第十話 忘却香の副作用
夜が更けても、私は調香書のページをめくり続けていた。
祖母の几帳面な字が、ランプの灯りの下で浮かび上がる。忘却香についての記述は、ページの後半に、他の技法よりも短く、簡潔にまとめられていた。
窓の外は、既に静まり返っている。時折、遠くから聞こえる夜の潮騒だけが、この部屋の静寂を、かすかに揺らしていた。ページをめくる紙の擦れる音が、やけに大きく耳に響く。
けれど、そこに記された情報だけでは、私が今抱えている疑問への答えは見つからなかった。
忘却香の効果は、対象となる感情のみに限定されるのか。それとも、類似する感情にまで及ぶのか。
その一点について、祖母の記述は、あまりにも簡素だった。
私は、深く息を吐いた。その息にランプの炎が揺れ、壁に映った自分の影も大きく揺らめいた。
このままでは、答えは見つからない。
☆
翌日、私はテオドールの診療所を訪れることにした。
「テオドール先生、少しお時間よろしいでしょうか」
診療所の扉を叩くと、テオドールは机に向かって薬草の記録をつけている最中だった。
「セレナさん、どうぞ。ちょうど手が空いたところです」
私は椅子に腰掛け、これまでの経緯を、少しずつ話し始めた。
自分が忘却香を使ったこと。アルベルト様への愛情が消えたこと。そして最近、ルーカスに対する自分の感情に、はっきりとした確信が持てずにいること。
言葉にしながら、私は自分の声が、少しずつ震えていくのを感じていた。誰かにこの不安を打ち明けるのは、初めてのことだった。
テオドールは、真剣な表情で耳を傾けていた。
「なるほど……それは、興味深い、そして少し心配な事例ですね」
「心配、ですか」
私は、思わず身を乗り出した。
「ええ。魔法薬学において、『感情を特定して封じる』という技法は、非常に高度で、繊細な調整を要するものです。理論上は可能でも、実際には、対象とする感情だけを完全に切り離すことは、極めて難しいとされています」
テオドールは、自分の書棚から一冊の古い本を取り出した。表紙は擦り切れ、幾つもの付箋が、ページの端からはみ出している。
「これは、私が以前、王都の学術機関から取り寄せた資料です。感情に作用する魔法薬について、いくつかの症例が記されています」
本のページをめくりながら、テオドールは続けた。
「感情というのは、独立して存在しているものではありません。互いに絡み合い、影響し合っています。特定の感情――例えば、ある人物への恋愛感情を封じようとすると、それに隣接する、類似した感情の受容体まで、鈍らせてしまう可能性があるのです」
私は息を呑んだ。心臓が、嫌な予感と共に一つ大きく跳ねた。
「つまり……」
「セレナさんの場合で言えば、アルベルト様への愛情を封じる過程で、恋愛感情そのものに対する感受性が、全体的に鈍くなっている可能性は、じゅうぶんに考えられます」
その言葉が、私の中に、はっきりとした形で落ちてきた。
やはり、そうだったのか。
私は、自分の手のひらを見つめた。あの夜、震える手で、この手のひらに一滴の香水を垂らしたことを、鮮明に思い出す。あのときの自分は、これほどの代償を払うことになるとは、想像もしていなかった。
「元に戻す方法は……あるのでしょうか?」
テオドールは、少し困ったような表情を浮かべた。
「正直に申し上げると、私の知る限り、確立された解除法は存在しません。忘却香自体が、非常に稀少で、高度な技法ですから、その解除法についての記録も、ほとんど残っていないのです」
その答えに、私は肩を落とした。診療所の壁に並んだ薬草の束が、ランプの光を受けて、揺れる影を落としていた。
「エレオノーラさんの調香書には、何か手がかりはありませんでしたか?」
「先ほど確認しましたが、忘却香についての記述は、簡潔なものだけで……解除法については、一切触れられていませんでした」
「そうですか……」
テオドールは、しばらく考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「もう少し詳しく、調香書全体を調べてみる価値はあるかもしれません。エレオノーラさんは、非常に緻密な研究者でした。もし解除法を見出していたなら、どこかに記録を残しているはずです」
私は頷いた。かすかな希望が、胸の中に灯った気がした。
「もう一度、丁寧に読み返してみます」
診療所を出た後、私はしばらく、港沿いの道を一人で歩いた。
潮風が、頬を撫でていく。日が沈みかけた空は、深い藍色と橙色が混ざり合い、まるで自分の心そのもののように、曖昧な色合いを見せていた。
自分が失ったものの大きさが、今になって、はっきりとした輪郭を持って迫ってきていた。
アルベルト様への愛情を封じた、あの一滴の代償が、これほどまでに広範囲に及んでいたとは。
私は、恐怖に似た感覚を覚えた。足元の石畳が、急に、不安定なものに感じられた。
この先、私は本当に、誰かを好きになるという感覚を、正しく感じ取ることができるのだろうか。
ルーカスに対して抱いているこの気持ちも、本来ならもっと確かなものであるはずなのに、忘却香の副作用によって、ぼやけた形でしか自覚できていないのだとしたら――。
私は自分の選択の重さに、初めて足がすくむような思いを味わっていた。立ち止まり、海の方を見つめる。波が、幾度も繰り返し岸を打っていた。その規則正しい音でさえ、今は、何か不確かなものに思えてならなかった。
その夜、店に戻ると、ちょうどルーカスが訪れていた。
「顔色が悪いな」
彼は、私の様子にすぐに気づいたようだった。
「何かあったのか」
私は一瞬、迷った。
テオドールから聞いた話を、彼に話すべきかどうか。カウンターの縁を、指先で無意識になぞりながら、私はしばらく逡巡した。
けれど、これまでの彼とのやり取りを思い返すと、隠すことの方が、かえって不誠実に思えた。
「実は……」
私は、冷静に語り始めた。
忘却香の副作用について。恋愛感情そのものが、鈍くなっている可能性について。
ルーカスは、黙って聞いていた。その表情は、終始変わらなかったが、深緑色の瞳の奥に真剣さが宿っているのが分かった。
話し終えると、店の中に、しばらく沈黙が流れた。ランプの灯りが、ゆらゆらと、二人の影を壁に揺らしていた。
「……それで、お前は、どう思っているんだ」
ルーカスが、穏やかに尋ねた。
私は少し考えてから答えた。
「恋なんてなくても、生きていけます」
その言葉は、半ば自分自身に言い聞かせるような響きを持っていた。
「これまでも、そうやって生きてきました。この先も、きっと同じです」
強がりだということは、自分でも分かっていた。声にわずかな震えが混じっていることも、自分自身、はっきりと感じ取っていた。
けれど、そう口にすることでしか、この不安から自分を守る方法が、見つからなかった。
ルーカスは、私の顔をしばらくじっと見つめていた。
彼の目には、何か言いたげな色が浮かんでいたが、結局、それ以上は踏み込んでこなかった。
「……そうか」
彼はそれだけ言うと、ゆっくりと視線を逸らした。
その素っ気ない反応に、私は少し戸惑った。もっと何か、慰めの言葉や、あるいは反論を返してくると思っていたのかもしれない。心のどこかで、彼が何かを言ってくれることを、密かに期待していたのかもしれない。
けれど、ルーカスは、それ以上、私の心の内側に踏み込もうとはしなかった。
「今日は、遅くまで悪かったな」
彼はそう言って、扉の方へ向かった。
「送っていく必要はない。一人で帰れる」
彼は、そう言い残し、夜の闇の中へ姿を消した。
私はその後ろ姿を、しばらく見送っていた。濃紺の外套が闇に溶けていくまで、私はずっと、扉の前に立ち尽くしていた。
彼の去り際の表情に、何か、言葉にならない寂しさのようなものが滲んでいた気がしたのは、気のせいだったのだろうか。
一人残された店の中で、私は棚に並んだ香水瓶を、ぼんやりと眺めていた。
恋なんてなくても、生きていける。
そう口にした自分の言葉が、まだ胸の奥に重く残っていた。
本当に、そうなのだろうか。
自分の感情の一部を、自らの手で封じてしまったこと。その代償が、これほどまでに大きなものだったこと。
私は初めて、あの夜の選択を、明確な後悔とともに振り返っていた。あの夜の自分は、目の前の痛みから逃れることだけを考えていた。その先に待つ代償の大きさなど、想像もしていなかった。
けれど、今さら悔やんでも、失われたものは戻らない。
私はランプの灯りを見つめながら、冷静に、これからのことを考え始めていた。
解除法が存在するのかどうかも分からない。もし存在したとしても、それを見つけ出すには、どれほどの時間がかかるだろうか。
それでも、私は祖母の調香書を、もう一度、最初から丁寧に読み返してみようと決めた。
わずかな可能性でも、そこに縋るしかなかった。
窓の外では、月が静かに港町を照らしていた。その光は、いつもと変わらず穏やかだったが、今夜の私には、どこか遠く、手の届かないもののように感じられた。
私はその光を見つめながら、自分の中に芽生えた小さな決意を、そっと胸に刻んだ。
この不安の答えを、必ず見つけ出す。
たとえそれが、どれほど遠い道のりであったとしても。




