第22話:信頼を盗む罠
スタッフが帰った後も、陸は金庫の前を離れられずにいた。
神田の裏通りは、師走の夜に冷え切っていた。窓の外では、商店街のクリスマスイルミネーションが、場違いなほど明るく瞬いている。その光が、事務所の暗さを、かえって際立たせていた。
開け放たれた金庫の扉。
空になった現金袋。
消えた支援者名簿。
消えた寄付者リスト。
そして、父・高遠誠二の印鑑。
陸は、金庫の奥の隠しスペースを、何度も見つめた。
そこにあったはずのものが、ない。
ただそれだけの事実が、胸の奥を静かに凍らせていた。
父の印鑑は、陸が議員辞職を決めた夜、母・美佐子から手渡された遺品の一つだった。ずしりと重い、黄ばんだ象牙の印鑑。陸はその夜、長いことそれを手の中で握っていた。
父はこの印鑑で、どれだけの書類に署名し、どれだけの責任を背負ってきたのか。
その重さを、自分は本当に引き継げるのか。
そんなことを考えながら、ただ握りしめていた。
それが、奪われた。
金を盗まれた痛みとは違う。
名簿を盗まれた怒りとも違う。
父との最後の繋がりの一つを、泥のついた手でどこかへ持ち去られたような、冷たく深い屈辱だった。
「……これが、奴らの狙いか」
陸は、誰にともなく呟いた。
今日一日で、事務所の空気は変わった。
支援者からの電話は鳴り止まず、定期寄付は次々と解約され、ボランティアの顔には疑念と不安が浮かんでいた。誰もはっきりとは言わない。だが、全員が同じことを考えていた。
内部に、裏切り者がいるのではないか。
その疑念こそが、敵の本当の凶器だった。
その時、事務所のドアが静かに開いた。
「陸さん」
振り返ると、美鈴が立っていた。帰ったはずの彼女が、コートも脱がず、ノートパソコンを抱えて戻ってきている。顔には疲労が滲んでいたが、その目だけは、まだ鋭さを失っていなかった。
「すみません。どうしても、気になることがあって」
「気になること?」
「金庫のログです」
美鈴は金庫の前に膝をつき、電子パネルの記録を確認した。
「土曜深夜二時十七分。陸さんのアクセスコードで開けられている。ここまでは、昼間に確認した通りです」
「俺はその時間、自宅にいた」
「はい。マンションの入退館ログとも矛盾しません」
「つまり、誰かが俺のコードを複製した」
「その可能性が高いです。ただし、金庫システムへの外部侵入の痕跡はありません。メーカーの管理ポートにも、事務所のネットワークにも、不正アクセスのログはない」
美鈴は、ゆっくりと顔を上げた。
「コードは、ハッキングではなく、別の方法で盗まれた可能性があります」
「別の方法?」
入口の方から低い声がした。
橘だった。
彼もまた、帰ったはずなのに戻ってきていた。コートの襟を立て、寒さと怒りで頬を赤くしている。
「どういう意味だ、美鈴」
「陸さんがコードを入力する瞬間を、撮影された可能性があります」
その言葉が、静まり返った事務所に落ちた。
陸は、金庫のテンキーを見た。自分が何度も押してきた数字。誰にも見られていないと思っていた、ごく短い動作。
「盗撮……か」
橘が低く吐き捨てた。
美鈴は金庫の前に立ち、周囲を見渡した。
「テンキーが見える角度は限られています。高さ、距離、角度。この条件に当てはまるのは、金庫正面から斜め上の範囲に置かれた機器です」
彼女はスマートフォンのカメラを起動し、金庫の前から室内をゆっくり撮影した。
「最近、事務所に持ち込まれた電子機器だけに絞ります。古い機器なら、以前からの配置記録と照合できますから」
陸は備品メモを取り出した。
「最近増えたのは、USBハブ、卓上スピーカー、スマホ充電スタンド、空気清浄機……それと、卓上加湿器だ」
「一つずつ確認します」
美鈴はUSBハブを分解した。異常なし。
卓上スピーカー。古い型で、通信モジュールはない。
スマホ充電スタンド。内部構造は通常品。
空気清浄機は大型で、金庫のテンキーを狙える角度ではなかった。
最後に残ったのは、窓際の棚に置かれた白い小型加湿器だった。
美鈴はそれを手に取った。
「これは、誰が?」
陸はメモを確認した。
『乾燥がひどいので、小型加湿器を置いておきます。吉田香織』
香織。
昼間、重苦しい会議の中で、手作りの弁当を差し入れてくれたインターンの少女。祖父も政治家だったと言い、「こんな時だからこそ団結しないと」と励ましてくれた、あの香織。
陸は、すぐに首を振った。
「決めつけるな。まず確認する」
「分解します」
美鈴は底面のゴムを外し、細いドライバーでカバーを開けた。
中にあったのは、水を噴霧する機構だけではなかった。
黒い、米粒ほどのレンズ。
小型の記録基板。
通信モジュール。
橘が、低く舌打ちした。
「ピンホールカメラか」
「録画だけじゃありません。外部送信もできます」
美鈴の声に、抑えた怒りが滲んでいた。
陸はしばらく黙っていた。香織を呼ぶべきか。呼べば、彼女は傷つく。だが、確認しなければならない。真実から目を逸らせば、また誰かを守れなくなる。
「香織さんに連絡します。ただし、一人では来させない。千鶴さんに付き添ってもらいましょう」
橘は頷いた。
「それがいい。今の状況で一人で呼び出せば、こっちが追い詰めたみたいに見える」
二十分後。
事務所のドアが開いた。
千鶴に付き添われ、吉田香織が入ってきた。厚手のコートを着ているのに、肩が震えている。
「先生……何か、あったんですか」
陸は加湿器を指さした。
「香織さん。これ、君が持ってきたものですね」
香織は加湿器を見た瞬間、顔色を変えた。
「はい……私が……」
美鈴が、開いた内部を見せた。
小さな黒いレンズが、無機質に光っている。
香織の表情が、みるみる崩れていった。
「違います……私、そんなの、知らなくて……」
「誰からもらった」
橘が尋ねた。声は鋭かったが、怒鳴ってはいなかった。
香織は震える手でバッグから名刺入れを取り出し、一枚の名刺をテーブルに置いた。
『未来都市政策研究所
主任研究員 佐伯 隆一』
橘が、名刺を覗き込む。
「いかにもだな」
香織は涙をこぼした。
「ボランティアをしている時に、声をかけられたんです。若い人が政治に関心を持つのは素晴らしいって。高遠先生の活動を、政策面から支援したいって……」
「それで、この加湿器を?」
「はい。事務所が乾燥してるって話をしたら、研究所のノベルティだからって。電波環境を測る機能もあるから、オンライン会議にも役立つって……」
香織は唇を噛んだ。
「でも、それだけじゃありません。祖父のことも言われました」
「祖父?」
陸が聞く。
「祖父は昔、都議でした。でも、家では政治の話をほとんどしませんでした。亡くなる前も、何かに怯えているような時があって……。その佐伯という人は、祖父が昔、ある勉強会に関わっていたと言いました。表に出れば、家族が困ることになる、と」
陸は、息を止めた。
ある勉強会。
三十年前、父が参加を拒み、その直後に捏造スキャンダルで失脚させられた密室の名が、胸の奥で冷たく蘇る。
橘が何かを言いかけた。
だが、それより先に、陸が低く呟いた。
「……朝食会か」
香織の目が見開かれた。
「先生……ご存じだったんですか」
答えは、誰も言わなかった。
もう十分だった。
敵は、香織を選んだのではない。
香織の家族の過去を掘り起こし、その善意を利用したのだ。
「私、怖くて……でも、こんなことになるなんて、本当に知らなかったんです」
香織の声は震えていた。
「先生、私、もうここにいられません。私のせいで……」
「違う」
陸は即座に言った。
「君のせいじゃない」
香織が顔を上げる。
「君を利用した奴が悪い。君の家族の過去を脅しに使い、善意を踏みにじった奴らが悪い」
「でも、私が持ち込んだから……」
「だからこそ、逃げないでくれ」
陸は、まっすぐに彼女を見た。
「君が知っていることを、全部話してほしい。佐伯のこと。未来都市政策研究所のこと。声をかけられた場所、時間、言われた言葉。どんな些細なことでもいい」
香織の涙が、また溢れた。
「私……ここにいていいんですか」
陸は頷いた。
「いてほしい。君は、被害者で、証人だ。そして、俺たちの仲間だ」
香織はその場に崩れ落ちるように膝をついた。千鶴が駆け寄り、彼女の肩を抱いた。
「大丈夫だよ、香織ちゃん。あんた一人に背負わせやしない」
美鈴は加湿器から抜き取った基板を、静電防止袋へ入れた。
「通信先を追います」
「できるか?」
橘が聞く。
「時間はかかります。でも、必ず」
美鈴は通信モジュールのIDを読み取り、端末に打ち込んでいく。
数分後、彼女の手が止まった。
「未来都市政策研究所は、表向きは完璧にクリーンです」
画面には、財団法人の登記情報が表示されていた。
「都市政策に関する中立的な調査研究を行う一般財団法人。役員は元官僚、元大学教授、民間シンクタンク出身者。設立は五年前。活動報告書も整っています」
「だろうな」
橘が鼻で笑った。
「汚い奴ほど、看板は磨く」
「ただし、加湿器の通信ログを辿ると、直接研究所には飛んでいません。国内のクラウド事業者、さらにサーバー管理会社を経由しています」
美鈴は画面を切り替えた。
「その管理会社の株主を辿ると、都市開発系のコンサル会社が出てきます。そして、そのコンサル会社の役員の一人が……」
画面が拡大される。
「東京フロンティア所属議員の選挙資金管理団体が入っている、例のビルの管理会社と関係しています」
部屋に、低いざわめきが広がった。
陸は名刺を見つめた。
「……奴らは、いったいどれだけの顔を持っているんだ」
東京フロンティア。
東京ベイフーズ。
東亜港湾管理。
朝食会。
黒龍会。
未来都市政策研究所。
敵は、一つの名前を持たない。
いくつもの看板を掲げ、善意や制度や研究の顔をして近づいてくる。
「美鈴さん。この研究所を洗ってください。登記、役員、関連団体、過去の事業報告、全部です」
「承知しました」
美鈴はそう答えたが、表情はまだ険しい。
さらに数分後、彼女が不意に手を止めた。
「……おかしい」
「何が?」
美鈴は、加湿器のカメラ映像を再現した。粗い映像の中で、金庫のテンキーは確かに見える。陸がコードを入力すれば、指の動きから番号を推測できるだろう。
だが、美鈴は画面の端を指さした。
「このカメラで見えるのは、テンキーと扉の正面だけです。金庫内部はほとんど映りません。奥の隠しスペースなんて、絶対に見えない」
陸の背筋に、冷たいものが走った。
「つまり……」
「香織さんの機器で、アクセスコードは盗めます。でも、父上の印鑑が隠しスペースにあることまでは分かりません」
事務所が凍りついた。
香織が息を呑む。
千鶴が険しい顔で金庫を見る。
橘が煙草を取り出しかけて、やめた。
美鈴の声が、低くなる。
「この事件には、もう一つ、別の情報源があります」
陸は金庫を見つめた。
開いた扉。
空になった隠しスペース。
そこにあったはずの、父の印鑑。
敵は、香織を使って入口を開けた。
だが、奥に何があるかを知っていた者が、別にいる。
「橘さん」
陸は顔を上げた。
「篠原に連絡してください。今夜のことは、まだ表に出さないでほしいと伝えてください」
橘が目を細めた。
「いいのか。逆に利用すれば、連中の汚いやり口を世間に見せられるぞ」
「まだです」
陸は首を振った。
「香織さんは罠でした。でも、本当の情報源は別にいる。ここで騒げば、そいつは逃げる」
橘は、少しだけ口の端を上げた。
「……いい顔になったじゃねえか」
「褒めないでください」
「褒めてねえよ。嫌な顔だって言ってんだ」
橘はスマートフォンを取り出し、篠原に連絡を取り始めた。
陸は、もう一度金庫を見た。
信頼を壊すための罠は、第一段階に過ぎなかった。
本当の裏切りは、まだ事務所のどこかで、静かに息を潜めている。
窓の外では、冷たい師走の風に、イルミネーションが揺れていた。
その光は美しかった。
だが今の陸には、それが、闇の中でこちらを見つめる無数の目のように見えた。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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