第九話 恋という香りを知らない
あの夜以来、店を訪れる人々との日常は、少しずつ、私の中に確かな彩りを添え始めていた。
朝、店の扉を開けると、通りの向こうからミレイユが手を振ってくる。仕立て屋の仕事が一段落すると、彼女は決まって店に顔を出しては、他愛のない世間話をしていった。
「ねえセレナ、今度の休みの日、一緒にお昼でも食べない? 港の食堂、新しいメニューが出たらしいの」
「いいですね。楽しみにしています」
窓から差し込む朝の光の中、ミレイユの明るい声が店内に響くと、それだけで一日が、少し軽やかに始まるような気がした。
王都にいた頃、こんな風に気軽に誘い合える友人はいなかった。社交界の付き合いには、常に身分や体裁という見えない糸がまとわりついていた。誰と、どのように話すか。何を話題にすべきか。その一つ一つに、常に計算と配慮が求められていた。
けれど、ミレイユとの間には、そういったものが一切なかった。彼女の言葉には、飾り気のない、まっすぐな温かさがあった。
その日の午後には、エマが花を届けに来た。
「セレナお姉ちゃん、見て! すずらん、今年もたくさん咲いたの」
白い小さな花を、エマは誇らしげに差し出した。頬を上気させ、瞳を輝かせるその姿に、私は思わず頬が緩んだ。
あの日以来、エマは以前にも増して頻繁に店に顔を出すようになっていた。母親との思い出を、少しずつ自分の言葉で語れるようになってきているようだった。花を持って店にやってくるたび、エマは決まって、母親との小さな思い出話を、一つ、また一つと、私に聞かせてくれるようになっていた。
「本当に綺麗ね。ありがとう」
私が花を受け取ると、エマは満足げに笑って、花屋の手伝いに戻っていった。その後ろ姿は、以前よりも、少しだけ軽やかに見えた。
夕方には、テオドールが店に立ち寄り、新しい薬草の研究について、熱心に語ってくれた。
「この植物、遠くの山の中でしか採れないんですが、記憶に関わる魔法との相性が、非常に興味深いんです」
テオドールの話は、時折専門的すぎて理解が追いつかないこともあったが、その情熱に触れることは、いつも新鮮な刺激になった。彼の瞳の奥に灯る、純粋な探究心の光を見るたび、私自身も、調香という仕事への向き合い方を改めて見つめ直させられる気がした。
そして――ルーカスは、相変わらず、店にふらりと現れた。
「今日も監督ですか?」
私が半ば冗談めかして尋ねると、ルーカスは、いつものように、少し気まずそうな顔をした。
「……近くまで来たついでだ」
そう言いながら、ルーカスは店先で少し傾いていた看板を無言で直した。
「……そこまで、監督のお仕事ですか?」
「目についただけだ」
その言い訳は、もう何度目になるだろう。けれど、私はその言葉を、以前ほど疑わなくなっていた。
彼が来ると、店の空気が、少し違ったものになる。緊張感と、それでいて不思議な安らぎが同居するような、そんな感覚だった。カウンターに肘をつき、無言でこちらを眺める彼の視線を感じるだけで、なぜか手元の作業に、いつも以上の集中が宿るような気がした。
そんなある日の午後、私はふと、店の窓の外に目をやった。
通りを、見知らぬ商人が歩いている。ルーカスの姿は、どこにも見当たらなかった。
いつもなら、太陽が最も高く昇るこの時間帯に、濃紺の外套の背中が、通りの向こうに見え始めているはずだった。けれど今日は、いくら目を凝らしても、その姿はどこにもなかった。
なぜか、少し落胆した自分に気づいて、私は戸惑った。
今日は来ないのだろうか。
その考えが浮かんだ瞬間、私は自分でも意外なほど、そわそわと落ち着かない気持ちになっている自分に気づいた。
棚の整理をしながらも、何度も扉の方に目をやってしまう。手にしていた瓶のラベルを、同じ場所を三度も貼り直していることに気づいて、私は思わず小さくため息をついた。
馬鹿げている、と自分に言い聞かせた。彼が来なくても、それは何も特別なことではないはずだった。町の治安を預かる立場の彼には、当然、他にも果たすべき仕事があるはずなのだから。
結局その日、ルーカスは店に姿を見せなかった。
夕暮れの光が、いつもより長く、寂しく感じられた。
夜、店を閉めながら、私は自分の中に生まれた小さな落胆を、うまく処理できずにいた。ランプの灯りを消す手が、いつもより、ほんの少しだけ、緩慢になっていた。
翌日、ミレイユが店に顔を出したとき、私はふと、昨日のことを話してみた。
「昨日、ルーカス様、いらっしゃらなかったんです」
「あら、珍しい」
ミレイユは、興味深そうに私を見つめた。
「それで、セレナはどうだったの?」
「どうって……」
私は少し言葉に詰まった。
「なんだか、落ち着かない気持ちになりました。理由は、自分でもよく分からないのですが」
ミレイユは、私の顔をじっと見つめた。それから、悪戯っぽい笑みを浮かべた。その笑みには、何か確信めいた色が滲んでいた。
「セレナ、それ……ルーカス様のこと、好きなんじゃない?」
その言葉に、私は思わず、動きを止めた。手にしていた布巾が、そのまま棚の上に落ちた。
「好き……とは、どういう感覚だったかしら」
自分の口から出た言葉に、私自身が一番戸惑っていた。
ミレイユは、目を丸くした。
「え、本気で言ってるの?」
「はい。真剣に、分からないんです」
私は正直に答えた。
「彼が来ると、確かに落ち着く気がします。来ない日は、なぜか気になる。他の女性と話しているのを見ると、少し胸がざわつくような……でも、それが『好き』という感情なのかどうか、私には判断がつかないんです」
ミレイユは、しばらく私の顔を見つめていたが、やがて、少し困ったような表情を浮かべた。
「セレナって、時々、変なところで鈍いのね」
「そうでしょうか」
「今言ったこと、全部、好きな人に対する反応そのものだと思うけど」
ミレイユは、確信を持ったように言った。
「落ち着く、気になる、胸がざわつく。それ、普通に恋してる人の反応よ」
私は、その言葉を、ゆっくりと自分の中で反芻した。
恋。
その言葉の意味を、私は本当に理解しているのだろうか。心の中で、その二文字を、何度も転がしてみる。けれど、それがどんな手触りをしているのか、どんな温度を持っているのか、私にはうまく掴めなかった。
アルベルト様との五年間、私は彼のことを「好き」だと思っていたはずだった。けれど、今思い返しても、その感情がどのようなものだったのか、はっきりとは思い出せない。忘却香によって、その記憶に結びついた感情は、既に消え去っている。
まるで、色褪せた古い絵を眺めているようだった。輪郭は分かる。けれど、そこに込められていたはずの色彩が、もう二度と、はっきりとは見えてこない。
では、今、ルーカスに対して感じているこの感覚は、一体何なのだろう。
「……分からないんです、本当に」
私は、正直にそう漏らした。
「恋という感覚が、どういうものだったか、私にはもう、よく思い出せなくて」
その言葉に、ミレイユは少し不思議そうな顔をした。
「思い出せない、って……」
私は、これまで詳しく話していなかった自分の秘密に、初めて触れかけた。胸の内で、小さな迷いがよぎったが、この人になら話してもいいという確信が、すぐにそれを上回った。
「実は私、忘却香を、自分自身にも使ったことがあるんです。アルベルト様への愛情を、封じるために」
ミレイユは、はっとした表情を浮かべた。
「そうだったの……」
彼女の声には、驚きと同時に、深い理解の色が滲んでいた。
「だから、彼を好きだった頃の感覚が、今はもう、他人事のようにしか思い出せません。だから、今、自分がルーカス様に対して抱いているこの感情が、本当に『好き』というものなのか、比較する術がないんです」
ミレイユは、しばらく考え込むような表情を見せた。
「うーん……それは、確かにややこしいわね」
彼女は、腕を組んで、真剣な顔で私を見つめた。
「でもね、セレナ。恋って、比較するものじゃないと思うのよ」
「どういう意味でしょうか?」
「アルベルト様のときの気持ちと、今の気持ちを比べる必要なんてないの。今、あなたが感じていることが、今のあなたにとっての、本物の気持ちなんじゃない?」
その言葉に、私は少し驚いた。
考えてもみなかった視点だった。頭の中で、これまで自分を縛りつけていた何かが解けていくような感覚があった。
「今の気持ちが、本物……」
「そうよ。過去と同じかどうかなんて、誰にも分からないでしょう。人は変わるものだし、恋の形だって、一つじゃないはずよ」
ミレイユの言葉は、シンプルでありながら、私の中に響いていった。窓から差し込む午後の光が、彼女の言葉と共に、少しずつ、私の胸の奥まで届いていくようだった。
☆
その日の夕方、私は店の片付けをしながら、自分の胸の内を、改めて見つめ直していた。
ルーカスが来ると、確かに心が落ち着く。
彼が去った後、少しの寂しさを感じることがある。
彼が他の女性と親しげに話しているのを見かけたとき、私は説明のつかない、小さなざわめきを胸の奥に感じた。
それらすべてを、「恋」という一言でまとめてしまってよいのだろうか。
あるいは、これらは単なる友情の延長に過ぎないのだろうか。
自分でも判断がつかないまま、私はぼんやりと、棚に並んだ香水瓶を眺めていた。夕暮れの光が、瓶の一つ一つに、淡い橙色の反射を落としている。
ふと、ある考えが、私の頭をよぎった。
忘却香は、アルベルト様への愛情だけを、正確に切り取って封じたはずだった。けれど、もし、その効果が、私が思っているよりも広範囲に及んでいたとしたら――。
恋愛感情そのものに対する、私の感受性自体が、鈍くなっているのだとしたら。
その可能性に思い至った瞬間、背筋に、冷たいものが走った。
もしそうなら、今、ルーカスに対して抱いているこの感情も、本来ならもっとはっきりと自覚できるはずのものが、ぼやけた形でしか感じられていないのかもしれない。
その可能性に思い至った瞬間、私は、言いようのない不安に襲われた。
私は自分の中の何かを、取り返しのつかない形で失ってしまったのだろうか。
あの夜、迷いなく調合した忘却香。あのとき、私は自分を救うことだけを考えていた。その代償が、これほどまでに広く、深く、自分の中に根を張っているとは、想像もしていなかった。
棚の隅に置かれた、祖母の調香書に、私は視線を向けた。
あの本の中に、この疑問への答えが記されているのだろうか。
私は久しぶりに、その本を手に取ることにした。革表紙の重みが、手のひらに、確かな感触として伝わってくる。
窓の外では、夕暮れの光が、少しずつ紫色に変わりつつあった。港町の家々の輪郭が、次第に薄闇の中へと溶けていく。
私は、ランプに灯りを灯し、調香書のページを、そっとめくり始めた。
答えが見つかるかどうかは分からない。けれど、この不安の正体を、はっきりと知らなければ、私はこれから先も、自分の本当の気持ちに正しく向き合うことができない気がした。




