第六話 忘れたいもの、残したいもの
ルーカスとのやり取りから数日が経った。
あの日以来、私の中には小さな棘のようなものが残っていた。けれど日々の忙しさが、それをじっくりと見つめる時間を与えてくれなかった。
棘は棘のまま、胸の奥にひっそりと沈んでいる。時折、店の片付けの手を止めた瞬間などに、ふとその存在を思い出す。痛みを消すことと、大切な誰かを胸の中に留めておくことは、同じ意味じゃない。ルーカスのあの言葉が、忘れた頃にまた鮮明に蘇ってくるのだった。
口コミというのは、思っていたよりも早く広がるものらしい。
ミレイユが誰かに話したのか、あるいは単に「王都から来た令嬢の店」という物珍しさが手伝ったのか、少しずつ店の扉を叩く客が増え始めていた。
開店から数週間、閑古鳥の鳴いていた店に、朝の光とともに人の気配が生まれるようになったことに、私は密かな喜びを感じていた。誰かの役に立てているという実感が、王都で過ごした二十八年間には得られなかった種類の充足感を、私の胸にそっと満たしていく。
その日、最初に訪れたのは、隣町から来たという若い青年だった。
「好きだった人が、他の男のところに嫁いでしまって……もう吹っ切りたいんです」
「その人のことを、すべて忘れたいのですか?」
「……いいえ。ただ、まだ好きだと思ってしまうのが、つらいんです」
青年は俯きがちに、そう語った。粗末な外套の袖口が擦り切れていて、遠い道のりを歩いてきたことが分かった。震える指先が、握りしめた帽子の縁を幾度も撫でていた。
私は彼の話を丁寧に聞き、記憶の輪郭を確かめながら香りを調合した。柑橘系の爽やかな香りをベースに、彼の心を軽くするための薬草を組み合わせる。乳鉢の中で薬草がすり潰されるたび、青年の目は、縋るような光を宿して、私の手元を追っていた。
完成した香水を渡すと、青年は少し安堵したような顔で帰っていった。扉を出る背中が、来たときよりも、幾らかまっすぐに伸びているように見えた。
その後ろ姿を見送りながら、私は自分の仕事の意味を、改めて噛みしめていた。
次に訪れたのは、姉と喧嘩別れをしたという中年の女性だった。
「もう十年も口をきいていないんです。顔を合わせるたび、あの日の言い争いを思い出してしまって」
「お姉様との思い出を、すべて忘れたいのですか?」
「……いいえ」
女性は少し迷ってから、首を振った。
「子どもの頃は、仲が良かったんです。ただ、あの日のことだけが、どうしても許せなくて」
「でしたら、その日の痛みだけを和らげる香りにしましょう」
女性は、話しながら何度も自分の指輪をいじっていた。長年連れ添った結婚指輪だろうか、その仕草には、家族というものへの複雑な思いが滲んでいるようだった。
この依頼人には、姉との思い出そのものではなく「あの日の言い争い」という一点に絞った、より繊細な調合が必要だった。姉妹としての温かな記憶までも消してしまえば、彼女はきっと後悔する。私はそう直感し、慎重に薬草の配分を見極めていった。
私は依頼人ごとに、香りの構成を少しずつ変える方法を、自然と身につけていった。
誰一人として、同じ痛みを抱えている人はいない。同じ「忘れたい」という言葉の中にも、それぞれ違う色合いの感情が潜んでいる。ある人の痛みは鋭く尖った棘のようで、ある人の痛みは、じわじわと体を蝕む霧のようだった。
その違いを丁寧に汲み取ることが、この仕事の核心なのだと、私は少しずつ理解し始めていた。
祖母の調香書には載っていない、この店で初めて学んだ技術だった。教科書通りの調合ではなく、目の前の人間そのものに耳を傾けること。それこそが、調香師としての本当の仕事なのかもしれないと、私は思うようになっていた。
そんな日々の中、ルーカスは相変わらず、頻繁に店へ顔を出していた。
「店の監督だ」
彼は毎回、そう言い訳のように口にする。
「怪しい依頼がないか確認しているだけだ」
最初のうち、私はその言葉を真に受けて、少し身構えていた。彼が来るたびに、緊張した面持ちで作業台の陰に隠すように調合の手元を守っていたことを思い出すと、今では少し可笑しくなる。
けれど、日を追うごとに、彼の目的が単なる監督ではないことに気づき始めた。
ルーカスは、私が依頼人と話す様子を、カウンターの隅で黙って眺めていることが多かった。何か口を挟むわけでもなく、ただじっと。
その視線は、決して威圧的なものではなかった。むしろ、静かに見守るような、そんな穏やかさを帯びていた。窓から差し込む午後の光が、彼の黒髪の輪郭を、柔らかく縁取っていることに、私はふと気づくことがあった。
「今日の客は、何を望んでいた」
依頼人が帰った後、彼はそう尋ねてくることがあった。
「隣町の男性でした。婚約が破談になった友人を励ましたくて、その友人のために香水を頼みたいと」
「自分のためじゃなく、他人のために依頼する客もいるのか」
「はい。時々ですが」
ルーカスは、そういった話を聞くたびに、何かを考え込むような表情を見せた。彼の深緑色の瞳の奥に、遠い記憶を辿るような影が差すのを、私は幾度か見た気がした。
最初、私はこの男を面倒に感じていた。無愛想で、言葉も少なく、店に来るたびに何かしら痛いところを突いてくる。
けれど、不思議と、彼が来ないと、少し物足りなさを覚えるようになっていた。
昼過ぎ、いつもの時間になっても濃紺の外套が扉の向こうに見えないと、私は無意識のうちに、通りの方へ視線を向けている自分に気づく。それに気づくたび、私は小さく戸惑い、そして、その戸惑い自体を持て余していた。
なぜだろう、と自問しても、はっきりとした答えは見つからなかった。
あの夜、彼が語った「あいつらを忘れたくない」という言葉が、まだ私の中で、消化しきれないまま残っている。それなのに、なぜ、私は彼が店に来ることを、こんなにも心待ちにしているのだろう。
自分の中に芽生えたその矛盾を、私はまだ、うまく言葉にすることができずにいた。
☆
ある日の午後、店の前を通りかかった漁師の男が、ルーカスに向かって親しげに声をかけているのを見かけた。
「ルーカス様、先日は網の件、ありがとうございました! おかげで漁場のいざこざが収まりましたよ」
「たいしたことはしていない。話を聞いて、双方に伝えただけだ」
「いやいや、あなたが間に入ってくれなかったら、どうなっていたことか」
漁師は深々と頭を下げ、笑顔で去っていった。潮に焼けた顔に、心からの感謝の色が浮かんでいた。
私はその様子を、店の窓越しに眺めていた。
最初にルーカスと会ったとき、彼は無愛想で、どこか威圧的な印象すら受けた。夜の闇の中に立つ濃紺の外套。鋭い眼差し。あのときの緊張感を、私は今でもはっきりと覚えている。
けれど、こうして町の人々と接する彼の姿には、確かな信頼が滲んでいる。子どもたちが彼の姿を見つけると、駆け寄って声をかける様子も、何度か目にしたことがあった。年配の女性が、道端で彼を呼び止め、世間話をしている光景も。
「町の人たちに、慕われているのですね」
彼が店に入ってきたとき、私はそう声をかけた。
「たいした話じゃない。漁場の境界線で揉め事があっただけだ」
「でも、皆さん、あなたを頼りにしていらっしゃいます」
ルーカスは少し気まずそうに視線を逸らした。彼の耳の先が、僅かに赤らんでいるように見えたのは、夕暮れの光のせいだけではないだろう。
「治安を預かる立場だ。当然のことをしているだけだ」
その素っ気ない言い方の裏に、彼なりの誠実さが透けて見える気がした。
照れ隠しのように腕を組み、視線を店の棚に逸らす仕草。そんな些細な仕草の一つ一つに、私は少しずつ、この男の本当の姿を、垣間見るようになっていた。
最初の印象と、今、目の前にいる彼との間には、確かな隔たりがあった。
その隔たりを埋めていく過程が、私にとって、少しずつ心地よいものになっていることに、私はまだ気づいていなかった。
あるいは、気づいていながら、それを認めることを、まだ恐れていたのかもしれない。
☆
その日の夕方、店の片付けをしていると、扉が控えめに開いた。
いつもなら、ミレイユが賑やかに飛び込んでくるか、あるいは新しい依頼人が緊張した面持ちで足を踏み入れるかのどちらかだった。けれど今日の扉の開き方は、それらとは違う、どこか遠慮がちな音を立てていた。
顔を上げると、そこに立っていたのは、エマだった。
いつもは元気よく花を届けに来る彼女だが、今日はどこか様子が違った。俯きがちに、手には何も持っていない。いつも花を包んでいる包装紙も、リボンも、今日はどこにもない。その手ぶらな様子だけで、私は、何か普段とは違うことが起きているのを、直感していた。
「エマちゃん、どうしたの?」
私が声をかけると、エマはゆっくりと顔を上げた。
その目には、うっすらと涙の膜が張っていた。薄暗い店内の灯りに、その涙の膜が、小さく光って見えた。
「あの……」
小さな声で、エマは切り出した。唇が、何かをためらうように、小さく震えている。
「セレナお姉ちゃんは、記憶を消す香水、作れるんですよね」
「ええ、作れるわ」
私は、努めて穏やかな声で答えた。エマの表情に浮かぶ緊張を、少しでも和らげたいという思いからだった。
「じゃあ……」
エマは、両手をぎゅっと握りしめた。小さな拳が、白くなるほどに。
そして、震える声で、こう言った。
「お母さんを忘れられる香水を、作ってください」
その言葉に、店の中の空気が、一瞬にして張り詰めたものになった。
棚に並んだ香水瓶たちが、まるで息を潜めているかのように、静まり返っていた。窓の外を通り過ぎる人の足音さえ、やけに遠く感じられた。
私はエマの前にしゃがみ込み、その小さな顔を見つめた。
これまで受けてきたどの依頼とも違う、何か特別な重さを、私はその言葉の中に感じ取っていた。
大人の依頼人たちは、それぞれの人生の重みの中で、自分なりの答えを持って、この店を訪れる。けれど、目の前にいるのは、まだ十二歳の子どもだった。その小さな体に、この子は一体、どれほどの悲しみを抱え込んできたのだろう。
「……エマちゃんのお母様のこと、聞かせてもらえる?」
私が尋ねると、エマは小さく頷いた。
夕暮れの光が店の窓から差し込み、二人の影を長く伸ばしていた。
橙色の光の中で、エマの瞳から一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。




