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永田町クエスト ――ボンボン二世議員、父のノートで国を取り戻す  作者: 九条ケイ・ブラックウェル
第二章「東京湾の罠」

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第24話:偽りの領収書

翌朝の事務所は、奇妙なほど静かだった。


誰かが淹れたコーヒーは、紙コップの中で冷めきっている。電話は何度か鳴ったが、誰もすぐには手を伸ばさなかった。呼び出し音だけが壁に跳ね返り、数秒遅れて、ようやく吉見が受話器を取る。


「はい、高遠事務所です」


その声には、いつもの張りがなかった。


香織は入口で一度立ち止まり、小さく息を吸ってから中へ入った。目元はまだ赤い。だが、昨日のように泣き崩れることはなかった。自分の席に着くと、黙って封筒の整理を始めた。


田中の席だけが、空いていた。


机の上には、昨日まで彼が使っていた赤いボールペンが一本、残されている。几帳面な彼らしく、キャップはきちんと閉められていた。


陸は、その席を見ないようにしていた。

だが、見ないようにすればするほど、視界の端にその空白が残った。


沈黙を破ったのは、橘だった。


「田中のことを悔やむのは後だ」


彼は壁際に立ち、煙草を咥えかけて、思い直したように胸ポケットへ戻した。


「まず、俺たちが生き残らなきゃならねえ。連中は、もう次の弾を撃ってくるぞ」


その言葉を待っていたかのように、陸の携帯が震えた。


画面には、篠原健太の名前が表示されている。


「健太」


『陸、時間がない』


電話の向こうの声は、いつもの軽さを完全に失っていた。


『社会部のデスクが、今夜の電子版で出すつもりだ。見出し案まで回ってる』


「内容は」


『高遠陸都議、寄付金を私的流用か。銀座高級寿司、キャバクラ、ゲーム課金に政治資金』


事務所の空気が、一瞬で張り詰めた。


昨日の偽メール。

金庫から盗まれた寄付者リスト。

新聞社へのタレコミ。


全てが、一つの線で繋がっている。


『領収書の写真がある。収支報告書の下書きらしき画像もある。内部告発者の証言もついてる。上はかなり乗り気だ』


「完全な捏造だ」


『分かってる。だから連絡した。だが、俺が止められるのは夕方までだ。それまでに反証を出せ。数字でも、ログでも、第三者証言でもいい。紙面の会議に出せる材料が必要だ』


「分かった」


『あと、悪いが……これが俺の最後の助けになるかもしれない。俺もデスクと喧嘩しすぎてる。次にお前のために動いたら、政治部から外される』


陸は言葉を失った。

篠原は、少しだけ笑った。疲れた笑いだった。


『大学の時、お前が作ったクソ難しいゲーム、覚えてるか。バグだらけで、クリアできねえって皆が文句言ってたやつ』


「今それを言うのか」


『あの時、お前、徹夜で全部直しただろ。仕様書を一から書き直して、最後に言ったんだよ。“ルールを作る側がズルしたら、ゲームは終わる”って』


篠原の声が、少しだけ柔らかくなった。


『俺は、その言葉を覚えてる。だから、まだお前を信じる。夕方までに材料をくれ』


電話は切れた。


美鈴が静かに言った。


「資料を見せてください」


篠原から送られてきた画像データを、美鈴の端末に転送する。


キャバクラの領収書。

銀座の高級寿司店の領収書。

ゲーム課金の明細。

政治資金収支報告書らしき表。


その中の一枚を見た瞬間、陸の眉が動いた。


ゲーム課金の明細。


金額も日付も、巧妙に改竄されている。だが、元になった履歴には見覚えがあった。


北海道から戻った夜。

木下健吾という不気味な男に接触され、宮田老人の前で暴力団まがいの連中に胸ぐらを掴まれたあの夜。


陸は確かに課金した。


個人カードだ。

自分の金で、自分の意思で払った。


ゲームに金を払うことを、陸は恥じるつもりなどなかった。誰かが作った世界に、時間と技術と情熱に、対価を払う。それは遊び手として当然の行為であり、作り手としても尊重すべきことだった。


「課金が悪いんじゃない」


陸は画面を睨みつけた。


「俺はゲームに金を払ったことを恥じる気はない。問題は、それを支援者の金で払ったように見せかけたことだ」


声が低くなる。


「あいつらは、俺だけじゃない。ゲームそのものまで、汚職の道具みたいに扱いやがった」


美鈴が頷いた。


「なら、記録で潰しましょう。個人カードの支出と、政治資金口座の出金履歴を照合します」


「お願いします。そこは、絶対に曖昧にしたくない」


橘が、低く笑った。


「いい怒りだ。じゃあ、戦争だな」


その一言で、事務所は動き出した。


美鈴は領収書写真の解析に取りかかった。Exif情報、画像生成日時、撮影端末、加工痕跡。端末の画面には、見慣れない解析ソフトのウィンドウが次々と開いていく。


吉見は会計資料を広げた。政治資金収支報告書の様式、領収書のインボイス番号、店舗登録情報、陸のスケジュール表。法学部生らしい几帳面さで、資料を色分けしていく。


吉見は、田中と同じ時期に陸の選挙ボランティアに加わった。二人で夜遅くまでポスターを貼り、雨の中でビラを配ったこともある。だが今、彼は田中の空いた席を見ないようにしていた。陸には、それが分かった。


橘は携帯を片手に、次々と電話をかけ始めた。


「銀座の寿司屋の移転時期、調べてくれ。あと、そのキャバクラのビル、設備点検の記録があるか。……ああ、急ぎだ。貸し一つな」


香織は、しばらく自分の手元を見つめていた。


そして、意を決したように立ち上がった。


「私にも、やらせてください」


陸は彼女を見る。


「利用されたまま終わりたくありません。私にも、できることをさせてください」


その声は震えていた。

だが、昨日のような怯えだけではなかった。


陸は少し迷い、やがて頷いた。


「分かりました。店舗への確認をお願いします。ただし、無理はしないでください」


「はい」


最初の綻びは、吉見が見つけた。


「このキャバクラのインボイス番号、おかしいです」


彼は画面を陸に向けた。


「領収書の日付は十月十二日。でも、この番号の登録開始日は十一月一日です。領収書の日付時点では、まだ存在していません」


「偽造か」


「その可能性が高いです。さらに店舗名で調べると、その日はビル全体が電気設備点検で休業しています」


その時、香織が電話口で必死に話していた。


「突然すみません。高遠事務所の吉田と申します。そちらの十月十二日の営業について確認したくて……はい、領収書の件で……」


相手は最初、面倒そうだった。電話越しにも、ぞんざいな声が聞こえる。


香織は一度、唇を噛んだ。

それでも、言葉を続けた。


「お願いします。この領収書が本物かどうかだけでいいんです。人を守るために、必要なんです」


数秒の沈黙。


やがて、香織の表情が変わった。


「……はい。ビルの設備点検で休業。領収書番号も、そちらのレジから出たものではない。分かりました。ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」


電話を切った香織の手は震えていた。


「取れました。店長さんが、証言してくれるそうです」


陸は静かに頷いた。


「ありがとう。大きな証言です」


香織は泣きそうな顔になった。

だが、今度は泣かなかった。


次に崩れたのは、銀座の寿司店の領収書だった。


「ロゴが違います」


美鈴が画像を拡大する。


「この領収書に使われている店のロゴは、現在の新ロゴです。でも、領収書の日付はリニューアル前。しかも住所が移転後の住所になっています」


吉見が資料を確認する。


「移転登記は領収書日付の三ヶ月後です。当時、その住所では営業していません」


橘が電話を切り、こちらを見た。


「裏も取れた。店の常連筋から確認した。その日はまだ旧店舗だ」


一つ。

また一つ。


嘘の紙が、記録の前で剥がれていく。


ゲーム課金明細については、美鈴が決定的な矛盾を見つけた。


「この決済ID、形式が違います。桁数もチェックデジットも、プラットフォームの仕様と合っていません」


「つまり偽物?」


「はい。ただし、元になった陸さんの個人課金履歴は存在します」


美鈴は、陸の個人カード明細と政治資金口座の出金履歴を並べて表示した。


「該当する支払いは、陸さんの個人カードです。政治資金口座からの出金はゼロ。敵は、個人履歴をもとに政治資金流用に見せかけた偽明細を作っています」


陸は画面を見つめた。


自分の好きなものが、汚職の記号として扱われている。


そのことが、腹の底から不快だった。


「そのまま出してください」


美鈴が一瞬、陸を見た。


「いいんですか」


「いい。ゲームに金を払ったことを隠す気はありません。だけど、支援者の金で払ったという嘘は、絶対に許さない」


美鈴は小さく頷いた。


「分かりました」


決定打は、夕方近くに出た。


美鈴が領収書写真を並べ、画面に同じ箇所を拡大していく。


「見てください」


写真の端に、かすかに机の木目が映っていた。


キャバクラ。

寿司店。

ゲーム課金明細。


本来、別々の場所で受け取ったはずの書類。

だが、その写真の端には、同じ木目が映っている。


「撮影端末も同じ。照明条件も同じ。撮影時刻も連番です」


美鈴の声が、低く、鋭くなった。


「これは現場で受け取った領収書ではありません。偽造した紙を一カ所に並べて、一度に撮影した画像です」


事務所に、短い沈黙が落ちた。


そして、橘が笑った。


「やっと尻尾を出しやがったな」


夕方五時半。


健太へ、反証資料が送られた。


電話の向こうで、健太が息を呑む音がした。


『……これ、完全に偽造じゃないか』


「記事を止められるか」


『止めるだけじゃ足りない。逆に出すべきだ。だが、上が渋ってる』


「何と言ってる」


『高遠側の言い分だけでは危ない、だとさ。デスクはお前を信じたいと思ってる。でも、上はリスクを取りたがらない。第三者証言が必要だ』


「証言はある。店舗の証言、録音も取った。ゲーム会社のログも確認中です」


『急げ。あと一つ、悪い知らせだ』


健太の声が変わった。


『社会部に届いた資料には、政治資金の件だけじゃない。都議会で出された、ゲーム会社とのメール画像も入っていた』


以前、桜井が都議会の場で陸に突きつけた、あの捏造メール。


陸は歯を食いしばった。


「同じルートか」


『たぶんな』


美鈴はすぐに解析を始めた。


メール画面のUI。

Message-ID形式。

表示フォント。

画像生成環境。


すべてが不自然だった。


「このメール画面、その日付時点の社内システムと一致しません。フォントも違う。画像データの生成環境は、偽領収書写真と同じです」


「つまり、同じ場所で作られた」


「可能性が高いです」


陸は、かつて勤めていたサイバー・フロンティアへ正式に照会を入れた。

個人的な頼みではなく、名誉毀損と偽造文書の確認に関わる正式な照会として、記録に残る形を選んだ。


一時間後、会社の法務部から回答が届いた。


該当メールは、存在しない。


会社のサーバーにも、役員の受信履歴にも、陸の送信履歴にも、一切ない。


加えて、かつて陸と同じ開発部にいた先輩プランナーから、短いコメントが送られてきた。


『高遠陸は、ルールを作る側がズルをすることを一番嫌う人間だった。それは、私が保証します』


陸はその文章を読み、少しだけ目を閉じた。


自分の過去が、敵の攻撃材料にされた。

だが同時に、自分の過去が、自分を守ってくれた。


夜八時過ぎ。


健太の記事が出た。


敵が期待した見出しではなかった。


高遠陸都議への「内部告発」に偽造疑惑 領収書写真に複数の矛盾


記事は、淡々としていた。


領収書のインボイス番号の矛盾。

店舗ロゴと住所の矛盾。

休業日だった店舗の証言。

領収書写真の同一端末撮影疑惑。

ゲーム課金明細の偽造。

ゲーム会社メール画像の不自然さ。


感情的な断定はない。

だが、数字と記録が、静かに敵の嘘を崩していく。


SNSの流れも変わり始めた。


『やっぱり工作だったのか』

『領収書まで偽造するって、逆に怖い』

『高遠陸を潰そうとしてる勢力、何なんだよ』

『#高遠陸を守れ』


もちろん、全員が味方になったわけではない。


『どっちもどっち』

『高遠側の言い分を鵜呑みにするな』

『まだ疑惑は残る』


それでも、敵の第一波は止まった。

事務所に、小さな安堵が広がった。

香織が、陸の前に立った。


「先生」

「はい」

「私……少しだけでも、役に立てましたか」


陸は、真っ直ぐに彼女を見た。


「大きな役に立ちました。ありがとう」


香織は泣きそうになった。

だが、今度は泣かなかった。


「はい」


小さく、けれど確かな声だった。

その瞬間だけ、事務所の空気が少しだけ温かくなった。

田中を失った痛みは消えない。

支援者の信頼も、完全には戻っていない。

それでも、彼らは一つの嘘を、自分たちの手で打ち破った。


誰かが、小さく笑った。

今日初めての笑い声だった。


陸は、その声を聞きながら、窓の外を見た。神田の夜景は、いつもと変わらず、雑居ビルの隙間で小さく瞬いている。ほんの一瞬だけ、日常が戻ってきたように思えた。

だが、それは長く続かなかった。

陸の携帯が震えた。

健太からだった。

陸は、まだ少しだけ緩んでいた表情で通話ボタンを押した。


「健太。記事、ありがとう」

『陸』


その声を聞いた瞬間、陸の表情が消えた。

健太の声は、重かった。


『悪い知らせだ』

「何が出る」


『今度は週刊誌ルートだ。三十年前の東京湾岸地下施設計画に、お前の親父さんが関与していたという文書が出る』


陸は、息を止めた。


『署名と、印鑑がある』

「印鑑……」

『画像を送る』


数秒後、スマートフォンに一枚の写真が届いた。


古びた文書。

東京湾岸地下施設計画。

そして、父・高遠誠二の名前。


その横に、見覚えのある印影が押されていた。


陸は、画面を見つめたまま、何も言えなかった。

指先が、スマートフォンの縁にかかったまま動かない。


何度も見た印影だった。

何度も触れた印鑑だった。

母から受け取ったあの夜、手の中に残った重みまで、はっきりと思い出せる。


その瞬間、陸の脳裏に、幼い頃の記憶が蘇った。


父の書斎。

分厚い書類。

朱肉の匂い。


机の向こうで、父が印鑑を押して見せた。

「これが、お父さんの責任だ」

そう言って、父は少しだけ笑った。

その朱色は、あの時と同じ色だった。

だが今、画面の中に浮かぶその色は、何かに踏みにじられたまま、冷たく光っていた。


敵の第一波は、跳ね返した。

だが、敵はもう次の刃を抜いていた。

死んだ父の名誉を、もう一度殺す刃を。


陸は、スマートフォンを握りしめた。

指先に、あの印鑑の重みが蘇る。

母から手渡された夜の、冷たい象牙の感触。

父が何十年も押し続けた責任の重み。


その印鑑を、今、敵が押している。

陸は、画面の中の朱色を見つめた。

許せない、という言葉すら、軽すぎた。

最後までお読みいただきありがとうございました!

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