第五話 忘れたくない男
翌日の昼前、王都から一通の手紙が届いた。
封筒に書かれた丸みのある文字を見た瞬間、私は思わず目を瞬いた。
「……マリー」
懐かしい名前を口にしながら、封を切る。
中には、便箋が三枚も入っていた。
『お嬢様、お元気ですか。
わたくしは元気です。ですが、お嬢様がいなくなったお屋敷は、予想していた通り大変退屈です。あのとき「退屈で死んでしまいます」と申し上げましたが、今のところ、どうにか生きております』
思わず、吹き出してしまった。
あの別れの日と、何も変わらない。
手紙はさらに続いていた。
『ところで最近、王都でもお嬢様のお店の噂を耳にするようになりました。
「忘れたい記憶を消してくれる、辺境の不思議な香水店」だとか、「失恋した人を救う魔女の店」だとか、皆さま好き勝手に仰っています。
先日は、どなたかが「忘却香水の魔女」と呼んでおりましたので、わたくしは「それなら、ずいぶん格好いい名前ですね」と申し上げておきました』
「もう……」
呆れながらも、口元の笑みを抑えられなかった。
いかにもマリーらしい。
けれど、最後の数行を読んだところで、私の指が止まった。
『お嬢様。
王都では色々なことがありましたけれど、わたくしは、お嬢様にお仕えできて楽しかったです。
ですから、新しい町でお嬢様が楽しそうに暮らしていらっしゃるのなら、それが何よりです。
ただ、ときどきで構いませんので、王都のことも思い出してくださいませ。
わたくしたちは、ちゃんとここにおりますから』
私はしばらく、その一文を見つめていた。
王都。
アルベルト様との五年間。
侯爵夫人になるために費やした時間。
自分の意思を押し殺して生きていた日々。
リュミエールへ来てから、私はそれらすべてを、捨ててきた過去のように考えていたのかもしれない。
けれど。
そこには、マリーもいた。
私が笑えば一緒に笑い、落ち込めば黙って温かいお茶を用意してくれた人がいた。
王都で過ごした二十八年間のすべてが、苦しい記憶だったわけではない。
「……そうね」
私は小さく呟いた。
「忘れなくても、いいこともあるのね」
便箋を丁寧に折り直し、祖母の調香書をしまっている引き出しとは別の、小さな箱へそっと収めた。
今度は、私から手紙を書こう。
そう思うと、不思議と胸の奥が温かくなった。
☆
その日の昼過ぎ、店の扉が控えめに開いた。
顔を上げると、そこに立っていたのは、昨夜と同じ濃紺の外套を纏ったルーカスだった。ただし今日は、昼の光の中で見るせいか、昨夜よりも幾分か表情が和らいで見えた。差し込む陽光が彼の黒髪に僅かな艶を与えていた。
「……いらっしゃいませ」
私は少し身構えながら、声をかけた。
「様子を見に来ただけだ、と仰っていましたが」
「ああ。だが、少し話がある」
ルーカスは店の中に足を踏み入れると、棚に並んだ空の香水瓶を、物珍しそうに眺め回した。その視線は、昨夜の警戒とは、僅かに異なる色を帯びているように見えた。
「本当に、この程度の道具で、記憶に作用する魔法が組めるのか」
「道具の大きさと、魔法の効力は関係ありません。大切なのは、材料の組み合わせと、術者の集中力です」
「ふん」
ルーカスは短く鼻を鳴らしたが、それ以上、疑いの言葉は重ねなかった。
カウンターの前に立ち、しばらく黙り込んでいる。何かを言いかけては、また飲み込む。そんな仕草を、私は静かに見守っていた。彼の指先が、無意識に、外套の裾を、幾度も撫でていた。
やがて、ルーカスは低い声で切り出した。
「一つ、聞きたいことがある」
「何でしょう」
「戦場で失った人間の記憶――それも、消せるのか」
その問いに、店内の空気が、わずかに張り詰めた気がした。窓の外を通り過ぎる人の足音さえ、やけに遠く感じられた。
私はルーカスの表情を窺った。険しい顔つきの奥に、隠しきれない痛みのようなものが滲んでいる。
「……あなた自身の記憶ですか?」
「そうだ」
ルーカスは短く答えた。
「数年前、戦争があった。俺は騎士団を率いて前線に出た。多くの部下を失った」
その声は淡々としていたが、言葉の端々に、抑え込まれた重さが感じられた。
「あいつらの死に顔を、未だに夢に見る。目を閉じるたびに、あの日の戦場の音が蘇る。……それを、消せるのかと聞いている」
私はゆっくりと頷いた。
「できます」
迷いなく、そう答えた。
これまで何人もの依頼人の痛みを和らげてきた。ルーカスの抱える苦しみも、同じように扱えるはずだった。
「必要な材料はいくつかありますが、時間をいただければ、お作りできます」
ルーカスは、しばらく無言で私を見つめていた。
その目の奥に、迷いのようなものが揺れているのが分かった。深緑色の瞳が、ランプの灯りを受けて、かすかに揺らいでいた。
「……頼む」
ようやく、彼はそう言った。その一言には、これまでの抑え込んできた苦悩の全てが、凝縮されているように感じられた。
私は頷き、奥の作業台へと向かった。
祖母の調香書を開き、必要な薬草を確認する。戦場の記憶――特定の場面に結びついた恐怖と喪失感を封じるには、通常よりも強い効力の材料が必要になる。
乳鉢を取り出し、薬草を刻み始めた。ページの端に記された祖母の几帳面な字を、私は何度も確かめながら、慎重に手を動かしていった。
ルーカスは、カウンターの向こうで、じっとその様子を見つめていた。
しばらく、乳鉢を擦る音だけが、店の中に響いていた。窓の外の潮騒が、その静けさに、僅かな彩りを添えていた。
私が二つ目の薬草を加えようとしたそのとき。
「……待ってくれ」
ルーカスの声が、静けさを破った。
私は手を止め、顔を上げた。
ルーカスは、自分の手のひらを見つめていた。まるで、そこに何かが刻まれているかのように。その視線には、深い葛藤が滲んでいた。
「やはり、いい」
「え……」
「今の依頼は、取り下げる」
私は思わず、乳鉢を持ったまま、ルーカスの顔を見つめた。
「……どうしてです?」
私の問いに、ルーカスはしばらく沈黙していた。彼の視線が、一度、床に落ちた。
やがて、絞り出すように言葉を紡いだ。
「あいつらのことを、忘れたくない」
その一言に、私は理解が追いつかなかった。
「ですが、先ほどは、忘れたいと」
「忘れたい。だが、忘れたくない」
ルーカスは、自分でも矛盾していると分かっているような、苦しげな表情を浮かべた。眉間に、深い皺が刻まれていた。
「夢に見るたび、目が覚めた後もしばらく動けなくなる。息が詰まって、汗が止まらない。そういう夜が、何度もある。楽になりたいと、確かに思う」
彼はそこで、一度言葉を切った。窓の外の夕暮れの気配が、少しずつ、店の中に忍び込んでいた。
「だが、もしあいつらの記憶が、俺の中から本当の意味で軽くなってしまったら――俺は、あいつらのことを、本当に忘れてしまう気がする」
その言葉には、深い矛盾と、同時に確かな実感が込められていた。
「あいつらは、俺のために死んだわけじゃない。国のため、仲間のため、それぞれの理由で戦って、死んでいった。俺がその記憶を軽くして楽になるのは……あいつらに対して、都合が良すぎる気がするんだ」
私は乳鉢を置き、彼の言葉に耳を傾けた。作業台に置いた指先が、僅かに冷たくなっていくのを感じた。
「それに」
ルーカスは続けた。
「痛みごと覚えていることが、俺があいつらのことを、忘れていない証だと思っている。苦しくても、それが唯一、俺にできる弔いなんだ」
私はしばらく、何も言えなかった。
これまで、私が接してきた依頼人たちは、誰もが痛みからの解放を求めていた。それが当然のことだと、私は疑いもしなかった。ミレイユの躊躇いを目にしたばかりだったにも関わらず、私はまだ、その考えの根本を、揺るがそうとはしていなかった。
けれど、目の前のこの男は、痛みを抱えたまま生きることを、自ら選ぼうとしている。
「……理解できません」
思わず、そう漏れた。
「苦しいなら、消してしまえばいいのに。それなのに、なぜわざわざ、苦しみ続けることを選ぶのですか?」
ルーカスは、私をまっすぐに見た。その眼差しには、これまで見たことのない、確かな強さが宿っていた。
「お前には、分からないだろうな」
その言葉には、非難の色はなかった。
「痛みを消すことと、大切な誰かを胸の中に留めておくことは、同じ意味じゃない。お前は、消えることで何かを救った気になっているかもしれないが……消えたものは、二度と戻らない」
その一言が、私の胸の奥に鋭く突き刺さった。心臓が一瞬、締めつけられるように痛んだ。
消えたものは、二度と戻らない。
私自身、アルベルト様への愛情を消したはずだった。あれは救いだったはずだ。今も、そう信じている。あの夜の静けさが、確かに自分を守ってくれたのだと、私は繰り返し自分自身に言い聞かせてきた。
けれど、ルーカスの言葉は、その確信に初めて小さな疑問符を投げかけた。
「俺は、あんたのやり方を否定はしない」
ルーカスは、外套を翻しながら言った。
「救われる人間がいることも、分かっている。だが、俺には合わない。それだけのことだ」
彼はそれだけ言うと、店の扉に向かって歩き出した。
「……ルーカス様」
私は思わず呼び止めた。声に、自分でも予想していなかった切実さが滲んでいた。
ルーカスが振り返る。
「先ほどの言葉、少し考えてみます」
私がそう言うと、ルーカスは意外そうな顔をした。それから、わずかに口の端を上げた。夕暮れの光が、その表情に、柔らかな陰影を落としていた。
「そうしろ」
彼はそれだけ言うと、今度こそ店を後にした。
扉が閉まる音が、静かな店内に響く。その残響が、しばらく、耳の奥に留まっていた。
私は一人、カウンターに残された乳鉢を見つめた。刻みかけの薬草が、そのまま、ひっそりと横たわっていた。
途中で止まった調合は、そのまま棚の隅に置くことにした。ルーカスのための忘却香は、この日、完成することはなかった。
窓の外では、夕暮れの光が、港の水面を橙色に染めていた。漁を終えた船の帆が、風に揺れながら、その光の中を、ゆっくりと横切っていく。
私はその光を眺めながら、先ほどのやり取りを、何度も反芻していた。
『痛みを消すことと、大切な誰かを胸の中に留めておくことは、同じ意味じゃない』
これまで、迷いなく信じてきた自分のやり方に、初めて小さな亀裂が入った気がした。その亀裂は、目には見えないほど細いものだったが、確かに、私の中の何かを揺さぶっていた。
その亀裂が何を意味するのか、私はまだ、答えを持っていなかった。
ただ、店の隅にしまわれた金色の香水瓶――ミレイユのために作りかけたそれと、今また新たに増えた、完成しなかった調合の痕跡を眺めながら、私はこれまでとは違う何かが、自分の中で動き始めているのを感じていた。窓の外の夕暮れが少しずつ、深い藍色へとその色を変えていった。




