第七話 お母さんを忘れたい
私はエマを、カウンター脇の小さな椅子に座らせた。
温かいお茶を淹れ、その前に置く。湯気がゆらゆらと立ち上り、薄暗い店内に、ほのかな花の香りを漂わせた。エマは小さな両手でカップを包み込み、しばらく湯気を見つめていた。その横顔には、まだあどけなさの残る頬と、けれどどこか大人びた翳りが同居していた。
「急がなくていいわ。ゆっくり話して」
私がそう言うと、エマは小さく頷き、少しずつ言葉を紡ぎ始めた。
「お母さんが死んだのは三年前です。わたしが九歳のとき」
病気だったという。長い間床に伏していた母親を、エマは幼いながらに献身的に看病していたらしい。
「最後の方は、お花屋さんのお仕事もお父さんが一人でやってた。わたしはお母さんの傍にいたくて」
エマの声は淡々としていたが、その奥に幼い子どもが背負うには重すぎる記憶が滲んでいた。小さな両手の甲に、まだ幼さの残る産毛が夕暮れの光を受けて、うっすらと金色に光っていた。九歳の少女が、看病のために覚えた薬の匂いや、大人たちの深刻な囁き声を、どれほど鮮明に記憶しているのだろう。私はその重さを、想像するだけで胸が締めつけられた。
「今はお花屋さんのお仕事、お手伝いしてるの。お母さんが好きだった花、今でもたくさん育ててる」
「そう。素敵なことね」
「でも……」
エマは、カップを持つ手に少し力を込めた。指先が白くなるほどに。
「その花を見るたびに悲しくなるの。お母さんのこと、思い出しちゃって」
私はじっと耳を傾けた。窓の外では、通りを歩く人々の足音や、遠くの波止場から聞こえる漁師たちの声が、いつもと変わらぬ日常を刻んでいた。けれどこの店の中だけは、時間の流れが、少し違うもののように感じられた。
「お母さんが好きだったのは白いすずらん。毎年春になると庭に咲かせてたの。その匂いを嗅ぐとお母さんのこと思い出して……胸が、ぎゅってなる」
エマは自分の胸に、小さな手を当てた。その仕草に、私は思わず自分自身の胸の奥にも、同じように締めつけられる感覚を覚えた。
「学校でも、お友達がお母さんの話をしてるとなんだか苦しくなる。夜、眠る前もお母さんの顔を思い出して、泣いちゃうことがあるの」
私はエマの言葉を聞きながら、彼女の抱える痛みの重さを測っていた。
九歳で母を失い、その後もずっと悲しみを抱えたまま日々を過ごしている。子どもにとって、それはあまりにも大きすぎる負担だろう。友人たちが無邪気に母親の話をするたびに、この子は、どんな顔をして、その場をやり過ごしてきたのだろうか。想像するだけで、私の胸にも、鈍い痛みが走った。
「だから……」
エマは、意を決したように顔を上げた。潤んだ瞳が、ランプの灯りを受けて小さく揺れていた。
「お母さんのこと、忘れられる香水が欲しいの。そうしたら、もう悲しくならないから」
その言葉に、私は一瞬、ためらいを覚えた。
これまでの依頼人は皆、大人だった。自分の意思で痛みと向き合い、選択をしてきた人たちだ。彼らの言葉の裏には、それぞれの人生経験に裏打ちされた確かな重みがあった。
けれどエマはまだ十二歳の子どもだ。この選択の重さを、本当に理解しているのだろうか。幼さゆえに、目先の苦しみから逃れることばかりに気を取られてはいないだろうか。
「エマちゃん」
私は、努めて穏やかな声で言った。膝を軽く折り、できるだけエマと同じ目線に近づく。
「これは、とても大きな決断よ。お母さんとの記憶に触れても心が動かなくなる。それは悲しみだけじゃなく、他の色々な感情も一緒に薄れてしまうかもしれないということなの」
「それでもいいの」
エマは、はっきりと言った。
「悲しいのは、もう嫌なの」
その声には、幼いなりの確かな意志があった。子どもらしい駄々とは違う、もっと切実な響きが、その一言に込められていた。
私はしばらく、エマの目を見つめた。
この子は本気だ。そして、この痛みを一人で抱え続けることの方が、この子にとってより苦しいのかもしれない。花屋の手伝いをしながら、毎日、亡き母の好きだった花に囲まれて過ごす。それがどれほど、この子の心を摩耗させ続けてきたのだろう。
「……分かったわ」
私はゆっくりと頷いた。
「でも、お父様には相談したの?」
「お父さんには内緒にしてほしいの。心配させたくないから」
私は少し迷ったが、それ以上は追及しなかった。
子どもの依頼を親の同意なく受けるべきではないという考えも、頭をよぎった。けれど、目の前でこれほど真剣に願っているエマを、無下に追い返すこともできなかった。父親を思いやるその優しさもまた、この子が母親から受け継いだものの一つなのかもしれないと、私はふと思った。
「分かったわ。作ってみましょう。でも時間が必要よ。子ども向けの穏やかな調合を慎重に考えなければならないから」
「ありがとう、セレナお姉ちゃん」
エマは、ようやく少し安堵したような表情を見せた。その小さな肩から、僅かに力が抜けるのが分かった。
その夜、私は一人、作業台に向かっていた。
ランプの灯りだけが、薄暗い店内を、ぼんやりと照らしている。窓の外では、既に夜の帳が下り、遠くから聞こえる波の音だけが、静寂を満たしていた。
子どもの心に作用する調合は、大人向けのものよりも、はるかに繊細な配慮が必要だった。効果が強すぎれば、感情の発達そのものに影響を及ぼしかねない。祖母の調香書を何度も読み返し、慎重に薬草の分量を調整していく。
乳鉢の中で薬草をすり潰す手を、私は何度も止めた。この調合が、本当にエマにとって正しい選択なのだろうか。その迷いが、幾度となく胸をよぎった。
数日をかけて、私はようやく穏やかな忘却香を完成させた。
効果は限定的で、母親との「悲しい記憶」に触れたときの痛みだけを、ごく僅かに和らげる程度のものだ。それでも、エマにとってはじゅうぶんな助けになるはずだった。
完成した瓶を、ランプの光にかざしてみる。淡い金色の液体が静かに揺れていた。
さらに数日後の夕方、エマは再び店を訪れた。
小さな瓶を手に、私はエマの前に立った。夕暮れの光が窓から差し込み、店内をゆっくりと橙色に染め始めていた。
「これが、完成した香水よ」
私はそう言いながら、瓶をエマに差し出そうとした。
その瞬間、エマの目に、迷いの色が浮かんだ。
「あの……セレナお姉ちゃん」
「どうしたの?」
「渡す前に、少しだけお母さんの話をしてもいい?」
私は瓶を持つ手を止め、頷いた。
「もちろんよ」
私はカウンターに瓶を置き、改めてエマの前に腰を落ち着けた。
エマは、ゆっくりと語り始めた。
「お母さんね、お菓子作りが得意だったの。特にりんごのタルトが上手で。わたしが学校から帰るといつも焼きたてのタルトが待ってた」
その声には、悲しみと同時に確かな温かさが滲んでいた。語るうちに、エマの表情が、少しずつ和らいでいくのが見て取れた。
「お休みの日は二人で野原に花を摘みに行ったの。すずらんとか、野いちごとか。お母さん、花の名前をたくさん教えてくれて。わたしがお花屋さんの娘になったのもお母さんのおかげ」
エマは、少しずつ言葉に感情を乗せていった。
「夜、眠るときはいつも子守唄を歌ってくれた。同じ歌、いつも歌ってくれて。今でもその歌、覚えてる」
小さな声で、エマは鼻歌のように、その旋律を口ずさんだ。
拙いけれど、確かな愛情の込められた旋律だった。窓の外の波の音と、その小さな歌声が重なり合っていく。
私は、その歌を聞きながら、胸の奥が静かに震えるのを感じた。
これまで多くの依頼人の痛みに触れてきた。けれどこれほどまでに、記憶そのものが温かさに満ちている依頼を、私は初めて目にしていた。エマの語る母親の姿は、悲しみの向こうに、確かな愛情の輪郭を、くっきりと浮かび上がらせていた。
エマの目に、涙が浮かび始めた。
「お母さんのこと、思い出すと悲しいの。今でも、すごく悲しい」
涙が、頬を伝って落ちた。透き通ったその滴が、夕暮れの光を受けて、一瞬、小さな橙色の光を宿した。
「でも……」
エマは、瓶を持つ私の手を、両手でそっと包み込んだ。その手の温かさに、私は思わずどきりとした。
「やっぱり、忘れたくない」
その一言が、店の静けさの中に、はっきりと響いた。
「悲しいけど……お母さんのことまでなくなるのは、いや」
エマは、涙をこぼしながら、私を見上げた。
「お菓子作ってくれたことも、花摘みに行ったことも、子守唄も……全部、悲しいのと一緒に大事な思い出だから」
その言葉に、私は言葉を失った。
瓶を持つ手が、わずかに震えた。
これまで私は、「苦しいなら消せばいい」という考えを、迷いなく信じてきた。それが自分自身を救った方法だったから。
けれど今、目の前で幼い少女が、自らその考えを覆している。この小さな体のどこに、これほどまでの強さが宿っているのだろう。私は自分よりもずっと幼いこの少女に、まるで諭されているような、そんな不思議な感覚を覚えていた。
痛みを消すことと、大切なものを失うこと。
その二つは、隣り合わせなのではないか。
その考えが、初めてはっきりとした輪郭を持って、私の中に浮かび上がった。
「……そうね」
私は、瓶をそっとカウンターに置いた。
「エマちゃんの気持ち、よく分かったわ。この香水は渡さないことにしましょう」
エマは、涙を拭いながら、小さく頷いた。
「ごめんなさい、色々作ってもらったのに」
「謝らないで。あなたの気持ちが変わったこと、私は嬉しく思っているの」
私はそう言いながら、エマの頭にそっと手を置いた。柔らかな髪の感触が、指先に伝わってくる。
「悲しみは確かに辛いものよ。でも、それがあなたのお母様との大切な繋がりの証でもあるのね」
エマは涙の滲んだ目で、小さく笑った。
「うん……お母さんのこと、これからも、たくさん思い出す。悲しくても」
その言葉に、私はゆっくりと頷いた。
窓の外では、夕暮れの光が港町の家々を橙色に染めていた。漁を終えた船が港へ戻っていく音が、遠くから響いてくる。
私は、棚に置かれた未使用の瓶を見つめながら、これまでの自分の考えに確かな揺らぎが生まれていることを感じていた。
苦しいほどの記憶の中にも、失いたくないものが含まれている。
それは私自身にも、当てはまることなのだろうか。
アルベルト様との五年間。あの記憶の中にも、本当は失いたくなかった何かが、あったのだろうか。
その問いが、私の胸の奥に根を下ろし始めていた。
エマが帰った後も、私はしばらくカウンターの前に立ち尽くしていた。夕暮れの残光が、少しずつ薄れていく。橙色から紫色へと変わりゆく空の色を眺めながら、私はこの日の出来事を胸に刻み込んでいた。




