表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
永田町クエスト ――ボンボン二世議員、父のノートで国を取り戻す  作者: 九条ケイ・ブラックウェル
第二章「東京湾の罠」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
61/74

第25話:母への警告

陸は、一睡もできなかった。


神田の事務所の窓の外では、夜明け前の街がまだ眠っている。街灯の白い光が、濡れたアスファルトにぼんやりと滲んでいた。机の上には、昨夜、健太から送られてきた一枚の画像が表示されたままだった。


古びた文書。

東京湾岸地下施設計画。

高遠誠二の署名。

そして、その横に押された、見覚えのある印影。


盗まれた父の印鑑。


陸は、画面を閉じることができなかった。


「眠ってないんですか」


背後から、美鈴の声がした。彼女もまた、ほとんど眠っていないのだろう。手にはコンビニのコーヒーが二つある。片方を陸の机に置いた。


「この画像だけでは、まだ決定打は出ません」


美鈴は、ノートパソコンを開きながら言った。


「文書番号の形式には違和感があります。紙質も、画像越しでも少しおかしい。ただ、週刊誌側が『復写だから』『画像が粗いから』と逃げる余地があります。元データか、比較できる過去の印影が必要です」


「過去の印影……」


「はい。三十年前の、お父様が正式に押印した文書。それと比較できれば」


陸は、父の資料が入った段ボールを見た。そこには父の政治家人生の断片が詰まっている。だが、その全てを掘り返しても、すぐに答えが出るとは限らない。


橘は、部屋の隅で電話をかけ続けていた。


「……ああ、週刊誌の編集部ルートを洗ってくれ。誰が持ち込んだか。画像の元データがあるかどうかもだ。こっちは一刻を争う」


電話を切ると、橘は舌打ちをした。


「連中、用意がいい。偽領収書が潰されるのを見越して、次のネタをもう仕込んでやがった」


「父さんの名前を使って」


陸の声は低かった。


「そうだ。しかも、親父さんが命懸けで止めようとしたものに、親父さん自身が関わっていたように見せかけてる。悪趣味にもほどがある」


陸は画面の印影を見つめた。

父を信じている。

そう思っていた。

だが、心の奥に、小さな棘のような疑念が刺さっていた。

父は、本当に何も隠していなかったのか。

自分は、父を信じたいから信じているだけではないのか。


生前の父は、孤独な戦士だった。

だが、陸が知らない父も、まだどこかにいる。


その事実が、今になって、ひどく重かった。


朝になり、事務所の固定電話が鳴った。


美鈴が取ろうとしたが、陸の携帯も同時に震えた。母・美佐子からだった。


陸は一瞬、胸騒ぎを覚えた。

すぐに通話ボタンを押す。


「母さん」


『陸? 朝早くにごめんなさい』


美佐子の声は、思ったより落ち着いていた。


「どうしたの。何かあった?」


『週刊誌の予告、見たわ』


陸は目を閉じた。


「ごめん。母さん、また父さんのことで嫌な思いをさせてしまって」


電話の向こうで、美佐子が静かに息をつく気配がした。


『誠二さんのことなら、大丈夫』


「母さん……」


『あの人は、こんな紙切れ一枚で汚れるような人じゃないわ』


その言葉は、強かった。


陸は、胸の奥に溜まっていた息を、少しだけ吐き出した。


『それより、陸。あなた、ちゃんと眠っているの?』

「大丈夫」

『嘘ね』


母の声は、少しだけ柔らかくなった。


『あなた、子供の頃からそう。大丈夫じゃない時ほど、大丈夫って言うの』


陸は、何も返せなかった。


『無理をするなとは言わないわ。でも、無理をしていることくらいは、自分で分かっていなさい』

「……分かった」

『それならいいの』


電話はそこで切れた。


その短い会話だけで、陸は少しだけ救われた気がした。

だが、その救いは長く続かなかった。


昼前、陸が美鈴と文書番号の形式を照合している時だった。

携帯が再び震えた。

美佐子からだった。

陸はすぐに取った。


「母さん?」

『陸、少し変なことがあって』


その声は、朝より硬かった。

陸の背筋に、冷たいものが走る。


「何あった」

『さっき、ガス設備の点検だという人が来たの。近隣でガス漏れ警報が出たから、緊急で確認しているって』


陸は椅子から立ち上がった。


橘がこちらを見た。美鈴も手を止める。


「予定は?」

『聞いてないわ。だから変だと思って、隣の奥さんに確認しようとしたの。そうしたら、その人、急に“また後ほど伺います”って帰ってしまって』

「母さん、今どこにいる」

『家よ』

「今すぐ出て。隣の家に行って」

『陸、大げさよ』

「大げさじゃない」


陸の声は、自分でも驚くほど強かった。


「お願いだから、今すぐ家を出て。電話は切らないで。玄関を出たら、隣の井川さんに事情を話して。井川さんなら安心でしょ?」


電話の向こうで、美佐子が息を呑む。


『……分かったわ』


陸は携帯を握りしめた。

その時、瑞樹の声が記憶の底から蘇った。


『君のお母さんのために言う』


あの時の瑞樹は、怯えていた。

何かを知っていた。

そして、それは今、現実になろうとしている。


「橘さん、美鈴さん、実家に行きます」

「俺も行く」


橘は即座にコートを掴んだ。

美鈴は端末を閉じ、鞄へ入れる。


「近隣のガス会社と警察への連絡は、移動中にします」


三人は事務所を飛び出した。


車中、陸は何度も美佐子に確認した。彼女は隣人宅に避難していた。隣人が「少しガス臭い気がする」と言い、正式なガス会社へ連絡してくれたという。


それを聞いた瞬間、陸の手が震えた。


実家に着くと、すでにガス会社の作業員が給湯器周辺を調べていた。制服も車両も本物だ。隣人の夫が、不安そうな顔で玄関前に立っている。


「高遠さんの息子さんですか」


ガス会社の担当者が、険しい表情で近づいてきた。


「中に入らないでください。今、換気しています」

「何があったんですか」


担当者は、言葉を選ぶように少し間を置いた。


「給湯器の安全装置に……気になる箇所があります。事故というより、誰かが手を加えた可能性があります。詳しいことは警察にも説明しますが、このまま浴室を使っていたら、排気が屋内に逆流する危険がありました」


陸の息が止まった。


「母は……」

「奥様は隣家に避難されていたので、大事には至っていません。ただ、室内の濃度を見る限り、もう少し発見が遅れていたら危なかったと思います。念のため、病院で検査を受けた方がいい」


橘が、低く呟いた。


「事故死に見せる気だったのか」


派手な爆発ではない。

火災でもない。

ただ、入浴中に気分が悪くなり、そのまま意識を失う。


冬場の家庭事故として処理されても、おかしくない。

父の死と同じだった。

病気に見える。

事故に見える。

だが、その裏には人の手がある。


陸は、玄関の柱に手をついた。力を入れなければ、立っていられなかった。


美佐子は病院へ運ばれた。


軽い酸欠症状が見られたが、命に別状はない。ただ、医師は念のため、酸素濃度を確認しながら一晩経過観察をすると告げた。


「もう三十分、気づくのが遅れていたら、命に関わっていた可能性があります」


その言葉を聞いた瞬間、陸の中で何かが切れた。


検査が終わるのを待つ病院の廊下。

夜の病院は静かだった。白い蛍光灯が床に冷たく反射している。


橘と美鈴は、ガス会社や警察への確認で一時的に席を外していた。

陸は廊下の隅にしゃがみ込んだ。

母は助かった。

だが、助かっただけだ。

ほんの少し何かが違えば、自分はまた、家族を失っていた。

陸は立ち上がり、壁を殴った。

一度。

二度。

三度。

拳に痛みが走った。

だが、その痛みすら、今は遠かった。


「俺を狙えばいい……」


声が喉の奥から漏れた。


「親父を汚すなら、まだ戦える。俺が受けて立てる。

でも母さんは違う。

あの人は、何もしていない」

「お前の親父さんも、同じことを思ってたかもしれねえな」


背後から、橘の声がした。

陸は振り返らなかった。

橘は何も言わず、陸の隣まで来ると、壁に背中を預けた。


「家族を巻き込みたくないって。だが、巻き込まれちまった」


長い沈黙が落ちた。


「……俺は、父さんと同じ場所に立っているんですね」


陸の声は、かすれていた。


「そうだな」


橘は短く答えた。


「だが、一つ違う」


陸は顔を上げた。

橘は、まっすぐ前を見たまま言った。

「お前も一人じゃない」

その言葉が、静かに廊下に沈んだ。


病室に入ると、美佐子はベッドの上で陸を待っていた。顔色は少し悪いが、意識ははっきりしている。


「そんな顔をしないの」


美佐子は、穏やかに言った。

陸は椅子に座った。


「母さん、ごめん」

「何を謝るの」

「俺が巻き込んだ」


美佐子は、ゆっくりと首を振った。


「巻き込まれたんじゃないわ」


陸は黙った。


「私は、あなたの父の妻で、あなたの母親です。もうとっくに、この戦いの中にいるの」


その声は、静かだった。

だが、揺らがなかった。


「戦いをやめろとは言わない」


美佐子は続けた。


「でも、生きて帰ってきなさい。お父様ができなかったことを、あなたはしなさい」

陸は、唇を噛んだ。

「……はい」


それ以上の言葉は出なかった。

しばらくして、陸は父の偽文書のことを切り出した。


「父さんの名前で、地下施設計画に関わっていたという文書が出た。印鑑も押されてる」

美佐子は驚かなかった。

ただ、目を伏せた。


「そう」


「母さん、俺は父さんを信じてる。でも……」


言葉が詰まる。


美佐子は、陸の手を取った。


「その印鑑、昔は少し違っていたのよ」

「違っていた?」

「ええ。誠二さん、若い頃に一度、書斎で落としたことがあるの。印面の端に、小さな欠けができた。本人は気にしていないふりをしていたけれど、私は覚えているわ」


陸は息を呑んだ。


「それから、亡くなる少し前にも、また少し欠けたはずよ。あなたが預かっていた時には、その欠けがはっきり分かるようになっていたと思う」

「印影で、時期が分かるかもしれない……」

「誠二さんのことは、ちゃんと見てきたつもりよ」

美佐子は、陸を見つめた。

「あの人の手も、声も、癖も、印鑑の欠け方まで」

少しだけ間を置いて、彼女は静かに続けた。

「あの人が、最後まで私に言わなかったことも、私はちゃんと見てきたつもり」

「母さん……」


美佐子は、かすかに微笑んだ。

「だから、陸。誠二さんを汚す紙なんかに、負けてはいけません」

陸は、病室の白い光の中で、母の手を握った。

細くなった手だった。

けれど、その手は、陸が思っていたよりもずっと強く、温かかった。


父を知る最後の証人が、そこにいた。

最後までお読みいただきありがとうございました!

少しでも面白いと思っていただけたら、下の☆で評価やブックマークをいただけると嬉しいです!

最後までお読みいただきありがとうございました!

少しでも面白いと思っていただけたら、下の☆で評価やブックマークをいただけると嬉しいです!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ