第二話 王都を捨てる日
朝食の席には、既に何枚もの手紙が並べられていた。
母クラリッサは、それぞれの封筒を指先でそっと撫でながら、順番に開いていく。
「ロージェンヌ伯爵家のご次男、それからバルトリ子爵家のご嫡男……どちらも悪くない縁談です。少し年は離れていますけれど、バルトリ家なら領地も豊かですし」
母の声は、昨夜よりもずっと落ち着いていた。まるで、私の婚約破棄が「解決すべき事務手続き」であって、それ以上でも以下でもないかのように。
「婚約破棄のことは、少し時間を置いて、良い形で世間に伝えれば、そう悪い評判にはならないはずです。むしろ『心変わりされた気の毒な令嬢』として、同情票を得られるかもしれません」
同情票、という言葉に、私はほんの少しだけ視線を上げた。
母は本気だった。悪意など欠片もなく、心の底から、それが娘を守る最善の策だと信じている。
その真剣さが、かえって私の胸を穏やかにさせた。
不思議だった。
母のこの態度に、以前の私なら、喉の奥が締めつけられるように苦しくなっていたはずだ。「また私の人生が、私の知らないところで、私を思う誰かの手によって決められていく」と。
けれど今は、冷静にその言葉を聞いていられる。
感情が、凪いだ海面のようだった。
紅茶の湯気だけが、私と母の間で、ゆらゆらと揺れている。
「お母様」
私は顔を上げた。
「何です。ちゃんと聞いていましたか」
「聞いておりました。ですが――縁談は、けっこうです」
母の手が、手紙の上でぴたりと止まった。
「何を言っているの。年頃の令嬢が独り身のままでいられるはずが」
「祖母の家を継ぎます」
言葉にしてから、自分でも少し驚いた。昨夜、深夜の温室で調香をしているときには、まだそこまで考えていなかったはずなのに。
けれど口に出した瞬間、それが自然な答えのように、すとんと胸に収まった。
「エレオノーラお祖母様の……リュミエールの、あの店のことですか」
「はい。あの店と家は、私が相続することになっております。お父様も以前、そう仰っていましたので」
「あんな辺境の港町に、伯爵令嬢が店を持つなど」
母の声が、初めて鋭さを帯びた。手にしていた手紙が、かすかに震える。
「みっともない真似はおやめなさい。婚約破棄のことも落ち着いていないのに、その上、田舎で商売など始めたら、ヴァリエ家の名に傷が――」
「傷はもう、ついています」
私は自分の声が、思っていたよりもずっと凪いでいることに、少し驚く。
「アルベルト様に婚約を解消されたことは、じきに社交界中の噂になります。それを『次の縁談』で急いで塗り替えようとするより、私は自分の力で、自分の生き方を選びたいのです」
母は絶句したように私を見つめた。
その視線を、私は初めて、まっすぐに受け止めた。
これまでの私なら、こんな言い方はしなかった。母の意見に従い、心の中でだけ小さく反発を抱えて、それでも表向きは微笑んでいた。
けれど昨夜のあの一滴が、私の中の何かを、確かに変えてしまったのだろうか。
「もう、私の人生を決めるのは私です」
自分の口から出た言葉に、私自身が一番驚いていた。
こんなにも簡単に、こんなにも冷静に、こんなことが言えるとは思わなかった。
母は何か言いかけて、やめた。
手にしていた手紙を、そっとテーブルに置く。
「……あなたは、お祖母様に似てきましたね」
ぽつりと落ちた言葉に、私は目を瞬いた。
「エレオノーラお祖母様に?」
「ええ。あの方も、一度こうと決めたら、誰が何を言っても聞かなかった」
母は苦笑しようとした。
けれど、その表情はうまく笑顔にはならなかった。
「王都を離れた後も、帰省するたびにこちらへ戻るよう勧めました。でも、決して首を縦には振らなかった」
私は初めて聞く話に、黙って母を見つめた。
「お祖母様が王都を離れることを、お母様は反対されたのですか?」
「……しましたよ」
母は少しだけ視線を伏せた。
「とても」
短い答えだった。
けれど、その声には、先ほどまでの苛立ちとは違うものが混じっていた。
「どうしてです?」
母はすぐには答えなかった。
窓の外で、庭師が生垣を刈る音だけが、規則正しく響いている。
やがて母は、小さく息を吐いた。
「あの頃の私は、まだ幼かったのです。母が遠くへ行ってしまうことが、ただ嫌だった」
私は何も言えなかった。
母は、はっとしたように顔を上げる。
「……何でもありません」
そう言って、いつものきちんとした表情に戻ろうとした。
けれど私は、その一瞬だけ見えた母の顔を、見なかったことにはできなかった。
この人は、家の名誉だけを心配しているのではない。
もしかすると――私が自分の知らない場所へ行ってしまうことを、怖がっているのかもしれない。
「お母様」
「何です」
「リュミエールへ行っても、手紙は書きます」
母の目が僅かに揺れた。
「……そうなさい。お父様には、私から話しておきます」
疲れたように息を吐き、それだけ言って、母は再び手紙へ視線を落とした。
「でも、セレナ。本当に、それでいいの。あなたは伯爵家の娘として生まれて、これまでずっと、その務めを果たしてきたのに」
その言葉に、母なりの愛情が滲んでいることは分かった。
だから私は、少しだけ言葉を選んで答えた。
「務めは、じゅうぶんに果たしました。今度は、私自身のために生きてみたいのです」
母は何も言わず、ただ小さく頷いた。
それが、母にできる精一杯の理解の示し方なのだろうと、私は思った。
☆
それから数日、私は王都を離れるための準備に追われた。最低限の衣類と祖母の調香書、それから温室からいくつかの薬草の苗を分けてもらい、旅支度を整えた。
そして、出発の日。
荷造りをしていると、侍女のマリーがそわそわと部屋の入り口をうろついているのに気づいた。
「マリー、何か用?」
「い、いえ、あの……その」
小柄で、栗色の髪を二つに編んだマリーは、両手を胸の前で組み合わせ、意を決したように口を開いた。
「わたくしも、お供させていただけませんか」
私は思わず手を止めた。
「田舎の小さな店よ。侍女なんて置く余裕、ないと思うけれど」
「掃除でも、洗濯でも、なんでもいたします! それに――」
マリーは頬を赤らめながら、ぼそりと付け加えた。
「王都のお屋敷、お嬢様がいらっしゃらなくなったら、退屈で死んでしまいます」
その言い方が、あまりに真剣で私は思わず小さく笑ってしまった。
感情が凪いでいるはずなのに、口元が緩むのが自分でも不思議だった。
「……考えておくわ。落ち着いたら、手紙を出します」
「本当ですか! では首を長くしてお待ちしております!」
マリーは涙目のまま、それでも嬉しそうに部屋を飛び出していった。
その背中を見送りながら、私はふと思う。
この静けさの中にも、こうして小さく揺れる瞬間があるのだと。
屋敷の使用人たちは、突然の決断に戸惑いながらも、誰も引き止めようとはしなかった。
執事のオズワルドだけが、馬車に乗り込む私に向かって、深々と頭を下げた。
「お嬢様のご健勝を、心よりお祈り申し上げます」
「ありがとう、オズワルド。長い間、お世話になりました」
母の姿は、見送りの列にはなかった。
けれど馬車の座席には、旅用の膝掛けと、小さな菓子包みが置かれていた。誰が用意したものなのか、尋ねる必要はなかった。
馬車の扉が閉まる。
窓の外で、屋敷の使用人たちが並んで見送る姿が、次第に小さくなっていく。
王都の街並みが、車窓の向こうを流れていく。
石畳の大通り、大聖堂の尖塔、貴族たちの馬車が行き交う広場。二十八年間、私の世界のすべてだった景色。
途中、馬車は侯爵家の屋敷の近くを通った。
かつて何度も通った道。アルベルト様と一緒に散策した庭園の入り口が、遠くに見える。
私はその景色を、一枚の絵を眺めるように見ていた。
何も感じない。
胸が痛むこともなければ、懐かしさに涙が滲むこともない。
これでいい。私は自分にそう言い聞かせた。
これでいいはずだった。
けれど――。
馬車が角を曲がる直前、ふと、風に乗って何かの花の香りが車内に流れ込んできた。
白い花の香り。
あの日、アルベルト様から漂っていた香りと、よく似ている。
私は思わず、窓の外に目をやった。街路樹の脇に、見知らぬ白い花が咲いているのが見えた。
胸の中で、何かが小さく波立った。
痛みではない。もっと曖昧な感覚。まるで、忘れたはずの記憶の輪郭だけが、そこにぽつんと残っているような。
私は思わず、自分の手首に鼻を近づけた。
あの夜の忘却香の匂いは、もうほとんど残っていない。けれど、その残り香の奥に、確かに何かが潜んでいる気がした。
「……気のせいね」
小さく呟いて、私はすぐに視線を逸らした。
馬車が街道へ出ると、その違和感もすぐに、潮風の中に溶けて消えていった。
☆
王都を出てからの旅は、数日かかった。
街道沿いの宿を転々としながら、馬車は次第に人里から離れ、なだらかな丘陵地帯を抜け、やがて深い緑の山道へと入っていった。
二日目の夜、宿の食堂で出された料理は、王都のものよりずっと素朴で、けれど驚くほど美味しかった。厚切りのパンと、香草をたっぷり使った鶏の煮込み。
「これは……ローズマリーとタイム、それから見たことのない香草も入っていますね」
私が思わず呟くと、宿の女将が驚いた顔をした。
「よくお分かりになりますね! 山で採れる野生のセージですよ」
久しぶりに、自分の鋭い嗅覚を誰かに褒められた気がした。
王都では、貴族令嬢がこんな風に料理の香草を言い当てることなど、はしたないとされていた。けれどここでは、それが単純に、誰かを喜ばせる特技になる。
その事実が、私の中に小さいけれど確かな灯りを灯した。
☆
四日目の午後、馬車は緩やかな坂を下り、視界が開けた。
眼下に広がっていたのは、青く輝く海と、その岸辺に沿って建ち並ぶ石造りの家々だった。
港には漁船がいくつも停泊し、湿った潮風が頬を撫でる。屋根の色も、王都のそれとは違う、素朴な赤茶色をしていた。
リュミエール。
祖母が生涯の大半を過ごした港町。
馬車を降りると、潮の香りに混じって、どこか懐かしい植物の匂いが鼻先をかすめた。祖母の温室で嗅いだことのある、薬草の香りに似ている。
この町の空気そのものが、祖母の記憶と結びついているのかもしれない。
御者に案内されながら、細い石畳の道を歩いていく。
道行く人々が、見慣れない立派な馬車と、その中から降りてきた私の姿に、ちらちらと視線を向けてくる。井戸端で洗濯をしていた女性たちが、顔を寄せ合って何やら囁き合っているのが見えた。
港からやや離れた、静かな通りに目当ての家はあった。
「ここが、エレオノーラ様の……」
御者が呟いた。
目の前に建っていたのは、二階建ての小さな石造りの家だった。一階部分は店舗になっていたようで、大きな窓と、色褪せた木製の扉がある。
何年も人の手が入っていない様子が、一目で分かった。
窓ガラスには埃が厚く積もり、扉の周りには蔦が絡みついている。かつては小さな看板がかかっていたであろう場所には、今は色褪せた木の板が、かろうじて残っているだけだった。
私は鍵を取り出し、扉の前に立った。
鍵穴に差し込むと、少し軋みながらも、鍵は回った。
扉を押し開けると、埃っぽい空気と共に、様々な香りの残り香が漂ってきた。
乾いた花、古い木材、そして――かすかに、祖母が使っていた薬草の匂い。
薄暗い店内に足を踏み入れる。
棚には、埃をかぶった空の香水瓶がいくつも並んでいた。奥のカウンターには、調合に使ったであろう古い道具が、そのまま置かれている。乳鉢、蒸留に使う小さなガラス器具、色褪せたラベルの束。
時間が止まったような空間だった。
まるで、祖母がつい先ほどまでここにいて、少し外に出ているだけのような。
私は棚の一つに手を伸ばし、埃を指先で拭った。
その下から、祖母の字で書かれた小さなラベルが現れる。
『森の朝露』
祖母が作った香水の名前だろう。私はその瓶を手に取り、蓋を開けてみた。
中身はとっくに蒸発していたが、瓶の内側には、まだかすかに香りが染みついていた。
しっとりとした緑の香り。朝露に濡れた葉の匂い。
目を閉じると、幼い頃、祖母の膝の上で聞いた話が蘇ってくるようだった。
「セレナ。香りを決めるのは、人ではなくあなたの鼻よ」
私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
王都での二十八年間。侯爵夫人になるための五年間。それらすべてが、遠い場所の出来事のように感じられた。
ここには、誰も私に「令嬢らしく」を求める人はいない。
窓の外から差し込む夕暮れの光が、埃の舞う店内を、金色に染めていた。
私はゆっくりと息を吸い込んだ。
潮の香りと、乾いた花の香りと、古い木の匂い。そのすべてが混ざり合った、この店の香りを、私は生涯忘れないだろうと思った。
明日から、この場所で新しい自分を始める。
まだ何も決まっていない。何を売るのかも、どう生きていくのかも。
けれど、確かなことが一つだけあった。
これからここで選ぶことは、すべて自分自身の意思で選ぶのだということ。
私は埃をかぶった棚に、そっと手を置いた。
外では、漁を終えた船が戻ってくるのだろう。遠くから男たちの威勢のいい声が聞こえてくる。
王都では決して耳にすることのなかった、生活の音だった。
その音に耳を澄ませながら、私はこれからの日々を思い描き始めていた。




