第一話 あなたを忘れる香水
その日、アルベルト様からは知らない花の香りがした。
薔薇ほど甘くはなく、柑橘ほど爽やかでもない。春の終わりに咲く白い花を思わせる、柔らかな香りだった。応接間には、いつものように上品な茶葉の香りが漂っていたはずなのに、その奥に潜む異質な花の匂いだけが、妙に鮮明に私の鼻先に絡みついていた。
私はティーカップを持ったまま、ほんの少しだけ首を傾げた。
「香水を変えられました?」
向かいに座るアルベルト様の肩が、わずかに揺れた。その動揺は、ほんの一瞬のことだった。けれど五年間、彼の些細な仕草を見つめ続けてきた私の目は、それを見逃さなかった。
「……いや」
「そうですか」
ならば、香水ではない。
五年間、婚約者として過ごしてきた私は、彼が好んで使う香水を知っている。ベルガモットと杉を基調にした、少し硬質な香り。今日もそれは確かに身につけている。その馴染み深い香りの輪郭を、私は目を閉じていても正確になぞることができた。
けれど、その奥に別の香りが混じっていた。
誰かの衣服から移ったような、ごく淡い花の香り。まるで、意図せず纏ってしまった、隠しきれない痕跡のように。
私はそれ以上尋ねず、カップをソーサーへ戻した。陶器同士が触れ合う、小さな音だけが静かな応接間に響いた。
窓の外では、侯爵家の庭に植えられた薔薇が咲き始めている。淡い紅色の蕾が、朝の光を受けて、僅かにその花弁をほころばせていた。
あと半年。
あの薔薇が次に咲くころには、私はアルベルト様の妻になっているはずだった。その未来を、私は当然のことのように疑いもなく思い描いていた。
「セレナ」
「はい」
「今日は、君に話しておかなければならないことがある」
いつもとは違う声だった。低く、どこか固さを帯びた響き。
私は何も知らずに、微笑んだ。
「結婚式のことでしょうか?」
アルベルト様は答えなかった。
その沈黙の中で、知らない花の香りだけが、やけにはっきりと鼻に残った。時間そのものが、僅かに粘つくように遅くなった気がした。
やがて彼は、私から目を逸らして言った。
「……婚約を、解消してほしい」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。頭の中で、その言葉が意味を成すまでに、少しの間があった。
「婚約を……?」
「ああ」
「半年後には、結婚式ですよ」
「分かっている」
アルベルト様は苦しそうに眉を寄せた。
丁寧に撫でつけられた金褐色の髪も、灰色がかった青い瞳も、いつもと何一つ変わらない。端正で、隙のない顔立ち。社交界では、多くの令嬢が羨む婚約者だった。
けれど、その表情にはこれまで見たことのない、複雑な陰影が刻まれていた。
そして、私が五年間、想像したこともなかった言葉を続けた。
「愛する女性が、できたんだ」
その瞬間。私はようやく理解した。彼から漂っていたあの花の香りが、誰のものだったのかを。
白い花。おそらく、ジャスミンに似た香料を使う誰か。庭で咲いているものではない、誰かが選んで身にまとった香り。
不思議なことに、私はまず、その香りの正体を突き止めたことに、小さな満足を覚えてしまった。
それから少し遅れて、言葉の意味が胸に落ちてきた。
「……そうですか」
私の口から出たのは、それだけだった。
アルベルト様は、驚いたように顔を上げた。
「怒らないのか」
「怒る、というより……」
何と言えばいいのか、自分でも分からなかった。喉の奥に、言葉にならない塊が詰まっているような感覚だった。
五年間。私は侯爵夫人になるための時間を生きてきた。社交界での立ち居振る舞い、領地経営の基礎、刺繍、詩歌、テーブルマナー。調香師になりたいという子どもの頃の夢は、婚約が決まった日から、机の引き出しの奥にしまい込んだ。
それら全部が、今、目の前で音もなく崩れていく。
なのに、涙は出なかった。
ただ、体の芯が冷たくなっていくのを感じるだけだった。指先から、その冷たさが、少しずつ全身へと広がっていくような感覚。
「相手は、どなたなのですか?」
私が尋ねると、アルベルト様は一瞬迷って、それから答えた。
「……ロベルタ子爵家の、リリアだ」
社交界の夜会で、何度か見かけた令嬢の顔が浮かぶ。明るく朗らかな、私よりずっと年下の女性。あの日、彼女が扇子を優雅に扱いながら、朗らかに笑っていた姿を、私は今、鮮明に思い出していた。
「そうですか」
私はまた同じ言葉を繰り返した。
他に言うべきことが、見つからなかった。頭の中は、不思議なほど冷静で、けれどその奥に、何か得体の知れない渦がゆっくりと渦巻いているようだった。
「セレナ、君を傷つけるつもりはなかった。ただ、愛のない結婚をこのまま続けることの方が、君に対して不誠実だと思ったんだ」
アルベルト様は、まるで自分の正しさを確認するように言った。その言葉の一つ一つには、彼なりの誠実さが込められているようだったが、それが、かえって私の胸を、鈍く締めつけた。
愛のない結婚。
その言葉に、私はほんの少しだけ引っかかりを覚えた。
愛はなかったのだろうか。
少なくとも私は、彼のために夢を諦め、彼の妻になるための五年間を積み重ねてきた。それを愛と呼ばないのなら、私は一体何を彼に捧げてきたのだろう。その問いが、胸の奥で、鈍い痛みと共に静かに渦を巻いていた。
けれど、それを口にする気力もなかった。
「分かりました。婚約は、解消いたします」
私はゆっくりと立ち上がった。膝の力が、僅かに抜けそうになるのを、私は必死に堪えていた。
「セレナ」
「今日は、これで失礼いたします」
振り返らずに、応接間を出た。廊下を歩く足音が、やけに大きく自分の耳に響いていた。
☆
馬車に乗り込み、屋敷の門を抜けるまで、私はずっと窓の外を見ていた。侯爵家の庭に咲きかけた薔薇が遠ざかっていく。淡い紅色の蕾が、窓枠の向こうへと次第に小さくなっていった。
あの薔薇が満開になる頃には、もう自分はこの家の人間ではないのだと、他人事のように思った。
王都の屋敷に戻ると、既に噂は広まっていたらしい。使用人たちの視線が、いつもより落ち着かない。廊下ですれ違う侍女たちが、目を伏せながら、それでも隠しきれない好奇の色を、その表情に滲ませていた。
居間では、母のクラリッサが待っていた。母はいつものように、銀を帯び始めた金髪を一分の乱れもなく結い上げ、淡い色のドレスをきっちりと着こなしていた。
「セレナ、聞きましたよ」
母の声には、悲しみよりも焦りの方が強く滲んでいた。
「大丈夫よ。すぐに次の縁談を探しましょう。あなたはまだ二十八歳。侯爵家の元婚約者という立場を上手く使えば、悪い話にはならないはずです」
私は母の顔を見つめた。
悪意はない。それは分かっている。母は本気で、私の幸せを願っている。ただ、その幸せの形が、いつも「良い結婚」以外にないだけだ。母の瞳の奥に浮かぶ、切実な焦りの色を見つめながら、私はその言葉の裏にある愛情を、確かに感じ取っていた。それでも、今はその愛情さえも、重く感じられてならなかった。
「お母様」
「何です」
「少し、一人にしていただけますか」
母は少し驚いた顔をしたが、それ以上は何も言わずに部屋を出て行った。扉が静かに閉まる音が、いつもよりずっと重く響いた。
自室に戻り、椅子に腰を下ろすと、ようやく体から力が抜けた。全身の緊張の糸が切れたかのように、一気に緩んでいくのを感じた。
窓の外はもう暗い。ランプの灯りだけが、机の上を照らしている。
五年間。
私は何をしていたのだろう。
調香の道具は、屋敷の奥の物置にしまい込んだままだ。祖母から譲り受けた調香書も、ここ数年は開いてすらいない。埃を被ったその重みを、私は今、改めて思い出していた。
アルベルト様に出会う前、私は本気で調香師になりたいと思っていた。祖母のように、香りで人の心に寄り添える職人になりたいと。あの頃の自分の瞳に宿っていた、確かな輝きを、私は今、遠い記憶の中に、かすかに見出していた。
けれど「伯爵令嬢が職人になるなど」という父の一言で、その夢は簡単に折れた。そして侯爵家との縁談が決まったとき、私は自分から夢を封じた。それが正しいことだと、信じようとした。
なのに今、その五年間の対価として渡されたのは、「愛する女性ができた」という一言だけだった。
ふと、鼻の奥に、あの白い花の香りが蘇る。
思い出すたび、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。
悔しさなのか、悲しみなのか、それとも単なる屈辱なのか。自分でもよく分からない感情が、次々と押し寄せてくる。
私は机の引き出しを開けた。
奥の方に、古い革表紙の本が眠っている。
祖母エレオノーラの調香書だった。指先に触れる革の感触が、幼い日の記憶を静かに呼び覚ましていく。
祖母は若い頃に王都を離れ、辺境の港町リュミエールで小さな調香店を営んでいたという。私が幼い頃、年に一度ほど王都を訪れては、私に香りの話をしてくれた。祖母の手からは、いつも、様々な花や薬草の匂いがしていた。その手のひらの温もりを、私は今も、はっきりと覚えている。
「セレナ。香りを決めるのは、人ではなくあなたの鼻よ」
その言葉を、今でもよく覚えている。
祖母が亡くなったのは、私が十八の頃だった。形見として、この調香書だけが私の手元に残された。
私は久しぶりにページをめくった。紙の擦れる音が、静かな部屋の中にかすかに響いた。
薬草の配合表、花の香りの組み合わせ、魔力を込めるための手順。子どもの頃、夢中になって読んだ記憶が蘇る。
そして、本の後半。
いつもは読み飛ばしていた一節に、私の指が止まった。
紙が変色し、他のページよりも古びている。私はその手触りに、何か特別な重みを感じ取っていた。
《忘却香――特定の記憶に結びついた感情を封じる香》
息を呑んだ。
記されていたのは、特定の記憶――その記憶に紐づいた感情だけを、香りによって封じるという、禁忌に近い調香技法だった。
記憶そのものは消えない。ただ、その記憶に触れたときに感じる痛みや喜びといった感情が、鈍くなる。
祖母は、この技法をどこで学んだのだろう。ページの端には、祖母の几帳面な字で注意書きが添えられていた。
これは、最後の手段としてのみ用いること。
その一文の意味を、私はこのときまだ、深く考えていなかった。ただ、この技法が、今の自分を救ってくれるかもしれないという、藁にもすがるような思いだけが、胸の内に広がっていった。
私は必要な薬草を思い出しながら、屋敷の温室へと向かった。祖母が生前、私のためにと残していったいくつかの香草が、そこに眠っている。夜の廊下を歩く足音が、しんと静まり返った屋敷の中に、かすかに響いていた。
深夜の温室で、私は一人、調香を始めた。
白い花――アルベルト様から香った、あの花に似た香りを基調に据える。彼を思い出すための「鍵」として。
そこに、感情を封じるための薬草を慎重に組み合わせていく。乳鉢の中で葉が擦れ合う音だけが、静寂の中に、かすかに響いていた。
祖母の字を頼りに、手順を一つずつ確かめながら。
指先が震えた。
これは、正しいことなのだろうか。
けれど、もう迷っている余裕はなかった。このまま眠れば、また同じ夜が来る。彼の言葉を、何度も何度も思い出しながら、朝まで胸を締めつけられる夜が。
それなら、いっそ。
私は瓶の中で香りが調和していく様子を見つめながら呟いた。
「苦しいのなら、忘れればいい」
完成した香水を、そっと自分の手首に一滴垂らす。冷たい液体の感触が、肌に触れた瞬間、僅かに、ひやりとした。
白い花の香りが、ふわりと立ち上る。
同時に、体の奥で何かが小さく揺れるのを感じた。
温かいような、冷たいような、不思議な感覚。
それが何を意味するのか分からないまま、私は瓶の蓋を閉じ、ランプの灯りを消した。暗闇の中で、私はしばらく、目を閉じたまま、佇んでいた。
☆
翌朝。
窓から差し込む光で目を覚ました私は、しばらくぼんやりと天井を見つめていた。
昨日のことが、頭の中に順を追って蘇ってくる。
アルベルト様との五年間。
婚約破棄の言葉。
母の焦った顔。
祖母の調香書。
深夜の温室。
すべて、覚えている。彼の顔も、声も、一緒に過ごした時間も、鮮明に思い出せる。
けれど。
私は自分の胸に手を当てた。
痛くない。
あれほど締めつけられていた何かが、今はまるで他人の記憶を眺めているかのように、静かだった。
「……私は、この人を愛していたのね」
ベッドの上で、私はぽつりと呟いた。
自分の声なのに、どこか他人のもののように聞こえる。
効いている。
忘却香は、確かに効いていた。
私は起き上がり、鏡の前に立った。
鏡の中の自分は、いつもと変わらない顔をしている。淡い金色の髪は寝起きのまま肩に流れ、灰青色の瞳の下には、薄っすらと隈が浮かんでいた。二十八歳になった今も、母からは「少し冷たく見える」と言われる、整いすぎた顔立ち。けれど、他は普段通りだ。
ただ、その瞳の奥に何か、これまでとは違う静けさが宿っているように見えた。
窓の外では、いつも通りの朝が始まっている。鳥のさえずりが、遠くから聞こえてきた。侯爵家の薔薇のことを思い出しても、もう何も感じない。
これでいい。
私は自分にそう言い聞かせた。
感情なんて、苦しいだけならなくても困らない。
この静けさを保ったまま、これからのことを考えよう。
けれど――。
ふと、鏡の中の自分の目に、ほんの一瞬だけ、説明のつかない違和感がよぎった。
何かを、失ったような。
窓辺に置かれた小さな香水瓶が、朝の光を受けて静かに輝いていた。




