第八話 香水で消せない夜
エマの依頼から数日が経った。
痛みを消すことと、大切なものを失うことは、隣り合わせなのではないか。
あの少女の言葉は、日常のふとした瞬間に何度も蘇った。
「私は、忘れたから立ち直れたのだから」
それでも私は、自分にそう言い聞かせていた。
その夜、店を閉めた後、ルーカスがふらりと訪れた。
「今日は監督ですか?」
私が少し皮肉めいて尋ねると、ルーカスは珍しく、ばつが悪そうな顔をした。
「いや……近くまで来たついでだ」
その言い訳が、あまりにも取ってつけたようで、私は思わず小さく笑ってしまった。
肩の力が抜けるような、そんな柔らかい笑いだった。ここ数日、胸の内でずっと考え込んでいた重さが、彼のこの不器用な言い訳一つで、少しだけ軽くなった気がした。
「せっかくですから、少し歩きませんか。夜風にでも当たりましょう」
自分でも、なぜそんな提案をしたのか分からなかった。ただ、店の中の静けさに、少し息苦しさを感じていたのかもしれない。あるいは、この人となら、今、胸の中にある曖昧な揺らぎを、少しだけ言葉にできる気がしたのかもしれない。
ルーカスは意外そうな顔をしたが、断ることなく頷いた。
「……分かった」
夜の港町は、昼間とはまるで違う顔を見せていた。
漁を終えた船が、静かに波間に浮かんでいる。石畳の道には、家々の窓から漏れる暖かな灯りが、点々と落ちていた。
潮の匂いが、昼間よりも濃く感じられる。夜の湿った空気が、その匂いをより深く、肌に纏わせるようだった。
私たちは、言葉少なに港沿いの道を歩いた。
波の音だけが、二人の間を埋めていた。石畳を踏む足音が、規則正しく重なり合っている。その音に耳を澄ませているだけで、不思議と心が落ち着いていくのを感じた。
しばらく歩いた後、ルーカスが不意に足を止めた。海に面した石段に腰を下ろし、水平線の方を見つめる。
私も、少し離れた場所に腰を下ろした。冷たい石の感触が、スカートの布地越しに伝わってくる。
「今日は、月が綺麗ですね」
私がそう言うと、ルーカスは短く頷いた。
「ああ」
それきり、また沈黙が続いた。
けれど、その沈黙は、決して気まずいものではなかった。むしろ、言葉を探しているような、そんな静けさだった。月の光が、海面に細く長い銀色の道を作っている。その光の道を、二人でただ、じっと見つめていた。
しばらくして、ルーカスがぽつりと口を開いた。
「今日は、あいつらの命日に近い」
私は、はっとして彼の横顔を見た。
月明かりに照らされたその横顔には、これまで見たことのない、深い翳りが刻まれていた。普段は真っ直ぐに前を見据えている彼の瞳が、今は、遠い過去のどこかを見つめているようだった。
「戦争で亡くなった、部下の方々ですか」
「ああ」
ルーカスは、水平線を見つめたまま続けた。
「この時期になると、決まって同じ夢を見る。あの日の戦場だ。土煙と、怒号と、血の匂い」
その声は穏やかだったが、抑え込まれた重さを孕んでいた。
「目が覚めても、しばらく息が整わない。何年経っても、変わらない」
私は、何も言わずに耳を傾けていた。夜風が、彼の黒髪を静かに揺らしている。
彼のこの痛みは、以前、店で聞いたときと変わらず、深く根を張っている。三年、四年と時が流れても、決して薄れることのない傷跡のように。
「……忘れたら、少しは楽になるのではありませんか」
私が問いかけると、ルーカスは首を振った。
「それは、以前にも話しただろう」
「はい。でも、あれからも、ずっと考えていました」
私は膝の上で手を組んだ。夜の冷気が、指先を少しずつ冷やしていく。
「忘れることは、あなたにとって、部下の方々を裏切ることになる。そう仰っていましたね」
「ああ」
「でも……その理屈が、私には、まだ完全には分かりません。痛みを抱え続けることが、本当に、亡くなった方々への誠実さになるのでしょうか。あなたが苦しみ続けることで、その方々が救われるわけではないのに」
ルーカスは、しばらく無言だった。
波の音だけが、その沈黙を埋めていた。私は自分の言葉が、彼の中の何かに触れてしまったのではないかと、少し不安になった。
やがて、絞り出すように言葉を紡いだ。
「忘れたら……あいつらが、本当にいなくなる気がするんだ」
その一言に、私は言葉を失った。
「あいつらは、もう死んだ。それは動かしようのない事実だ。だが、俺の中で、あいつらのことを覚えている限り――笑い方や、口癖や、戦場での馬鹿げた冗談を思い出せる限り、あいつらは、まだどこかに、確かに存在している気がする」
ルーカスの声が、わずかに揺れた。
「忘れてしまえば、その最後の欠片まで、この世から消えてしまう気がするんだ。俺があいつらを、二度目に殺すことになる。だから、この痛みまで捨てる気はない。痛みごと、俺の記憶だ」
私は、その言葉の重さに、しばらく何も返せなかった。
けれど、彼の抱える論理に、私はどうしても、うまく寄り添うことができなかった。
私自身の経験と、彼のそれは、あまりにも違う形をしていた。私が失ったのは、婚約者との未来だった。彼が失ったのは、共に生死を分けた仲間たちの、この世そのものの存在だった。その重さの差が、私をどうしようもなく戸惑わせていた。
「……亡くなった人は、忘れても、忘れなくても、戻ってきません」
その言葉が、口から出た瞬間、私は自分の声の冷たさに、内心少し驚いた。
けれど、止まらなかった。
「痛みを抱え続けることで、失われた方が生き返るわけではない。それなら、いっそ痛みを手放して、前を向く方が――」
そこまで言いかけて、私は、ルーカスの表情に気づいた。
彼は、怒っているわけではなかった。
ただ、少し寂しそうに、私を見つめていた。月明かりに照らされたその瞳の奥に、深い諦めにも似た色が、静かに揺れていた。
その視線に、私は言葉を失った。
「……すみません。今のは」
「いや」
ルーカスは、緩やかに首を振った。
「お前の言うことは、間違ってはいない。理屈としては、正しいんだろう」
彼は、再び水平線に視線を戻した。
「亡くなった人間は、戻らない。それは、俺も分かっている」
波の音が、しばらく二人の間を満たした。夜の海は、月光を受けて鈍く銀色に輝いている。
「そうだな」
ルーカスは、ぽつりと、そう繰り返した。
「でも、俺には必要なんだ」
その一言には、これまでの言葉の中で、最も揺るぎない確信が込められていた。まるで、長い戦いの末にたどり着いた、彼自身の結論であるかのように。
「理屈じゃない。あいつらを覚えている俺まで、消したくない」
私はその言葉を、じっと胸の中で反芻した。
理屈で正しいことと、その人にとって必要なことは、必ずしも一致しない。
それは、これまで私が考えてもみなかった視点だった。祖母の調香書に記された、幾多の技法を頼りに、私はいつも「正しい調合」だけを追い求めてきた。けれど、その正しさが、必ずしも人を救うわけではないのかもしれない。
依頼人たちの調香をするとき、私はいつも、「どうすれば痛みが和らぐか」を考えていた。けれど、痛みを和らげることが、必ずしもその人を救うとは限らないのかもしれない。
「……ルーカス様」
私は、冷静に彼の名を呼んだ。
「先ほどの言い方、失礼だったかもしれません。申し訳ございません」
「謝る必要はない」
ルーカスは、少し口の端を上げた。夜の暗さの中でも、その表情の変化が、はっきりと分かった。
「お前の考えを、聞かせてもらっただけだ。それに――」
彼は、私の方を向いた。
「お前がそうやって、真正面から自分の考えをぶつけてくるところは、嫌いじゃない」
その言葉に、私は思わず視線を逸らした。
夜の暗さのおかげで、頬が熱くなっているのを、彼に気づかれずに済んだかもしれない。心臓が、少し速く鼓動を刻んでいるのを、私は自分でもはっきりと感じていた。
しばらく、二人で無言のまま、波の音に耳を澄ませていた。
『そうだな。でも俺には必要なんだ』
先ほどのルーカスの言葉が、繰り返し、私の中で響いていた。
その言葉は、単なる彼の告白以上の何かを、私に問いかけているように感じられた。
私にとって、忘却香は必要なものだった。あの夜、それがなければ、私は今も、あの痛みに押しつぶされていたかもしれない。
けれど――。
私は、ふと、自分の手首に視線を落とした。
もう香りは残っていない。けれど、あの夜以来、私の中の何かが、確かに変わってしまったことを、私は薄々感じ始めていた。
アルベルト様のことを思い出しても、心が動かない。それは救いのはずだった。
なのに、この静けさの底に、何か大切なものが、一緒に沈んでしまったのではないかという不安が芽生え始めていた。
「そろそろ、戻りましょうか」
私が立ち上がると、ルーカスも腰を上げた。
「送っていく」
「ありがとうございます」
二人で、来た道を戻る。夜の石畳を踏む足音が、静かに重なり合っていた。
店の前に着くと、ルーカスは少し立ち止まった。
「今日は、付き合わせて悪かったな」
「いいえ。私が誘ったのですから」
私がそう言うと、ルーカスは珍しく穏やかな表情を見せた。月明かりの下、その表情はいつもの無愛想さとは違う、柔らかな色を帯びていた。
「また、来る」
「はい。お待ちしております」
彼が夜の闇の中へ去っていくのを、私はしばらく見送っていた。濃紺の外套の背中が、次第に暗がりに溶けていく。
店の中に戻り、灯りをつける。
棚に並んだ、様々な依頼人のための香水瓶が、穏やかに私を見つめ返してくるようだった。琥珀色、金色、淡い緑色――それぞれの瓶の中に、それぞれの依頼人の痛みと、私の答えが、静かに閉じ込められている。
私はその一つ一つを眺めながら、先ほどのルーカスの言葉を、もう一度、心の中で繰り返した。
『忘れたら、あいつらが本当にいなくなる気がするんだ』
その言葉は、まるで小さな棘のように、私の胸の奥に刺さったまま残っていた。
ランプの灯りを消す前、私はもう一度、自分の手首に鼻を近づけた。
もう何の香りもしない。けれどその「何もない」という感覚こそが、今の私にとって、最も雄弁な問いかけのように思えてならなかった。




