第23話:本物の内通者
翌朝、事務所の空気は、昨日よりも冷えていた。
暖房は入っている。コーヒーメーカーからは湯気が立ち、誰かが買ってきたコンビニの肉まんの匂いも漂っている。それでも、そこに集まった人間たちの間には、薄い氷のような緊張が張り詰めていた。
吉田香織は、朝一番に事務所へ来た。
目は赤く腫れていた。顔色も悪い。いつものように明るく挨拶することもできず、ドアの前で一度深く息を吸い込んでから、恐る恐る中へ入ってきた。
「昨日のこと、本当に申し訳ありませんでした」
香織は、出勤してきたスタッフ一人ひとりに、深々と頭を下げた。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
責めたい気持ちが、まったくないわけではない。
だが、彼女が利用されたことも、皆わかっていた。
香織の善意が、罠に変えられた。
彼女の家族の過去が、脅しに使われた。
そして、その結果として、陸の事務所は支援者たちの信頼を失いかけている。
それは誰にとっても、簡単に飲み込める事実ではなかった。
「吉田さん」
田中が、いつもの穏やかな声で言った。
「無理しないでください。昨日のことは……誰でも、ああいう形で言われたら怖くなると思います」
香織は、涙をこらえるように小さく頷いた。
「ありがとうございます、田中さん」
陸は、その光景を静かに見ていた。
昨日の加湿器の件で、香織が利用されたことはほぼ確実だった。だが、美鈴の解析は、もう一つの不気味な事実を示していた。
加湿器のカメラでは、金庫のアクセスコードは盗める。
だが、金庫の奥に隠された父の印鑑の存在までは分からない。
つまり、まだいる。
陸たちのすぐ近くに、もう一つの情報源が。
それが誰なのかは、分からない。
分からないからこそ、苦しかった。
朝の打ち合わせが始まる前、陸は美鈴を応接室へ呼んだ。扉を閉め、ブラインドを下ろす。美鈴は小型のノイズ発生装置をテーブルに置き、スイッチを入れた。
低い電子音が、部屋の隅でかすかに震えた。
「陸さん」
美鈴は、感情を抑えた声で言った。
「昨夜の件だけでは説明できない情報が、敵に渡っています。父上の印鑑の隠し場所だけではありません。篠原さんから連絡があったタイミング、陸さんと橘さんが相談した流れ、次に文教委員会で扱う予定だった資料の一部。どれも、加湿器だけでは取得できません」
陸は、しばらく黙っていた。
「人を疑いたくない」
その声は、自分でも情けないほど弱く聞こえた。
「でも、疑わなければ、また誰かが傷つく」
美鈴は静かに頷いた。
「なら、人ではなく、事実を見ましょう」
彼女はノートパソコンを開いた。
画面には、同じ名前のファイルがいくつも並んでいる。陸には違いが分からない。美鈴の指が迷いなくキーボードの上を走り、ファイルは複製され、暗号化され、別々のフォルダへ振り分けられていった。
それが何を意味するのか、陸には完全には分からなかった。
だが、美鈴が何かを仕掛けようとしていることだけは分かった。
「任せます」
陸は言った。
美鈴は、画面から目を離さずに答えた。
「今日中に、答えを出します」
午前十時。
陸はスタッフ全員を前に、平静を装って資料を配った。
「昨夜の件を受けて、今後の調査資料を整理し直します。特に瑞樹秀の死と、彼が残した『李明瑞』という名前について、各自に確認してもらいたい資料があります」
スタッフたちが、一斉に顔を上げた。
李明瑞。
その名には、事務所全体を一瞬で緊張させる力があった。
瑞樹が死の直前に陸へ遺した名前。
父の死、瑞樹の死、そして東京港の闇を繋ぐかもしれない、危険な鍵。
「これは、まだ未整理の仮資料です。外部には絶対に出さないでください。気づいた点があれば、各自メモをお願いします」
ファイルは、事務所内の共有端末から個別に送られた。
吉見は、すぐに中身を確認し始めた。
香織は、恐る恐るファイルを開き、唇を噛んだ。
田中は、いつものように静かに頷き、端末へ向かった。
「分かりました。確認します」
その口調は、普段と少しも変わらなかった。
午後、事務所には、不自然な日常が戻った。
電話はまだ鳴る。支援者への説明も続く。給食費問題の資料整理も止められない。千鶴は港湾労働者たちへの連絡に追われ、吉見は過去の委員会資料を確認している。
香織は、少しでも償おうとするように、黙々と封筒の宛名を整理していた。
田中はその横を通りかかるたび、「休んだ方がいいですよ」「無理しないでください」と声をかけた。
香織は、そのたびに小さく頭を下げた。
田中は、いつもの田中だった。
選挙戦の時からそうだった。派手さはないが、頼まれたことを一つひとつ丁寧にこなす。雨の日も、夜遅くのビラ折りも、嫌な顔ひとつせずに手伝ってくれた。感謝の会の時には、「僕たちにも、これから先生の戦いを手伝わせてください」と、まっすぐな目で頭を下げた。
だからこそ、陸は苦しかった。
誰かを疑わなければならない。
けれど、誰かを疑うたびに、自分の中の何かが削れていく。
父も、同じ苦しみを味わったのだろうか。
夕方六時を少し過ぎた頃だった。
応接室で待機していた美鈴の指が、ぴたりと止まった。
「出ました」
その一言だけで、陸の背筋が伸びた。
橘は外回りから戻ったばかりだった。新聞各社への火消しで疲れ切った顔をしていたが、美鈴の声を聞いた瞬間、目つきが変わった。
「どこだ」
美鈴は画面を睨んだまま答えない。
「陸さん」
彼女は低い声で言った。
「皆さんを集めてください」
数分後、事務所の全員が会議テーブルを囲んだ。
田中、吉見、香織、千鶴。
橘は壁際に立ち、腕を組んでいる。
陸は美鈴の横に座った。
「何があったんですか」
吉見が尋ねた。
美鈴は、全員を見渡してから、静かに口を開いた。
「今朝、皆さんに資料を渡しました。李明瑞に関する未整理資料として」
吉見の顔が強張った。
香織が、怯えたように息を呑む。
「実は、あのファイルは全員同じではありません。表面上は同じに見えますが、内部のヘッダー、画像の余白、脚注の位置、暗号化情報を、それぞれ少しずつ変えてあります」
「つまり……」
吉見が小さく呟いた。
「外に出たら、誰のファイルか分かる」
「はい」
美鈴は頷いた。
「先ほど、そのファイルの一つが外部サーバーへ送信されました。暗号化されていますが、識別子は一致しています」
香織の顔が真っ白になった。
「私……まさか、また私のせいで……」
「違います」
美鈴は即座に言った。
そして、一度だけ目を伏せた。
「送信されたのは、田中さんのファイルです」
音が消えたようだった。
田中は、会議テーブルの向こうで動かなかった。
吉見が、信じられないという顔で彼を見る。
香織は両手で口を押さえた。
千鶴の表情が、一瞬で険しくなる。
「田中君」
陸は静かに名前を呼んだ。
田中は、ゆっくりと顔を上げた。
「何かの間違いです」
声は震えていなかった。
「僕はファイルを開いただけです。外に送ったりしていません」
美鈴は、淡々と画面を示した。
「ファイルの暗号化ヘッダーは固有です。誤検出ではありません」
「僕の端末が乗っ取られたのでは?」
「端末の操作ログには、あなた自身がファイルをコピーし、圧縮し、送信した記録があります。マウス操作、キーボード入力、時刻、すべて残っています」
田中は、わずかに唇を噛んだ。
「外部から僕の端末を遠隔操作された可能性は?」
「その痕跡はありません。むしろ通信は、端末のローカル操作から始まっています」
「研究所のサーバーから、誰かが……」
その瞬間、橘が一歩前に出た。
「研究所?」
田中の表情が固まった。
橘の目が鋭くなる。
「俺たちは『外部サーバー』としか言ってねえぞ。なぜ未来都市政策研究所だと分かった?」
田中は、黙った。
その沈黙が、全てを物語っていた。
橘がさらに詰め寄ろうとしたが、陸が手で制した。
「田中君」
陸は静かに言った。
「もし君が本当に何も知らないなら、明日、僕と一緒に未来都市政策研究所へ行こう。佐伯隆一に、直接会って話を聞く」
田中の顔色が変わった。
「それは……」
「できないのか」
陸は問い詰めるようには言わなかった。
ただ、まっすぐに尋ねた。
田中の肩が、小さく震えた。
「……先生」
声が、初めて揺れた。
「すみません」
吉見が机を叩いた。
「田中、お前……!」
「やめろ、吉見君」
陸が言った。
吉見は歯を食いしばったまま、黙り込んだ。
田中は、両手を膝の上で握りしめた。
「最初から、でした」
その一言が、部屋の空気をさらに重くした。
「最初から、先生の選挙ボランティアに入るように言われていました。港湾労働者の側に近づいて、先生の人脈と事務所の動きを報告しろ、と」
「誰に」
橘が低く聞いた。
田中は、テーブルに置かれていた名刺を見た。
未来都市政策研究所。
「同じところです。表向きは、学生向けの政策勉強会でした。僕は、そこの奨学金を受けていました」
「奨学金?」
陸が聞く。
「はい。父の会社が、借金を抱えていて……」
田中は顔を伏せた。
「父は、港湾関係の小さな通関書類代行会社をやっています。数年前から仕事が減って、資金繰りが悪化した。そこに、ある金融業者が近づいてきたんです。最初は助けてくれるように見えた。でも、気づいた時には、逃げられなくなっていた」
黒龍会。
誰もその名を口にしなかった。
だが全員が、同じことを考えた。
「母は、もうほとんど動けません。施設にいます。診ている医師も、向こうの息がかかっています」
田中の声が、わずかに震えた。
「僕が協力すれば、父の会社を守る。母の治療費も出す。そう言われました」
千鶴が低く唸った。
「だからって、あんた……」
「分かっています」
田中は、千鶴を見られなかった。
「言い訳にはなりません」
その言葉は、あまりにも弱々しかった。
「僕は、先生のことを、本当に何も知らなかった。ボンボン二世で、父親の名前を使って、正義ごっこをしている人だと思っていた。だから、最初は、自分に言い訳できたんです」
陸は何も言わなかった。
「でも、港の人たちと話している先生を見て、分からなくなりました。土田さんの話を聞いている先生を見て、千鶴さんに頭を下げる先生を見て……」
田中の声がかすれた。
「こんな人を、本当に売っていいのかって」
「それでも、売った」
陸の声は静かだった。
責めるでもない。
怒鳴るでもない。
ただ事実を置いた声だった。
田中は、顔を伏せた。
「はい」
香織が涙を流していた。
「田中さん……昨日、私のこと……」
「ごめん」
田中は彼女を見られなかった。
「君が疑われるようにしたのも、向こうの指示だった。加湿器の件を使えば、先生たちはそこで止まるって言われていた」
千鶴が、椅子の背を強く掴んだ。
「ふざけるんじゃないよ……香織ちゃんの気持ちを、何だと思ってるんだ」
田中は、何も言い返せなかった。
橘の目が鋭くなる。
「印鑑のことは?」
田中の肩が震えた。
「僕が、見ました」
陸の視線が彼に突き刺さる。
「いつ」
「先生が一度だけ、金庫を開けた時です。父上の資料を探していて、隠しスペースを開いた。その時、僕は資料を持って入って……先生は気づいていなかった」
陸は記憶を辿った。
確かにあった。
都議会の古い議事録を調べていた頃、父の資料を金庫から取り出した。田中が文教委員会の資料を運んできた。ほんの一瞬。扉が閉まる前の一瞬。
それを、見られていた。
「君は、その場所を報告した」
田中は小さく頷いた。
「はい」
陸は、拳を握りしめた。
怒りはあった。
だが、それよりも深いところに、鈍い痛みがあった。
自分は、この青年を信じていた。
若い力が必要だと言い、肩を叩いた。
彼のまっすぐな瞳を見て、かつての自分を重ねた。
その青年が、敵に情報を流していた。
「田中君」
陸は、ゆっくりと口を開いた。
「なぜ、今日までここにいた。香織さんの件が露見した時点で、逃げればよかったはずだ」
田中の顔が、わずかに歪んだ。
「今日が、最後だったからです」
「最後?」
「今夜、成田から出ることになっていました。未来都市政策研究所の奨学生向けの、北京と深圳の都市政策研修という名目です」
橘が目を細める。
「名目、ね」
田中は頷いた。
「最初は、本当に研修だと思っていました。選ばれた時は、少し誇らしかった。父も、喜んでいました。でも、最近になって意味が変わったんです」
「どう変わった」
「金庫の件が終わったら、予定を早めて出国しろと言われました。研修ではなく、再教育だと……そう言われました」
その言葉に、空気が凍った。
再教育。
瑞樹。
李傑。
友情の橋計画。
失敗資産。
その言葉が、この部屋にいる全員の記憶を同じ場所へ引きずり戻した。
「それだけじゃありません」
田中は、顔を上げた。
「向こうでは、僕が見たことを証言しろと言われています。高遠誠二先生の印鑑が、陸先生の金庫にあったことを。映像に撮る、と」
陸の背筋に、冷たいものが走った。
「父の印鑑を使って、何かを作るつもりか」
「分かりません。でも、あの人たちは言っていました」
田中の声は、震えていた。
「『高遠誠二の名前は、まだ使える』と」
その一言が、陸の胸に突き刺さった。
死んだ父の名を、まだ利用する。
父の信頼を、父の責任を、父の人生を、また汚す。
陸の中で、静かな怒りが燃え上がった。
「田中君」
陸は言った。
「明日、僕と一緒に法律事務所へ行こう。家族の借金、奨学金、研究所からの脅迫。全部、弁護士に相談する。警察に行くかどうかは、その後で決める」
田中は、陸を見つめた。
「先生……」
「君を許すかどうかは、まだ分からない。でも、君をこのまま連中に渡すつもりはない」
田中の目が揺れた。
橘が窓の外を見た。
「……待て」
声が低くなった。
「向かいの通りに、車が停まってる。さっきから動いてねえ」
美鈴がすぐに端末を開いた。
「防犯カメラを確認します」
画面に、事務所の向かいの通りが映し出された。
黒いワゴン車。
その横に、一人の男が立っている。
田中に似た顔。
だが、目つきは鋭く、頬骨の位置が微妙に違う。
数日前、事務所の向かいのビルからこちらを監視していた男。
陸は、その顔を忘れていなかった。
田中の顔色が変わった。
「もう、来ています」
「今日が回収の日だったのか」
橘が吐き捨てるように言った。
田中は、小さく頷いた。
「通常通り勤務して、夕方の迎えで出ろと……そう言われていました」
陸は一瞬、判断を迫られた。
警察に通報するか。
弁護士へ連絡するか。
この場で田中を保護するか。
外の車にいる連中をどうするか。
その一瞬の迷いが、命取りだった。
田中が椅子を蹴った。
「田中君!」
陸が叫ぶ。
田中は事務所のドアへ走った。橘が出口を塞ごうと動く。だが、田中の方が半歩早かった。
扉が開く。
廊下へ飛び出す足音。
橘が追った。
陸も反射的に立ち上がり、ドアに手を伸ばす。
その時、美鈴の声が飛んだ。
「陸さん、行かないで! 外にもう一台います!」
陸の足が止まった。
ほんの一瞬だった。
だが、その一瞬が決定的だった。
階段を駆け下りる足音。
ビルの外で車のドアが乱暴に閉まる音。
そして、エンジン音。
陸は窓辺へ駆け寄った。
見下ろした通りには、もう黒いワゴン車の姿はなかった。いつも通りの神田の裏通り。仕事帰りの会社員が足早に歩き、店先の看板が冬の風に揺れている。
数秒前まで田中がそこにいたことなど、街は最初から知らなかったように、平然としていた。
橘が戻ってきた時、息は荒く、顔は怒りで歪んでいた。
「間に合わなかった」
彼は壁を拳で叩いた。
「俺たちが、議論しすぎた」
陸は、窓の外を見たまま言った。
「俺の判断が遅れた」
田中は消えた。
裏切り者として。
被害者として。
そして、まだ救えたかもしれない一人の若者として。
事務所には、重い沈黙が落ちた。
その時、美鈴が、田中の机の上に置かれた一枚の紙を見つけた。
「陸さん……」
それは、田中が残していったメモだった。
震える字で、短く書かれていた。
『先生が、僕を助けようとしてくれたことだけは、忘れません。だから、これを書きます。
李明瑞の名前を、向こうで聞いたことがあります。
北京で、再教育を受ける者は、最後に必ずその名を聞かされる。
彼は、ただの人間ではありません。
僕には、それ以上は分かりません。
すみません。』
陸は、その紙を握りしめた。
怒りがあった。
悔しさがあった。
そして、救えなかった痛みがあった。
田中は裏切った。
だが、彼もまた、どこかで作られた駒だった。
敵は、香織の善意を利用し、田中の弱さを利用し、支援者の信頼を利用し、父の印鑑まで盗んだ。
人間を、人間として扱わない。
誰かの人生を、盤上の駒のように動かす。
陸は、メモを見つめたまま、低く呟いた。
「……必ず、取り戻す」
誰を、とは言わなかった。
父の名誉か。
支援者の信頼か。
田中のような若者たちか。
そして、最後にはこの国そのものか。
その答えは、まだ分からない。
ただ、陸の目には、もう迷いはなかった。
窓の外では、師走の夜のイルミネーションが、相変わらず美しく瞬いている。
その下で、一台の黒いワゴン車が、東京の闇の中へと消えていった。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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