第三話 港町で、もう一度
翌朝、私は日の出とともに目を覚ました。
王都では、侍女が来て身支度を整えてくれるまで、ベッドの中で過ごすのが習慣だった。カーテンを開ける音、湯を運ぶ足音、そうした気配で目を覚ますのが、当たり前の朝だった。けれどここでは、誰も私を起こしに来ない。
その静けさが、少し心地よかった。窓の外から差し込む朝日だけが、私の目覚めを告げていた。
簡素な服に着替え、階下へ降りる。昨日見た店内は、朝の光の中で見ると、埃と蜘蛛の巣の多さが一層はっきりと分かった。斜めに差し込む光の筋の中に、無数の埃の粒子が、ゆっくりと舞っているのが見える。
「まずは、掃除からね」
私は袖をまくり上げた。
王都の令嬢としては、はしたない仕草だったかもしれない。誰かに見られれば、眉をひそめられていただろう。けれど、ここにそれを咎める人はいない。その事実が、なぜか私の心を軽くした。
箒を見つけ、床を掃く。棚の埃を拭う。窓ガラスを磨く。慣れない作業に、すぐに腕が痛くなった。手のひらに、見慣れない赤みが浮かんでいる。それでも不思議と、嫌ではなかった。むしろ、体を動かすたびに、これまで纏っていた何かが少しずつ剥がれ落ちていくような、そんな感覚があった。
昼過ぎ、店の扉を開け放って埃を外に追い出していると、通りを歩いていた若い女性が興味深そうにこちらを覗き込んできた。
赤みがかった栗色の髪を後ろでまとめ、動きやすそうな仕事着を着た、快活そうな女性だった。日に焼けた頬に、健康的な赤みが浮かんでいる。
「あら、ここ、エレオノーラさんのお店じゃない! 誰か住むの?」
「はい。孫にあたる者です。セレナと申します」
「へえ! エレオノーラさんのお孫さん! わたし、仕立て屋のミレイユよ。すぐそこに店があるの」
ミレイユは私の姿を上から下まで眺め、それから感心したように目を丸くした。
「本当に王都のお嬢様って感じね。そんな綺麗な髪で、よく一人で埃まみれになって掃除してたわね」
「……褒められているのでしょうか」
「もちろん」
ミレイユは遠慮なく店の中に入ってくると、物珍しそうに棚を眺め回した。その屈託のない振る舞いに、私は少し戸惑いながらも、どこか新鮮な心地を覚えていた。
「ずいぶん立派な馬車で来たって、もう町中の噂になってるわよ」
私は苦笑した。小さな町では、噂の広まる速さも王都に劣らないらしい。
「お恥ずかしいところをお見せしました」
「別に恥ずかしくなんてないでしょ。それより、この店、また開けるの? 何を売るのよ」
その問いに、私は一瞬答えに詰まった。
正直なところ、まだ何も決めていなかった。祖母のように、普通の香水を作って売る。それが一番自然な選択のはずだった。
けれど、なぜかその考えは、私の中でしっくりこなかった。手にした埃だらけの布巾を見つめながら、私は自分でもうまく説明のつかない違和感を抱えていた。
「まだ、考えているところです」
「ふうん。まあ、じっくり決めればいいと思うわ。それより、掃除手伝おうか? 一人じゃ大変でしょ」
私が返事をするより先に、ミレイユは壁に立てかけてあった箒を手に取った。
「王都のお嬢様より、こういうのはわたしの方が得意だから」
彼女は仕立て屋の仕事の合間を縫って、その日から何度も店に顔を出しては、掃除を手伝ってくれた。窓を拭く彼女の鼻歌が、静かな店内に明るい彩りを添えていった。
数日のうちに、店は少しずつ、祖母が営んでいた頃を思わせる姿を取り戻していった。
薬草医だというテオドール・ベルナールという男性も、様子を見にやってきた。三十代半ばほどだろうか。物腰が柔らかで、茶色の髪をきちんと整え、淡い灰緑色の瞳には学者らしい穏やかな知性が宿っていた。丁寧に手入れされた鞄からは、乾燥させた薬草の匂いが、かすかに漂っていた。
「エレオノーラさんには、生前よくお世話になりました。彼女の温室にある薬草は、この辺りでは珍しいものも多い。もし調香を続けられるなら、私が力になれることがあるかもしれません」
「ありがとうございます、テオドール先生」
「先生はやめてください。ただの町医者です」
テオドールは困ったように笑った。その素朴な笑顔に、私はこの町の人々の飾らない温かさを、垣間見た気がした。
「エレオノーラさんにも、何度そう言っても直してもらえませんでした。『人の具合を診る者は、みんな先生でしょう』と言って」
「……お祖母様らしいです」
思わず、私は小さく笑った。
祖母なら、本当にそんなことを言いそうだった。相手が困っていても気にせず、自分が正しいと思った呼び方を最後まで変えない人だった。
テオドールは少し懐かしそうに目を細めた。
「今の笑い方、少し似ていますね」
「私が、ですか?」
「ええ。香りの話をしているときのエレオノーラさんに」
予想していなかった言葉に、私は一瞬、返事を忘れた。
王都では、私は父に似ているとも、母に似ているとも言われたことがある。
けれど、祖母に似ていると言われたのは、これが初めてだった。
「……それは、少し嬉しいです」
そう答えると、テオドールは穏やかに笑った。
そのとき、彼の視線が棚の隅に置いてあった薬草の鉢で止まった。
「これは……まだ残っていたんですね」
先ほどまでの落ち着いた表情が一変し、テオドールの瞳が少年のように輝いた。
「この辺りでは、ほとんど見かけない種類なんです。エレオノーラさんが育てていたものを、何度か分けてもらったことがあって」
どうやらこの人は、薬草のことになると、少しだけ夢中になるらしい。
「すみません。つい、昔を思い出して熱くなってしまいました」
テオドールは、はっと我に返ると、髪に軽く手を当てて苦笑した。瞳に宿っていた少年のような輝きが和らぎ、元の学者らしい穏やかな知性が戻ってくる。
「薬草のことで困ったら、いつでも私のところへ来てください。エレオノーラさんには、私も随分助けてもらいましたから。今度は、私がお孫さんに返す番です」
その言葉には、単なる親切以上の、長い年月を経た恩義のようなものが滲んでいた。
☆
また別の日には、花屋の娘だという少女が、花を届けに来た。エマという名で、十二歳くらい。栗色の髪を二本の三つ編みにした素朴な雰囲気の子で、抱えた花束からは、爽やかな緑と甘い花の香りが漂っていた。
「お父さんが、お店の前を綺麗にしてって……あ、でも、うちの花、買ってもらえたら嬉しいな」
もじもじと言うエマに、私は思わず頬が緩んだ。
「ええ、ぜひ。素敵な花をありがとう」
エマは花を差し出すと、ぱっと顔を輝かせて笑った。その屈託のない笑顔は、まだ幼さの残る頬に、明るい光を灯していた。
その笑顔を見ながら、私は不思議な感覚を覚えていた。
王都では、私は常に「ヴァリエ伯爵令嬢」として、あるいは「未来の侯爵夫人」として扱われていた。誰と話すときも、そこには身分という見えない壁があった。どれほど親しみを込めて話しかけられても、その言葉の奥には、いつも、私の肩書きへの意識が透けて見えた。
けれどここでは、誰もが私をただの「セレナ」として見ている。
その事実が、思っていたよりもずっと、心地よかった。
☆
ある日の夕方、店の掃除を終えたミレイユが、カウンターに頬杖をついて尋ねた。
「ねえ、結局何の香水を売るのよ。もう店を開けてから何日も経ってるじゃない」
「そうですね……」
私は棚に並べた空の瓶を眺めた。夕暮れの光を受けて、それぞれの瓶が、淡いガラスの輝きを放っている。
普通の香水を作ることも考えた。祖母の技法を使えば、上質なものが作れるはずだ。
けれど、私の頭には、あの夜のことが繰り返し浮かんでいた。
深夜の温室。禁忌の一頁。そして、翌朝の、あの静けさ。それらが今も、自分の中に確かに息づいている。
「私、忘却香というものを作ったことがあるんです」
私はぽつりと言った。
「忘却香?」
「特定の記憶に結びついた感情だけを、封じることのできる香水です。記憶自体は消えません。ただ、それに触れたときの痛みが、和らぐんです」
ミレイユは目を丸くした。カウンターに置いていた頬杖が、思わず外れる。
「それ……あなたが作ったの?」
「はい。自分自身のために」
私は自分の手首に視線を落とした。もう香りはほとんど残っていないが、あの夜の静けさは、今も確かに私の中にある。まるで、心の奥に静かな湖が一つ、新しく生まれたかのように。
「苦しい記憶を抱えて生きるより、それを楽にする方法があるなら――誰かの役に立てるかもしれないと、思ったんです」
ミレイユはしばらく黙って私を見つめた。窓の外の夕暮れの光が、彼女の表情に陰影を落としていた。それから、少し迷うように言った。
「……それ、需要はあると思うわよ。この町にも、忘れたいことがある人、けっこういるもの」
「そう思いますか」
「ええ。でも……本当に、それでいいのかしらね」
ミレイユのその一言が、なぜか私の胸の奥に小さく引っかかった。小石が水面に落ちたときのような、ごく僅かな波紋だった。
けれど、その引っかかりが何を意味するのか、まだ分からなかった。
私は店名を決めることにした。
祖母の店は「森の朝露」など、優雅な名前の香水を扱っていたようだが、私が扱うのは、それとは違うものだ。
棚に置かれた古い木の看板を取り出し、その上に、新しい文字を刻んでいく。彫刻刀を握る手に、これまでにない、確かな緊張が宿っていた。
《忘却香水店フィオレ》
フィオレとは、祖母が幼い私によく歌って聞かせてくれた古い言葉で、「花」を意味するのだと聞いたことがある。祖母の柔らかな歌声を、私は今、遠い記憶の中に、かすかに思い出していた。
この店で扱うのは、社交界に咲き誇るような華やかな香水ではない。
「忘れたい記憶」を抱えた人々のための、小さな花のような香りだ。
看板を扉の上に掲げ終えたとき、夕暮れの光が、その文字を金色に照らした。その輝きを見上げながら、私はこれから始まる新しい日々への、確かな期待と、僅かな不安とを同時に胸に抱いていた。
☆
そして数日後、開店初日を迎えた。
私は朝から店先に立ち、道行く人々に会釈を続けたが、店に足を踏み入れる人は誰もいなかった。太陽が中天に昇っても、扉を叩く者は現れない。
王都の伯爵家を離れた令嬢が、辺境の港町で怪しげな香水店を開いた――そんな噂が、既に町中に広まっているのだろう。遠巻きに見つめる視線は感じても、誰も扉をくぐろうとはしない。通り過ぎる人々の、好奇と警戒の入り混じった視線が、私の背に突き刺さっていた。
昼を過ぎ、夕方になっても、店の中は静まり返ったままだった。カウンターに肘をつき、私は次第に沈んでいく夕日を、ただぼんやりと眺めていた。
夜も更け、私が店じまいをしようと灯りを消しかけたそのとき。
乱暴に扉が開いた。
「セレナ!」
息を切らして立っていたのは、ミレイユだった。いつもの朗らかな表情はなく、どこか思い詰めたような、真剣な顔をしている。頬が上気し、息が乱れていた。よほど急いで駆けつけたのだろう。
「ミレイユさん? どうしたんですか、こんな時間に」
ミレイユは店の中に駆け込むと、扉を後ろ手に閉め、私の前に立った。
両手をきつく握りしめ、しばらく口を開けずにいた。その指先が、小刻みに震えているのが見えた。
そして、絞り出すように、こう言った。
「……忘れたい人が、いるの」
その声は、小さく震えていた。
店の中に灯るランプの光が、ミレイユの強張った横顔を静かに照らしていた。その光の中で、彼女の瞳には、これまで見たことのない、切実な光が、確かに宿っていた。




