第25話:母への警告
陸は、一睡もできなかった。
神田の事務所の窓の外では、夜明け前の街がまだ眠っている。街灯の白い光が、濡れたアスファルトにぼんやりと滲んでいた。机の上には、昨夜、健太から送られてきた一枚の画像が表示されたままだった。
古びた文書。
東京湾岸地下施設計画。
高遠誠二の署名。
そして、その横に押された、見覚えのある印影。
盗まれた父の印鑑。
陸は、画面を閉じることができなかった。
「眠ってないんですか」
背後から、美鈴の声がした。彼女もまた、ほとんど眠っていないのだろう。手にはコンビニのコーヒーが二つある。片方を陸の机に置いた。
「この画像だけでは、まだ決定打は出ません」
美鈴は、ノートパソコンを開きながら言った。
「文書番号の形式には違和感があります。紙質も、画像越しでも少しおかしい。ただ、週刊誌側が『復写だから』『画像が粗いから』と逃げる余地があります。元データか、比較できる過去の印影が必要です」
「過去の印影……」
「はい。三十年前の、お父様が正式に押印した文書。それと比較できれば」
陸は、父の資料が入った段ボールを見た。そこには父の政治家人生の断片が詰まっている。だが、その全てを掘り返しても、すぐに答えが出るとは限らない。
橘は、部屋の隅で電話をかけ続けていた。
「……ああ、週刊誌の編集部ルートを洗ってくれ。誰が持ち込んだか。画像の元データがあるかどうかもだ。こっちは一刻を争う」
電話を切ると、橘は舌打ちをした。
「連中、用意がいい。偽領収書が潰されるのを見越して、次のネタをもう仕込んでやがった」
「父さんの名前を使って」
陸の声は低かった。
「そうだ。しかも、親父さんが命懸けで止めようとしたものに、親父さん自身が関わっていたように見せかけてる。悪趣味にもほどがある」
陸は画面の印影を見つめた。
父を信じている。
そう思っていた。
だが、心の奥に、小さな棘のような疑念が刺さっていた。
父は、本当に何も隠していなかったのか。
自分は、父を信じたいから信じているだけではないのか。
生前の父は、孤独な戦士だった。
だが、陸が知らない父も、まだどこかにいる。
その事実が、今になって、ひどく重かった。
朝になり、事務所の固定電話が鳴った。
美鈴が取ろうとしたが、陸の携帯も同時に震えた。母・美佐子からだった。
陸は一瞬、胸騒ぎを覚えた。
すぐに通話ボタンを押す。
「母さん」
『陸? 朝早くにごめんなさい』
美佐子の声は、思ったより落ち着いていた。
「どうしたの。何かあった?」
『週刊誌の予告、見たわ』
陸は目を閉じた。
「ごめん。母さん、また父さんのことで嫌な思いをさせてしまって」
電話の向こうで、美佐子が静かに息をつく気配がした。
『誠二さんのことなら、大丈夫』
「母さん……」
『あの人は、こんな紙切れ一枚で汚れるような人じゃないわ』
その言葉は、強かった。
陸は、胸の奥に溜まっていた息を、少しだけ吐き出した。
『それより、陸。あなた、ちゃんと眠っているの?』
「大丈夫」
『嘘ね』
母の声は、少しだけ柔らかくなった。
『あなた、子供の頃からそう。大丈夫じゃない時ほど、大丈夫って言うの』
陸は、何も返せなかった。
『無理をするなとは言わないわ。でも、無理をしていることくらいは、自分で分かっていなさい』
「……分かった」
『それならいいの』
電話はそこで切れた。
その短い会話だけで、陸は少しだけ救われた気がした。
だが、その救いは長く続かなかった。
昼前、陸が美鈴と文書番号の形式を照合している時だった。
携帯が再び震えた。
美佐子からだった。
陸はすぐに取った。
「母さん?」
『陸、少し変なことがあって』
その声は、朝より硬かった。
陸の背筋に、冷たいものが走る。
「何あった」
『さっき、ガス設備の点検だという人が来たの。近隣でガス漏れ警報が出たから、緊急で確認しているって』
陸は椅子から立ち上がった。
橘がこちらを見た。美鈴も手を止める。
「予定は?」
『聞いてないわ。だから変だと思って、隣の奥さんに確認しようとしたの。そうしたら、その人、急に“また後ほど伺います”って帰ってしまって』
「母さん、今どこにいる」
『家よ』
「今すぐ出て。隣の家に行って」
『陸、大げさよ』
「大げさじゃない」
陸の声は、自分でも驚くほど強かった。
「お願いだから、今すぐ家を出て。電話は切らないで。玄関を出たら、隣の井川さんに事情を話して。井川さんなら安心でしょ?」
電話の向こうで、美佐子が息を呑む。
『……分かったわ』
陸は携帯を握りしめた。
その時、瑞樹の声が記憶の底から蘇った。
『君のお母さんのために言う』
あの時の瑞樹は、怯えていた。
何かを知っていた。
そして、それは今、現実になろうとしている。
「橘さん、美鈴さん、実家に行きます」
「俺も行く」
橘は即座にコートを掴んだ。
美鈴は端末を閉じ、鞄へ入れる。
「近隣のガス会社と警察への連絡は、移動中にします」
三人は事務所を飛び出した。
車中、陸は何度も美佐子に確認した。彼女は隣人宅に避難していた。隣人が「少しガス臭い気がする」と言い、正式なガス会社へ連絡してくれたという。
それを聞いた瞬間、陸の手が震えた。
実家に着くと、すでにガス会社の作業員が給湯器周辺を調べていた。制服も車両も本物だ。隣人の夫が、不安そうな顔で玄関前に立っている。
「高遠さんの息子さんですか」
ガス会社の担当者が、険しい表情で近づいてきた。
「中に入らないでください。今、換気しています」
「何があったんですか」
担当者は、言葉を選ぶように少し間を置いた。
「給湯器の安全装置に……気になる箇所があります。事故というより、誰かが手を加えた可能性があります。詳しいことは警察にも説明しますが、このまま浴室を使っていたら、排気が屋内に逆流する危険がありました」
陸の息が止まった。
「母は……」
「奥様は隣家に避難されていたので、大事には至っていません。ただ、室内の濃度を見る限り、もう少し発見が遅れていたら危なかったと思います。念のため、病院で検査を受けた方がいい」
橘が、低く呟いた。
「事故死に見せる気だったのか」
派手な爆発ではない。
火災でもない。
ただ、入浴中に気分が悪くなり、そのまま意識を失う。
冬場の家庭事故として処理されても、おかしくない。
父の死と同じだった。
病気に見える。
事故に見える。
だが、その裏には人の手がある。
陸は、玄関の柱に手をついた。力を入れなければ、立っていられなかった。
美佐子は病院へ運ばれた。
軽い酸欠症状が見られたが、命に別状はない。ただ、医師は念のため、酸素濃度を確認しながら一晩経過観察をすると告げた。
「もう三十分、気づくのが遅れていたら、命に関わっていた可能性があります」
その言葉を聞いた瞬間、陸の中で何かが切れた。
検査が終わるのを待つ病院の廊下。
夜の病院は静かだった。白い蛍光灯が床に冷たく反射している。
橘と美鈴は、ガス会社や警察への確認で一時的に席を外していた。
陸は廊下の隅にしゃがみ込んだ。
母は助かった。
だが、助かっただけだ。
ほんの少し何かが違えば、自分はまた、家族を失っていた。
陸は立ち上がり、壁を殴った。
一度。
二度。
三度。
拳に痛みが走った。
だが、その痛みすら、今は遠かった。
「俺を狙えばいい……」
声が喉の奥から漏れた。
「親父を汚すなら、まだ戦える。俺が受けて立てる。
でも母さんは違う。
あの人は、何もしていない」
「お前の親父さんも、同じことを思ってたかもしれねえな」
背後から、橘の声がした。
陸は振り返らなかった。
橘は何も言わず、陸の隣まで来ると、壁に背中を預けた。
「家族を巻き込みたくないって。だが、巻き込まれちまった」
長い沈黙が落ちた。
「……俺は、父さんと同じ場所に立っているんですね」
陸の声は、かすれていた。
「そうだな」
橘は短く答えた。
「だが、一つ違う」
陸は顔を上げた。
橘は、まっすぐ前を見たまま言った。
「お前も一人じゃない」
その言葉が、静かに廊下に沈んだ。
病室に入ると、美佐子はベッドの上で陸を待っていた。顔色は少し悪いが、意識ははっきりしている。
「そんな顔をしないの」
美佐子は、穏やかに言った。
陸は椅子に座った。
「母さん、ごめん」
「何を謝るの」
「俺が巻き込んだ」
美佐子は、ゆっくりと首を振った。
「巻き込まれたんじゃないわ」
陸は黙った。
「私は、あなたの父の妻で、あなたの母親です。もうとっくに、この戦いの中にいるの」
その声は、静かだった。
だが、揺らがなかった。
「戦いをやめろとは言わない」
美佐子は続けた。
「でも、生きて帰ってきなさい。お父様ができなかったことを、あなたはしなさい」
陸は、唇を噛んだ。
「……はい」
それ以上の言葉は出なかった。
しばらくして、陸は父の偽文書のことを切り出した。
「父さんの名前で、地下施設計画に関わっていたという文書が出た。印鑑も押されてる」
美佐子は驚かなかった。
ただ、目を伏せた。
「そう」
「母さん、俺は父さんを信じてる。でも……」
言葉が詰まる。
美佐子は、陸の手を取った。
「その印鑑、昔は少し違っていたのよ」
「違っていた?」
「ええ。誠二さん、若い頃に一度、書斎で落としたことがあるの。印面の端に、小さな欠けができた。本人は気にしていないふりをしていたけれど、私は覚えているわ」
陸は息を呑んだ。
「それから、亡くなる少し前にも、また少し欠けたはずよ。あなたが預かっていた時には、その欠けがはっきり分かるようになっていたと思う」
「印影で、時期が分かるかもしれない……」
「誠二さんのことは、ちゃんと見てきたつもりよ」
美佐子は、陸を見つめた。
「あの人の手も、声も、癖も、印鑑の欠け方まで」
少しだけ間を置いて、彼女は静かに続けた。
「あの人が、最後まで私に言わなかったことも、私はちゃんと見てきたつもり」
「母さん……」
美佐子は、かすかに微笑んだ。
「だから、陸。誠二さんを汚す紙なんかに、負けてはいけません」
陸は、病室の白い光の中で、母の手を握った。
細くなった手だった。
けれど、その手は、陸が思っていたよりもずっと強く、温かかった。
父を知る最後の証人が、そこにいた。
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