第四話 最初のお客様
ミレイユは、震える声のままカウンターの椅子に腰を下ろした。
私は温めていたお茶を一杯注ぎ、その手に握らせた。湯気が、彼女の強張った頬を柔らかく包んでいく。
「まず、落ち着いてください」
「……ごめんなさい、急に。でも、今日を逃したら、たぶんもう言えない気がして」
ミレイユはカップを両手で包み込むように持ち、しばらく湯気を見つめていた。指先の震えが、僅かにカップの水面を揺らしていた。
やがて、ぽつりぽつりと語り始めた。
「わたし、昔、結婚を約束していた人がいたの」
三年前のことだという。相手は隣町の商家の息子で、幼馴染だった。婚約の約束を交わし、式の日取りまで話していたのに、ある日突然、何の前触れもなく姿を消した。
「風の噂で、王都で別の女の人と暮らしてるって聞いたわ。手紙一つ、寄越しもしないで」
ミレイユは、それでも気丈に笑って見せた。その笑顔の奥に、これまで隠し続けてきた痛みが、かすかに滲んでいるのを私は見逃さなかった。
「町では、明るく振る舞ってるつもりなの。もう終わったことだし、いつまでも引きずるのはみっともないでしょ。でも――」
言葉が、そこで詰まった。カップを持つ手が、僅かに力を込め直された。
「ふとした瞬間に、思い出すの。彼と歩いた道とか、一緒に見た夕日とか。そのたびに、ちくりと胸が痛むのよ。もう三年も経つのに」
私は黙って耳を傾けていた。窓の外では、夜の潮風が静かに港町を包み込んでいた。
この痛みなら、私にも覚えがある。いや、正確には――今はもう、ないはずのものだった。あの深夜の温室での一夜が、まるで遠い昔の出来事のように脳裏をよぎった。
「全部忘れられたら、楽になれると思うの」
ミレイユは顔を上げ、まっすぐに私を見た。潤んだ瞳が、ランプの灯りを受けて、僅かに揺れていた。
「セレナ、あなたが作れるんでしょう。忘れるための香水」
その視線には、藁にもすがるような切実さがあった。
「……分かりました」
私は迷わず頷いた。
苦しんでいる人がいて、それを和らげる方法を、私は知っている。ならば、それを提供することに、何のためらいもいらないはずだった。あの夜、自分自身を救ったこの技法が、今度は目の前の友人を救う番なのだと、私は確かにそう信じていた。
☆
それから私は、店の奥の作業台で調香を始めた。
彼女から聞いた話を頼りに、記憶の輪郭を探る。幼馴染との思い出、隣町の風景、二人で見た夕日の色。それらに結びついた「痛み」だけを、慎重に切り離していく作業だった。
カウンターの向こうで、ミレイユはその様子を静かに見つめていた。その眼差しには、期待と、かすかな不安とが、入り混じっているように見えた。
乳鉢の中で薬草が擦り合わされる音、蒸留器から立ち上る湯気、瓶の中で少しずつ色を変えていく液体。作業台に置かれたランプの灯りが、その一つ一つの工程を穏やかに照らし出していた。
「本当に、これで痛みだけが消えるの?」
「はい。彼のことも、一緒に過ごした時間も、記憶としては残ります。ただ、それを思い出したときの苦しさが、和らぐはずです」
「……不思議ね。魔法って言われても、正直あんまりピンとこないんだけど」
ミレイユは苦笑いを浮かべた。カップに口をつけ、僅かに肩の力を抜いたようだった。
私は調合の手を止めずに続けた。
「私自身、少し前に使いました。おかげで、今はとても穏やかです」
「あなたが? ……そういえば、王都で何かあったって噂、聞いたことあるけど」
私は曖昧に微笑んだ。それ以上、詳しくは話さなかった。乳鉢を混ぜる手の動きだけが、静かな店内に規則正しい音を刻んでいた。
やがて、香水の色合いが整い、瓶に薄い金色の液体が満たされた。夕暮れの残光のような、柔らかな輝きだった。
完成まで、あと少し。
その最後の工程に取りかかろうとしたとき、ミレイユが不意に口を開いた。
「ねえ、セレナ」
「はい?」
「これを使ったら……わたし、あのときの自分のことも、忘れちゃうのかしら」
私は手を止めた。乳鉢を持つ指先が、宙で静止した。
「あのとき?」
「彼のことを、本気で好きだったときのこと。毎日会えるのが嬉しくて、将来のことを二人で語り合って……そういう、幸せだった頃の自分のこと」
ミレイユは自分の胸に手を当てた。その仕草に、押し隠していた本音が、ようやく表に滲み出てきたように見えた。
「痛いのは嫌よ。でも、あの頃のわたしまで、いなかったことになるのは――ちょっと、怖いな」
その言葉に、私は何も答えられなかった。
記憶に結びついた感情を封じる。それは、痛みだけを取り除く技法のはずだった。けれど、痛みと幸福は、本当に切り離せるものなのだろうか。その問いが、初めてはっきりとした輪郭を持って私の中に浮かび上がった。
私自身は、どうだったのだろう。
アルベルト様への愛情を封じたとき、私は同時に、彼を好きだった頃の高揚も、初めて二人で出かけた日の喜びも、感じられなくなっていたのではないか。あの夜以来、感じたことのなかったその空白の正体が今、少しずつ形を持ち始めていた。
そこまで考えて、私は小さく首を振った。
今、目の前にいるミレイユに、答えを出さなければならない。
「……ミレイユさんが、それを望まないなら」
「うん」
「無理にお渡しすることはありません。今夜のところは、保留にしましょう」
ミレイユは、ほっとしたような、それでいて少し情けなさそうな顔をした。強張っていた肩が、ようやく緩んでいく様子が見て取れた。
「ごめんね、散々作ってもらったのに」
「いいえ。お客様の望まないものをお渡しするわけにはいきませんから」
私はそう答えながら、自分の中に生まれた小さな戸惑いを、うまく処理できずにいた。
苦しいなら、消せばいい。
それが、私自身を救った方法だったはずだ。なのに、ミレイユの躊躇いを前にして、私はその考えに、初めて小さな亀裂が入るのを感じていた。
「苦しいなら、消せばいいのに」
私は思わず、そう呟いてしまった。
独り言のつもりだったが、ミレイユには聞こえていたらしい。彼女は少し困ったような笑みを浮かべた。
「セレナは、そう思うのね」
「……はい」
「でも、わたしにとっては、痛みも思い出も、全部ひっくるめて、あの頃のわたしなの。うまく言えないけど」
私は、何も言えなかった。
ミレイユも私と同じだった。
結婚を約束した相手に、別の女性を選ばれた。信じていた未来を失って、その人との思い出に、今も胸を痛めている。
それなのに。私は、その痛みを消した。
ミレイユは、消さないことを選ぼうとしている。
「……私なら」
気づけば、言葉が零れていた。
「私なら、迷わず消します」
ミレイユは少しだけ目を見開いた。
「そうなの?」
「苦しいものを、わざわざ残しておく理由が、私には分かりません」
言い切ったはずなのに、なぜか胸の奥が僅かにざわついた。
ミレイユはしばらく私を見つめ、それから穏やかな声で尋ねた。
「セレナは、忘れて幸せになった?」
「え……」
思いがけない問いだった。
幸せ。
私は、その言葉を頭の中で繰り返した。
アルベルト様を思い出しても、もう胸は痛まない。眠れない夜もない。あの人が誰を愛しているのかを考えて、息が苦しくなることもない。
確かに、楽にはなった。
「……楽には、なりました」
ようやく出てきたのは、その言葉だった。
「そっか」
ミレイユは、それ以上何も言わなかった。
けれど私は、自分が「幸せです」と答えられなかったことだけが、いつまでも胸の奥に残った。
☆
ミレイユが帰った後、私は一人で店の片付けをしていた。ランプの灯りだけが、静まり返った店内をぼんやりと照らしている。
完成した金色の香水を、ラベルも貼らないまま棚の奥にそっとしまう。いつか、ミレイユの気持ちが変わったときのために。その瓶を見つめながら、私は今夜交わした対話の重みを、改めて胸に刻んでいた。
扉に鍵をかけようとしたとき、ふと、外の暗がりに人の気配を感じた。
私は顔を上げた。
店の窓の外、通りの向こうに、一人の男が立っていた。
夜の闇に紛れるような、濃紺の外套を纏っている。長身で、姿勢がまっすぐだった。まるで、長年の訓練で染みついたような、隙のない立ち方をしている。夜風に、外套の裾が僅かに揺れていた。
男は、こちらを見ていた。
いや、正確には――先ほどまでミレイユと話していた、店の中を。
私は少し身構えた。
「どちら様でしょうか?」
声をかけると、男はしばらく無言だったが、やがてゆっくりと店の前まで歩み寄ってきた。石畳を踏む足音が、規則正しく、静かな夜に響いていた。
ランプの灯りの下に、その顔が浮かび上がる。
黒髪と、深緑色の瞳。整った顔立ちだが、表情には険しさが刻まれていた。
三十代前半だろうか。纏う雰囲気には、どこか荒々しさと、それを抑え込むような静けさが同居していた。
「今の話、聞かせてもらった」
男は前置きもなく、そう言った。
低く、抑揚の少ない声だった。
「忘れることで人を救う、と考えているそうだな」
私は少し驚いた。まさか、店の外で話を聞かれているとは思わなかった。
「……盗み聞きは、感心しませんね」
「悪かった。通りかかっただけだったが、聞こえてしまったんだ」
男は悪びれる様子もなく言った。その物言いには、不思議な率直さがあった。
「俺はルーカス・エーデルシュタイン。この町の治安を預かっている」
その名を聞いて、私はようやく合点がいった。
この数日、町の人々から何度か耳にした名前だった。辺境領主の弟であり、元王国騎士団長だという、無愛想で皮肉屋だが、住民からの信頼が厚い人物。
「セレナ・ヴァリエと申します。この店の主です」
「知っている。王都から来た、伯爵令嬢だろう。もう町中の噂だ」
ルーカスは、店の看板に一瞥をくれた。その視線には、鋭い光があった。
「《忘却香水店》。危険な魔法を扱っていると聞いて、様子を見に来た」
その言葉には、隠しきれない警戒の色があった。
「危険、ですか」
「記憶や感情に作用する魔法だ。使い方次第では、人を都合よく操ることもできる。そういうものを、こんな小さな町で気軽に商売にされては困る」
真っ直ぐな物言いだった。世辞も遠慮もない。
私は少し面食らいながらも、正面から答えた。
「私が扱っているのは、依頼人自身が望んだ記憶の、痛みだけを和らげる技法です。誰かを操るためのものではありません」
「それは、お前がそう思っているだけだろう」
ルーカスの目が、鋭くこちらを見据えた。その眼差しの奥に、単なる批判以上の、何か重い実感が宿っているように見えた。
「痛みを取り除くことと、都合の悪い記憶を消すことは、紙一重だ。使う人間の意図一つで、どちらにでも転がる」
そう言った瞬間、彼の右手が、無意識のように腰元へ動いた。
そこには今、剣はない。
けれど、何度もそうしてきた人間の癖なのだと分かるほど、その動きは自然だった。
ルーカスは、すぐに手を下ろした。
「……忘れれば楽になる。そんなに簡単な話なら、苦労はしない」
低く零れた声には、それまでの皮肉とは違う響きがあった。
ほんの一瞬だけ、彼の深緑色の瞳が、私ではない何かを見ているように遠ざかった。
ただ、この男は忘却香の危険性を知識として警戒しているだけではないのだと、そのとき初めて気づいた。
私はしばらく、ルーカスの顔を見つめた。
この男は、ただ町の治安のために来たのではない。何か、個人的な理由がある。そんな気がした。彼の纏う空気の奥に、まだ癒えていない、深い傷の存在を、私はかすかに感じ取っていた。
「……あなたにも、何か忘れたいことが、おありなのですか?」
私が尋ねると、ルーカスの表情が一瞬だけ揺れた。深緑色の瞳の奥に、隠しきれない翳りが、僅かに差した。
けれど彼はすぐに視線を逸らし、外套の裾を翻した。
「今日のところは、様子を見に来ただけだ。今後も、この店の動向は注意して見させてもらう」
それだけ言うと、ルーカスは踵を返し、夜の闇の中へと歩み去っていった。濃紺の背中が、次第に闇へと溶けていく。
私はしばらく、その後ろ姿を見送っていた。
潮風が、頬を撫でていく。
店の灯りを消しながら、私は先ほどの彼の言葉を、繰り返し思い返していた。
『痛みを取り除くことと、都合の悪い記憶を消すことは、紙一重だ』
その言葉が、ミレイユの躊躇いと重なって、私の中に小さくない波紋を広げていた。




