第十一話 王都から来た客
翌朝、私は改めて祖母の調香書を最初のページから読み返す作業に取りかかった。
朝の光が、作業台に開いた古い革表紙を、柔らかく照らしている。一ページ、また一ページと、これまで幾度となく目を通してきたはずの文字を、私は今度こそ、何一つ見落とさぬよう、慎重に辿っていった。
けれど、その日の午後、店の扉が静かに開き、その作業は一旦中断されることになった。
入ってきたのは、見覚えのない女性だった。
上質だが控えめな旅装に身を包み、フードを目深に被っている。物腰から、ただの旅人ではないことが、すぐに見て取れた。背筋の伸ばし方、歩幅の狭さ、視線の配り方――そのどれもが、幼い頃から厳しく躾けられた者だけが持つ、独特の気配を纏っていた。
「こちらが、忘却香水店フィオレ、でお間違いないでしょうか」
声を潜めて尋ねる女性に、私は頷いた。
「はい。セレナと申します」
女性は、店の中に他の客がいないことを確認すると、ようやくフードを下ろした。周囲を窺うその仕草に、私はふと、かつての自分自身の姿を、重ねずにはいられなかった。
年の頃は、私よりも少し若い。整った顔立ちに、洗練された所作。育ちの良さが、隠しようもなく滲んでいた。
「王都から参りました。名前は、伏せさせていただきたいのですが」
「承知いたしました。どのようなご用件でしょうか?」
女性は、少し躊躇うような間を置いてから、口を開いた。膝の上で重ねた両手が、かすかに震えているのが見えた。
「私には、婚約者がおります。来月には、正式に結婚の運びとなります」
その言葉の響きに、私は既視感を覚えた。かつての自分と、どこか重なるものがある。半年後の結婚式を待っていたあの頃の自分の姿が、目の前の女性の輪郭に、重なって見えた。
「相手は、家柄も申し分なく、両家にとっても望ましい縁組です。ですが……」
女性は、視線を落とした。
「私には、別に、想う方がいるのです」
その告白に、店の空気が、わずかに張り詰めた。窓の外を通り過ぎる人の足音さえ、やけに遠く感じられた。
「幼馴染で、身分の釣り合わない相手です。結婚できる可能性は、最初からありませんでした。それでも、心のどこかで、その方への想いを、断ち切れずにいます」
「それで、その想いを、消したいと」
私が尋ねると、女性は頷いた。
「はい。このまま結婚しても、その方のことを忘れられなければ、私は夫となる方に対して、誠実になれません。今好きな人への気持ちを、消してほしいのです」
私は女性の言葉を、じっと聞いていた。
これは、以前の私であれば、迷わず引き受けていた依頼だっただろう。政略結婚を控えた令嬢が、自分の恋心を封じたいと願う――それは、かつての私自身の姿と、あまりにも似通っていた。
あの日、婚約破棄の痛みから逃れるために、迷わず調香に手をつけた自分の姿が、脳裏に鮮明に蘇ってくる。
けれど、今の私の中には、あの日エマが流した涙や、ルーカスが語った言葉、そして自分自身が背負うことになった代償が、静かに積み重なっていた。
私は以前のように、すぐには頷けなかった。カウンターの上で、指先が無意識に一点を見つめたまま動かなくなっていた。
「……一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
私は慎重に言葉を選んだ。
「本当に、消したいのですか? それとも、消さなければならないと、思っているだけですか?」
その問いに、女性は、はっとした表情を浮かべた。
「……どういう、意味でしょうか?」
「結婚を控えていて、想う方への気持ちを抱えたままでは、いけないと――そう、周りから、あるいはご自身で、思い込んでいらっしゃるだけかもしれません。本当にその気持ちを、なくしてしまいたいと、心の底から望んでいらっしゃいますか」
私は、かつての自分自身に問いかけるように、その言葉を口にしていた。
女性は、しばらく沈黙していた。
その沈黙は、これまで店を訪れた依頼人たちの中でも、ひときわ長いものだった。壁に掛けられた古時計の針の音だけが、規則正しく、店内に響いていた。
やがて、女性は震える声で言った。
「……分かりません」
「分からない、というのは」
「消さなければ、結婚生活に、その気持ちを持ち込んでしまう。それは、夫となる方にも、失礼なことだと思うのです。だから、消すべきだと、頭では分かっています」
女性は、両手を膝の上で握りしめた。白い指先が、僅かに赤くなるほどに。
「でも、正直に言えば……その方のことを、本当に忘れてしまってもいいのか、自分でも、確信が持てません」
私はその言葉に、ゆっくりと頷いた。
「私にも、少し前まで、似たような経験がありました」
「セレナさんにも……?」
女性は驚いたように顔を上げた。
「はい。ある人への気持ちを、自分の手で封じたことがあります。その時は、それが救いだと信じていました」
私は自分の手首に、視線を落とした。あの夜の記憶が、今も、この体のどこかに、確かな痕跡として残っている。
「けれど、今になって、その代償の大きさに気づき始めています。感情というものは、思っている以上に、複雑に絡み合っているものなのです。特定の気持ちだけを、正確に切り離すことは、簡単なことではありません」
女性は真剣な眼差しで、私を見つめた。
「では……」
「消してしまえば、後戻りはできません。この気持ちだけでなく、それに近しい、他の大切な感情まで、一緒に失ってしまう可能性もあります」
私は慎重に言葉を続けた。自分自身の経験が、この見知らぬ女性への切実な警告となることを、私は心から願っていた。
「結婚のために、その気持ちが邪魔だと感じていらっしゃるのなら――それを消す前に、まずご自身の中で、その気持ちの意味を、じっくり見つめてみることも、一つの道かもしれません」
女性はしばらく黙り込んでいた。
窓の外から差し込む午後の光が、彼女の横顔を静かに照らしていた。伏せられた睫毛が、その光を受けて、かすかに震えているように見えた。
やがて、彼女は深く息を吐いた。
「……もう少し、考えさせてください」
「はい。それがよろしいかと思います」
女性はフードを再び被り直し、ゆっくりと立ち上がった。
「今日は、突然、押しかけてしまい、申し訳ございませんでした」
「いいえ。またいつでも、お越しください」
女性は私に向かって、小さく頭を下げた。
「セレナさんは、不思議な方ですね。忘却香を扱う店だと聞いて訪れたのに、まるで、忘れない方がいいと、諭されているような気持ちになりました」
その言葉に、私は少し戸惑った。
「そのようなつもりは、ございませんが……」
「いいえ。私には、そう聞こえました。それに」
女性は、少し柔らかな表情を見せた。フードの陰から覗くその微笑みには、初めて訪れたときには見られなかった、確かな安らぎが滲んでいた。
「それが、必要な言葉だったのかもしれません」
彼女はそう言い残し、香水を使うことなく、店を後にした。扉に掛けられた小さな鈴が、彼女の去り際に澄んだ音を一つ、静かに響かせた。
女性が去った後、私は、しばらくカウンターに立ち尽くしていた。
これまでの私であれば、依頼人の望みを、迷わず叶えていたはずだった。それが、この店の存在意義だと信じていたから。
けれど今、私は初めて、依頼人に「忘却以外の道」を示していた。
その事実に、私は少し驚いていた。まるで、これまで自分が信じてきた道とは違う、もう一つの道が、目の前に開けていくような、そんな感覚だった。
自分の中で、何かが、確かに変わり始めている。
エマの涙。ルーカスの言葉。そして、自分自身が背負うことになった、忘却香の代償。
それらすべてが、今の私の選択に繋がっているのだと、私は感じていた。
棚に並んだ空の瓶を眺めながら、私は思った。
この店は、本当に「忘れるための店」であるべきなのだろうか。
あるいは、もっと別の形の店に、なれるのではないだろうか。
その問いは、まだ明確な答えを持っていなかった。けれど確かに、私の中に新しい方向性の芽が、静かに生まれ始めていた。
夕暮れの光が、店の窓から差し込み、埃の粒子を金色に照らし出していた。その光の中に、無数の小さな粒子が、ゆっくりと舞っている様子を、私はしばらく、ぼんやりと眺めていた。
私は祖母の調香書を再び手に取った。
まだ読み終えていないページが、たくさん残っている。その厚みを、私は改めて手のひらで確かめた。
その中に、私自身の答えも、この店の未来の形も、きっと見つかるはずだと、私は信じ始めていた。
窓の外では、港町の家々の灯りが、一つ、また一つと、夕闇の中に灯り始めていた。




