第28話:母が子に遺すもの
画面には、暗号化されたファイル名が表示されていた。
『玲子_未送信書簡.dat』
その下に、短いヒントが一行だけ浮かんでいる。
『母が子に遺すもの』
美鈴は、黙ってキーボードを叩いた。
愛。
祈り。
手紙。
記憶。
命。
どれも、開かなかった。
橘が苛立たしげに腕を組む。
「ずいぶん詩的なヒントだな。母が子に遺すもの、か」
陸は画面を見つめた。
母が子に遺すもの。
病室の白い光の中で握った、美佐子の細い手を思い出す。父を狙われ、母を狙われ、それでも彼女は静かに言った。
――生きて帰ってきなさい。
陸は、携帯を手に取った。
「母さんに聞いてみます」
橘が目を丸くした。
「おい、こんな時間にか」
「母のことは、母に聞くのが一番です」
電話は、二回の呼び出し音で繋がった。
『陸? どうしたの』
「母さん。変なことを聞くけど……母が子に遺すものって、何だと思う?」
電話の向こうで、美佐子は少し黙った。やがて、当然のことを言うように、静かに答えた。
『名前じゃないの?』
陸は息を止めた。
『親が最初に子供へ渡すものよ。財産でも、肩書きでもない。その子を、その子として呼ぶためのもの。あなたの名前も、お父様とずいぶん悩んで決めたのよ』
「名前……」
『そう。陸。あなたが、あなたとして立っていられるように』
陸は、目を閉じた。
「ありがとう、母さん」
『役に立った?』
「すごく」
電話を切ると、美鈴が黙って見ていた。
陸は頷いた。
「名前です」
美鈴が入力する。
『名前』
エンターキーが押された。
ファイルが開いた。
中には、いくつかのデータが収められていた。
『玲子_雅人へ.txt』
『玲子_高遠先生へ.txt』
『写真_雅人三歳.jpg』
『補記_浅野.txt』
最初に、美鈴が写真を開いた。
画面に、小さな男の子が映った。三歳ほどだろうか。港のクレーンを背景に、誰かの手を握りながら、空を指さして笑っている。
無垢な笑顔だった。
今、テレビ画面の向こうで都政を語る綾小路雅人からは、想像もできないほどに。
陸は、しばらく写真から目を逸らせなかった。
次に、『玲子_雅人へ.txt』を開いた。
そこにあったのは、一人の母の声だった。
『雅人へ。
あなたがこの手紙を読む頃、私はもう、あなたのそばにはいないかもしれません。
それでも、どうか覚えていてください。
あなたの名前は、あなたを誰かの道具にするためにつけたものではありません。
雅やかに、人として生きてほしい。そう願って、私はあなたに「雅人」と名づけました』
陸は、画面の文字を追った。
玲子は、幼い雅人のことを書いていた。
積み木で街を作るのが好きだったこと。壊れたラジオを分解して、もう一度鳴らそうとしていたこと。港へ連れていくと、巨大なクレーンを見上げ、目を輝かせていたこと。
そして、ある日のこと。
『あなたは、クレーンの下で私の手を握りながら、こう言いましたね。
「みんなが迷子にならない街を作りたい」
お母さんは、その時のあなたの目を、今でも覚えています。
あの目は、人を支配したい人間の目ではありませんでした。誰かを助けたい子供の目でした』
陸の胸に、静かな衝撃が走った。
雅人のスマートシティ構想。
東京を、迷わず、安全に、効率よく動く都市へ変えるという理想。
それは、完全な嘘ではなかったのだ。
幼い雅人の願いが、どこかに残っている。
だが、その願いは誰かの手で歪められ、支配の設計図へ変えられた。
手紙の文面は、次第に暗くなっていった。
玲子は、夫・綾小路誠之介の教育について書いていた。
雅人が泣けば、誠之介は言った。
『泣くな。弱さは、支配される側の感情だ』
食卓では、新聞記事を読ませ、政治家の発言を分析させた。幼い子供に都市計画図を広げ、「人を動かすのは信号ではない。情報だ」と教えた。
『人々に、自分で選んでいると思わせなければならない』
その言葉を、誠之介は繰り返したという。
玲子が止めると、彼は冷たく言った。
『お前はこの子を凡人にしたいのか』
手紙には、玲子自身の苦しみも滲んでいた。
『あなたのお父様もまた、誰かに作られた人なのかもしれません。
けれど、作られた人間が、また子供を作り変えてよい理由にはなりません』
美鈴が、息を呑んだ。
橘は、何も言わなかった。だが、拳を強く握っている。
続いて、『玲子_高遠先生へ.txt』が開かれた。
宛先は、若き日の高遠誠二だった。
『高遠先生。
夫は、雅人を息子として見ていません。
後継者として、道具として、そして何か大きな計画の器として見ています。
私には、それを止める力がありません。
けれど、あの子はまだ間に合うはずです。
どうか、雅人を救ってください』
陸は、言葉を失った。
父は、ただ地下施設計画や朝食会の汚職を追っていたのではない。
敵の子供を、救おうとしていた。
そのために、失脚した。
玲子の手紙には、もう一つの名前があった。
桜井。
『この手紙の写しを、桜井さんにも預けました。
彼は若く、まだ目が濁っていません。
ただ、夫を恐れています。
もし私に何かあった時、彼が勇気を出してくれることを願っています』
橘が低く吐き捨てた。
「桜井の野郎……三十年前から知ってやがったのか」
陸はすぐには答えなかった。
三十年黙った男。
だが、三十年前に何かを託された男。
その沈黙の重さを、今はまだ測れなかった。
玲子の最後の文章は、かすかに震えているように見えた。
『最近、眠れない日が続いています。
私は、夫の目を見ることが怖くなりました。
家の中で交わされる会話の全てが、誰かに記録されているように感じます。
もし私が突然いなくなったら、どうか雅人に伝えてください。
あなたは、誰かの計画のために生まれたのではない、と』
美鈴は、公的記録を検索した。
綾小路玲子。
数年後、心身の不調による事故死。
曖昧な表現だった。
事故なのか、自ら命を絶ったのか。記録からは分からない。だが、何かが彼女を壊したことだけは、はっきりしていた。
最後に、『補記_浅野.txt』を開いた。
『陸さん。
この手紙は、玲子様が亡くなる前、誠二先生に託されたものです。
先生は、雅人様を救おうとしました。
綾小路家の後継者ではなく、一人の子供として。
ですが、先生は間に合いませんでした。
そのことを、最後まで悔やんでおられました。
いつか、この手紙を雅人様に届ける日が来ることを、先生は願っていました』
陸は、画面を見つめた。
父の大きさを、また一つ知った。
父は、敵を倒すだけの人ではなかった。
敵の中に閉じ込められた子供を、救おうとした人だった。
長い沈黙の後、橘が口を開いた。
「ふざけるな……子供を道具にして、母親を壊して、それで未来だの都市だの語ってやがるのか」
美鈴は黙っていた。
彼女の祖父も、国家に人生を壊された人間だった。玲子の手紙を読む彼女の横顔には、怒りというより、深い痛みがあった。
陸は、静かに言った。
「雅人を、ただ倒せばいいと思っていました」
橘が振り向く。
「彼は敵です。止めなければならない。でも、彼を作ったものを壊さなければ、同じ子供がまた作られる」
橘は、しばらく陸を見ていた。
「……お前の親父さんみたいなことを言うようになったな」
陸は、返事をしなかった。
橘は手紙を指さした。
「この手紙を出せば、雅人は終わる。母親の手紙だ。破壊力は抜群だ」
「駄目です」
美鈴が即座に言った。
「これは母親が子供に遺した手紙です。政治的な武器にしていいものではありません」
陸も頷いた。
「今は出しません」
「おい、甘いこと言ってる場合か」
橘の声が荒くなる。
陸は画面を見つめたまま言った。
「これは俺たちが雅人を叩くための道具じゃない。本来、雅人本人が読むべきものです」
その言葉に、橘は黙った。
やがて、苦々しげに息を吐く。
「……ったく。親父さんも浅野さんも、とんでもねえ宿題を残していきやがる」
陸は、別の名前を見つめていた。
桜井。
玲子が手紙の写しを預けた男。
三十年、沈黙した男。
今は東京フロンティアの幹事長として、陸を攻撃している男。
「桜井に会います」
橘は即座に反対した。
「あいつは敵のど真ん中だぞ」
「だからこそです」
陸は言った。
「三十年前にこの手紙の写しを預かっていたなら、彼は何かを知っている。知っていて、黙っている」
美鈴が慎重に言う。
「危険です。桜井がまだ向こう側なら、こちらの手札を読まれます」
「手紙の中身は見せません」
陸は頷いた。
「ただ、一つだけ聞きます。玲子さんの手紙を、まだ覚えていますか、と」
事務所の窓の外、神田の夜景が滲んでいた。雑居ビルの明かりが、冬の空気の中で小さく瞬いている。
陸は、もう一度、画面の名前を見つめた。
綾小路雅人。
それは、敵の名前ではなかった。
母が、子に遺した名前だった。
母が子に遺した祈り。
母が命を削って遺した真実。
三十年前、誰も救えなかったその声を、今度こそ届かせなければならない。
陸は、桜井の名前を見つめた。
次に開くべき扉は、敵の内側にあった。
最後までお読みいただきありがとうございました!
少しでも面白いと思っていただけたら、下の☆で評価やブックマークをいただけると嬉しいです!




