、すぐ確認できた。でも今は、誰に聞けばいいのか分からない。問い合わせても、“第三埠頭で確認します”としか言われません」
彼女の声は、少しだけ震えていた。
「給食は、子供たちが毎日口にするものです。それが、どこを通って、誰の手を経て届いているのか、私たち現場にも分からなくなっているんです」
その言葉は、数字よりも重かった。
委員会室の空気が、明らかに変わった。
東京フロンティアの議員が、苛立ったように言った。
「高遠委員は、またしても外国企業への偏見を煽っているのではありませんか」
陸は即座に返した。
「私は企業の国籍を問題にしていません。説明できない中間コストと、不透明な物流経路を問題にしています」
別の議員が言う。
「物流の効率化には、専門業者の導入が不可欠です」
陸は、美鈴が作った資料を掲げた。
「効率化の結果、コストは十五パーセント上がり、配送時間は伸びています。これを効率化と呼ぶ根拠を示してください」
相手は答えられなかった。
陸は、委員長へ向き直った。
「資料提出を求めます」
声は落ち着いていた。だが、委員会室の隅々まで届いた。
「東京ベイフーズの選定経緯。第三埠頭集約拠点の契約書。再配送手数料の算定根拠。都教育庁と東京ベイフーズの協議記録。東亜港湾管理との関係資料。そして、臨海部学校への納入経路図」
東京フロンティアは抵抗した。
「範囲が広すぎる」
「企業秘密に関わる」
「教育行政の範囲を超えている」
だが、他会派の委員が口を開いた。
「食の安全に関わるなら、確認は必要でしょう」
別の委員も頷いた。
「少なくとも納入経路図と手数料の根拠は出すべきです」
委員長は苦々しい顔で言った。
「資料提出については、理事会で協議します」
陸は譲らなかった。
「協議ではなく、提出期限を明示してください。子供たちの給食の話です」
短い沈黙。
最終的に、教育庁は一週間以内に一部資料を提出すると答弁した。
完全勝利ではない。
だが、東京ベイフーズと第三埠頭の関係が、初めて公の議事録に刻まれた。
小さな一歩だった。
だが、確かな一歩だった。
委員会が終わると、桜井が陸に近づいてきた。
今度は笑っていなかった。
「高遠君。君は今日、越えてはいけない線に近づいた」
陸は、まっすぐに見返した。
「三十年前も、父に同じことを言ったんですか」
桜井の表情が強張った。
陸は続けた。
「玲子さんの手紙を、あなたは預かっていた」
桜井は周囲を見た。
誰も近くにいないことを確認し、低く言った。
「その名前を、二度と口にするな」
「なぜですか」
「死人を掘り起こしても、誰も救われない」
「救われなかったから、今も苦しんでいる人がいるんです」
桜井は何かを言いかけた。
だが、飲み込んだ。
そして去り際に、小さく呟いた。
「……あの人は、最後まで息子を愛していた」
陸は、その言葉を聞き逃さなかった。
桜井の背中が、廊下の奥へ消えていく。
あの男の中で、何かが揺れている。
事務所のドアを開けると、千鶴と剛、そして数人の港湾労働者たちが立ち上がった。
彼らは、ネット中継で公聴会を見ていたらしい。テーブルの上には、飲みかけの缶コーヒーと、誰かが握りしめて皺になった資料のコピーが散らばっている。
誰も、すぐには話さなかった。
言葉にすれば、胸の奥に溜まったものが崩れてしまいそうな、そんな沈黙だった。
最初に口を開いたのは、剛だった。
「先生、あれで初めて分かったよ。俺たちの港の問題が、子供たちの給食の問題にも繋がってるって」
彼は、陸の手を強く握った。
千鶴も、強い目で陸を見た。
「あんたは、ちゃんと現場の声を議会に届けた」
陸は、深く頭を下げた。
「皆さんが声を上げてくれたからです」
美鈴も、珍しく少しだけ微笑んでいた。
「今日の答弁で、東京ベイフーズは逃げにくくなりました」
その言葉に、事務所の空気が少しだけ和らいだ。
だが、その笑みはすぐに消えた。
美鈴の端末に、通知が入った。
彼女は画面を開いた。
そして、顔色を変えた。
「……何ですか、これは」
陸が近づく。
ネットニュースの見出しが、画面に大きく表示されていた。
高遠陸陣営のIT参謀・鈴木美鈴氏の祖父に中国共産党スパイ疑惑
天安門亡命者の“もう一つの顔”
記事には、美鈴の祖父の名前があった。
亡命記録。
古い人権団体の資料。
家族写真。
そして、巧妙に偽造されたらしい「内部文書」。
祖父は、中国政府に弾圧された民主化運動の知識人だったはずだ。
だが記事は、彼を中国共産党の協力者だったと断じていた。
SNSには、すでに罵倒が流れ始めている。
『裏切り者の孫が高遠の参謀か』
『結局、中国の工作員同士の内ゲバじゃないか』
『美鈴もスパイでは?』
美鈴は、画面を見つめたまま動かなかった。
その指先が、かすかに震えている。
「美鈴さん」
陸が声をかけた。
彼女は答えなかった。
画面の中で、彼女の祖父の名前が、罵倒と嘲笑に晒されている。
今日、彼らは子供たちの給食を守るために、一歩前へ進んだ。
その代償として、敵は今度、美鈴の祖父の人生を汚しに来た。
戦いは、また一人の家族の記憶を、人質に取り始めていた。




